マッチリポート・特集
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放送席から叫んだ歴史的大勝利
~2015年南ア戦実況アナウンサーに聞く~

12月3日

日本中のラグビーファンの心に刻まれた、2015年W杯での南アフリカ戦。
当時、NHKの生中継で実況を担当したのが、アナウンサーの豊原謙二郎だ。最後のトライで絶叫し、歴史的勝利のあとに沈黙した豊原は、あの時、何を見つめていたのか。そして、2019年の日本大会に向けて、あの試合をどうとらえようとしているのか。ラグビー中継に長く携わる豊原に、その思いを聞いた。
左 豊原アナウンサー 右 解説を担当した元日本代表HO薫田真広さん

あれから2年

南アフリカ戦から2年。「もう2年」なのか、「まだ2年」なのか、改めて振り返ってどんな気持ちをもっていますか。

あれから2年。記憶はまだまだ鮮明ですが、もう随分と時間が経ったなあという気も、同時にしています。あの一戦で、日本のラグビーの歴史は間違いなく変わったと言ってよいのだろうと思います。

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こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、そもそも、私たち中継クルーが日本を発つ時は、いや、あの南アフリカ戦が終わるまでは、メディアでもあまりラグビーが取り上げられていなかったですから。

変わったのはメディアでの取り上げられ方ももちろんですが、その後のテストマッチのマッチメークなども、南アフリカ戦の前後でぜんぜん違っていると思います。2016年のウェールズ戦などは、あの試合の後、とんとん拍子に話が進んだと聞いていますし。それははっきりと現れていると思います。

あの大会自体も、日本の戦いがどのくらい影響したかはわかりませんが、ジョージアやナミビアなどといった国々が序盤は強豪国を慌てさせるような試合を見せました。世界のティア2(強豪国に次ぐ国のグループ。日本もティア2に入る)に勇気をもたらした、ということもいえるかもしれません。

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“エディージャパン”を研究せよ

2015年大会の実況中継には、どういう気持ちで臨んでいたのでしょうか。当時のことを教えてください。

W杯開催当時、私は仙台放送局に勤務していました。現地派遣の話をもらった時は、「よっしゃ!」という思いと、それと同じくらいの責任の重さを感じました。

私は中学2年のとき、雪の早明戦をテレビで見た影響で、高校からラグビーを始めました。そんな私にとってのラグビーW杯との最初の出会いは、1991年の第2回大会です。

記憶に残っているのはNZのフィッツパトリックや、マイケル・ジョーンズ、スコットランドのFLジェフェリー、ヘイスティングス兄弟、豪州のSHファージョーンズ、キャンピージ、イングランドのアンダーウッドやガスコット...きりがないですね。中でも印象的だったのは日本がアイルランド戦であげたトライです。あの吉田選手のライン際の快走は、ラグビー部の仲間たちと大騒ぎしながら観ていたのを今でもはっきり覚えています。

そんな大舞台の実況に自分が携われることになる日が来るとは!欲しいおもちゃを買ってもらった子供のように、シンプルにとても嬉しかったことを覚えています。プロ野球の終盤戦と時期が重なっていましたので、もし楽天イーグルスが優勝争いをしていたら、もしかしたら派遣されなかったかもしれない・・・そう思うと、めぐり合わせもあるかもしれません。楽天ファンの皆さんごめんなさい。

いわゆる「エディー・ジャパン」の取材はどのように進めていたのでしょうか。

実は今から5年前、私たちラグビー中継を担当するアナウンサーは、まだ放送するあてもないのに、「エディージャパンの予習」をしていました。ジャパンがエディー・ジョーンズという世界屈指のヘッドコーチ(HC)を迎え、ウェールズを破るなど期待と注目を集め始めていたからです。

さらに私は仙台放送局に勤務していたので、ジャパンを直に取材できる機会はほとんど無く、なかなか「ジャパンが何をやろうとしている」のか知る術がありませんでした。

しかし、「大学ラグビーなどで2019年世代を中継する我々がその辺りを何も知らなくて良いのか!」というモチベーションのもと、私たちは仙台でラグビー研究会という勉強会を開きました。日本協会コーチング・ディレクターの中竹竜二氏を講師に招き、ラグビーの見方・考え方などを教わったほか、エディー・ジャパンの取り組みを「意訳」していただく、という取り組みでした。

意訳とはどういうことでしょうか?

