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人は、言葉からは逃れられない。

【前編】問題提起 伊藤隼也のジャーナリスト活動について

  ブログ上で失礼します。何分、きちんとした場所をもっていないもので、その点ご容赦ください。あと話の性質上、とても長文であることを予めお伝えしておきます。

 私、来未炳吾はフジテレビの番組「とくダネ!」等にも出演している伊藤隼也氏のジャーナリスト活動について、社会に対し問題提起を行います。

 伊藤氏には「職業詐称」及び「医療不信情報と医療被害者を利用した営利活動」と指摘できる行動があり、本文にてその点を説明させていただきます。

経緯1

 昨年1月、伊藤氏がTwitterで行った発達障害に関する考え方のツイートが炎上しまして、その件で私は自分の考えをまとめてブログに掲載しました。その後、伊藤氏から自己紹介のようなダイレクトメールも来て、そういうご縁をきっかけに伊藤氏とTwitter上での交流が始まり、ただの雑談から精神医療、発達障害に関する考え方などを、たまにダイレクトメールでやりとりをする関係になりました。

 6月末には、伊藤氏と特別取材班が著書の書籍『うつをなおしたければ医者を疑え!』について、投資家の山本一郎氏がデマ本と称する批判的記事を掲載し、私はその内容に対して不可解な点を指摘する記事を書いたこともありました。

 そして11月、私は自営を本業から撤退することとなり、ハローワークを通して転職活動を行ったのですが、その際、求人情報詐称に遭ってしまい、その一件は障害者雇用の実態としてブログの記事にまとめました。

 それから生活の先行きがとても危うくなったのですが、そんな時に伊藤氏が声をかけてくださり、伊藤氏本人から秘書業務の誘いを受けました。私は妻とも相談した末に、その仕事の話を受けることにしました。

 しかし彼の職場で私は全くといっていいほど仕事ができず、秘書の仕事は一週間ほどで終了となりました。その後も別の形で伊藤氏の職場で仕事をしましたがトラブルだらけで、7月の倉庫整理を最後に上司と部下という関係を終了することになりました。

 私は31歳の時にアスペルガー障害の診断を受けています。伊藤氏もその点を承知していました。仕事の就く前に、私の障害特徴のことで課題となるであろう点についてはやりとりしました。それでもこういうことになってしまいました。

 彼との仕事は混乱の絶えないものでしたが、尽力を尽くしてくださった結果だと受け止め、私はまた新しい人生を歩んでいきました。

経緯2

 ただ、どうしてもあることが気になり、そのことについて考え続けていました。

 伊藤氏と一緒に行動してわかったことですが、彼は発達障害精神障害者の個人の境遇について何もわかっていないし、関心も持っていない人でした。ただ私が疑問に思ったのはそこではなく、それなのになぜ、伊藤氏とオルタナティブ協議会との交友が続いているのだろうか、という点です。

 別に医療ジャーナリストだからといって被害者の境遇のことを理解していなければならないということはありません。理解が迷いを生むこともありますから、そこは彼のスタンスやポリシーという点で理解できます。

 オルタナティブ協議会の代表は中川聡さんという人で、『うつをなおしたければ~』の書籍にも登場しており、多剤処方被害にあったご家族の一人です。取材を通して交流が生まれたと考えるのが自然でしょうし、医療情報研究所(伊藤氏さんの会社)とオルタナティブ協議会は『田舎ディスカバリープロジェクト』という共同企画を行うことになっており、その点で交流が継続しているのだと理解できました。

 一つずつ整理した結果、何も変なところはなく自分の考えすぎかと思ったのですが、この時、私は初めて「事業家としての伊藤氏の姿」に気が付きました。会社に勤めていた頃は、伊藤隼也は事業家活動もしているジャーナリストだという印象だったのですが、実際に職場にいた時のメールには事業家活動の方が多かったように思えました。

 これに気が付いたのが今年の10月頃でした。彼の仕事の振り方が私に合わなかった理由をみつけられた気がして、ここで疑問は一旦、解消されました。

経緯3

 その後、急展開があり、疑問が疑惑へと昇格しました。

 このオルタナティブ協議会に参加されているメンバーの一人と久しぶりにお会いする機会がありました。その際に伊藤氏が私のことを「常人には理解不能」と話していたことを聞きました。

 その時はその場に他の人がおり、どういう雑談の時にその一言が出たのか、場の空気があったので聞けなかったのですが、伊藤氏の社会性の無さについて薄っすら疑問に思ったことがあり、改めて彼との関係を振り返ることにしました。

