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21990年代、オルタナティブの始まりと終わり

レーベル担当者が見た「生身のカート・コバーン」。90年代最大のアイコン=ニルヴァーナを日本はどんな風に受け止めたのか?

ARTS & SCIENCE
コントリビューター小林 祥晴
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Nirvana(ニルヴァーナ)が1991年9月に送り出したメジャー・デビュー・アルバム「Nevermind(ネヴァーマインド)」は、音楽シーンに大きな揺さぶりをかけ、時代を塗り替えた。それは90年代前半のグランジ/オルタナティブ勃興の引き金を引いだだけではなく、「スター・システムの否定」という90年代以降の基調モードを決定づけるものだった。当時のシーンへのインパクト、後世への影響力の大きさ、ポピュラリティ、そのどれをとってもニルヴァーナが90年代最大のアイコンであることに疑問を差し挟む余地はない。

しかし、『ネヴァーマインド』のリリースから25年余り。そしてカート・コバーンの急逝から20年以上。皮肉なことだが、その影響力の大きさ故にニルヴァーナとカート・コバーンは忌み嫌ったスター・システムに飲み込まれ、今や完全にアイコン化した。世界中のファスト・ファッションの店や観光地の土産物屋には、彼らの写真やバンド・ロゴがプリントされたTシャツが溢れている。ボブ・マーリーの顔は知っているが、その音楽やメッセージは知らない。それと同じような形骸化がニルヴァーナにも起こっている。

だからこそ我々は、今一度ニルヴァーナとカート・コバーンの実像にせまることにした。記号としてのニルヴァーナではなく、その生身の姿、そして彼らが登場した当時の日本でのリアルな反応をドキュメントしておくこと。それがニルヴァーナという大きな遺産を後世に正しく伝えるために必要な作業だろう。

そこで我々が話をきくことにしたのは、日本のレコード会社で『ネヴァーマインド』以降のニルヴァーナ担当ディレクターだった安田秀明だ。日本でもっとも近い場所からニルヴァーナを見続けてきた彼だからこそ語れる言葉が、このインタビューには詰まっている。

ライター:小林祥晴

時はヘア・メタル全盛、海外のレーベルもノーマークだった『ネヴァーマインド』

(田中宗一郎)──ニルヴァーナの「ネヴァーマインド」がリリースされてから25年以上。その間に、Kurt Cobain(カート・コバーン)は良くも悪くも神格化されてきました。しかし、その実像はどうだったのか。当時、日本でニルヴァーナはどのように需要されていたのか。そういったことを紐解くために、日本のレコード会社で「ネヴァーマインド」以降のニルヴァーナをご担当されていた安田さんに、ニルヴァーナやその周りの状況についてお話を伺えればと思います。

安田秀明(以下、安田):よろしくお願いします。

──当時、安田さんは「Geffen Records(ゲフィン・レコード、以下、ゲフィン)」というレーベルのご担当でしたね。〈ゲフィン〉は80年代半ばから後半は、いわゆるヘア・メタル、ハード・ロックのレーベルでした。Aerosmith(エアロスミス)がいて、Guns N' Roses、(ガンズ・アンド・ローゼズ、以下、ガンズ)がいて、イギリス出身だけどLed Zeppelin(レッド・ツェッペリン)の真似をしてアメリカでブレイクしたWhitesnake(ホワイト・スネイクがいて。

安田:そうですね。ロック・オリエンテッドなレーベルで。あとは、〈ゲフィン〉を作ったDavid Geffen (デビッド・ゲフィン)という人が以前やっていたThe Asylum(アサイラム)から流れてきた人たちもいましたね。

──では、そういったラインナップのレーベルである〈ゲフィン〉の担当者として、91年前半はどういったアーティストをご担当されていたんですか?

安田:Cher(シェール)のアルバム「Love Hurts(ラヴ・ハーツ)」をやったりとか、90年から引きずっていたNelson(ネルソン)の「After The Rain(アフター・ザ・レイン)」だったり、The Band(ザ・バンド)のRobbie Robertson(ロビー・ロバートソン)のソロ「Storyville(ストーリーヴィル)」をやったりとか。でも、91年前半にガンズの新譜「Use Your Illusion II(ユーズ・ユア・イリュージョンI, II)」が出るっていう話があったので、ネルソンやロビー・ロバートソンのプロモーション来日をやりながら、「ガンズの新譜はいつ出るんだ?」っていう。

──結局、ガンズの『ユーズ・ユア・イリュージョンI, II』が出たのは91年9月17日。ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』が出たのは91年9月24日です。つまり、ガンズとニルヴァーナは一週間しかリリース日が違わなかったということですよね?

安田:アメリカではそうです。ただ自分は両方やっていて、とにかくガンズに集中しなくてはいけないということで、『ネヴァーマインド』の日本発売を三週間くらいズラしたんですよ。当時『ネヴァーマインド』は全然ノーマークでしたから、焦って出す必要もありませんでしたし。

──当時、海外の本社から、ニルヴァーナというバンドをどういう風にプロモーションしていくんだ、という連絡はあったんですか?

安田:いや、全然ないです。大体プロモーション・キットっていう宣材が海外から届くんですけど、エスタブリッシュされたアーティストの場合はいろいろと豪華な作りで、新人の場合はカセットテープ1本とプレスリリース1枚、それにモノクロのアーティスト写真が1、2枚ついてくるという程度でした。

──ニルヴァーナもそれくらいシンプルでした?

安田:ニルヴァーナの場合は、『Smells Like Teen Spirit(スメルズ・ライク・ティーン・スピリット)』のカセットとプレスリリース1枚、後は路地に三人が立っているモノクロの写真1枚、という感じでしたね。

──では、たいしたアナウンスもなく、「やるぞ」と。

安田:いや、「やるぞ」もないですね。全然何もない。いきなりポンッと来るんですよ。年間のリリース・スケジュールというものがありますから、そのなかにニルヴァーナというものが入っていたんですけど、「これ、何だろうね?」みたいな感じで。そう思っていると、いきなり届くんですよ。

──ガンズに全力で取り掛からないといけないタイミングで、『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』1曲のカセットがポンッと来た。それを聴いて、安田さんはどのような感想を持たれましたか?

