「日本の90年代」の象徴
90年代。それはデッドエンドの時代だったといっては乱暴だろうか? もちろん時代を一言で表現するのは乱暴にほかならない。しかし、戦後という時代が行き着くところへ行き着き、右肩あがりの成長や発展は終わりを迎えた。そして一部の人間はその成長の土台に無数の犠牲や屍が転がっていたことに気づき、打ちひしがれた。そんな時代である。これも一側面ではあるだろう。
「我々」の文脈で言うならば、それはNirvana(ニルヴァーナ)「Nevermind(ネヴァーマインド)」を中心とした「最後」のロックンロール・リバイバルが、フロントマンであるKurt Cobain(カート・コバーン)の自殺によって急速に収束した時代。そしてRadiohead(レディオ・ヘッド)のThom Yorke(トム・ヨーク)が報われない恋を世界の終わりかのように嘆く「Creep(クリープ)」で共感を得たのち「OK Computer(OKコンピューター)」で資本主義社会と先進国の欺瞞を描き「Kid A(キッドA)」でその裏に潜むジェノサイドを告発するにまで至る時代だ。
ここ日本はどうだっただろう? スーパーファミコン、Air Max 95、アメカジ、G-SHOCK、たまごっち、Windows 95、『ドラゴンボール』、『幽☆遊☆白書』、『スラムダンク』、木村拓哉、安室奈美恵、プレイステーションといったアイコンが過剰なまでの熱狂を集め、マーケットを賑わせていた90年代日本において、カート・コバーンのような「時代の象徴」を挙げるとしたら?
それは『新世紀エヴァンゲリオン』であり、同作品の総監督である庵野秀明ではないだろうか。
「オリジナルなき時代に、オリジナルを作る手法」それが『エヴァ』と時代を生んだ
1995年10月の『新世紀エヴァンゲリオン』TVシリーズ放映前に書かれた「我々は何を作ろうとしているのか?」という庵野秀明による所信表明(漫画版第1巻に掲載。後に重版分では削除されている)の中盤には、こんな告白と宣言が込められている。
4年間壊れたまま何もできなかった自分の、全てが込められています。4年間逃げ出したまま、ただ死んでいなかった自分が、ただひとつ『逃げちゃダメだ』の思いから再び始めた作品です。自分の気分というものをフィルムに定着させてみたい、と感じ、考えた作品です。それが、無謀で傲慢で困難な行為だとは知っています。だが、目指したのです。結果はわかりません。まだ、自分の中でこの物語は終息していないからです
そして、所信表明は次のように結ばれる。
「それすらも模造である」というリスクを背負ってでも、今はこの方法論で作るしかないのです。私たちの「オリジナル」は、その場所にしかないのですから……
これは、庵野秀明自身が幾度となく語ってきた「庵野ほかスタッフ自身がアニメほか映像作品を観て育った世代であり、無数のアニメや実写作品のパロディーによってしか作品を作ることができない」という自己認識だ。そして「自らの人生だけはオリジナルである。そのオリジナルを作品に注入することで、作品をオリジナルたらしめる」という方法論の提示である。
綾波レイを筆頭としたキャラクターの魅力や謎めいた設定の数々、特撮や日本映画からたくみに引用した斬新な演出など『エヴァ』にはヒットの要因や、評価されるべき要素は山のように詰め込まれている。だが、この私小説的な、ドキュメンタリーライクな方法論こそが『エヴァ』を特別な作品にしたといって間違いないだろう。そして、悲劇の一因でもあるのだ。
ただの偶然だったかもしれない。しかし、庵野秀明の「気分」は、震災やオウム事件により集団幻想がついえ、インターネットや携帯電話の普及とともに個人の時代へと向かう時代の流れとシンクロしてしまう。一周した時代に、オリジナル作品を作るために自らの人生を注いだ結果、オリジナル作品の誕生どころか壮絶な破壊を時代にもたらしてしまうことになったのだ。
『エヴァ』がもたらした破壊。それは無数の「後継者」である