 そして私は仕事に就く際に、伊藤氏から「うちも苦しくてね」という一言のあとに、障害者雇用助成金の話を振られたことを思い出しました。

 仕事に就く→会社がハローワーク障害者雇用で求人を出す→私は仕事に就いた状態のままそこから仕事を申し込む、という話で、端的に言いますと既に仕事をしている状態でそれを行うわけですから、助成金獲得を目的としたハローワークに対する違反行為です。

 当時の私は、それが何かしらの違反か違法行為に当たることを勘付づいていましたが、自分はこれから医療の悪事を追求する仕事に就くわけで、そういう相手には正攻法では通じない相手もいるだろうから、これは自分がどう反応するかのテストかもしれないし、ここで協力できないといって「君には向いてないよ」みたいなことになったらきっと後悔すると思い、「わかりました。ハロワで余計なこと言わなきゃいいんですよね」と、ここだけの秘密であることをわかっている旨の回答をしました。伊藤氏は「うん、そうそう」と返事しました。

 その後実際に、就労状態でありながらハローワークを通して求職の申込を行いました。もちろんハローワークの人には既に就労していることは黙ったままです。

 これはこれで問題ですし共謀した者として、私もしかるべき罰を受けるべきだと思います。ただ今回の話はこれが霞むほどのことであることを、読み進めていただければご理解いただけるものと思います。

経緯4

 話を進めます。

 私は最初、「じゃあ自分は障害者雇用助成金を得る為に利用されたのか」と考えました。この時、伊藤氏から田舎ディスカバリープロジェクトのメンバーに誘われたことを思い出しました。当時はただの雑談の延長の会話だったのでなんとも思わなかったのですが、ここでそれについても変だと思えてきたのです。

 勤め始めた当初はたしかに仕事がほしかったのでちと焦ってはいましたが、妻とは特に不自由なく平和に暮らしており、そんな人に、遠く離れたところにあるキャンプ場や田舎への移住や就労を提案するってどうなんだろう、と思えたのです。私の記憶が間違いでなければ雑談の中で二度誘われています。

 これも「障害者を利用した実績獲得の為」という路線で、この疑惑に加えることができます。知り合った頃、伊藤氏は自分を批判する人のことを私にメールで伝えてきたことがありました。障害者や医療被害者を自分の味方につけて、私利私欲な印象をカモフラージュしているのかもしれません。

 私への仕事の振り方が自分には全く、というか、精神障害者発達障害者に不適切だったことも、当事者の境遇に理解がなかったことも、「金が目的だから」と考えれば丸く収まる話です。

 一度はそう結論しかけたのですが、この気づきのあと、助成金について調べてみたところ、私を雇用しても月に数万円程度しかもらえないことを知りました。一年を通してみれば数十万にはなるとはいえ、いくらなんでもこの企みがばれた時のリスクや労力からみて釣り合わないと思わざるを得ず、自分が考えすぎていたんだ、病んできたのかもと、一旦は反省したのですが、自分が気になっていたのは伊藤氏の不正についてではなく、伊藤氏にまとわりつく不可解さだったことを思い出し、それと同時に、自分の身に起きたことを全て理解することができました。

 

 それではここから、伊藤氏より仕事に誘われてから、この問題提起に至るまでの経緯を詳細にお伝えします。

 月日や時間、言葉を一字一句覚えているわけではありませんが、問題提起としては十分な内容であることを保証します。

経緯5

 伊藤氏から秘書業務の話を電話で持ち掛けれたのが昨年11月の半ばです。私はその話を前向きに検討したいと思い、実際に会ってお話しすることになりました。

 その後、伊藤氏の会社に行き、応接用のテーブルで初めて顔を合わせました。彼は開幕に私に対して「いい目をしていますね」と言いました。私は顔のことで褒められるのが嫌いだったのですが、この人なりの社交辞令なのだろうと笑みで相槌を返しました。

 この場のやりとりで、私は、自分には秘書業務の経験が全くないことと、自分が「できます」と約束できる範囲として「手順化された業務ならできる」と伝えました。具体例として不具合検出業に就いていた頃の経験も話しました。

 障害特徴については、診断名はアスペルガー障害であり、人よりも習得している知識が少ないことが特徴の中心である伝え、ケアレスミスやコミュ障については、独自の訓練を通して克服したことを話しました。

 他、自分でも気が付いていない特徴があるかもしれないという懸念点についても話しました。どのような言葉で言ったかは忘れましたが、「なぜかできないままやり続けてしまうことがある」という現象についても、この時に伝えました。

