道行く人々がとにかく何かを喋りまくっている。5人に1人は、機嫌良く鼻歌なんか歌っている。
魚群のような自動車の群れはえんえんとクラクションを鳴らし続けていて、マナーなどという窮屈な枷は存在しておらず、ただ人々の心のこもった会話と仕草だけがある。
繰りかえすが、私はバブル崩壊の暗雲のなか生まれた。そうして26年が経ったが、はっきり言おう、人間がここまで希望を持って生きていいものだとは、想像だにしなかった。
ヴァーチャル・リアリティのコンテンツに力を入れている種々の企業に取材を行うとき、この感覚はますます強められた。
彼らの決断はおそろしく早い。ちょっと首を傾げるような詰めの甘い企画のプロダクトが、すでに市場に溢れている。
私がサラリーマンをやっていたころに書いたさまざまな企画書は、日本では直ぐに却下された。しかしこの国であれば、なんの問題もなく通っていただろう。そうして私の考えや行動が現実に影響し、それによって仕事をしている実感を得られただろう。
正直に告白すれば、彼らが羨ましくて仕方なく、私は街中にばらまかれた大量のLEDの光のもとで、何度か泣いてしまった。この国でなら、文章でも食えるだろうと希望を抱けたはずなのだ。
しかし、愚痴ばかり言っていても仕方がない。いまの中国に対して、日本が行えることは何か、考えてみよう。
私なりの答えは、文化の斡旋だ。
深セン市で体験したほとんどすべてのコンテンツのクオリティは、目を覆いたくなるほど低かった。目を覆いたくなるというのは比喩ではない、VRをいくつもやったからだ。いずれもひどく酔っぱらって、大変だった。
このクオリティの低さに理由を求めるならば、文化大革命や共産党によるビデオゲーム規制など、なぜか文化を破壊したり抑圧したりする、独特のお国柄にあるのだろう。ことコンテンツ創造にかんする、文化的蓄積がないのだ。
だからこそこの国に、娯楽として洗練された日本のコンテンツをうまく輸出するべきだ。比喩的にいえば、悟空やマリオやピカチュウが向こうで泣き寝入りしないような形で、輸出するのだ。
ここまでは、他の誰かがすでに言っていることの焼き増しである。ここに付け加えるとすれば――日本の優れた人材さえをも、うまく輸出することだ。
なぜか? すでに状況は、日本人そのものを残すには手遅れで、せめて日本の文化的・経済的遺伝子を残さねばならないところまで、進んでしまったからだ。