ゲーム『ファイナルファンタジーVII』をはじめ、エヴァの影響をうけた内省的または難解な作品は90年代の時点で無数に存在していたが、セカイ系をはじめとしたより深い影響が顕在化したのは00年代序盤のこと。つまり『エヴァ』が作ったのは90年代のブームやムードだけではなく、00年代のサブカルチャーの基礎だ。これが90年代の日本を象徴する作品として『エヴァ』が挙げられる大きな理由である。
電気街だった秋葉原の変貌、コンテンツ業界における製作委員会方式の普及、深夜アニメ増加やオタクカルチャーのオーバーグラウンド化など「ポスト・エヴァ」ともいえる影響は数多く存在するが、その中でも特に大きなものが「セカイ系」の勃興だろう。「君と僕の関係こそが、世界のすべて」という「セカイ系」がもつ世界観は、アニメやマンガ、ライトノベルといったジャンルにとどまらず、BUMP OF CHICKEN(バンプ・オブ・チキン)以降のJ-ROCKにも大きな影響を与えた。これは、その後の日本のカルチャーのひとつの方向性を決定づけた重要な要素といって間違いない。
『エヴァ』という作品は「悲劇」だった。パソコン通信やインターネットが盛りあがり始めていた時代、誰もが無遠慮な悪意に体制など持たなかった頃『エヴァ』には過剰なまでの賛否両論、考察、脅迫的な意見が寄せられていた。当時エヴァの制作会社だったガイナックス社屋には落書きされ、庵野秀明を名指しで殺害予告までが電子掲示板上に飛び交った。庵野秀明はおそらくプライベートな問題と同時に、その無数の人々からの意見を抱え込み、失望の海に飲まれてしまったのではないだろうか。97年の完結編である劇場版において、アニメに過剰な感情移入や自己投影を行い現実から逃げてばかりいるアニメファンに対し「現実を見ろ」という痛烈な冷や水を浴びせかけるかのようなフィルムを作りあげたのだ。登場人物は次々と死んでいき、作品世界は破滅を迎え、かすかな希望と現実への恐怖を残すのみで完結した。
その後には荒野しか残らないはずだった。そこからまた始めればいいはずだった。
しかし、その破滅は逆に『エヴァ』という物語を「聖典」化させてしまう。わずか約2年間で作りあげられた全26話は聖書のようになり、残された人々はその物語を繰り返すようになる。ある者たちは「破滅に向かう運命にある世界を変えたい」と願い、またある者たちは「破滅する前の世界に帰りたい」と願った。「セカイ系」「ループもの」「空気系」など、それまでも存在したジャンルも含め、カルチャー全体として「エヴァが終わる前の世界」を繰り返すようになってしまったのだ。
『エヴァ』は、90年代は、こうしてゾンビとなって生き続けることになった。
もちろん、すべてが停滞していたわけではない。『エヴァ』以降のブレイクスルーを得られない状況において、傑作や新たな表現は確かに生まれていた。90年代に青春を過ごした者たちが愛した音楽を始めとしたサブカルチャーを総決算することで、『エヴァ』を含む「90年代」を歴史的文脈に定義しようとした『交響詩篇エウレカセブン』。アニメの歴史をメタフィクション化したストーリーと演出、そしてドリルをモチーフに「一周することで(一見進んでいないようでいて)前に進むことができる」と00年代的な希望を提示した『天元突破グレンラガン』はその好例だろう。
だが『エヴァ』以上のインパクトを持った作品は生まれなかった。それは当の庵野秀明はじめ制作サイドも指摘している。
TV版『エヴァ』が放映された95年から約10年。2006年、ついに『エヴァ』新作が発表された。その際に発表されたのが、庵野秀明によって書かれた再びの所信表明「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」である。そこにはこう記されていた。
10年以上昔のタイトルをなぜ今更、とも思います。エヴァはもう古い、とも感じます。しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした
