小説「記憶のたわむれ」⑤

 

 

 店の正面まで来た。もう迷いはなかった。俺は硝子の引き戸に指をかけ、その覚えのある重みを──ゆっくりと横へすべらした。

 甘い菓子の匂いとともに、クレヨンをぶちまけた色彩が魚眼レンズを覗いたみたいに目に飛び込んできた。なにもかもが変わってなかった。ほんとに、なにもかもがだよ。

 奥の隅に──おばちゃんがいた。

 昔とおなじ丸椅子に腰かけてた。えび茶色の和服の上に白い割烹着をつけてた。記憶にあるそのままの姿だよ。すこしだけ、小さくなったような気はした。

 目が合った。こだわりのない表情だった。これもそのままだ。痛みに似た懐かしさが胸に拡がった。俺だってわかってはいなかった。俺は考えてきた取材うんぬんの話を早口にしゃべった。おばちゃんは、ええよ、ゆっくり見ていってや、もう子どももんやろうしね、と言った。声も記憶しているものとまったく同じだった。自分の頬がゆるんでいくのがわかった。たぶん、何年かぶりに浮かべることができた安心しきった微笑みさ。

 俺は店のなかをゆっくりと歩いた。視線を動かすたびに胸の奥がくすぐったくなったり、切なくなったりした。ほとんど息苦しいほどになってきたりもして、呼吸の回数を意識して増やさなければならないほどだった。ほんとに──ほんとに昔と何からなにまで変わってないんだよ。俺はまだ小学生で、学校の帰りに今日もおばちゃんの店に立ち寄ったんじゃないかって、そんな錯覚を起こしたほどさ」

 八代は知ってるかな──藤堂さんはそう言うと、今も駄菓子屋のなかにいるかのように、焦点のあまい目をさ迷わせた。

「たこせんべいや、ベビースターラーメンを。ラムネにポン菓子、やまとの味カレーなんてのもあった。それにあと、チョコバットな。みんなうまかった。おもちゃも昔のまんまだ。ベーゴマにメンコ、スーパーカー消しゴム、組み立てて飛ばすソフトグライダー、こども銀行のお金、水風船、スーパーボールに竹とんぼ、水につけとくとちっちゃな怪獣が二十倍くらいに大きくなった〝恐竜のタマゴ〟。あと── なんでだか好きだったのが── 糊みたいなのを人差し指の先につけて、親指をくっつけたり離したりすると煙が立ちのぼった〝妖怪けむり〟な。──みんなまだあるんだ。まったくあのころのままなんだよ。

 俺はわれを忘れてノスタルジックな空間をただよってた。地面から足の裏が何センチか浮いてるような感じだった。視界はどこかしら赤っぽかった。朱色に近いような赤さだった。

 懐かしいものが次から次へと出てきた。仮面ライダーやウルトラマンのお面、色取り取りのビー玉、おはじき、手品グッズに軍人将棋、超合金のロボット──。

 うす明るい光を朱色の幕ごしに見ているような──心だけがそこをふわふわと浮遊しているような──そんな感じでもあったな。

 ──ふと腕をあげて時計を見てみると、もう一時間ちかくが経ってた。信じられなかった。おばちゃんの声がした。どうです、取材になりましたか。とても、と俺はふり返って言った。とてもいい取材ができました。

 おばちゃんの笑顔も大きくなった。ぱっと花が咲いたみたいだった。丈夫そうな歯が見えた。来てよかったと心から思った。おばちゃんと再会できて本当によかった。俺はいくつかお菓子を買い、おばちゃんの手で半透明のビニール袋に入れてもらった。おばちゃんの手でお釣りをもらった。天井の黄色みがかった明かりにチョコバットやポン菓子がやわらかく光ってた。俺は礼を言って帰ろうとした。おばさんいつまでも元気でいてください、ってその目を見つめた。おおきに、っておばちゃんもお辞儀をした。名残り惜しかったけど──俺はもういちど頭を下げ、出て行こうとした。

 そうしたら──ちょっと待ってっておばちゃんが言ったんだ。丸椅子から立ちあがり、和服の背なかを向け、住居になっている奥のほうへ行ってしまった。俺はよくわからないまま、その場に突っ立ってた。おばちゃんはすぐに戻ってきた。胸のところになにか黒いものを持ってた。最初、それがなんなのかわからなかった。