安田:正直、ちょっと厳しいかなと思いましたね。当時はヘア・メタル全盛で、コンサートをやったらスタジアムだ、っていうのがドンドン来てて。そんな時に、薄汚ーい感じのが(笑)。

Video: NirvanaVEVO/YouTube

安田:今でもそうかもしれないですけど、当時の日本のハード・ロックは伊藤政則さんと『BURRN!』が中心になっていて。

──『BURRN!』が15万部くらい部数があった時代ですね。

安田:ニルヴァーナというバンドがヘビーなロックだとなったときに、そういうところに持っていくと、どんな反応が返ってくるかな?とイメージするわけですよ。でも、たぶん厳しいんだろうなと。

──実際にヘヴィ・メタル界隈には積極的なプロモーションはされなかったんですか?

安田:いや、でも『BURRN!』編集部の一編集部員から、「安田さんのところからニルヴァーナの新譜が出るんですよね?」っていうコンタクトがあったんです。そういう人と話をしようというのはありましたね。

──なるほど。

安田:で、活字媒体でいえば、当時はまず『クロスビート』だろうなと。

──当時の『クロスビート』は特にどういうアーティストを積極的にサポートしていた印象でしたか?

安田:Sonic Youth(ソニック・ユース)がメジャーに来た頃なんですよね。まだそこまでゴリ押しではありませんでしたけど。

──ソニック・ユースが〈ゲフィン〉移籍作の『Goo(グー)』を出したのが90年でしたね。

『Sonic Youth - Kool Thing』
Video: SonicYouthVEVO/YouTube

──『ロッキング・オン』は、その頃、The Stone Roses(ストーン・ローゼズ)がいましたし。

安田:Lenny Kravitz(レニー・クラヴィッツ)とかもやっていましたよね?

──やってました。イギリスのマッドチェスター界隈、レニー・クラヴィッツ、まだ元気だったプリンスとかですね。それでいうと、ソニック・ユースの流れがあるから『クロスビート』だろう、っていう安田さんの見立てだったわけですね?

安田:そうですね。あと、プレスリリースにメタリカのラーズ・ウルリッヒが「ニルヴァーナがヤバい」みたいなことを言っているのが載っていたんですよ。だから、そっちの路線も行けるかなと思いました。

── かなり手探りだけど、その辺りも突いてみようと。で、当時の日本盤の帯文が出来上がったわけですね。

安田:反則技のね(笑)。

──読者向けに説明しておくと、一般的に宣伝をする時に自社以外のアーティスト名は使わないんですよ。例えば、The Beatles(ザ・ビートルズ)は〈EMI/キャピトル〉が権利を持っているので、ほかのレーベルが「ビートルズを凌ぐ!」みたいなことを書いちゃいけないんですよね?

安田:いけないっていう明確なルール規定があるわけじゃないんですけど、不文律みたいな感じではあって。使いたい場合は、仁義として相手のメーカーに一言入れておく、っていうことでしたね。

──当時は何てコピーライティングをされていたんでしたっけ?

安田:それ、どこかで調べて(笑)。

──いやいや(笑)、覚えていらっしゃいますよね?

安田:すんごい恥ずかしいね(笑)……(小声で)「メタリカもソニック・ユースも一押しだ」みたいな。ディティールは忘れましたけど。(正確には「ソニック・ユースもダイナソーJr.もメタリカまでも一押し!噂は本当だった!!」)

──(笑)。

安田:アンダーグラウンドからメジャーに上がってきた代表選手を、ゴリゴリのメタル界の神みたいな存在が褒めてるんだから、「これはちょっとイケるんじゃないか?」っていうのもありましたけど……まあ、でもねえ、現実は厳しかったですね。

91年当時、日本の主要音楽雑誌は『ネヴァーマインド』をどう受け止めたか?

──当時のラジオや紙媒体にプロモーションをかけた時は、具体的にどのようなアプローチをしたか覚えていらっしゃいますか?

安田: 覚えていますよ。でも、初期段階ではラジオは考えていませんでした。とにかく音楽専門誌、その主要三誌にまず行こうと。先ほども言いましたが、引っかかってくれるのは『クロスビート』かな? という感じで。

──『クロスビート』はどういうリアクションだったんですか?

安田:すごくよかったですね。「安田さん、やりましょうよ、これ!」って。三番目に行ったんですけどね。

──(笑)一番目はどの媒体に行ったんですか?

安田:一番目は確か「R社」だった気がしますね(『rockin'on(ロッキング・オン)』)。

──あ、僕が音楽業界で最初にお世話になった会社ですね(笑)。そこはどうだったんですか?

安田:いや、もう、厳しかったですね。

──91年の8月くらいですよね? 僕はもう入社していました。当時は一年生です。

安田:編集長の増井修さんにアポを取って行きましたよ。『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』を持ってね。そしたら、「安田さん、すみません~! 俺、他に用事が入っちゃったんで、申し訳ないですけど副編集長の斎藤(まこと)に聴かせるんで、お願いします。おい、さいとぉ~!」って。

──目に浮かびますね(笑)。

安田:「これ、ちょっと聴いておいて!」って言って、カセットをポーンッと放り投げて(笑)。で、ブースに入って、カセットデッキで一緒に聴いたんです。「どうですかね?」って訊いたら、「……普通っすねぇ」って(笑)。

──ハハハッ!

安田:「ああ、普通ですかね。どうですかね? 紙面でちょっと……」って訊いたら、「まあ~、やってもモノクロ2ページですかね。ところで、広告は?」って(笑)。

──(笑)。

安田:「まだ新人で予算を掛けられるかわからないので、検討させていただきます」って持ち帰ったんですけど。

──『BURRN!』はどうだったんですか?

安田:さっきも言ったように、『BURRN!』は向こうから「ニルヴァーナ出すんですよね?」って訊いてくれた編集部員がいたんですけど、雑誌が雑誌なので、ここはゴリゴリ勝負するところではないなと。でも、乗ってくれる編集部員が2人いたんで、結果的にはやってもらえました。モノクロ2ページでしたね。

──『クロスビート』の反応はとてもよかったと。

安田:『クロスビート』は、当時の編集長の森田(敏文)さんも副編集長の大谷(英之)くんも、「安田さん、これ、行きましょうよ!」って言ってくれて。でも、彼らは『BLEACH(ブリーチ)』の存在を知っていた風ではなかったです。

『Nirvana - About A Girl (Live)』
Video: Nirvana VEVO/YouTube

──まだ日本では『ブリーチ』はおろか、ニルヴァーナの存在も知らない人が大半でしたよね。

安田:僕がコンタクトを取った人間で、既に『ブリーチ』を知っていてヤバいと騒いでいたのは『BURRN!』の平野(和祥)さんだけで。彼は「『ブリーチ』も持ってます。これは絶対に来ますよ」って。

──当時まだ日本にはオルタナティブっていう言葉は伝わっていなかったですし、グランジっていう言葉も伝わっていなかった。

安田:なかったですね。

──シアトルにニルヴァーナがいて、パール・ジャム、サウンドガーデンがいて、以下10バンド、20バンドいる、っていうことが意識されるのは、日本だともう少し時間がかかりましたよね。

安田:アメリカのミュージック・ビジネス界ではあったんですよね。シアトルがキテるかも、っていう感じが。

──それは『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』や『ネヴァーマインド』の前後で既にあったんですか?

