なぜ無くならない?相撲界の暴力事件への答え
どうも千日です。元横綱となってしまった日馬富士ですが。貴ノ岩も今後は難しいでしょう。結果として二人の才能ある若者の未来が歪められてしまいました。
誰も得をしないのが暴力です。これがわたしの見地であり、この記事の本旨です。
- なぜ相撲界から暴力が無くならないのか?
- 日馬富士と貴ノ岩の関係は?
- 貴乃花親方が「だんまり」を決めこむのはなぜか?
連日、報道され多くのコメンテーターが話していることですが、おそらく彼らが思っていても言えない本質的な話を書こうと思います。
暴力を「道」に昇華させて線を引く日本人
これは暴力的な表現ですが、「真剣勝負」を「暴力」に言い換えると全てが明らかになります。土俵の中で行われる力士同士の真剣勝負は神事であり、なればこそスポーツとは一線を画する日本の国技として認知されています。
つまり、そうした線引きが無い状態で行われる力士の張り手は暴力なのですね。これは相撲だけでなく、ボクシングなどのプロスポーツ、柔道などのアマスポーツでも同じでしょう。
そして真剣勝負とは、自らの命を賭して相手の命を取る類の勝負です。力士同士の真剣勝負を観るためにファンは場所へ足を運ぶ。相撲から品格とやらを残して真剣勝負を取ってしまったら「礼儀正しい裸の男同士のフォークダンス」です。一部の嗜好の人を除き、観る人なんて居なくなるでしょう。
真剣勝負のルールと「道」への昇華
勝負の世界に「先手必勝」という言葉があります。相手の先を取って相手に攻撃させず、自分が攻撃する。ということです。次が無い、というのが真剣勝負のルールです。ここでいうルールは、守るべきルールではなく、どうすれば勝ちか?というルールです。
そういうルールのもとでは「先手必勝」が勝つためのルールなのです。法則と言い換えても良いです。
自由意志を持った相手に対して、一方的に自分だけが攻撃できる間(タイミング)を作ることに心血が注がれます。
横綱の白鵬は「後の先」の名手と言われていますね。「後の先」とは後から攻撃するということですから、いわゆる先手ではないようなイメージがあるのですがそうではありません。自分の指定した間で相手に攻撃させ、それを不発に終わらせた後にできる隙を突いて自分が攻撃するというものです。
いわばじゃんけんで言う後出しのようなものです。必勝です。しかし当たり前のことですが相手にだって意志があり、先をとろう、後の先をとろうとしている相手にそれを行うのは極めて難しいです。極めて高度な技術です。
日本人はこうした真剣勝負の機微を「道」として昇華させた民族です。
この道には、言葉として適当ではないかもしれませんが、暴力的な側面があります。相手の命を取らなければ自分の命を取られるのですから、究極の暴力です。言葉を換えると「自分の意志を相手に押し付け、意のままに相手を制する方法」です。
疑似的な真剣勝負を見世物として消化する日本人
大相撲の「場所」は興行であって、実質的には神事ではないと思っています。また、相撲の取り組みにしても、実際には真剣勝負ではありません。これは言うまでもないことですね。白星の取り合い、黒星の押し付け合いです。
しかし、土俵の中で真剣勝負が行われていないと、我々日本人は白けるのですよ。
八百長なんてあり得ないんです。ちょっと前にそれが明らかになって一時期相撲人気が壊滅的に落ちましたよね。日本人は真剣勝負でなければ感じない身体なのです。
相撲を興行として今後も継続していくには土俵で行われる星の取り合いを真剣勝負として行わなければならないということです。そして、それを真剣勝負と見なして高く評価し金を払う風土が日本にはあるのです。
相撲界で暴力が無くならないのは真剣勝負でなければ評価しない日本人の性
真剣勝負のルール(法則)には暴力性があり、その指導者である親方も、理事会の幹部も、皆がその「道」の達人たちです。
多くの客が興行に足を運び、自分が白星を獲れる真剣勝負の法則を弟子に伝えることが彼らの責務です。
その苛烈なルールを弟子に伝えるにあたって、友好的な態度でニコニコしながら合理的に教えるなんてどだい無理だと思いますよ。弟子にはどっぷりと真剣勝負の世界に没入させます、稽古では「死ぬ気で」「殺すつもりで」となって当然なのです。
相撲界で暴力が無くならないのは、あくまで真剣勝負でなければ評価しない我々日本人の性がそうさせているのです。
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日馬富士と貴ノ岩は異国で助け合う同郷のモンゴル人
そういうの、最近の若者は嫌がりますよね。見るのはいいですけど、自分でやるのは嫌です。それに耐えて「真剣勝負のルール」を体現できる人材は、日本で一旗上げて故郷に錦を飾りたいという強い動機を持つ外国人力士になるのは自然な流れです。