 発達障害の基本知識などに関する確認はしませんでした。なぜなら、伊藤氏は医療ジャーナリストで発達障害精神障害のことにも言及している人なので、取材などを通して当事者の境遇は熟知していると思っていたからです。

 この時に、転職活動中に使っていた履歴書との他、障害特徴を説明した1枚の用紙と、WAISの結果を印刷した書類も参考として、一緒に渡したと記憶しています。

 履歴書を見せながら、どうして自己都合退職が続いたのかも正直にお伝えしました。自分の家にはテレビがなく、伊藤氏の活動のことは何も知らないということも伝えたと記憶しています。

 仕事ができるかどうかが話の中心になったのですが、伊藤氏は、「仕事は(覚える為の)マニュアルがあります」と言い、そして手持ちのiPadを私に向けて見せながら、「デジタルを活用しています」と言いました。そのように、業務の習得については環境が整っていることを強調してくれました。

 この頃、私は発達障害仲間の知人に誘われて入ったNPO活動の立ち上げにも携わっており、そちらでは情報共有の為にiOSアプリの「Jooto」というタスク管理アプリを用いていました。私はそのことを伝え、「そういうアプリを使っているんでしょうか」と聞きました。伊藤氏からはそれについては知らないという回答でしたが、私は「仕事のやり方が文章化されているのなら、問題なく対応できると思います」と答えました。そのやり方をただ覚えればいいわけですから、知識不足は壁にならないと判断したのです。

 このようやりとりがあり少なくとも基本業務部分の習得について、障害特徴のことはさほど問題にはならないだろうという判断で一致したと記憶しています。

 ただ、自分の障害特徴を伝えた際のやりとりには違和感を覚えました。わからないことがあった時にネットで自分で調べて答えに辿り着くことはできますか、というようなことを聞かれ、私は、それならできますと答え、その証に実際に自分のiPadを操作して検索している様子を見せることとなりました。それを見て伊藤氏が安心したような表情を浮かべて「わかりました」と答えました。それだけのやりとりだったのですが、それだけだったことに違和感がありました。

 

 その後、11月中と12月中に2度か3度、実際にちゃんと仕事がこなせるかどうかのテストを兼ねて、書類の整理業務に携わらせていただきました。未整理の書類を仕分けするだけの仕事でしたが、その指示通りにできるか、わからない時にちゃんと人に聞けるか、という点の確認も兼ねていたと記憶しています。

 この仕事に呼ばれる際、LINEで「明日出れますか」という話しが急に来たことがあり、その時に「私は急に予定が変わることあります、覚えておいてください」といったことを合わせて言われました。

 急な予定変更は発達障害者の苦手なことですが、彼の仕事の性質上仕方ないと思えることですし、仕事を始めるにあたってわざわざテストの機会を設けるほど私との仕事作りを慎重に進めてくれていることを重視し、ここで勤められることに安心感を持っていました。

 その後も一緒に食事をしたり、その席では発達障害のことや精神医療のことで意見を交わしたりもしました。12月には伊藤氏より「オルタナティブ協議会」の忘年会&作戦会議の場に誘われ、そこに参加しました。

 

 ある時の食事の席で、私は秘書の仕事を受けることにした理由について「気に入らない奴をぶっ潰す力がほしいんです」と言いました。伊藤氏はこれについて「いいと思います」と言葉を返してくれました。

 私は常々、障害者が職場で不利な状況に追い込まれても、争うことを支援できる活動がしたいと思っていました。私がNPOでやろうとしていたことがまさにそういう活動でした。特に精神障害者発達障害者はその症状が不透明であり、どこにいても不利な境遇に陥りやすいです。しかもそんな無理解の的になっていても、ほとんどが泣き寝入り状態。裁判を起こす費用も、心の余裕も、知識もない。

 その願望をNPOを通して形にできるかもと思っていた頃に、あの医療ジャーナリストである伊藤氏とのご縁があり、医療の闇を追求する彼と一緒に行動することができれば、その仕事をみることでそういうスキルを得られると思いました。その意思もちゃんと伝えました。

 その会話で、伊藤氏からは私を信用している理由として、私には妻がいて結婚しているからだと言いました。また、この頃の会話でだったと記憶していますが、伊藤氏は「俺のDNAを引き継ごうと思っている」と言ってました。

 