安田:後から聞いたんですけど、たぶんあったんだと思います。でも、さっきも言ったように、「シアトルのシーンが完全に出来上がっていて、ニルヴァーナもレーベルがSub Pop(サブ・ポップ)だから、絶対間違いない。お前ら、ちゃんとやれ」っていうプレッシャーは海外のレーベルからは全然なかったです。

──ニルヴァーナやソニック・ユースよりも先にDinosaur Jr.(ダイナソーJr.)がすごく人気があったんですよ。その流れから『ロッキング・オン』の中では「殺伐ロック」っていうコピーっていうか、文脈があったのを覚えてます。

安田:この前のJ-Waveの番組にゲストで出させてもらった時にも誰か言っていましたね。ニルヴァーナは『ロッキング・オン』のレビューで、「殺伐~」みたいに書かれていたんじゃないですかね? みたいに言われて(1992年1月号のインタビューのキャッチは「全米チャート席巻中の殺伐新世代」)。あの「殺伐」っていうコピーは誰がつけたんですか?

──岩見吉朗さんだと思いますね、たしか。当時の〈ロッキング・オン〉で一番人気があった書き手が岩見吉朗さんで、彼の人気を支えたバンドがダイナソーJr.とManic Street Preachers(マニックス・ストリート・プリチャーズ)。 でも、彼だけじゃなく、編集長の増井さんや山崎洋一郎さんも、殺伐ロックっていう文脈には大ノリだった記憶があります。

安田:ああ、なるほど。

──ただ、ダイナソーJr.もその周辺のカルチャー全体と一緒に伝わって来たわけではなくて、ピンポイントで伝わっちゃったんですよ。言い方は悪いですけど、ビッグ・イン・ジャパンみたいなことになってしまった。で、ニルヴァーナはそこともクロスオーバーしますけど、また文脈もあったじゃないですか。でも、「殺伐系」ということで、同じところに乗せられた感じはあったと思います。

安田:なるほどね。

──最初は安田さんもニルヴァーナをどう扱っていいかわからない状態でしたし、メディアの反応も様々だった。でも、アメリカではどんどんチャートを駆けあがっていったわけですよね?(アメリカでの初週売上は6000枚で144位。リリースから3ヶ月以上経った1992年1月11付けのチャートで遂に1位を獲得。)それで周囲の反応に変化はありましたか?

安田: MTVでヘビー・ローテーションになったりして、9月の発売前後の頃からアメリカでは「これはヤバい」っていう空気になってきたんです。そこからですよね。「おい、ニルヴァーナはどうなってるんだ?」って海外からプレッシャーを掛けられるようになったのは。

──92年の年明け頃には、日本国内のマーケットでもニルヴァーナはしっかりと認知されるようになっていました?

安田:しっかりでもないですけど、一部の専門誌では。あと、早かったのは伊藤政則さんなんですよね。

──ああ、流石ですね。

安田:流石ですよ、あの人は。まず(メタリカの)ラーズが騒いでるっていうことでアンテナを張ったんです。それから海外でキテるっていう情報をいち早くキャッチして、毎週ラジオで掛けていましたね。ラジオではあの人しか掛けていなかったくらい。

──ロッキング・オン内では、「お前ら、ニルヴァーナどうするんだ?」って言いだしたのは渋谷陽一さんなんですよ。今でも覚えていますけど、渋谷さんが社長室から出てきて、「これ、すごく売れてるぞ! お前らどうするんだ!」って怒ったら、「モノクロ2ページでやっちゃいました、ハハハハ~ッ」って増井さんが笑う、みたいな(笑)。それが91年の終わりくらいですね。

安田:その後、増井さんから電話が掛かってきたんですよ。「安田さん、ニルヴァーナやりますか!」って(笑)。

── (笑)安田さんからすれば、やりますかじゃないだろう、っていう 。

安田:「とりあえず4ページ取りましたんで、インタビューお願いします!」って(笑)。

一生忘れられないカート・コバーンの強烈な眼光

安田:状況がかなり動き出したので、91年11月のイギリス・ツアーに行ってきたんですよ。それに同行したのがBURRN!の増田勇一。

──イギリスのどこで観たんですか?

安田:場所は忘れちゃいましたね。田舎の大学の学食でやっているようなコンサートでしたけど。前座が少年ナイフでした。

──キャパは1,000人くらいですか?

安田:1,000人いかないですね。たぶん300人くらいだったと思います。

──まだ300人ですか? 当時のライブを観ての感想は如何でした?

安田:正直、これがウケるんだ、っていう感じでした。楽屋でカートのインタビューをしたんですけど、怖かったですね。

──それが初対面ですか?

安田:初対面です。楽屋に増田勇一と2人で入って、隅の方に座って待っていたんですよ。僕らが日本から来てることは知っているはずなんです。でも、向こうの方にいるカートは、こっちのことなんか全然視界に入ってません、みたいな素振りで。

──ほかの2人はどうでした?

安田:ベースのKrist Novoselic(クリス・ノヴォセリック)は「日本から来たんだ、よく来たね」みたいな感じで、普通に会話しました。ドラムのDave Grohl(デイヴ・グロール)は「何か飲む? コーラ? コーヒー?」って、やたら愛想がよくて(笑)。

──変わらないなあ、デイヴは(笑)。

安田:でも、カートだけは全然で。存在すらも消されている感じでしたね。で、いざインタビューをやるとなった時には、顔を近くに寄せてギロッと見られて。あの目力は一生忘れられないですね。

──安田さんはインタビュー後に本人たちと話したりしなかったんですか?

