「私は戦争犯罪人ではない」 国際戦犯法廷で服毒自殺
オランダ・ハーグで29日、国連旧ユーゴスラビア国際刑事法廷(ICTY)の上訴審判決の言い渡し中に、被告が毒を飲み、間もなく死亡した。
死亡したのは、1990年代のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、クロアチア人勢力の幹部だったスロボダン・プラリャク被告(72)。自分に対する禁錮20年の量刑が維持されたのを聞き、自分は戦争犯罪人ではないと叫び、ビンに入っていた液体をあおいだ。
「私は毒を飲んだ」と被告は言い、カルメル・アギウス判事はただちに審理を中断。救急車が呼ばれた。
判事は「中断します。カーテンを。何かを飲んだそのビンを持ち出さないように」と指示した。
被告は後に、病院で死亡。ICTYは、法廷が「事件現場」になったと発表した。
プラリャク被告は1992年~1995年のボスニア紛争中にモスタル市で起きた戦争犯罪について、2013年に有罪判決を受けていた。
この日は、被告を含めてクロアチア人警察や部隊の指導者を務めたボスニア内戦中のクロアチア防衛評議会(HVO)幹部6人が、上訴審判決の言い渡しを受けていた。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、クロアチア人とイスラム教徒はセルビア人に対しては共闘したものの、11カ月にわたりお互いとも戦い、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部のモスタルでは特に激しい戦闘が続いた。
プラリャク被告は1970年代から1980年代にかけては、哲学や社会学の教師で、演劇の演出家、テレビ・ドキュメンタリーのプロデューサーなどを務めていた。冷戦終結によってユーゴスラビア紛争が起きると、クロアチア軍に参加。1993年にはHVOの司令官になる。紛争終結後は実業家になるものの、紛争中の人道に対する罪を問われ、2004年にICTYに出頭。この時は仮釈放されるが、2012年に再び収監された。
HVO司令官だったプラリャク被告は、人道に対する罪で有罪となっていた。ICTYは、1993年夏にHVOの兵士たちがクロアチア・プロゾールのイスラム教徒を次々と拘束していると知りながら、やめさせる措置を取らなかったと認定した。
ICTYはさらに、国際組織関係者の殺害やモスタル市内のスタリモスト(古い橋)やモスク破壊が計画されていると被告が知りながら、防止策をとらなかったとして、有罪を言い渡している。
クロアチアのアンドレイ・プレンコビッチ首相は、プラリャク被告の死亡は遺憾だとコメントした。
「私たち全員が本日、残念ながら目撃した行為は、起訴されたボスニア出身のクロアチア人6人とクロアチア国民に対する、実に深刻な道義上の不正義を物語っている。政府はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で行われた全ての犯罪の全ての被害者に、追悼の意を示す。そして、判決について不満と遺憾の意を示す」
プラリャク被告を担当するナターシャ・ガボー・イワノビッチ弁護士はBBCに、ICTYは被告を公平に扱わなかったと述べた。
「いったい何が起きたのか、どのように起きたのか、私はまったく分からない。しかし私にとってとても重要、もっと重要なのは、彼がなぜあのようなことをしたかという、その部分だ」
イワノビッチ弁護士は、プラリャク被告が毒を飲んだのは、自分の無実を確信していたからだと思うと述べた。同弁護士は、被告がそう思うのも無理はないことで、国際法廷は「個人の責任を裁くだけでなく、民族や国家や歴史そのものを裁こうとしてている」と指摘。「この国の人たちにとって、それはとても受け入れがたいことで、実際、受け入れられないことだ」と説明した。
(英語記事 Praljak: Bosnian Croat war criminal dies after taking poison in court)