 それから年が明けた1月の半ばだったと思いますが、伊藤氏から「いつから仕事に就けますか」という急な連絡がありました。この時、私は空のとびかたプロジェクトという、発達障害を題材にした映画を自主制作する活動の山場に差し掛かっており、伊藤氏との仕事は映画の収録を終えてからと考えていたのですが、やはり生活と仕事を最優先にするべきですから、伊藤氏側の都合に合わせる形で、1月末から勤務が始まることとなりました。

 本文冒頭の「うちも苦しくてね」の一言から始まった障害者雇用助成金の話は、この時だったか業務初日だったか、記憶が定かではありませんが、どちらかでやりとりをしたと記憶しています。最初聞いた時は、そんな話切り出さなきゃいけない状態なのかと思いましたが、伊藤氏と一緒に働けることを思えば、どうでもいいことでした。

経緯6

 出社一日目。伊藤氏は会社におらず、他の社員の方達がいるだけでした。そして最初に、(退職予定の)秘書の方から引継ぎを受けるようにと伊藤氏から電話で伝えられました。

 伊藤氏があまり会社にいないことは聞いていましたが引継ぎの情報量が膨大であることは聞いていませんでした。メールソフトの受信箱には案件別に分けられた無数のフォルダがあり、それぞれの案件の性質から人間関係、どういう経緯で今どんなやりとりをしているのか、ということまで、伊藤氏が携わっている全ての情報に関する引継ぎが始まりました。

 恐らく伊藤氏は自分の秘書がどういう具合に業務を進めていたのか、秘書さんがどういう風に引継ぎをするつもりだったのか、全く知らなかったのだと思われます。どういう風に引継ぎをするべきかという点についてのやりとりもしておらず、秘書さんはただ丸投げされたに等しい状態だったと思われます。

 

 話を続けます。

 引継ぎの内容には知らない単語がたくさんあり、話を理解しながら聞くだけで大変でした。ここに記すのが心苦しいのですが、この秘書の方はとてもぼそぼそとした話し方をされる方で、案件の重要度や話の区切りもいまいちつかめないまま話を聞く形になり、私はとりあえずどういう案件が動いているのかを全体的にざっくりと把握することに徹しました。

 マニュアルがあるんじゃなかったっけ、と疑問に思いながら引継ぎを受けていましたが、まだこの初日の段階では引継ぎ量の全体が把握しきれていなかったこともあり、「まだ覚えられる、まだいける」と自分を勇気づけながら話を聞いていました。

 

 私用にと用意されたパソコンがとてもぼろいパソコンだったこともショックでした。インストールされていたのはwndows8で、これがなんとか起動する感じで、その後もまともに使用できる状態になるまで、パソコン担当の方の手を何度も煩わせることとなりました。自分がここに勤める上で、密な準備がされていなかった印象を受けました。パソコンのぼろさについては、会社が苦しい状況にあると事前に聞かされていたので何も言えませんでした。

 パソコンの準備を待っている間だったと思いますが、伊藤氏に電話で、七日ほどどこかで休みの期間を入れたいという話をしました。これは空のとびかたプロジェクトの活動の映画撮影の為の期間で、正式な雇用契約を結ぶ前に片づけておきたい話だと判断したのです。しかし伊藤氏からの返答は有給の条件のことで、私は「ああもう正式雇用のつもりだったのか」と思い、その話を引っ込めました。

 このやりとりの後すぐにまた私宛に伊藤氏から電話がかかってきて、「念の為に言うけど、私は君の活動の事は何も知らないんだよ」と言われました。私はもう仕事が始まっているのにとんでもないことを聞いてしまったと思い、慌てながら「すみません」と言い、謝りながら話を聞きました。

 私がこういう活動をしていることをわかってもらえていると思っていたのですが、それが自分の思い込みだったことを知り、なんか悲しくなりました。

 電話を切ったあとにも、もやもやが残りました。私は昨年の2月に伊藤氏とのやりとりの中で自分の活動のコンセプト資料を見せることになって、伊藤氏にメールで送っているのです。その内容に関するお返事はありませんでしたが、「知らない」ってどういう意図を込めていた言葉なんだろう、という変な感じが頭にひっかかりました。

 このような「言葉は理解できるが、その心がわからない」という印象が延々と続くことになりました。

 

 二日目も引継ぎの話を受け続けました。マニュアルに書かれた仕事をする為に必要な知識なのだろうと思いながら、要所要所でメモをとりつつ話を聞き続けきました。三日目も引継ぎだったと思います。