安田:いや、全然。余計な会話はしなかったですね。ライブ前の取材だったので、こちらとしても申し訳ない気持ちだったんですよ。

──ああ、なるほど。安田さんはその時も含め、ニルヴァーナのメンバーやカート・コバーンには何回会ってらっしゃるんですか?

安田:そのイギリスの時と来日した時の2回ですね。「In Utero(イン・ユーテロ)」の時は取材に行きませんでしたから。

──「イン・ユーテロ」のときは、そもそも取材ができるのかできないのか、そんな空気感でしたよね。

安田:ええ。でも結局、ちゃんとやってくれましたけどね。

91年末の凄まじい上昇曲線と、その歪みがカートにもたらしたもの

── ニルヴァーナの来日は92年2月。ということは、来日自体は91年のうちに決まっていたってことですよね?

安田:そう思います。91年12月売りのBURRN!で記事が出たときは、来日が決まっていた気がしますから。

──そのタイミングで来日が決まっていたということは、「ネヴァーマインド」がリリースされてから2、3ヶ月での上昇曲線が凄まじかったということですよね。

安田:凄まじかったですね。イギリス含めヨーロッパができあがり、アメリカができあがり、「で、日本どうなってるんだ?」って毎日のようにガンガン言われて(笑)。「頑張ります、頑張ります」って言って、少し遅れてだんだん盛りあがってきたんですよね。9月末に出して、ガーッときたのは11月くらい。それでも海外の状況には全然追いつかず。

──海外の勢いはとんでもなかったですからね。

安田:世界における日本の洋楽のシェアって、僕らの当時の目安で言うと15%くらいだったんです。ビッグ・イン・ジャパンみたいに言われるアーティストになると20パーセントを超える作品もあったり。でもたしか、ニルヴァーナって、5パーセントくらいだったんですよ。

──91年末のタイミングで、っていうことですよね?

安田:そう。来日も決まって、追加注文もたくさん来ていたんですけど、まだ世界の状況には全然追いつきませんでした。

──92年の日本ツアーは東名阪で、東京は中野サンプラザと川崎クラブ・チッタ。あれは奇麗にサッと売れたんですか?

安田:サッと売れたどころではなかったですね。当時のダフ屋レートの最高記録はストーン・ローゼズだったらしいんですけど、チッタ公演に至ってはそれを塗り替えたらしいですよ。最高で8万で買った人がいるっていう。

──では、来日までのプロモーションはそんなに打つ必要もなく?

安田:来日までのプロモーションは特になかったですけど、来日記念盤を出させてくれという話を〈ゲフィン〉にしたんですよ。そしたら、「ふざけるな、そんなものより『ネヴァーマインド』をとにかく売れ!」って(笑)。

──海外からしたら、日本のシェアが少ないのに何を言ってるんだと。

安田:もちろん「ネヴァーマインド」も売りますけど、日本の音楽ファンは来日記念盤が好きなんで出させてくださいっていう交渉をしていたら、「じゃあ、オーストラリアでツアーEPを出すから、日本でジャケットをオリジナルで作って出していいよ」っていうことになって。それが「Hormoaning(ホルモウニング)」なんですけど。

──あの一時は10万円以上のプレミア価格がついていたこともあるEPですね。

安田:来日記念盤を出せることになったけど、ジャケットどうしよう? ということになったんですよ。で、結局、「“スメルズ・ライク~”の12インチの裏側の水がユラユラなっているやつを使って、ニルヴァーナのロゴをボンッと置いておけばいいよ!」って(笑)。

──なるほど(笑)

安田:で、許可がおりて来日直前に発売しようとしたら、「ところでお前ら、あれって限定盤でやってるよね?」って言われて。「いえ、普通に出しますけど」って答えたら、「ふざけるな、馬鹿野郎!」って(笑)。

──ハハハハッ!(笑)

安田:それで大至急、限定盤にしたんですよ。初回が5万枚だったのかな?

──下手したら、「ネヴァーマインド」の初回の10倍くらいついたということですよね?

安田:いや、日本では「ネヴァーマインド」の初回は900何十枚です。だから、50倍以上ですね。

──オリジナル・アルバムが日本で1,000枚もいかなかったのに、わずか数ヶ月の間にいきなりイニシャルがつく状態にいってしまった。

安田:そうそう。しかも、その5万枚も速攻で売り切れて。未出荷のオーダーがどんどん溜まっていく状況でした。

──そんな状況だと、来日時のプロモーション稼働のリクエストもすごかったんじゃないですか?

安田:各方面からいただきましたね。音楽専門誌はもちろんそうですし、朝日新聞からもインタビューしたいといわれたくらいです。

──来日公演では、カートが 会場の川崎クラブ・ チッタの近くで買ったパジャマを着てステージにあがっていましたよね?

『Nirvana - Nakano Sunplaza, Tokyo, Japan 02/19/92』
Video: RareNirvana/YouTube

安田:あれは川崎のマルイで買ったんですよ。カートは着てる物がずっと一緒だったんです。寝るときも、部屋着も、ライブでステージに上がるときもずっと着替えない。たぶんコートニー・ラヴに、「流石にそれはマズいから、パジャマを買え」って言われたんじゃないですか。

──(笑)。

安田:で、あの頃、なぜかコートニーは「セーラー服を買いたい」と言っていて。

──コートニーはセーラー服が大好きでしたからね。

安田:そうなんですか? それでマルイに買いに行くことになったんです。招聘元のウドー音楽事務所さんからは、「迷子になると困るから一緒に行ってきて」と言われて。それでついていこうとしたら、コートニーに「あんたは来なくていいから」って(笑)。

──ハハハッ。

安田:でも、そういうわけにはいかないから、10メートルくらい離れたところから、自分もくっついて行ったんですよ。店員に「パジャマ売り場どこですかね?」って訊いて、遠くから小声で「あっち」って教えてあげたり(笑)。

──パジャマ以外にもカートは何か買っていました?

安田:カートはそのとき、水子とか胎児の人形みたいなのを探していて、雑貨屋も見ていました。なぜかそのときに見つけたフィンガー5のカードとかも買っていましたね。面白いなと思って見ていましたけど。

──イギリスで初めて会ったときと来日時に会ったときでは、安田さんとの距離感は少しは変わっていたんでしょうか?

安田:うーん、ほとんど変わっていないですけど、イギリスで会ったときはピリピリ感がマックスだった気がしますね。警戒感がすごくて。日本に来たら少し落ち着いていた気がするんですけど、後で考えてみると、コートニーがいたからじゃないかなと思うんですよね。

──ああ、なるほど。

安田:それでも、あんまり出てこない感じでしたけど。

──安田さんとしては、カートがそんなにディフェンシブだった理由は何だったと感じていましたか?

