もし自分が近いうちに死ぬとしたら、何をするだろうか。そんなことを想う記事を読んだ。
詳しくは言及先を読んでいただきたいのだけれど、記事をものすごく簡単に要約するとこうなる。
会社を退職し働かずに貯金で暮らして、それが尽きたら自殺することを決意した男性のブログを筆者は読んでいた。ブログから伺える男性の暮らしはいたって質素かつ平坦で「樹海に行きます」という記事を最後に更新が途絶えている。貯蓄が残り3万くらいになったところで、男性はいよいよ自殺を実行する意をブログで表明。そのとき「最後の晩餐です」という言葉とともにアップされた写真は、ファミレスの少し豪華なハンバーグで、筆者は最後の晩餐としてはあまりに質素ではないかと感じた。どうせ死ぬのなら生活費を削って死期が早まったとしても、貯蓄がもう少し残っている段階で、高級料理屋で贅沢な食事をしたり、世界一周したりもできたのに、最後まで質素な生活を続けた男性のことが筆者はずっと疑問だった。その疑問への筆者の推測は、男性はそもそも、贅沢な食事をしたり、世界一周をしたりする自分を想像できなかったのではないか、ということ。人間は、想像力の範囲内でしか動けないから、その想像力の限界が男性にとってファミレスのハンバーグだったのではないか。それ以上の贅沢は男性にとってそもそも選択肢として存在しなかったのではないか、と筆者は思った。
男性が自殺した理由はわからない。自殺した理由がわからないから、なぜ最後の晩餐にファミレスのハンバーグを選択したのか、本当の理由はわからない。筆者の言うとおり想像力の限界だったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
唐突であるが死刑囚の最後の晩餐にはリクエストが効くらしい。インターネットで死刑囚の最後の晩餐の写真なんかを検索すると、物凄く豪華な食事な人もいれば、オリーブ一つだけという人もいる。食事の選択肢としてオリーブしか想像できないということはないはずである。つまり、あえて選択したのだろう。死を前にして経験したことのないほどの贅沢な食事をしたいという人もいれば、普段から愛している身の丈にあった食事をしたいという人がいても不思議ではない、とは思う。
それに同じ死でも、死ぬつもりはないけれど死期が決まっている人と自殺を決意した人の精神状態には大きな隔たりがあるように思う。もし、自分自身、いろんなことに行き詰って死ぬしかないってなったら、死ぬ前に日本一周したり、筆者のように自分が見たこと経験したことのないことをやってから死のうと考える。でも、そんなこと考える人はそもそも自殺を決意したりしないだろう。なぜなら自殺を決意する人にはそうしたモチベーションがそもそも枯渇しているからだ。
「死ぬ気があればなんでもできる」といった言葉を聞くこともあるが、逆ではないだろうか。何もしたくないからこそ死にたいのだ。
生きることにモチベーションが湧かない人間が、贅沢な食事をしたり、世界を一周したりすることにモチベーションが湧くだろうか。贅沢な食事をしたり、世界一周をすることにモチベーションが湧かないからこそ、生きることにもモチベーションが維持できない。生きることに動機づけができないのに、食事や旅行に強く動機づけできるというのはある意味歪であり、そこに強く動機づけできるなら、それがそのまま生きる理由にさえなるだろう。死んでしまえば、美しいものを見た、美味しいものを食べたという視点や記憶さえ根こそぎ無かったものとして消失してしまうのだから、自死を決めた者にとってはそうした経験は無意味とさえ言える。つまり、動機づけできないのだ。
近年、富の格差や教育格差の深刻さが叫ばれているが、それ以上に深刻なのがモチベーションの格差ではないかと思う。どれだけ所得があっても、どれだけ高度な教育を施されても、そこになんらかの動機を見出せなければ、生きる気力を維持できない。
逆にそうした資本から切り離されても幸せそうに生きる人もいる。
少し前にホームレスの芸人が実際に結婚をして、結婚式を挙げたことで話題になった。その人には金も家も定職もない。にも関わらず1日50円で自分を貸して見知らぬ誰かの依頼を受けている。そうすることで信用を蓄積しており、誰かの応援や支援によって暮らしている。所得に依存しない生き方であるが、そうした信用を形成するには、ある種のモチベーションが必要である。
また、先日ラッパーを志していた無職ブロガーが絵描きに転身したことでずいぶん炎上して批判の的になっていたけれど、中にはその人を応援している人もいて、それがその人の原動力になっているようだった。経済的な基盤はなくても、何かをやりたいというモチベーションがある人は自殺したりはしない。
そうしたモチベーションがどうすれば創発されるのか、はっきりとはよく分からない。生まれ持った資質や、外部からの刺激など、身を置いてきた環境もあると思う。
いずれにせよ動機づけできないことに対して想像力を働かせることは、やはり難しい。どこまでも想像力と選択肢が広がればいいという視点も、筆者に「知」という動機や意欲があるからに他ならないのではないだろうか。そんなことを感じた。