「終わらない90年代」を浮き彫りにした『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』
庵野秀明は新作劇場シリーズ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』について、新しく企画を考えても毎回『エヴァ』になってしまい、それなら『エヴァ』をまたやればいいと思ったとの旨の発言をしている。『エヴァ』によって止まってしまった時間を動かすことは『エヴァ』にしかできない。「○○に勝てるのは○○だけ」という台詞回しや考え方は庵野作品の特徴だが、それを現実にやってしまおうというのが、この待望の『エヴァ新作』だというのだ。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は古巣であるガイナックスを離れ、庵野秀明自身の新スタジオであるカラーに精鋭や新人スタッフが集まっての自主制作という形で制作された。3DCG等の最新技術を取り入れてリビルドした美しい映像と、グレードアップした音響。「エンターテインメント作品になる」という宣言どおりの前向きな気分が込められた脚本、これまで希薄だった主要人物の外側の世界を意識的に描写することにより『新劇場版』は旧世紀のエヴァを更新していった。
なかでも特に諸手を挙げて絶賛されたのが、2009年に公開された2作目『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』だ。主人公の碇シンジは、旧作で上手くコミュニケーションできなかった登場人物たちと不器用ながら交流を行い、旧作では「私が死んでも代わりはいるもの」と死んでしまったヒロイン・綾波レイを「代わりなんかいない」と叫び、助けたのだ。これは大きな感動を巻き起こし、作品自体も大ヒットを収めた。『旧エヴァ』で止まってしまった時間を、見事に希望の物語として書き換えることに成功した。
…かのように見えた。
しかし、2012年公開の現時点での最新作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』ですべては覆される。感動のエンディングを迎えた前作から3年、その続きとして待っていたのは、あまりにも残酷な物語だった。
前作のエンディング以降、宇宙空間に幽閉されていたシンジはかつての仲間たちの活躍により救出され、見知らぬ部屋で目を覚ます。そこで待っていたのは、明確な敵意の眼差しを向けてくる見知らぬ人々、見知ったはずの人たちの変わり果てた態度だ。告げられるのは、前作から14年の時間が経過しているという衝撃の事実。そして前作で綾波を助けたことをきっかけとして、「インフィニティのなりそこない」と呼ばれるエヴァもどきの巨人が大量に発生し、世界が崩壊したというのだ。
これはもちろんメタフィクションだ。「14年」という月日が示すのは、97年に完結した『旧エヴァ』から2012年の『エヴァQ』まで、いまだに『エヴァ』を作り続ける庵野秀明自身とアニメ業界、そしてそれを楽しみにしている旧来のエヴァファンが何も変わっていないという残酷な事実。「インフィニティのなりそこない」と呼ばれるエヴァそっくりの姿をした巨人たちは、いわずもがな「ポスト・エヴァ」現象そのものだ。そして「僕と君との愛」が「セカイ」を救ったかもしれないが、周りの人たちを巻き込んで「世界」そのものを崩壊させてしまったという『新劇場版』のストーリーラインは、明確な「セカイ系」の否定である。
ここには庵野的な文法が潜んでいる。『エヴァンゲリオン』劇中で登場人物によって語られる「エヴァ」とは、主人公たちが乗り込む兵器としてのエヴァであると同時に、作品としての『エヴァ』とイコールである。そして、碇シンジがエヴァに乗るということは、庵野秀明が「エヴァを作る」ということと同義である。逆に、シンジがエヴァに乗りたくないというとき、それは庵野秀明がエヴァを作りたくないという気分の表明なのだ。