安田:それはもうメディアからの防御でしょうね。後は、自分たちから何かを搾取しに来る人たちからのディフェンス。それがありありと感じられました。有象無象が寄ってきますからね。

──でも、『ネヴァーマインド』がリリースされたのが91年11月じゃないですか? イギリスで会ったのもほぼ同時期で、来日したのが92年2月。どこかで、「あ、変な奴らが湧いてきたな」と察してシャッターを下ろすタイミングがあると思うんですけど、もう最初の時点から誰も信用出来ないということだったんでしょうか?

安田:すぐ下ろしてましたよね。周りのガーッて来るスピードも尋常じゃなかったですから。あれほどのスピードで盛り上がったのは他に見たことない気がしますけど、どうですか?

──流石にないですね。あの時代で言うと、日本では全然でしたけど、ギャングスタ・ラップのN.W.A.が凄まじい勢いで売れたというのはありましたけど、ロックのジャンルではないと思います。

安田:そうですよね。いわゆる一発屋的に盛り上がるアーティストはいましたけど、そうじゃないバンドであそこまで急激な右肩上がりのカーブは見たことなかったです。

──おっしゃる通りですね。

安田:ニルヴァーナに関しては、周りのシーンがまだそこまで盛り上がっている段階ではなかったじゃないですか。アンダーグラウンドでの下地は出来ていたんでしょうけど。

──ええ。

安田:自分が担当していたガンズを例に出すと、ドッケン、ラット、モトリー・クルーっていうLAメタルのシーンが完全に出来上がっているところにガンズが真打登場みたいな感じで出て来たわけですよ。で、ガンズが頂点になるんですけど、そこからシーンは下り坂で、終わりに向かっていくんですよね。

──ガンズが一抜けした状態になるわけですね。

安田:音楽に限らず、流行ってある程度出来上がっているところに、とどめの一発みたいのが出てきてガーンッと盛り上がる。でも、それはもう終わりの始まりだっていう。流行はある日突然始まるわけではなくて、それまでの目に見えない蓄積があるわけじゃないですか。

──そうですね。

安田:ニルヴァーナの場合は、もちろんシアトルとかアンダーグラウンドのシーンがあったと思うんですけど、あんまりシーンが出来上がってないうちにボンッと出てきちゃったのが、彼らが後に「ロックを変えた」と神格化される一因でもあるのかなと。それゆえに始まってしまった不幸もあるんじゃないかと思っていて。もう少し違う登場の仕方をしていたら、もう少し違う運命があったのかなと思いますね。

──カートがディフェンシブな態度を取っていたのは、彼自身の性格もあったと思うんですけど、同時にアンダーグラウンド気質が凄かったからというのもありますよね。

安田:ええ。

──あの時期はパール・ジャムやサウンドガーデンもいましたけど、彼らはガチガチにハードコアなパンク・メンタリティではなかった。

安田:全然ないですね。

──ほかの誰よりももっともアンダーグラウンドのカルチャーが好きで、パンク・メンタリティの中から出てきて、企業やメディアに不信感があるカート・コバーンという人が、不幸なことに一番急激な形で祭り上げられてしまったという。

安田:それはありますね。メンタリティとのギャップ、それと出現の仕方。他にもいろんな要素があったんでしょうけど、それが不幸な結果を生んでしまったのかもしれませんね。

──来日時にカートを直に会った時に、あんな結末を迎える予感というのは少しでも感じましたか?

安田:いや、全然なかったですね。「この人、大丈夫かな?」っていうヤバい感じは最初に会った時からありましたけど。

──アーティストというのは個性的な人が多いと思うんですけど、安田さんがご担当されたアーティストの中でも、カート・コバーンは何本指かに入るような特殊な人でしたか?

安田:いや、もう唯一でした。ほとんどのロック・ミュージシャンって、女の子にモテたいとか、チヤホヤされたいとか、大きなステージで演奏したいとか、そういう感じなんですけど、それとは真逆な人に見えましたね。なんでロック・ミュージシャンになっちゃったの? っていうタイプの人だったんで、ほかにそういう人はいなかったですよ。

来日時に垣間見られた、「バッド・ロック」とは一線を画するメンタリティ

──日本滞在中はマルイに行ったこと以外に、安田さんにとって印象的だった出来事は何かありますか?

安田:来日がガンズと重なってしまったので、中野サンプラザは本編だけ観て、ガンズの東京ドームに移動してしまったんですよ。なので、実際に見ていなくて後で聞いた話なんですけど、アンコールでバンドがステージ袖に引き上げてきた時に、「『スメルズ・ライク・ティーン・スピリット』ってやったんだっけ?」ってカートがボソッと言って、「いや、やってないよ」って。それで慌てて戻って演奏したという(笑)。

── (笑)セットリスト、なかったんですか?

安田:あった気がするんですけど、セットリストがあったらそんなことにならないですよね。あとは、中野サンプラザで最後に消火器をまいちゃったっていうのもありますね。

──ああ、そうですそうです。

安田:中野サンプラザって日本のコンサート会場でもかなり厳しいほうなんですよ。由緒正しい歴史のあるところですから。

──そうですね。

安田:で、まずウドーさんが中野サンプラザの人から怒られて、ウドーさんからツアー・マネージャーに「頼むよ」って言って。そしたら、バンドが3人で謝りに来たらしいんですよ。

──へえー!(笑)

安田:整列して、「どうも申し訳ありませんでした」って(笑)。

──ハハハハッ!

安田:僕は現場にいなかったんで聞いた話ですけど、謝るんだ、って(笑)。じゃあ、やらなきゃいいじゃないかって(笑)

──(笑)でも、そこがガンズみたいなバッド・ロックのメンタリティとは全く違うところですよね。

安田:そこが不思議ですよね。

──でも、今だと理解できる気がします。それがカート・コバーン的なメンタリティなんだなって。無軌道なライフスタイルの延長で何かを壊すんじゃなくて、感情表現だったりとか、会場の空気感に対する違和感だったりとかの、素直な表現だと思うんです。実際、中野サンプラザはやりにくかったんだと思いますね。

安田:やりにくかったでしょうね。

──僕もチケットを買わせていただいて中野サンプラザに行ったんですけど、最前列だったんですよ。そしたら、周りが業界関係者ずらりで、前の3~4列が座ってる。あれは本当に居心地が悪かった。あんな椅子席の会場で、前列の人が座っている状態でライブなんてやったことなかっただろうから、彼らからすればカルチャー・ショックだったと思います。

安田:そうですよね。それまではスタンディングしかやったことなかったでしょうし。

──ほかにも来日時の印象的な出来事はありますか?