 この頃だったと思いますが、相手先へのメール作成の業務をした際、彼が相手のことを「秘書」と言ったので、私はメール内の敬称に「秘書」とつけました。しかしその後、伊藤氏から「秘書とは言ってない」と言われて困惑しました。たしかに聞いたことは覚えていますが、「秘書」だったのか「秘書?」というニュアンスだったのか、そこが記憶上でははっきりしませんでした。ただ聞き間違えの可能性が高かったので、「すみません」と仕事のミスを認めて謝りました。

 またこの入社当初、勝手にあだ名をつけられたことと、現妻との出会いの経緯を勝手に他の社員の前で話されたことが少し嫌に思いました。名前が「加藤健太」なら「カトケン」という感じの、軽い感じのあだ名をつけられたのです。

 このあだ名は伊藤氏だけがたまに私をそう呼ぶことがあっただけで、それもすぐに風化しました。

 妻との出会いの経緯の暴露は、私が昼食にコンビニで済ませている旨をオフィスで話していた時だったのですが、弁当を持って来ていない私について「お前ネットで知り合うなんて最先端の出会いをしているだから弁当くらいつくってもらえよ」という感じのことを、他の社員がいる場でそう茶化すように急に言われたのです。その場にいた人達が全員、私の妻との出会いの形を知ることとなりました。

 私と妻との出会いは、ネットのいじめ相談掲示板でした。その後、発達障害特徴の克服をかけた放浪の歩き旅をした先で、実際にリアルで会い、およそ5年間の交際と遠距離恋愛を経て、夫婦の誓いを立てました。このことは、言葉で人に話す時は相手を選んでいたのですが、そういう大切な思い出を、ただのネタにされたような感じがして、すごく嫌でした。

 でも私は、ジャーナリストの真実を追求する力を会得したいと強く思っていたので、その嫌な気持ちはすぐに消えました。

 

 ただそれでも、四日目か五日目に限界を感じました。仕事を引き継ぐことが難しくてわからないということや、覚えきれないことを電話で正直に伊藤氏に伝えました。マニュアルの内容がどうであれ「できます」と約束できる難易度を超えていると判断したのです。

 伊藤氏からは「ええ? わからないまま、はいはいって言いながらずっと話聞いてたの?」と言われました。私は「はい、すぐに言えなくてすみません」という感じの内容を返事しました。その後LINEでやりとりをし、秘書業務はやめることとなりました。もう引継ぎは受けなくてもよいです、関わり方を変えましょう、と言われました。

 そのやりとりをした次の出社の時、伊藤氏が会社に来るまでの間、雑用や他の人の仕事を手伝おうかと思っていたのですが、なぜか秘書さんから同様の引継ぎの話が始まりました。私は「まだ秘書さんは伊藤氏から聞いていなかったんだ」と思い、私がもう秘書業務はしないことになった旨を伝えました。

 すると秘書さんは大変困惑された様子で、伊藤氏に電話をかけました。そして秘書さんと伊藤氏とのやりとりが始まったのですが、秘書さんの物静かな雰囲気がだんだんかわっていき、口がぽかんと開き、とても立腹された様子で、声を飛ばしました。「では〇〇の件は□□どうするんでしょうか、△△はどうすればいんでしょうか、ちゃんと指示してくださらないと、私にもわかりません!!!」といった内容を、大きな声と早口で叫ぶように言いました。その電話を切った後、「私にも、どうすればいいかわかりませんので……」と申し訳なさそうに言われました。私も「いえ、すみません」と謝りました。その後二人で沈黙しました。

 この時の鬼気迫る様子から、秘書さんが伊藤氏に対して、今まで我慢してきた鬱憤を退職前にぶちまけたような印象を覚えました。

 その後、伊藤氏から私宛に電話がありLINEでのやりとりを勝手に話したことについて注意を受けました。「どうして私とのLINEのことを勝手に話したの?」という感じの言葉だったと記憶しています。

 私は仕事の話とはいえ、許可なく勝手に話してしまったことを反省し、またここですみませんと謝りました。秘書の人に伝える前に、話してもいいかどうかを確認するべきで、自分はいまそういうことに気を付けなければいけない仕事に就いているのだと考えを改めました。

 これとは別件でこんなこともありました。家で過ごしていた時に伊藤氏から電話がかかってきて、雑誌に掲載される予定の記事の文章を読んで、感想を聞かせてほしいとのことでした。

 私は指示の通りにメールで送られた文章を読み、感想と指摘できる点を送りました。伊藤氏が書いた文章ではなく、雑誌の編集の方が書いた文章とのことでしたが、全体的に要点が認識しにくく、説明不足と思われる個所も気になったので、一点一点指摘して修正案も送りました。3時間ほど要しました。

