国際戦犯法廷で液体を……ビンに毒物確認=オランダ当局

Slobodan Praljak in court at The Hague, 29 November Image copyright ICTY
Image caption 国際戦犯法廷で毒とみられる液体をあおぐスロボダン・プラリヤク被告。この後、間もなく死亡した(29日、オランダ・ハーグ)

オランダ・ハーグの国連旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)の上訴審判決の言い渡し中に、液体を飲み間もなく死亡した被告が手にしたビンから、毒物が発見された。オランダ検察が30日、明らかにした。

1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、クロアチア人勢力の幹部だったスロボダン・プラリャク被告(72)は、上訴審判決の言い渡しで自分に対する禁錮20年の量刑が維持されたのを聞き、「スロボダン・プラリャクは戦争犯罪人ではない。私はこの法廷の判決を拒絶する」と叫び、小さいビンに入っていた液体をあおいだ。席に座り「私は毒を飲んだ」と発言。裁判長がただちに審理を中断し、被告は救急車で病院に運ばれたが、間もなく死亡した。

オランダ検察庁の報道官は、ビンから致死的な毒物の痕跡が発見されたが、まだ具体的にどのような毒物だったか発表できないとAFP通信に話した。

捜査当局は、厳しい警備の敷かれている法廷に被告がどのようにして毒物を持ち込んだか、調べている。

ボスニア紛争の元セルビア人勢力指導者で、大量虐殺などで有罪判決を受けたラドバン・カラジッチ受刑者の代理人、ピーター・ロビンソン弁護士はBBCに対して、誰がどのようにして被告人に毒を渡したのか理解できないと述べた。

「私たちが勾留されている被告に接見する際には、2度にわたりセキュリティチェックを受け、金属探知機を通過する。飲み物は持ち込めない。ペットボトルの水だろうがコーラだろうが。法廷に入る前に、全て調べられる」

「(プラリャク被告を)見たのは、私たちの隣の部屋に家族といる時だけだった。家族が来ている時は、面会室はプライベートな空間になる。守衛は中に入らず、外で待機している。また特別許可を得て、自分が指定する医師と会うこともできる」

ハーグで取材するBBCのアナ・フーリガン記者は、被告が車両でICTY留置所から法廷に移送されたはずだと指摘する。留置場と法廷は車で約10分。入廷前に身体検査をされたとしても、小さなビンを薬などとして手渡された可能性はあると話す。

オランダ司法当局の刑務所の中にあるICTY留置所では、収容者の部屋に鍵がかけられるのは夜間のみ。日中は部屋を出て、他の収容者と交わることができる。外部からの訪問には通常、監視がつくが、家族だけで過ごすことができる部屋もある。

国連安全保障理事会決議によって1993年に設置されたICTYは今年の終わりをもって業務を終了する。29日の判決言い渡しが最後の公判だった。

ボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアの各地では、ろうそくや黙祷(もくとう)で、プラリャク被告を追悼。クロアチア議会も1分間の黙祷を捧げた。

ユーゴスラビア紛争での行動で訴追された被告が自殺するのは、これが初めてではない。1998年には、クロアチア紛争における戦争犯罪を問われたクロアチア人のスラブコ・ドクマノビッチ被告が留置所で首をつって自殺。2006年にもクロアチア人のセルブ・ミラン・バビッチ被告が留置所で自殺している。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、クロアチア人とイスラム教徒はセルビア人に対しては共闘したものの、11カ月にわたりお互いとも戦い、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部のモスタルでは特に激しい戦闘が続いた。

プラリャク被告は1970年代から1980年代にかけては、哲学や社会学の教師で、演劇の演出家、テレビ・ドキュメンタリーのプロデューサーなどを務めていた。冷戦終結によってユーゴスラビア紛争が起きると、クロアチア軍に参加。1993年にはHVOの司令官になる。紛争終結後は実業家になるものの、紛争中の人道に対する罪を問われ、2004年にICTYに出頭。この時は仮釈放されるが、2012年に再び収監された。

HVO司令官だったプラリャク被告は、人道に対する罪で有罪となっていた。ICTYは、1993年夏にHVOの兵士たちがクロアチア・プロゾールのイスラム教徒を次々と拘束していると知りながら、やめさせる措置を取らなかったと認定した。

ICTYはさらに、国際組織関係者の殺害やモスタル市内のスタリモスト(古い橋)やモスク破壊が計画されていると被告が知りながら、防止策を取らなかったとして、有罪を言い渡している。

モスタルではプラリャク被告の追悼集会が開かれた(29日) Image copyright Reuters
Image caption モスタルではプラリャク被告の追悼集会が開かれた(29日)

クロアチアのアンドレイ・プレンコビッチ首相は、プラリャク被告の死亡は遺憾だとコメントした。

「私たち全員が本日、残念ながら目撃した行為は、起訴されたボスニア出身のクロアチア人6人とクロアチア国民に対する、実に深刻な道義上の不正義を物語っている。政府はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で行われた全ての犯罪の全ての被害者に、追悼の意を示す。そして、判決について不満と遺憾の意を示す」

一方で、クロアチアのコリンダ・グラバル=キタロヴィッチ大統領はテレビで、自分たちの同胞のなかにはボスニアで犯罪を犯した者もいると、クロアチア人は認める必要があると促した。

ボスニア・ヘルツェゴビナでは、3つの主要民族を代表する3名の大統領評議会議長のうち、ドラガン・チョービッチ議員(クロアチア系)が被告の自殺について、自分が戦争犯罪人ではないと示すため「どれほどの犠牲を払う覚悟だったか」示す行為だと述べた。

ロイター通信によると、内戦中に激しい戦闘の舞台となった南部モスタルでは29日夜、中央広場に約1000人のクロアチア系住民が集まり、プラリャク被告を追悼するろうそくを灯した。カトリック教会で開かれた追悼ミサは、クロアチアの旗をまとった参列者であふれたという。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を当時、現地取材したBBCのジェレミー・ボーウェン記者は、モスタルを含めボスニア・ヘルツェゴビナ全土は未だに民族によって分裂していると話す。

ボーウェン記者は、内戦被害者のうち数千人がICTYで証言しており、その判決によって一定の法の裁きと正義を獲得することができたと指摘。ナチス・ドイツ以来、欧州では最悪の戦争犯罪人を次々と処罰したICTYの業績が、プラリャク被告の自殺によってかすんでしまうようなことがあってはならないと、ボーウェン記者は強調する。

(英語記事 Slobodan Praljak suicide: Dutch police find lethal chemical in vial

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