シェイプ、リロード、ダブルタックルなど、のちにキーワードとして語られるエディ・ジャパンのいわゆるファンダメンタルな部分のほか、ジョーンズHCが指摘する「日本の練習における慣習」への問題提起などなど・・・です。この研究会で学んだことが、W杯での実況に非常に生きることになったと思っています。

“すべてがそろった”

準備のうえで臨んだ2年前のW杯。試合前、現地ではどういうことを感じましたか。

私たち中継グループが「これは結構いい試合になるのではないか?」と確信したことがありました。それは、南アフリカ戦を迎える48時間前、初戦のメンバーが発表されたときのことです。
ジャパンのメンバーにはサプライズは特にありませんでした。私たちが「これは!」と思ったのは、南アフリカのメンバーでした。渡英する前に、私なりに対戦国のビデオを観てスカウティング的なことはしていました。南アフリカに関しては、FWは大きくて強いが、やることはシンプル。ゴール前のラインアウトモールを極力減らし、ダブルタックルで刺さり続ければ、ある程度は守れるのではないか。問題はビッグゲインにつながるラインブレークをしてくる優秀なランナーたちなのでは?そんな見方をしていました。ビデオを見ていて特に嫌な感じがしたのは、SOポラード選手、FBルルー選手、そして当時サントリーで活躍していたSHのデュプレア選手。彼らのランは脅威だな・・・そう思っていました。

そして発表された初戦のメンバー。しかし、その3人の名前が南アフリカのメンバーリストには無かったのです。SOはランビー選手、FBはキルヒナー選手、そしてSHはピナール選手でした。南アフリカのマイヤーHCは、「初戦なので比較的コンサバティブなプレーヤーを選んだ」ということでした。ジャパンを甘く見てメンバーを落としたのか、本当に堅いプレーをする選手を選んだのかは今もわかりません。しかし、それを見て、私は「これはいけるかもしれない」と感じていました。今思えばバリバリの南アフリカ代表に対して失礼な話なのですが、何か少しでもジャパンに有利な要素を見出したい、そんな思いが強かったのだと思います。

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迎えた試合当日、現地9月19日。日本のラグビー界、いや、W杯の歴史に刻まれたこの日、私たちは「ジャパンにとってすべてがそろった」と感じていました。

当日を迎える前まで、試合の最大のポイントになると目されていたスクラムについては、エディーHCが連日、記者会見で南アHOのビスマルク・デュプレッシー選手に「口撃」を繰り返し、ジャパンの低いスクラムの正当性をレフリーにもアピールしていました。

そして、ジャパンにとって気掛かりだったのは天気。雨の多いイングランド。ピッチがぬかるんでは、スクラムは不利、さらに磨いてきたアタッキングラグビーも威力を発揮しづらい…という中で、気象情報は日に日に好転。2日前から予報は晴れに転じていきました。

しかも初戦のブライトンコミュニティスタジアムはハイブリッド芝(天然芝の下に人工芝のような繊維を敷くことにより、芝が根っこからめくれ上がらないように改良されたピッチ)でしたし、もともと地元サッカークラブ、当時イングランド2部(現プレミア)のアルビオンFCのホームということもあり、芝も短め。日本のアタッキングラグビーにはうってつけでした。

スクラムの組み方も牽制済み。相手ラインアップには強力なラインブレーカーがいない。まさにジャパンにとっては「すべてがそろった」状態になりました。

試合前夜、食事の席で、私は勢いあまって解説の薫田真広さんに「明日は3:7くらいでジャパンに可能性があるんじゃないかと思うんですが!」と尋ねてしまいました。薫田さんは、そこは世界の厳しさを肌で知る元W杯戦士、「いい要素が揃ったのは確かだけど、3:7は言い過ぎだな」と冷静でした。ただ、薫田さんの言葉にも期待感が伺える前夜となりました。

そうして臨んだ当日はどういう状況だったんでしょうか。

私は「いつか来るジャパンの実況のときに締めよう」と購入していた白と赤のチェックのネクタイを締めて、気合とともにホテルを出発しました。ブライトンの町には「グリーン&ゴールド」(南アフリカのチームカラー)のジャージに身を包んだ人の姿が圧倒的多数でした。

ただスタジアムに着くと、観戦ツアーの人たちも到着していたのでしょう、(日本のチームカラーの)赤白のジャージに身を包んだ人の姿も多く、少し安心しました。現地のコーディネーターの方や、イギリス滞在経験のある方々の話を聞くと「イギリス人はけっこう判官贔屓」とのこと。しかも高いお金を払ってチケットを買った試合がワンサイドゲームになることを望む人などいないはず。解説の薫田さんとも「序盤に好プレーを見せること。先制点をとること。これで地元のファン、スタジアムの空気は味方につけられるはず」と話して放送に臨みました。