『エヴァQ』本編開始前に流れる、あの旧東映ロゴ(『旧エヴァ』劇場版は東映配給)は、明確なヒントだ。
つまり、シンジがエヴァに乗ったことで起こった大厄災のその後を描いた『エヴァQ』とは、すなわち『旧エヴァ』が社会現象化してアニメ界や社会にどんな影響を与えてしまったか、『エヴァ』を作ったことで自分がどんな目にあったかという映画だ。『旧エヴァ』で世界をめちゃくちゃにしてしまったという事実に向かい合い、更新していこうとする物語、それこそが『新劇場版』の一つのコンセプトなのだろう。『エヴァQ』劇中で、エヴァのいないネルフ本部でピアノを弾きながら日々を過ごす中、世界の破滅の原因が自分にあると聞かされ絶望した碇シンジに対し、渚カヲルがいう。「エヴァで起こったことはエヴァで変えてしまえばいい」。このセリフはもちろん、新劇場版に対するモチベーションそのものである。
だが、この『エヴァQ』は、そこで止まらない。何よりも残酷なのは、エヴァで起こったことをエヴァで変えようとした結果、さらに世界を破壊してしまうという展開だ。シンジはエヴァ初号機に似たエヴァ第13号機(新劇場版のメタファーだろう)に乗り込み、世界を修復しようとする。しかしそのシンジを止めようと現れるのは、綾波レイと並ぶヒロインであるアスカだ。あえて詳細は割愛するが、アスカと戦うということは「あの頃」と戦うということにほかならない。そして、その結果、シンジはアスカを傷つけ、世界をさらに崩壊させてしまう。ここには『旧エヴァ』だけでなく、『新劇場版』を作ることによって生まれる苦痛や、それでもなお満たされない、到達できないという、新たな痛みが込められているように見える。
こんな内罰的な物語を作りあげ、その後は理性的なハードワークによって映像作品として完成させ、製作費をリクープする。それが並大抵の精神でこなせる仕事ではないことは想像にたやすい。『エヴァQ』にはこんな噂がある。上映時間の短さや、ほぼDパートがないという特異な構成から、未完成説が囁かれているのだ。あくまで噂の域ではあるが、筆者としても本作は未完成作品だと考えている。おそらくは庵野秀明の精神状態や肉体は限界に達し、どこかのタイミングで映画を完成させることが不可能との判断がくだり、劇場作品としての上映時間を確保するためにスタジオジブリの力を借り『巨神兵東京に現わる』を同時上映することにしたのではないだろうか。
そう、ここで再び庵野秀明とエヴァの時間は止まってしまう。時は1997年に戻ってしまったのだ。
『シン・ゴジラ』で向かい合った自分のルーツ、仲間、もっと大きな未来
過去最大級の悲劇的幕切れを遂げた『エヴァQ』から3年。『エヴァ』次回作がペンディング状態という噂も聞かれる中、2015年に3度目の所信表明が発表された。「我々は、何をまた作ろうとしているのか。そして何故、空想特撮映画を作る事を決めたのか。」だ。
そこに書かれていたのは『エヴァQ』後の庵野秀明の精神状態が芳しくなかったこと、そして『エヴァ』新作の前に、特撮映画であるゴジラシリーズ最新作の総監督を務めるという発表。そう、2016年の大ヒット作『シン・ゴジラ』である。
一般的な作品紹介は割愛するが、この『シン・ゴジラ』は『エヴァ』同様、いくつかのレイヤーで観ることができるようになっている。岡田斗司夫氏が語っている通り、まずはスクリーンに写るゴジラが日本に現れたというストーリーそのもの。2つ目は3.11と原発とどう向き合うか。3つ目は被爆国としての核や戦争とどう向き合うか。4つ目は庵野秀明を中心としたクリエイターの苦闘のドキュメンタリー、つまりは低予算・短期間でゴジラを作る俺たちとその功罪を描いたメタフィクションとしてのストーリーだ。