 伊藤氏からの返答は及第点である旨の言葉と、自分ならもっと早くできたという自慢のような感じの返答でした。仕事の話はいつ振ってもらって構わないと思っていたのですが、いきなり自分の成果に対する評価の話が始まったので、ややストレスを感じました。

 仕事が終わったあとは、帰宅中に自分の感じたことや変化をLINEで伝えるようにしていました。仕事に慣れるまではなるべく自分のコンディションを伝えようと思っていましたし、普段会社にいない伊藤氏との貴重なコミュニケーションの機会だという認識でした。

 このやりとりを通して、秘書さんが怒ったことについては「僕には彼女のああいうところがわかりません」という本音を教えてくれたり、私のことは部下ではなく仕事のパートナーになってほしいと思っている彼の気持ちを知ることができました。

 いつもは私から、時には伊藤氏からそういうやりとりが始まったのですが、次第にこういうやりとりをあまり望んでいないように感じさせる言葉がやんわりと混ざるようになり、ある時は私がなんでも言葉の上で解決したがっているように思ったのか、「言葉でプロテクトをかける癖があるようですね」と言われてしまい、習慣になる前にこのやりとりはなくなりました。

 伊藤氏との会話で起きる違和感について、いつもうやむやのままやりとりが進んでしまうのは、ここでやりとりを封じられてしまったことが第一の要因で、あと、一つ会話をすれば複数の疑問符が浮かぶので、キリがなかったから口頭会話での解決が難しかったというのがあります。

 それでも仕事は進めなければいけませんし、あとで解決できることもあることはあったので、察しながらの会話を暗に要求されているようなコミュニケーションが定着してしまいました。

経緯7

 次の出社の時、伊藤氏が出社した後に応接用のテーブルで話すことになり、伊藤氏は私に「ごめん」「すまなかった」と言いました。主語がありませんでしたが、私に合った仕事を振れなかったことに対する謝罪だと認識できました。私は「いえ、気にしないでください」といった感じの返答をしました。

 この時のやりとりで、コミュニケーションエラーのことや、お互いの認識のズレに関する擦り合わせをすることができました。

 服装については、私はオフィスカジュアルではなく、ジャケットとジーパンで出社していました。これはまだテストで呼ばれて仕事をしていた頃に、「動きやすい恰好で仕事をしていいから」(~仕事をするように、だったかも)という風なことを伊藤氏から言われていたので、私はその言葉を「障害特性があるだろうけど細かいことをしなくてもいいからね」という意味に受け取っていました。私はオフィスカジュアルを持っていなかったので、余計な出費をしなくて済むことや、 自分みたいな人でも働きやすい環境を意識してくれているんだと安心していました。

 あと会社からの外出時は、動きやすいように鞄は置いていくようにという心構えの話をされていたので、だから私は自分が動きやすいと思える恰好をしていたのです。

 しかし伊藤氏としては、一般的のオフィスカジュアルで出社するように言ったつもりだったようでした。それを聞いた伊藤氏は「あぁ、そうだったのか」と言いました。

 謎は解けましたが、発達障害の当事者が言葉通りに受け取ってしまうことは当事者の界隈では常識的な話なので、そのことを知らなかったという様子の伊藤氏の表情をみて、一瞬だけ疑問符が頭に浮かびました。 

 

 私とのやりとりで起きた数々のコミュニケーションエラーについて、伊藤氏はネットでやりとりしているだけではぜんぜんわからなかったという旨のことを話し、「きみを発達障害だと診断した医者はすごいと思う」と言いました。主語が省かれているような気がして、どういうことを言いたいのかよくわかりませんでした。

 あとこの時、山本一郎氏の記事に対して書いた私の記事を読んだ時のことも話し始め、「本当にすごいと思ったんだよ」と言いました。これもまた主語がなかったので、なぜ急にブログの記事をことを誉めてきたのかよくわからず、私は適当な相槌を打って話を合わせる形となりました。

 この2点について、当時は伊藤氏の真意がよくわからなかったのですが、今ならほぼ正解に近い推測が述べられるので整理します。

 まず「医者はすごい」発言については、伊藤氏の障害観がそもそも間違っていたということです。発達障害者は極端な知的遅れや喋り方に特徴がみられるタイプを除けば、まぁ会話しただけでは障害特性を抱えていることはわかりません。そういう面を除けば、どこにでもいる普通の人に思える人ばかりです。