いよいよジャパンの初戦が始まると、私は「もしかして訪れるかもしれない勝利」へ言霊を送るかのごとく、伏線を張りめぐらせることにしました。覚えてらっしゃる方は少ないかもしれませんが、放送のイントロで「乾いたピッチが日本のアタッキングラグビーを後押ししてくれているように感じる」というコメントで実況をスタートさせました。

試合が始まってまもなく、日本が早いラックから連続攻撃。ピッチの手前サイドで五郎丸選手がラインブレーク。このプレーでスタンドからこの日最初の大歓声。その攻撃から南アフリカがオフサイド。そして五郎丸選手のペナルティゴール・・・。このとき、世界で有名になった「あのルーティン」から放たれたキックは、見事に2本のポストの間へ。先制点。この日2度目の大歓声。「スタジアムの空気を作った。イングランドのファンは味方についた!この試合いけるぞ」と、放送席で私はそう思いました。

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歴史的トライに至るまでの、世界のラグビー史に残る「10分間」の時の状況を聞かせてください。

今思えば、あのとき私はアスリートが体験するという「ゾーン」に入った状態にあったのではないかと思います。ピッチ上にいた29人(南アフリカは一人反則で一時退出)の動き、スペース、ミスマッチ、数的優位・・・そういったものが、今までに経験したことが無いくらいよく見え、判断ができていました。

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最後のトライのシーンも、アマナキ・レレィ・マフィ選手がもらったところで、外にマレ・サウ選手とカーン・ヘスケス選手がまわりこんでいるのが見え、これで3対3。マフィ選手が相手CTBクリエル選手をハンドオフで外したところで、ポラード選手、ピーターセン選手と3対2。口調は興奮していましたが、反面とても冷静な自分がいました。

これでチェックメイト!という思いで「余った!」と実況したら、正直もう実況すべき事実はありません。あとはテレビでご覧の皆さんと同じ「行けー!」という思いだけだったのです。叫んだ瞬間「やべぇ、怒られるかな・・・」という思いも正直浮かびましたが(笑)。

ジャパンの勝利が決まってから、「NHKのアナウンサーが沈黙していた」と話題になりました。あの時は実際、どういう心境だったのでしょうか。

トライの後、正直申し上げて、何かを喋ったら堪えていたものが決壊するな、という実感がありました。それと同時に「いま、この瞬間」になんという言葉を添えれば本当に相応しいのか、一瞬ですが考えました。

しかし、どんな言葉を使っても「その特別な瞬間」を「陳腐なもの」にしてしまうような気がしました。そして同時に実況アナウンサーとして駆け出しの頃に大先輩の山本浩さんから教わった言葉がよみがえってきました。

「テレビは映像のメディア。映像にパワーがあるときは、どんなコメントもそのパワーには勝てない」と。

放送席のモニターには、歓喜に沸くジャパンの戦士たち、涙する日本のファン。そして呆然とするフランソワ・ロウ選手に切り替わると、再び世紀のジャイアントキリングに沸くスタンド、さらに肩を落とすキャプテンのジャン・ドゥビリエ選手・・・・そうした映像がスイッチングされて流れていました。

「喋れない。でも、喋る必要がない。この映像と歓声で、ここで起こったことの意味はすべて伝わる」そう開き直った私は、しばしの沈黙を選んだのです。もちろんこのときは、こんな冷静に自分の心を分析できていたわけではありませんが、今振り返ると、そういう風に思えます。

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あの日から、今へ

試合直後から、日本では熱狂的とも言える報道がありました。当時の様子を現地ではどう感じていましたか。そしてメディアの立場から、2019年に向けて「あの戦いの意味」をどうとらえていますか。

私たち中継スタッフはあの試合の後、ブライトンの町で祝杯をあげましたが、翌日すぐにジャパンの次の試合会場、グロスターへ移動しました。同僚のアナウンサーや、高校時代のラグビー部の仲間から届いた喜びのメールは読みましたが、ロンドンでのジャパングッズの飛ぶような売れ行きも、日本での過熱する報道も、あまり知らないまま過ごしていました。