安田:大阪では、ちょっと離れたところで少年ナイフがライブをやってたんです。で、ニルヴァーナのライブが終わるときに、カートがステージから「これからみんなで少年ナイフを観にいこうぜ」って言って。本当にカートがライブ後に少年ナイフがやってる会場に向かって歩き出しちゃったから、みんな、ぞろぞろついていくわけですよ(笑)。

──(笑)。

安田:そしたら、カートが商店街の真ん中でいきなり振り返って、サインを始めちゃって。もう大行列。夜でお店は全部閉まってたんで、よかったですけど。そこで時間を食ったせいかわからないですが、少年ナイフの会場に着いた頃にはもう撤収してて(笑)。シングル盤か何かを買って帰ったみたいですね。

──そのエピソードに象徴的ですけど、カートは自分の先輩や下の世代をフックアップするのが大好きでしたよね。

安田:物凄くリスペクトを見せますよね。少年ナイフとイギリスでツアーをやったときも、少年ナイフが会場からツアー・バスに乗る際に、ニルヴァーナの3人が「どうぞ」みたいな感じでお出迎えしたり。意外と礼儀正しいところもあったんですよ。そういうアンダーグラウンドのバンドに対する敬意の払い方はちゃんとしている印象がありました。

──ただ、ガンズとかのメインストリームのロックには容赦なかったですよね?

安田:容赦なかったというか、単純に嫌いなのでツアーのオファーを断ったりすると、相手が過剰反応するっていう感じだったと思います。別に必要以上に牙を剥いて食って掛かるわけじゃなくて、相手にしてないんですよ。

──そもそも関係ないと思っている。

安田:ガンズにしてみれば、「お前ら、俺たちのオファーを断るわけ?」ってなりますから。で、メディアがそこを面白おかしく書き立てると、さらに不信感を募らせるっていう。

真のオルタナティブと「産業オルタナティブ」

──当時、安田さんはニルヴァーナだけでなく、周辺の動き――Pearl Jam(パール・ジャム)、Soundgarden(サウンドガーデン)、The Smashing Pumpkins(スマッシング・パンプキンズ)といったバンドがグランジ/オルタナティブという言葉で括られて、それが日本にも伝えられるようになった状況や、それぞれのバンドについてはどういう風にご覧になっていたんですか?

安田: オルタナティブって一言で言ってもいろんなタイプがいて、僕の中ではソニック・ユースやニルヴァーナが真のオルタナティブなんですよね。自分たちをしっかり持って、進むべき道がちゃんと見えている。一方で、ロック・スターになりたいオルタナティブみたいなのもいて。

──はいはい(笑)。

安田:そこが一緒に括られていることには違和感がありましたね。個人的には産業オルタナティブみたいな括りがあって、僕の中では当時はその代表がパール・ジャムやスマッシング・パンプキンズでした。仲のいい当時のメーカーの担当者から聞いた話だと、あるバンドが来日したときに、レコード会社の宣伝の人間を楽屋に整列させて「なんで俺たちの曲がラジオで掛かってないんだよ、説明しろ!」って説教したっていう。それは絶対にオルタナティブじゃないですから(笑)。

──ないですね(笑)。

安田:それはやっぱり、ロック・スターになりたい、売れたい、メジャーになりたい、いい暮らししたい、みたいなことで。そういう人たちとは明らかにニルヴァーナやソニック・ユースは違っていましたね。そこが一緒くたにされることには違和感がありました。でも、聴いている人たちにとっては、そこはあまり関係ない部分でもありますから。

──パール・ジャムに関しては、ちょっと可哀想でしたけどね。凄く生真面目なロック・バンドで。

安田:僕は実態は知らないんですけど、どうだったんですか?

──僕がパール・ジャムに対してすごくシンパシーがあるのは、The Who(ザ・フー)のピート・タウンゼントが大好きっていうことなんですよ。「ジェレミー」っていう子供についての歌があることとか、その文脈で考えればよくわかるんです。

『Pearl Jam - Jeremy (Official Video)』
Video: PearljamVEVO/YouTube

──要するに、心に傷を抱えた子供がどうやって成長していくか? そういったテーマを持ったバンドなんですね。

安田:僕も「ジェレミー」なんかは大好きなんですよ。でも、ニルヴァーナ寄りの立ち位置から見ると、ちょっとあざとく映るんです。

──そうですね(笑)。

安田:でも、音楽ビジネスとしてはあれで正解だと思います。そこにケチをつけようという気は全然なくて。ビジネスとして発展して、僕らも給料をもらってご飯を食べるには、そういうバンドにこそ頑張ってもらって、シーンが成立しなくてはいけないと思うんですよ。ただ、ニルヴァーナとの間には明らかにボーダーラインがあるっていう話ですね。

── わかります。実際、ソニック・ユースやニルヴァーナがいたおかげで、アメリカに従来の音楽ビジネスとは別のコミュニティがあるという事実、それが日本でもよくわかるようになった。

安田:そうですね。

──カート・コバーンの元彼女がいるBikini Kill(ビキニ・キル)の存在だとか、ワシントンDCの〈ディスコード〉とか、〈サブポップ〉以外にもK Records(Kレコーズ)とかKill Rock Stars Records(キル・ロック・スターズ) みたいな北西部の小さな街のインディ・レーベルの存在や意味だったり。メジャーの音楽ビジネス的なものが間違っているというわけではなくて、別のカルチャーやスタンスが存在するんだっていうことがきちんと伝わってきた。それは大きかったと思いますね。

『ネヴァーマインド』以降、少しずつ漂い出していた不穏な空気

──「ネヴァーマインド」に続く「イン・ユーテロ」は、93年9月21日のリリースですよね? でも、その前に編集盤の「インセスティサイド」があって。

安田:「Incesticide(インセスティサイド)」が92年12月14日のリリースですね。あれはニュー・アルバムが出ないことの繋ぎみたいな感じでした。

──海外からも「レコーディングが進んでない、だからこれをリリースしてくれ」という風に伝わってきたんですか?