 発達障害の診断の定義も確定できていませんから、そもそもそういう診断があること自体に疑問を持ちたくなるのは当然のことですし、自分も完璧なものであるとは思っていません。

 しかしここで大事なことは診断の定義にはたしかに検討の余地があるが、障害の定義に記されているような特徴を持ち、そういう境遇のまま人生を歩んでいる人は実際にいるということです。私もその一人です。

 発達障害なんかないと考えることは個人の自由ですしアリだと思いますが、「そんな人生送っている人はいない、違いはただの個性だ」という風に思ってしまうと、当事者の境遇からはズレてしまいます。

 当事者の多くは自身の特性に振り回される為に、様々な場面で習得の機会を逃しています

  • 多動のある子供が授業に集中できない勉強ができないまま育つ
  • 不注意の目立つ人が仕事でミスを繰り返す仕事をしていても仕事が覚えられない

 といった具合に、発達障害の陥る境遇は最低でも、一次障害二次障害という関係で障害特徴が増えていくという観点で考える必要があるのです。

 しかし「そんな人生送っている人はいない」という風な、本当は普通の人だ、ただの個性みたいな、後者のような認識だと、この一次と二次の関係性のことまで考えが及ばず、「常識や社会性を理解している普通」という部分に「障害」が「くっついている」ような認識になってしまいます。

 恐らく伊藤氏は、自分と普通に意思疎通ができているから「この人も自分を発達障害だと思い込んでいる医療被害者のような人で、本当はすごい才能がある人で、失敗続きで自信がないだけで、自分が正しく導けばきっと救える」とかいう風に思ってしまったと推測できます。山本一郎氏の記事の話をここで言い出したのがその証拠です。「ああいう記事が書けるからこういう仕事もできると思ったんだ」と言いたかったわけです。

 つまり、伊藤氏にとって私は、社交性や常識力をきちんと備えている人で、あとは仕事を通じてそれが引き出せるようになればよく、そこは教育や指導で解決できる、といった認識だったと思われます。

 この時私は33歳でした。33年に渡ってきて得られなかった経験を、一人の人間の言葉だけで埋められるわけがありません。私の人生はそんな単純ではありません。

 

 話を戻します。

 伊藤氏はどういうわけかあのブログの記事を読んで、私のことをすごいと思い、だから自分の秘書業務もすぐにできるようになると思ったようだと、ここまではわかりました。

  この席で少しの間だけ秘書さんが同席し、私が発達障害者であることを明かすことになりました。秘書さんが席に戻ったあと、今度は保全業務とパソコン管理の担当をされている方も呼ばれ、さっきと同様に、私が発達障害者であることを伝えることになりました。なんとなくですが、「彼とのトラブルは私のせいじゃなくこういうことだったんだよ」ということを共有し合っている風な空気が感じられ、複雑な気持ちでした。

 またこの時、家にいた時に受けた記事に対する感想や修正案について評価してくれました。「ほら、彼こういうことができるんだよ、良いもの持ってるんだよ」という話です。

 この時の私は、記事のことはどうでもよく、「やっぱり私が発達障害者であることを二人は知らなかったんだ」と思いました。はっきり言って、そういう環境は想定していませんでした。

 

 私はこの時もまだ「伊藤隼也氏は医療ジャーナリストであり、被害者たちの境遇にはそこらの一般人よりは詳しい人で、この人との仕事を通じて戦えるスキルが得られる」という認識と意識を、感情の根底に持っていました。

 だからこの結果については、私自身は障害特徴を克服したという点で発達障害者の中でもかなり異例の存在ですから、期待させすぎてしまい、それが想定外の状況になった原因だと、もっとちゃんと自分のことを話すべきだったんだ、と思っていました。

 その後、帰り支度を始め、最後に業務開始時に会社から支給されたメモ用のノートを伊藤氏に直接渡しました。引継ぎの話が多すぎて、途中からわけがわけがわからなくなり、字の形が辛うじて読める程度になってしまったのですが、このノートが発達障害者の特性のことで、何かの資料に使えるんじゃないかと思ったのです。

 伊藤氏はそれを見て、じっと黙り込んだあと急に立ち上がり、やっぱりもう一度話そうと言いました。

 また二人で応接用のテーブルに戻りました。伊藤氏が「きみとの繋がりは維持したいんだ」と言ったのもこの時だったと記憶しています

経緯8

 話し合いが再開しました。伊藤氏からの最初の一言が「いくら必要ですか」でした。また主語がありませんでしたが給料のことだと思えたので、その認識であっているかを確認をとり、伊藤氏から「そうです」という返事を聞いてから、最低でも月に12万は必要ですと言いました。

