「翌日の──京都を離れる日──俺はもういちどおばちゃんの店に立ち寄ることにした。好きだった蕎麦ぼうろを持ってな。フリーのライターというのはうそで、児童劇団の営業をやっていることなんかもちゃんと話そうと思った。本当にやりたい仕事を、いまも模索していることも──。
よく晴れた、光のきれいな午後だったよ。俺は帰り支度をし、スーツを着、髭も剃って、船岡山のほうに向かった。
おばちゃんの駄菓子屋はなかった」
──僕は意味が飲み込めず、藤堂さんの顔を見た。
「駄菓子屋が、なかった?」
藤堂さんはあごを引いた。
「だって、昨日の夜はあったんでしょう?」
あったよ、と藤堂さんは抑揚のない声で返した。
「そんな──、一晩で無くなるなんておかしいじゃないですか」、当たり前のことを言って藤堂さんの顔を見つづけた。藤堂さんも動かない目で僕を見つめる。見つめ合ったまま、数秒が流れた。ああ、と僕は話を理解した。ああ、そういうことなの、か。僕の表情を見て藤堂さんも察したようだった。いちどゆっくりとうなずいてから、言葉をつづけた。
「おばちゃんの店があったところは小振りなマンションになってたよ。まだ新しい感じだったけど──、一晩で建ったものじゃない」、最後のところでユーモラスな調子を藤堂さんは交えようとしたが、うまくはいかなかった。
「俺が呆然と立ちつくしていると、ちょうど近くの家の玄関がひらき、老人が犬をつれて出てきた。その家は俺が子どものころからあった長屋のなかの一軒だった。俺は混乱した頭のままふらふらと老人に近づき、話しかけた。クリーム色のマンションを指さした。『ここに、駄菓子屋がありましたよね?』、昨日まで、って言葉はなんとか挟まずにすんだ。
ぶしつけな俺の言動をいぶかるわけでもなく、鼻のやけに長い間延びのした顔つきの老人はほがらかな口調で答えた。
『あったよ、去年の今ごろまではね──』」
僕は眉根を寄せ、藤堂さんの顔をうかがった。藤堂さんも堅い表情で見返した。そして、肩にも力が入っていたことに気づいたように、ふっと脱力し、目をふせた。視線をまた僕の顔に戻し、声に笑みを含ませ、つづけた。
「話し好きのおじいちゃんみたいでな──、ほとんど勝手にしゃべりだした。やせた茶色い犬だけが早く散歩したそうに紐のとどく範囲を動きまわってた。おじいさんはその犬を叱りつけた。見覚えのある人物であることも急に俺は思い出した。おばちゃんと店の前でよく立ち話をしてた人だったんだよ。
『ええ人やったけどね、脳卒中やった』ってその老人は言った。
『 八十過ぎてからは、ちょっとボケたはったようにも思うけどな。おはようさん言うても、あたしは日本一の駄菓子屋のおばちゃんやで! って怒ったみたいな調子で言い返さはったしな。
まともなときもあるんやで。まともなときは、いつもこぼしたはった。子どもが
実を言いますとね──店で倒れたはるあの人を見つけたんは私ですにゃ。あわてて救急車を呼んだんもね。私もいっしょに救急車に乗りましたがな生まれて初めて。寝台の上で、いっぺんあの人、意識が戻らはりましたんや。それで、はい十円、はい二十円、言うて指先をすぼめた右手を宙で動かさはるんや。なにをしたはんのかいな
そのあと──意識がはっきりしたんや。私の顔を見て、あぁ
──それでもけっきょく──それがしゃべらはった最後でしたわ。身寄りのない人やったからね、町内で呼びかけあって、ひっそりしたお葬式をだした。お棺のなかへも駄菓子やとか、おもちゃ──そして、絵を入れたげた。ほんまに寝間の壁じゅうに貼ってありましたわ。もう黄ばんでんのがほとんどやったから、だいぶ昔の子どもさんが描かはったもんなんやろうね。ほんまにぎょうさんあった。そうやそうや、あの人が蕎麦ぼうろをつまんでる絵もあったわ。あの人蕎麦ぼうろ好きやったからな。子どもはそれを知ってたんやな。絵の下のほうにはこんなふうに書いてあった。〝日本一の駄菓子屋のおばちゃん〟ってな!』」
込み上げてくる涙をこらえるのはそこまでだったよと藤堂さんは言った。
「俺は泣いた。嗚咽がもれてくるのを止めようとしても無理だった。唇をへの字にひん曲げて、肩をふるわせて泣いた。目をどんなに固く閉じても、涙ってのはあふれてくるんだな。膝にも力が入らなくなってきて、俺は蕎麦ぼうろの入った紙袋を持ったまま、とうとう地面にしゃがみ込んだ。おじいさんはそりゃびっくりしてたよ。『あんたはんどないしはったん!』ってな。『わし、なんぞおかしなこと言うたやろか⁉ あんさん! あんさん!』って。──」
再び沈黙がおとずれた。
藤堂さんは下を向き、ビールの空き缶を無意識みたいに右手で握っていた。落ちた長い前髪の向こうに、顎をかるく突き出すような感じで開いた唇が見えた。ぱり、ぱり、と缶が押される小さな音が部屋にひびいた。そして──そのまま藤堂さんは動かなくなった。
僕は、野菜炒めの載っていた皿や、何本かの空き缶を見るともなく視界におさめた。そしてこのテーブルや、ヒーターの電熱棒の明かりに染まっている藤堂さんの右半分の顔なんかを──自分はいつの日か思い出すことになるのだろうなという気がなぜだかした。
「記憶のたわむれ」⑦ 完結へ つづく