安田:そこまで明確ではなかったですけど、明らかにそういう感じでした。事業計画として、年間の予算達成のためにニルヴァーナの新譜が92年の終わりに入っていて。でも、それが間に合わないということで、急遽出てきたんだと思います。

──「イン・ユーテロ」がいつ出るかに関しては、二転三転あったんですか?

安田:遅れ遅れだったような気がしますね。

──カート・コバーンが車椅子に乗ってステージに登場したReading and Leeds Festivals(レディング・アンド・リーズ・フェスティバル)が92年の夏ですよね。あのパフォーマンスによって、ヨーロッパ中でニルヴァーナの人気がさらに二段、三段上がった。ただ、カート・コバーンが何かしら大変なことになってるぞ、っていうのが伝わってくるものでもありました。

『Nirvana - Live at Reading 1992』
Video: PAMAC708/YouTube

安田:やっぱりね、当時からドラッグがヤバいんじゃないかって言われてましたけど。

──「イン・ユーテロ」のときは日本用の取材は何本くらいやったんですか? たぶん1、2本しかやってないですよね?

安田:やってないと思います。というか、ちゃんとやったのはロッキング・オンだけじゃないですか?

── ミスター・ビッグ辺りのジャケットを撮影してたロス在住のウィリアム・ヘイミスさんと一緒に鈴木喜之くんがシアトルまで取材に行った記憶があります。

安田:しかも、「イン・ユーテロ」のときに海外から送られてきたアーティスト写真をAnton Corbijn(アントン・コービン)が撮っていて(ロッキング・オンのインタビュー記事でもアントン・コービンの写真が使われていた)。

── モノクロの、焼きにハレーションを使った、暗いトーンの写真ですよね。当時のアントン・コービンと言ったら、デペッシュ・モードやU2を撮ってて。

安田:「いきなりこんなになっちゃっていいのかな?」と思った記憶がありますね。

──でも、なんでアントン・コービンだったんでしょうね?

安田:カートがいったとは思えないので、やっぱりマネージャーのJohn Silva(ジョン・シルヴァ)ですかね。

──なおかつ、メンバーのスタイリングがちょっとグロテスクだったんですよね。

安田:で、そのニルヴァーナの写真を見た日本の某ヴィジュアル系バンドのメンバーが、ソロ・アルバムを出すときにフォト・セッションをやって欲しいとオファーしたらしいんですよ。そのとき向こうからのギャラの提示額が、1セッションで2000万円。

──うわ~。でも、アントン・コービンは難しいですよ。僕もロッキング・オン在籍時にU2の写真を取り寄せようとしたら、「ノー」と言われたんで、「どうして?」と訊いたら、「俺はロッキング・オンが嫌いだ」って(笑)。

安田:というか、日本人が嫌いなんだと思いますよ。だから、2000万っていう金額を言ってきたんでしょう。

──まあ、断るための言い方ですよね。

安田:そうだと思います。

──では、安田さんはレーベルのディレクターとして、ニルヴァーナが「イン・ユーテロ」でSteven Frank Albini(スティーヴ・アルビニ)をプロデューサーに起用し、明らかに「ネヴァーマインド」のウェルメイドのサウンドとは違う、ザラついたラフなサウンドをやったことに対しては、どのように感じていたんですか?

『Nirvana - Heart-Shaped Box』
Video: NirvanaVEVO/YouTube

安田:まあ、当時から「ネヴァーマインド」の音はあんまり好きじゃないと言っていましたから。やっぱりこっちに行ったか、っていう感じでしたけどね。「ネヴァーマインド」を手掛けたButch Vig(ブッチ・ヴィグ)のオーヴァー・プロデュースなメタル寄りの音ではなくて、ザラザラした感じをやりたかったんだなって。

──ええ。

安田:当時のマーケットに対するアプローチとして正解だったかはわからなかったというか、ズレた方向だったとは思うんですけど、やりたいのはこういうものなんだろうなっていう。

突如届いたカートの訃報と、ホールの『ロック・スター』

──そしてカート・コバーンが亡くなったのが1994年4月5日。「イン・ユーテロ」のリリースからわずか4ヶ月後でした。安田さんは「イン・ユーテロ」の頃にはカートと会う機会はなかったということでしたが、カートが亡くなったときのことは覚えてらっしゃいますか?

安田:よく覚えていますね。明け方4時、5時くらいだったと思うんですけど、寝てたらロスの駐在員から電話が掛かってきて、「カート・コバーンが死んだ」と。土曜日だったので会社に行ってなかったんですけど、おそらく会社は事実確認で電話が鳴りっぱなしだったと思いますね。

──ええ。

安田:日本でもその日の夕刊にニュースが出て。朝日新聞の社会面にも載ったくらいでした。

──当時は今みたいにネットが浸透していなかったので、4月5日に至るまでの数週間に何があったのか、まったくわからなかったですよね。いろいろと後になってから伝わってきましたけど。

安田:そうですよね。

──ローマで数ヶ月前にオーバー・ドーズを起こしていたということがMTV経由で伝わってきたくらいで。

安田:これも後から聞いた話ですけど、ジョン・シルヴァから、カートと親交の深かった日本人のある関係者の方のところに電話がかかってきて、「このままだと本当にヤバい、ドラッグをやめさせないと」という感じだったらしいです。なので、訃報を聞いたときは驚きましたけど、「ああ、やっぱり」みたいなところもありました。

──コートニーと離れていたからだとか、例の胃痛がひどすぎて、だからこそドラッグが手放せなかったとか、いろんな話がありますけど。

安田:どれが本当かわからないですよね。

──僕がカートの訃報を聞いたのはロンドンに出張していたときでした。初来日直前のレディオヘッドのインタビューをして、プライマル・スクリームのライブを観に行くっていう仕事だったんですけど。その直前にHOLE(ホール)の「Live Through This(リヴ・スルー・ディス)」の音源をいただいて、ロッキング・オンの電話インタビュー用に質問を残していったんですけど、その前から数週間、まったくコートニー・ラヴがつかまらない状態で。だから、ロンドンで訃報を聞いたときに、なるほど、そういうことだったのか、っていう。

安田:ああ、そうだったんですね。

──カート・コバーンが亡くなったことで、 ホールのアルバムから一曲差し変わったんですよね。アルバムの最後が『ロック・スター』っていう曲なんですけど、元々はアルバムの最後に入っていた『ロック・スター』っていう曲が入っていて、それは現在アルバムに収録されている『ロック・スター』とは別の曲だったんですよ。

安田:ああ、そうでしたっけ?