慣れない異国での生活で苛烈な稽古に耐える彼らが、同郷の繋がりで助け合うのは当然のことでしょう。
日馬富士が貴ノ岩にふるった「暴力」は、力士として彼が日本に来てから親方をはじめとする指導者によって、日本に来てから教えられた方法であり、元をたどれば責任は日本にあります。
同郷で助け合うモンゴル人同士であり、同時に勝負の世界に身を置く力士でもある、というのが彼らの関係です。貴ノ岩自身も、ここまで問題を大きくして日馬富士を引退に追い込むことは絶対に望んではいないでしょう。
彼らは異国で助け合う兄弟のような関係だからです。
沈黙を守り貴ノ岩を表に出さない貴乃花親方
いまや、幕内力士の上位は横綱をはじめモンゴル勢が大半を占めています。同郷での助け合いは日本人同士でもあるでしょう、がしかし、それがあまりに親密になっていくと「真剣勝負」のノイズになるわけです。
相撲「道」の最右翼である貴乃花親方はこの流れに大きな危機感をつのらせていたのではないでしょうか。貴ノ岩を表に出せば、まず間違いなく日馬富士をかばうはず、だからです。
この沈黙によって、モンゴル人力士である日馬富士は、自らの意志に反して角界を去らねばならなくなりました。先ほど述べた勝負のルールを再度書きます「自分の意志を相手に押し付け、意のままに相手を制する方法」です。
日馬富士の引退は、日馬富士の意志ではなく、被害者とされる貴ノ岩の意志でもなく、貴乃花親方の意志であったとわたしは考えます。
モンゴル人力士が貴乃花巡業部長のもとで巡業したくない、と主張する理由はその場に居た彼らが全ての真相を知っていて、今回のことが貴乃花親方による「土俵の外での暴力である」と認識しているからではないでしょうか。
相撲が相撲道であり続けるためには?
しかし、貴乃花親方の考えも正しいのです。相撲が真剣勝負でなければ価値はありません。力士同士が「団結」して盛り上げるショーはもはやプロレスです。だったらプロレスの方がショーとしては完成されているでしょう。
別に外国人だから毛嫌いしているとか、そういう考えは貴乃花親方には無いでしょうね。今の流れが相撲道として長く続いていくための、目指す形の障害になっているのは確かです。
しかし、暴力は暴力です。これは貴乃花親方に言っています。
結局のところ暴力によって得るものは何も無い
かなり、思うままに書いてきました。中にはわかってねーな、と思われる方もおられるでしょうね。批判は甘んじて受けます。
何で相撲界から暴力が無くならないのか?
時津風部屋力士暴行死事件を受けて、文部科学省から外部の識者を相撲協会の理事に迎えるよう強く指導されたため、2008年9月に戦後初めて親方以外から理事2名および監事1名を決定、選任しました。
外部理事は抜き打ちで部屋を視察するなどして、再発の防止に努めましたが、親方の指導方針や組織の体制でどうにかなるような類のものではないと思っています。
貴乃花親方もまた相撲界の暴力根絶に精力的に取り組んでいるというインタビュー映像も目にしました。そんな中で今回は自らの弟子が被害に遭ったということで、同情の声もあることは確かです。
シンプルに「殴った日馬富士が悪い」「隠ぺい体質の協会より司直にゆだねるべき」という人もいますね。そうかもしれません。
しかし、
シンプルに殴ることだけが暴力ではない。
暴力の本質は自分の意志を相手に押し付け、意のままに相手を制することです。殴るということは、目に見えた手段に過ぎません。真剣勝負の世界で頂点を究めた貴乃花親方には分かりきったことでしょう。
そして、暴力によって失われたものは数あれ、得られたものなど無いということは、永きにわたる人間同士の侵略と戦争の歴史がその証左であろうと思うのです。
以上、千日のブログでした。
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《あとがき》
連日の報道は日馬富士の暴行事件と引退で埋め尽くされています。北朝鮮のミサイル発射の方がむしろ大きく取り上げられるべきことではないか、という声もありますね。
こちらは昨日公開した記事です。
呼ばれてもいないデブが土俵に上がって「猫だまし」の代わりに拳銃で空砲をぶっぱなし『次は実弾かもしれないぞ下がれ』と凄んで「寄り切り」を決めようとしている。
もしもこんなことがあったら、巡業中の力士同士の暴行事件なんて吹っ飛ぶ大ニュースになるでしょう。しかも、現実はこれよりもseriousです。なのに何故それほど大きく報道されないのか?
大相撲の暴力事件は自分には降りかかることのないことであって、見世物として観ることが出来ます。
でも、北朝鮮のミサイルはその射線上にわれわれ日本国民全員が立っており、シャレにならないくらいヤバいから、じゃないでしょうか。
2017年12月1日
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