この本を書店でみて意外に思った。
ひところ意識の脳科学の翻訳本が固めて出された時期があったが、最近はひと段落した印象を受けていた。人工知能ブームのなかでも「機械が意識をもつ」という予測を含む「シンギュラリティ論」が一時期注目を浴びたが、今は落ち着いて、むしろ「弱いAI」路線にシフトしつつあるように見える。そうしたなか、本書のようなタイトルの本が出たのは驚きだった。それも日本人の著者による書き下ろし、しかも中公新書でだ。
著者は「意識の脳科学」を研究テーマとする脳神経科学者で、特筆すべきなのが、国内外の様々な分野のパイオニアに師事した経歴だ。あとがきには、師匠の名前として、合原一幸(脳の数理研究)、下條信輔(認知心理学)、田中啓治(霊長類の脳測定)、そしてニコル・ロゴセシス(意識の脳科学)などのビッグネームたちが挙げられている。本書の内容も動物実験・心理学実験・哲学・情報理論・人工神経回路理論と幅広く、わたり歩いた多分野の知見が、著者のなかで融合していることが窺えた。こんな研究者がいたとは知らなかった。
本の内容も面白く、文章の切れ味も抜群で、一気に読まされた。と同時に、読後には身の毛のよだつような「怖さ」も感じた。
***
中身を簡単にメモしておく。
第1章は、脳科学の研究課題としての「意識の問題」の紹介。「ニューロンとは」「シナプスとは」といった入門的解説にページを割いたうえで、この「ちょっとばかり手の込んだ電気回路にすぎない」脳(p.51)が、どのようにして「意識」、もう少し限定して言えば「クオリア」を生むのかが大問題なのだと説く。
第2章は、意識を生み出す脳部位を見つけるための一連の研究を振り返る。1990年代のロゴセシスによる「サルの両眼視野闘争」の研究により意識が本格的に研究対象となる。カギとなるのが「NCC(意識の神経相関)」の概念。とくに「一次視覚野(V1)」が意識に関わっているか否か(つまりNCCか否か)が焦点になってきたという。それぞれを支持する実験結果も出ていたが、著者らの実験では「意識」と「注意」の効果を分けることで「V1はNCCではない」との結論が得られた。どんどん複雑になる実験設定についていくのは難しかったが、研究の臨場感が味わえる解説だった。
第3章は、脳活動を測定するだけでなく、それに介入することによる意識の研究が紹介される。脳に磁気を与える刺激(TMS)により視界の一部が消えたり、何かが見えたりすることが知られており、局所的にTMSを与えることでNCCに関する情報を得ることができる。さらに著者らはオプトジェネティクスを使い細胞レベルでの介入に乗り出しており、ラットの「バックワードマスキング課題」という行動を利用して、部位特異的に活動を止めたときに意識(を持っていることを示すと思われる行動)が消えるかどうかを確かめ、それを通じてNCCの在りかを細かく突き止めていく予定だという。
……と、ここで終われば普通の(とても面白い)脳科学の本だろう。しかし、ここから本書はギアチェンジしていく。
第4章では、一転、ハード・プロブレムに踏み込む。どんなにNCCを突き止めても、それは「クオリア」を説明したことにならない。もっと言えば、従来の科学の方法でどんなに研究を進めても意識の問題は解けない。それは端的に「従来科学が客観のなかで閉じているから」だ(p.184)。意識を科学に組み込むには、新しい第一原理、著者の言う「意識の自然則」が必要になる。それ以上説明のつかない「法則」によって、脳には意識が生まれるのだという見方だ。
そして、ここから、ちょっと凄い議論が始まる。
生物の脳には何らかの自然則によって意識が生じている。では機械はどうか? 条件さえ満たせば機械も意識をもつだろう。ではその意識はどうやって検証すればよいか? それは、脳と機械を接続し、実験者の主観によって確かめるしかない。
…はあ?
このアイディアが思うほど荒唐無稽でないのは、「分離脳」に関する知見を下敷きにしているからだ。右脳と左脳の連絡を切った脳では、実質的に「二つの意識」が生じているらしいことが知られている。これは逆に言えば、健常者の脳の「半球」は、もう片側の「半球」の意識と普段は統合されているということだ。この理屈から次のことが言える。人間の脳を機械の「脳」につないだとき、機械の見ている世界が見えれば、それは機械の「意識」を覗いたことになるのではないか、と。
実際には、「高次の視覚野だけを密につなぐ」などの細かい条件はつく。とはいえ、この推論のロジックは通っているだろうか。私にはすぐには判断できない。
第5章では、さらに、著者が有望視する「意識の自然則」が展開される。良く知られているジュリオ・トノーニの情報統合理論(IIT)を説明したうえで、(統合された)「情報」が意識を生むのではなく、むしろ脳内の「アルゴリズム」が生むのではないかと著者は考える。
その意識の源泉とは、具体的には「生成モデル」である。生成モデルは、人工ニューラルネットワークの文脈でよく出てくる概念で、脳の高次(深層)のニューロンが表現する、低次のニューロンの活動(あるいは入力信号)の像のことだ。脳では、情報がニューラルネットワークを高次に進むにつれ、情報が抽象化される。たとえば、深層のあるニューロンは「猫」を表現するようになるといったことだ。そして、そもそもこの「猫のニューロン」をつくるプロセスが脳にはあり、それが生成モデルを作るということにあたる。著者の考えは、その生成モデル作成のプロセスが、意識を随伴しているのではないかというものだ。
この理論の妥当性も、私にはとても評価できない。ただ、非常に面白いのは、近年ディープラーニングを使って「ゴッホ風の絵」を作ったりしているあの手法が、もしかしたら単なる人間のおもちゃではなく、意識を生み出す宇宙の法則とつながっているかもしれないという、その可能性だ。本当にそうだとしたら面白い。
***
本書は前半から後半になるにつれ、どんどんspeculativeになっていく。著者もある程度意図的に、ハードなサイエンスとSF的マッドさの要素を盛り込んだのだろうとは思う。
一見、本書は「意識について私たちは何もわかっていない」という主張と、「もしかしたら近いうちに機械が意識を持つかもしれない」という真逆の主張をしている。私としても、この二つの主張はつながらないし、論理の飛躍を見つけ、粗があれば批判したい気持ちが強くある。
しかし、次のことは間違いない。「機械と脳を接続する」という著者らの研究はちゃくちゃくと進んでおり、「意識の理論が正しいかどうか」には全く無関係に、何らかの結果は出てくるだろうということだ。つまり、原理がわかる前に、意識が何らかの変性を被るような実験が実現する可能性は高い(最初はネズミで、そのあと人間で)。その意味では、「意識とは何か分からない」と「機械が意識を持つかもしれない」は両立するのかもしれない。
そんな方法で脳の研究を進めてほしいかというと、自信をもって答えられない。脳に興味を持って以来初めて、「脳の仕組みを理解したい」と純粋に思えなくなっている自分がいる。