先ほどの「エヴァに乗る」=「エヴァを作る」という構造と同様である。『シン・ゴジラ』においてゴジラと戦うということは、つまりゴジラを作るということであり、ゴジラを倒すということは「54年の初代『ゴジラ』を凌駕するゴジラ映画を作る」ということに置き換えられる。劇中でゴジラと対決する組織「巨大不明生物特設災害対策本部」、通称「巨災対」は、政治家や自衛隊、科学者など、各分野からはじきものたちの寄せ集め集団だが、それはまさしく『シン・ゴジラ』制作のために各分野から集められたスタッフたちの姿の投影だろう。巨災対が仕事をする現場は徹底した分業制は、映画製作の現場そのものでもある。
実写映画という、アニメとは異なる環境下でこの「現場」に向き合うことは、おそらく庵野にとって自身のスタジオやアニメ業界、そして自分自身の歴史と別角度から向き合う結果となったのではないだろうか。
劇中、ゴジラ対策の作戦を講じる主人公の矢口蘭堂に対し、石原さとみ演じる米国大統領特使・カヨコは「この国(日本)で『好き』を通すのは難しい」と語るシーンがある。ここで矢口は「ああ、僕一人じゃな」と返す。そう、一人じゃない。矢口の周りを固める巨災対チームのほかにも、矢口が動きやすいように、あらゆる局面で調整を図る、盟友・政調副会長の泉修一の存在がある。泉はおそらく庵野とともに作品を作りあげてきたいくつかの人物の投影と思われるが、そのうち一人は『エヴァ』の企画を最初に見た人物の一人であり、ともに企画実現に向けて奔走し、制作を続けてきた元キングレコードのプロデューサーである大月俊倫だと予想される。2016年に業界を引退した彼への手向けの想いも込められていたのではないだろうか。そして、物語終盤の米軍との共同戦線は、ハリウッド版『ゴジラ』への敬意だ。
映画の終盤、さまざまな人たちの協力と犠牲の末にゴジラは凍結される。東京駅前にオブジェのように立像するゴジラの姿は、もちろん初代『ゴジラ』への、そして円谷英二や岡本喜八ほか先人たちが作りあげてきた特撮や日本映画への愛とリスペクトだろう。
だが、ハッピーエンドのようではあるが、ゴジラはあくまで凍結されているだけで、いつ復活するか分からない。事態は何も収束していない。そんな状況を眺めながら、矢口はいう「今はやめるわけにはいかない」。これはもちろん『エヴァ』のメタファーとして捉えられる。
そして『シン・ゴジラ』劇中における「10年後にこの国を残す」という発言にも注目したい。これは宮﨑駿の『風立ちぬ』で主人公・堀越二郎(声:庵野秀明)に対する、師匠・カプローニからのアドバイス「創造的人生の持ち時間は10年だ。君の10年を力を尽くして生きなさい」へのアンサーだろう。『シン・ゴジラ』制作を経て、自分の後世にも特撮文化とアニメを生かしていこうという志。それは『エヴァ』を作ることの、さらに先を見据えた決心につながったのではないだろうか。
続、そして終。非、そして反。
以上の通り、『エヴァQ』と『シン・ゴジラ』は、ある意味では同じ作品だ。敵が過去のエヴァであるか、過去のゴジラであるか。向かい合うべきが「自分自身」かどうかという、はてしなく大きな1点さえ除けば。
『シン・ゴジラ』を作りあげたことによって、庵野秀明はみずからをアニメ史とはまた違う、特撮史、映画史の文脈に定義した。そして「もっと大きなもの」を目標に据え、あらためてアニメというホームへの想いを確認したのではないだろうか。
2017年、いよいよ『エヴァ』新作の情報が聞こえ始めてきた。いよいよ「あの時」に向かい合う準備ができたということなのだろう。止まったままの時計を動かすために。
『シン・エヴァンゲリオン』。このタイトルが、何よりも雄弁にそれを物語っている。『旧エヴァ』と真正面から対峙し、その結果凍結した『エヴァQ』ごと、新しく塗り替えるのだ。
皆さんにとっての「現在90年代を象徴するもの」を教えてください。TwitterもしくはInstagramで「#90年代オルタナの生と死」でハッシュタグ付きで投稿してください。特集期間中、FUZEがピックアップして定期的に再投稿していきます。
1990's→2017
1990年代、オルタナティブの始まりと終わり
90’sリバイバルはどこからはじまった?