 わかったとき──体を電気が走った。足の裏から突き上がり、頭の先から抜けてった。店のなかの色彩が消えて真っ白になった。なにもかもが真っ白になった。そしてまたゆっくりと、かたちと色みが戻ってきた。

 呆然となった。思考はまだ戻らなかった。手に持っていたビニール袋はいつの間にか三和土たたきに落ちていた。おばちゃんの笑みがこちらへ歩いてきた。おばちゃんは腕を思いきり伸ばし、背伸びもして──俺の頭に── 

 巨人の野球帽をのせた。

 あぁ、もっと拡げんとかぶれへんな、っておばちゃんはつぶやいた。帽子をいったん取って、うつむき、帽子の後ろのベルトをたどたどしい手つきで調節した。そしてまた背伸びをし、かぶらせようとした。こんどは俺も膝を曲げて背を低くした。

 まだ少しきつかったけど、帽子は俺の頭にのっかった。おばちゃんは慈愛に満ちたまなざしで俺の顔を見上げてた。黒目が微妙に大きくなったり小さくなったりを繰り返してるように見えた。笑みのかたちのままの唇が動いた。目がまぶしげに細められた。ほんまに立派になったなぁ。よう来てくれたなぁ。

 俺はその場に立ちつくしたまま、全身から力が抜けてった。おばちゃんの顔が見る見る涙でぼやけ、鼻の奥が生温くなった。俺は泣くのか笑うのか自分でもわからなくなったまま頬をふるわせた。腕を伸ばしてた。前かがみになって左右の手をひろげてた。おばちゃんの体に両腕をまわしてた。おばちゃんも引き寄せるように抱きかえしてくれた。頬と頬がくっついた。おばちゃんの体はやわらかく、お菓子の匂いがした。

 おばちゃんごめんな、あのときごめんな、って俺は小学生みたいな声で繰り返してた。おばちゃんもきつく目を閉じ、頬をふるわせてるのが伝わってきた。一言も言葉を発さず、俺の背なかをせわしなくなでつづけてた。その手の動きとともに、胸のなかいっぱいに、とてつもなく温かなものが拡がっていった。涙が頬をつたってる感触があった。自分の涙なのかおばちゃんの涙なのかもわからなかった。実の母親に抱かれてるみたいだった。俺のすべてがゆるされていくようだった。故郷そのものに抱かれてるみたいだった。俺はこの街を愛してて、この街も俺を愛してくれてたんだって、なぜだかそんな気がした──」

 藤堂さんはそこで話をやめ、沈黙した。僕も黙っていた。ピアノ曲はもう鳴っていなかった。なんの物音も聞こえなかった。十数年ぶりに訪れた藤堂さんを、おばさんが覚えていたというところがこの話の不思議なところなのだろう。巨人の野球帽をいまだに持っていたところと──。もちろんとくに怖い話ではない。だけど帽子を藤堂さんにかぶせる場面はやはりいい。聞けてよかった。話を聞かせてもらえてよかったと僕は心から思った。

「それでその日──俺は感激したまま、駄菓子屋をあとにしたんだ。誰のだかわからない涙でぐちゃぐちゃになった顔のまんまでな」

 藤堂さんは照れたような語調になってまた口を開いた。話はまだ終わっていないようだった。

「翌日の──京都を離れる日──俺はもういちどおばちゃんの店に立ち寄ることにした。好きだった蕎麦ぼうろを持ってな。フリーのライターというのはうそで、児童劇団の営業をやっていることなんかもちゃんと話そうと思った。本当にやりたい仕事を、いまも模索していることも──。

 よく晴れた、光のきれいな午後だったよ。俺は帰り支度をし、スーツを着、髭も剃って、船岡山のほうに向かった。

 おばちゃんの駄菓子屋はなかった」

 ──僕は意味が飲み込めず、藤堂さんの顔を見た。

「駄菓子屋が、なかった?」
 
 

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 「記憶のたわむれ」⑥ へ つづく

 

 

 

 




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