──最初に入ってたのは三連のアコースティック・ギターで歌う曲で、実は凄まじい名曲なんですよ。「あんた、ロック・スターになりたいの? マドンナになりたいの? ニルヴァーナになりたいの? 死んだほうがマシだっていうなら、やってみたら?」っていうリリックで。本当にコートニーにしか書けないようなすごく批評的なリリックで。

『Hole - Rock Star』
Video: RoseWhitexRoseRed/YouTube

──でも、流石にカートの死後にはこのリリックでは出せないと判断したんでしょうね。その代わりに、元々『オリンピア』っていうタイトルだった曲が『ロック・スター』っていうタイトルになって、アルバムの最後に入っているんですよ。カートが亡くなった余波で起こったことの一つですね。

Video: youshotandywarhol/YouTube

カート以上に手に負えないコートニー・ラヴはチャーミングなのか、ただの厄介者なのか?

──僕はカート・コバーン・ワークスの中で「リヴ・スルー・ディス」が一番好きなくらいなんです。クレジットはされていないですけど、おそらくあのアルバムのリフは半分以上、カート・コバーンが作ってますね。

安田:そうなんですか?

──それ以前、以降のホールの作品を踏まえて考えると、ホールのギタリストであるエリック・アーランドソンにあのリフは絶対に書けない。そういう曲がたくさんあるんです。多分にカート・コバーン・ワークスだと思いますね。

安田:たしかに「リヴ・スルー・ディス」でいきなりメジャーな感じになりましたもんね。

『Hole - Violet』
Video: HoleVEVO/YouTube

安田:でもね、僕は今まで関わったアーティストの中で、一番嫌いなのがコートニーなんですよね。

──ハハハッ! 初めて会ったのはニルヴァーナの来日時ですよね?

安田:そうですね。その頃はまだ、ホールはヴァージンのアーティストだったんですけど。

──そうですよね。

安田:カートが鎌倉の長谷寺に水子地蔵がたくさんあるという話を聞いて、そのビデオを撮りたいからって行っちゃったんですよ。朝日新聞の取材とかが入っていたんですけど、「取材はデイヴがやっとけ」って。

──(笑)。

安田:そのときにコートニーもいて、「私も行きたい」って言い出して。彼女は彼女で、ヴァージンが取材をセッティングしていたらしいんです。六本木のホテルのロビーで、ヴァージンの担当者が「お願いだから取材してくれ」って頼んでるんですけど、コートニーは「自分も行く」と。

──なるほど。

安田:そのとき、コートニーは食パンをかじりながら話してたんですけど、頭にきて食パンをポンッと投げたんですよ。で、かじり欠けの食パンがヒラヒラヒラ~って六本木のホテルのロビーを舞ったっていう(笑)。自分の担当じゃないから他人事なんですけど、強烈に覚えていますね。僕の中では「コートニー食パンヒラヒラ事件」。

──ハハハッ!

安田: それで結局コートニーが怒って行っちゃった後に、僕がヴァージンの奴を慰めてたんです。「仕方ないよ、頑張れよ」って。半分笑いながらですけど(笑)。

──意地悪ですね(笑)。

安田:でも、そんなこといってたら、ホールがゲフィンに移籍したんですよ。で、そのヴァージンの担当者にどこかで会ったときに「頑張れよ」って嬉しそうに言われて(笑)。まあ、コートニーにはひどい扱いを受けましたよ。

──僕もコートニーにはひどい扱いを受けましたけど、楽しかったですよ。

安田:「リヴ・スルー・ディス」の来日のときですか?

──最初はそうです。コートニーがMichael Stipe(マイケル・スタイプ)とずっとつるんでいたときです。

安田:そうそう、そうでしたね。

──ロッキング・オンとCutの取材をセッティングしてもらっていたんですよね。で、ロッキング・オンは僕がインタビュアーで、カメラマンはホンマタカシ。で、Cutはカメラマンが高橋祐司さん、インタビュアーが吉本ばななさん。

安田:ああー、そうでしたね。

──僕たちはホテルに着いて、彼らの部屋の中で待ってたんです。何室かある部屋のどこかにコートニーがいて、デカい声でずっと叫んでるんですよ。その状態が3時間、4時間続いて、こちらはずっと待機。コートニーが「これじゃない!」とか言って、下着が目の前を飛び交ったり(笑)。で、結局5時くらいになって、「もう会場行くから」ってなって、その日は結局取材が出来なかったんじゃないかな。

安田:自分が担当していたんですけど、それは全然覚えてないですね。

──で、後日、結局インタビューはできたんですけど、そのときに「たとえばパール・ジャムとか――」って、パール・ジャムの名前を使ってグランジやオルタナティブの話をきいちゃったんですよ。そしたら、パール・ジャムっていう言葉を聞いた瞬間に、「あんた、どこに耳がついてんの!」って耳をガーッとつかまれて。「私たちとあいつらを一緒にしないで!」って(笑)。

安田:(笑)でも、思い出した。タナソウはコートニー好きでしたよね。

──大好きでした。

安田:僕はもう大嫌いでした(笑)。

──ハハハハッ! でもきっと、僕たちが知らないような大変なこともたくさんあったんでしょうしね。

安田:そうですね。

──では、そろそろ最後の質問にさせてください。ニルヴァーナというアーティストをご担当されたことで、それ以降、安田さんが何かしら新たな視点、考え方を持つことになったところはあると思いますか?

安田:やっぱり、人はいかに簡単に掌を返すか、ということですかね。

──それはメディアの話でしょう!(笑)

安田:ああ、そういうことではなくて?(笑)

── (笑)そこに関しては、お話を伺っていて、よくわかりました。まあ、僕はこれまで耳にタコができるくらい聞かせていただいた話でもありますし。

安田:真面目に話すと、ああいうよくも悪くも純粋なバンドと接することによって、いかに世の中のビジネスが純粋さとは遠い所にあるというか、数字至上主義かっていうのが見えたのはありますね。でも、それこそがビジネスとして正解なので、そこを否定するつもりはありません。これから先、音楽ビジネスがどうなっていくかわかりませんけど、とどのつまりそんなに奇麗なものではない。そういうものだと理解し、その中で自分たちが仕事をしているんだっていうことは、彼らと出会ってからずっと感じていることですね。

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