 すると伊藤氏は経理の方(伊藤氏の奥様)を呼びました。そして、助成金を得る為には週何時間働く必要があるのかなど、助成金の条件について確認の話を始めました。

 それを聞いた奥様は「いや、ちょ、ちょっと待って」といった様子で、言葉に詰まってしました。「はいぃぃ? そのいま話ここでする?」といった感じです。そういう話を労働者の前ですることに抵抗があったようで、怪訝そうな表情も浮かべていました。

 伊藤氏はそのことについては私と話がついていることを説明しました。私も別に大丈夫ですと答えました。それでも奥様が大変困惑した様子のままで、呆れながら答えていました。

 この時、私はその反応につい注目してしまったのですが、伊藤氏が助成金のことについて何も知らなかったけど、助成金のことは意識していたことを示すやりとりだと指摘できます。

 週20時間といった言葉が出ていたので、恐らく障害者雇用のトライアコースだったのではないかと思われます。

 

 そのやりとりの後、2人で沈黙ばかりの話し合いが続きました。2人でどんな仕事をするかについてです。私の個人的活動については監修ならできるけどお金にはならないだろうとか、人の紹介ならできるとか、きっと伊藤氏の本意ではなかったであろう言葉も正直に言ってくれました。この人は本当に私の為に一生懸命に考えてくれているんだと感じました。

 そうして伊藤氏が捻り出すようにして出した話が、伊藤氏の旧宅をレンタルスタジオにするという話でした。その仕事自体は以前より保全担当の方と進めていたようで、その立ち上げとその後の管理業を私がやるという仕事の提案でした。

 私には難易度の高い業務だったので、能力的に絶対に有していないことと、やるとしてもゼロから勉強になることを伝えました。できる能力がないと言いつつもあくまで前向きな姿勢だったのは「この人が諦めないのなら私も頑張ろう」という気持ちがあったからです。

 そうして私はスタジオの立ち上げ業務に携わることになりました。

 マニュアルに沿って仕事ができると思っていたことや、同僚の方が私の障害のことを知らなかったことや、パソコンなど準備が全くされていなかったことや、職場環境が何もかもが想定外だったことや、ちょっと不快に感じる言動があったことなど、この時に密にやりとりをするべきだったと思うのですが、もうその仕事は終わったのだから、話題に上げることが憚られました。

 

 ここまでの経緯だけでも、伊藤氏が極めて異常な考えで私を雇用したことがわかるかと思います。

 どうやら伊藤氏は私がすぐに仕事ができる人だと思っていたようなのです。だから感覚的には一般雇用のつもりだったのではないかと思われます。それなら、特別な準備をしていなかった理由にも頷けます。でも、助成金のことは気にしています。障害者を雇用するという認識は持っているわけです。つまり障害者を雇用するつもりだが、能力の高い人だと思っていたので準備はしなかった、ということになります。しかし伊藤氏はどうやら助成金の条件のことを奥様に任せており、よく理解していませんでした。意識していたけどよく知らなかったというわけです。

 つまり、伊藤氏が私を雇用するにあたってとった判断は、この通りになります。

  • 伊藤氏は私が山本一郎氏の記事に対抗する記事を読んでとてもすごいと思い、すごい人だから退職する秘書の後に就いて、自分と一緒に仕事をしてほしいと思った
  • 発達障害者の若者だけど仕事はできるに違いないと思えたから、発達障害のことは何もしらないままアスペルガー障害の診断を受けている私に声をかけた
  • 能力がある人だから感覚的には一般雇用のつもりであり、だから特別な準備はなにもしていなかったけど、障害者雇用助成金のことはしっかり意識していた
  • 助成金の条件のことはなんにも知らなかったけど、得られるものはほしいから、助成金を得る為にわざわざ私を障害者雇用の求人から申込をさせた

 ということです。

 伊藤氏の言動と、実際に起きたことが、この事実を示しています。

 でもこの頃は流石に、ここまで見抜くことができませんでした。

 

 後編で後述しますが、このような考え方で人を雇う行為を、私は個人の生活の破壊に繋がる極めて甚大な迷惑行為だと認識しており、本文で問題提起としたいところであるのですが、その論点だけ言われても事情を知っている私以外は何が何やらさっぱりわからないと思うので、ここまで事実経緯を説明する必要があったわけです。

後編

 長すぎるので記事を分けます。まだ続きますが本当にここまでの長文にお付き合いくださりありがとうございます。