ただ、次のスコットランド戦の前の記者会見場には、日本やスコットランドのメディアだけでなく、世界中のメディアが押しかけて来るようになりました。いくつかの海外メディアのインタビューに答える機会もありました。そして、フランスの有名な新聞「レキップ」のベテラン風の記者が、私たちクルーに、「あれこそがラグビーだ。最後まで勝利を目指して戦う。ジャパンは素晴らしかった」などと声を掛けてくれたりという出来事もあり、「ジャパンが与えたインパクトは相当なものだ」と実感したのです。

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日本代表が宿泊したホテルには激励のメッセージが
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スコットランド戦の前日練習には大勢の報道関係者が訪れた

あの戦いの意味。私は最大の遺産は、リーチ マイケル選手がよく口にする、「マインドセットが変わった」ということなのだろうと思います。それはジャパンの戦士だけでなく、日本のラグビー界のマインドセットを、です。だからこそ、経験の浅い若いプレーヤーたちがサンウルヴズに入っても臆せず戦える。あの勝利がなかったら、スーパーラグビーのチームにあんな風に向かっていけたのでしょうか。

日本がW杯招致に乗り出した2004年、その招致活動の取材をしていた私は、あるラグビースクールのコーチの方に話を聞きました。そのときの言葉を良く覚えています。「ラグビーは素晴らしいスポーツなんですけど、現状では子供たちに夢を語れないんですよ。プロ野球選手のように億単位の年棒を稼ぐなんてことは出来ない。サッカー選手のように海外のビッグクラブで活躍するなんていうのも厳しい。オリンピック選手にもなれない。W杯でも勝てない、ですからね。大手優良企業に就職できるチャンスは少なくないのはよい点ですけど、でっかい夢は子供たちに語ってやれないんですよね」と。

さらに2009年。U20世界選手権(現ジュニアワールドカップ)で来日したイングランドU20の練習を取材する機会を得た私は、サントリーの府中のグラウンドで一人の選手に話を聞くことができました。彼は「プロでプレーしようと決意したのは13歳のときです。15歳でアカデミーに入りました。去年プレミアシップでデビューできました。この大会で活躍して、いつかイングランド代表になりたいです」―――まだ少年の面影の残る顔でそう語った彼は、数年後イングランド代表になりました。そして押しも押されもせぬ、イングランドの中心選手に成長していきました。そう、私が話を聞いたのは若き日のベン・ヤングス選手でした。13歳、当時の日本ではどれだけの人がラグビーに触れたことがあったでしょうか。そんな年齢で、すでにプロを志していました。この土壌の違いを知り、絶望的になりました。

しかし今、あの戦いを経て、小さな少年が五郎丸選手のポーズをする。南半球やイングランドやフランスでプレーする選手もいます。大学に在学しながらトップリーグでプレーする選手も出てきました。高校から大学を経ずにトップリーグのチームとプロ契約する選手が出てきました。゙そしてなにより、W杯が日本にやってきます。世界のトップ8へ。そして「こどもたちに夢を語れる」スポーツへ。現場の方々はもとより、私たちメディアも「ここが頑張りどころ」なのだろうと感じています。

2019年へのメッセージ

2019年のラグビーワールドカップは試合会場や日程も決まりました。これから各国のトレーニングキャンプ地なども決まっていくことになります。私も2015年に現地に行って感じたことがあります。「ラガーメンは世界のトップスターでも意外に気さくだ」ということ。機会があったら是非、彼らの体だけでなく、大きな人としての器にふれあって頂きたいと思います。

私は個人的には、もし可能なら、釜石で行われるゲームに足を運びたいと思っています。仙台放送局勤務時代に何度かお邪魔しました。釜石鵜住居復興スタジアムの工事現場も案内していただきました。河口に近く、大きな港がすぐそばにあるスタジアム。大きな客船で来てもらう観戦ツアーなどのアイデアも聞かせていただきました。釜石には2011年には、海からきた津波が町の人々に大きな悲しみを運んできました。2019年には、海からたくさんのラグビーファンと大きな歓声・歓喜が港から川をさかのぼって釜石の町を満たす・・・そんな光景を今からとても楽しみにしています。

豊原謙二郎アナウンサー
神奈川県立湘南高校ラグビー部では、主将でフランカーとして県大会で最高はベスト8。
NHKには平成8年入局。佐賀放送局、京都放送局、東京アナウンス室などを経て、現在は大阪放送局。スポーツアナウンサーとして、野球を中心に、ラグビー大学選手権決勝、去年のリオ五輪では柔道などを担当。

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