【特別書評】『アナログ』を読んで――文学界への真摯な態度/ビートたけし『アナログ』
[レビュアー] 太田光(漫才師)
ビートたけしは異端児だ。
異端児でありつづけることは難しい。漫才ブームで登場した時は確実に異端児だった。その後あっという間にお笑い界の頂点に登りつめ、テレビ界を制覇し、軍団を率いる殿となった。
織田信長も異端児だ。しかしもし明智光秀に裏切られず、そのまま日本を治めていたら、イメージは違うだろう。嘘か本当か知らないが、信長の死を聞いた秀吉は子供のように泣きじゃくったという。彼もまた異端児だ。天下をとった後、日本だけでは飽き足らず、狂気をおびて朝鮮出兵し、志半ばで倒れる。もし秀吉がおとなしく国内を治めていたら、やはりイメージは違う。家康も異端児のはずだが、長生きし、後に三百年、徳川の天下太平の世が続いたおかげで、気の長いお爺さんというイメージが定着した。
たけしさんは殿となった後、講談社を襲撃し、バイク事故で死にかけ、何度もテレビを去った。復活した後は映画を作り、絵画を描き、次々に居場所を新しく変えながら異端児でありつづけた。しかし映画は世界で認められ、フランスで勲章をもらい、絵画も個展を開けば大盛況。危うく巨匠として落ち着きつつある今、“異端児たけし”でいられる場所として選んだのが文学界というわけだ。
この本は『究極の恋愛小説』と謳われている。出版の少し前、テレビ局の廊下でたけしさんに会った時、「太田、今度は凄いぞ、俺、純愛小説書いちゃったからよぉ、賞取ってやろうと思ってよ」と、あの独特の照れた感じで話された。
たけしさんの“照れ”に惑わされ、言葉通りに受け取ると、この本の本質を見間違う。出版社は見事に騙されたようだ。
『アナログ』は恋愛小説ではない。
“母と息子の物語”だ。
ただひたすらに、真っ直ぐに綴られた恐ろしい程の母への愛と感謝の言葉だ。
ファンとして長い間たけしさんを見続けてきた中で、私にとって一番衝撃的でいまだにトラウマになっているのは、フライデー襲撃でも、バイク事故後の記者会見でもなく、母、北野さきさんが亡くなった後の囲み会見でのたけしさんの姿だ。初めは普通に話していたのに、突然、小さい子供のように、誰にはばかることもなくオイオイ泣きじゃくった。体の内側からとめどなく溢れ出てくる悲しみを抑えきれずに「お袋はいい……ありがたい……」そう言っていつまでも声を上げ泣き続けた。母を失った幼い息子の姿をさらけ出して泣いていた。
ショックだった。ビートたけしがテレビで泣いている。人前で涙を見せない人だと思っていた。「寝る前に必ず絞めよう親の首」と漫才をしていた。オールナイトニッポンでは当時話題になった金属バット殺人をネタにゲラゲラ笑っていた、あの人が、迷子のように泣いていた。ワイドショーのレポーターは「こういう所もたけしさんらしいですね」などとわかったように言っていたが、私には消化しきれなかった。
ビートたけしの“無垢さ”がただ恐ろしかったのだ。
最近ようやくわかってきた。ビートたけしの全ての表現の基本には“母への真っ直ぐな愛”がある。
少し前、我々のライブで落語をしてもらった。演目は『人情八百屋』。枕で語られたのは、恐ろしいまでの母への愛情。誰も茶化すことが出来ない、触ればこちらが傷つくような、真剣で純粋で無垢な心だった。
普通、人は生きていると無垢なままではいられない。感情を隠せるようになり、言葉を飾り、見苦しい姿をさらさないようになり、人前では取り繕うようになる。私はそれを嫌らしさだと思うが、嫌らしさを身につけなければ社会とは繋がれない。子供のままではいられない。
ビートたけしの無垢は恐ろしい。何も知らない子供が残酷なように、たけしさんは残酷だ。何も邪念がない。お母さんの死とたけしさんの間に何も入り込む余地がないのと同じように、『アウトレイジ』の中でたけしさんは、殺そうとする相手を何の躊躇もなく殺す。撃つまでの間に邪念がない。まるで無垢な子供の殺しだ。殺したいから殺す。それだけだ。
『アウトレイジ』の恐ろしさは、母への愛情表現と同じだ。母を失えば悲しい。だから泣く。
読者の中にはいい歳をした大の男が、母が死んだぐらいで人前で泣くはずはない。と思う人がいるかもしれない。そういう人にはいくら説明しても信じられないだろうが、この人は泣く。本当に泣く。子供のように取り乱して泣くのだ。
信じられないかもしれない。むしろそれが普通だろう。
この“無垢さ”を持ち続けている人はそういない。これこそがビートたけしが天才である所以なのだ。信じられなくても自分を責めることはない。その人は凡人なのだから。凡人であることは罪ではない。凡人と天才は違うというだけだ。
天才とは、子供でいることが許されている人のことだ。
だから凡人である私は不安を感じる。
人間の本来あるべき真実は、どっちだろう?と。取り乱さない私は汚れてしまっているのではないだろうか?と。
たけしさんは、文学に挑む時、自分が書ける唯一の“真実”を書こうと決めたのだ。
母への愛である。
これは文学界に対する真摯な態度だ。
母とは、いつもいるはずの場所に会いに行っても、いつかそこにいなくなっていて、永遠に会えなくなってしまうかもしれない存在であり、自分の知らない音楽を教えてくれる人であり、言葉にしなくても自分の気持を理解してくれている存在であり、いつまでも自分を好きでいてほしい人であり、笑いかけてくれる人であり、肉体関係を持たない最愛の女性だ。
側にいて、生きていてくれるだけでありがたい存在だ。
これからはどうなるかわからないが、私より上の世代の人間の母親は必ずアナログだ。母とのコミュニケーションは、実際に会って会話するしかやりようがない。
アナログとは、母のことだ。
主人公、悟が思いを寄せるみゆきは、事故で頭と下半身に障害が残ったことにより、普通の男女関係にはなり得なくなり、みゆきは、悟の母になる。
この小説には全編に渡り、たけしさんの恐れと不安が張り詰めている。
自分は親不孝だったのではないか? 母親を喜ばすことが出来たろうか? 自分を生んで母親は幸せだったか?と。
きっとたけしさんの気持の中では、いつもその不安がつきまとっているのだろう。
私などが口を挟める問題ではないが、私自身親不孝だったからよくわかる。
たけしさん程の親孝行はいない。生前北野さきさんがテレビでたけしさんのことを話しているシーンを覚えている。息子のことが自慢で誇らしいという気持が表情に溢れ出ていた。
たけしさんは、日本一の孝行息子だ。
後輩の分際で出過ぎたことなのは承知の上で、たけしさんに伝えたい。
たけしさんを生んで、お母さんは絶対幸せだった。と。