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再評価される今川氏真の処世術 戦国時代にアーリーリタイアを実現

2017年11月28日 10時00分

ライター情報:長井雄一朗

[Public domain], via Wikimedia Commons

アーリーリタイア(早期リタイア)という生き方があります。定年を待たずに、早い人は20代で会社勤めを辞め、第2の人生を選ぶ生活のことです。

歴史に目を移せば、戦国大名としては滅亡しましたが、文化人として生き延びた戦国武将がいます。それが、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の息子である今川氏真です。義元の死後、氏真なりに領国経営に乗り出しますが、武田信玄と徳川家康の挟み撃ちにあい、もはやこれまでという窮地に陥ります。
それでもさまざまなパイプを活かし、各地を転々として、ある時は、かつての部下である家康に頭を下げ、家臣になり、またある時は父を殺した織田信長の前で蹴鞠(けまり)をあざやかに披露。政治の世界では成功しませんでしたが、人脈と豊富なノウハウでセカンドライフを楽しみます。これまでの歴史的な考え方では、「今川氏を滅亡させた愚かな君主」というのが一般的でしたが、現在で言うアーリーリタイアの生き方を戦国の世で体現したまれな人物として再評価する声があがっています。
今回、戦国史が専門で、今川氏の研究に詳しい駒澤大学文学部の久保田昌希教授に、氏真の人生を元に現在に生きる知恵について話をうかがいました。
駒澤大学文学部の久保田昌希教授


義元の弔い合戦をせずに経営に乗りだす


今川氏真の戦国大名としての評価は「愚かな君主」のイメージでしたが、その後、今川氏を存続させるための処世術は再評価がなされています。

久保田昌希(以下、久保田) 今川氏真の人生は、本人自身が納得したかどうかは分りません。
ただ、戦国時代の周辺の勢力図には、織田信長、武田信玄、上杉謙信などがおり、戦国大名として今川氏を存続することは無理だったと思います。父・義元から見ると劣りますが、一方優れた処世術は持っていました。

――氏真の内政はいかがだったでしょう。
久保田 永禄元年(1558年)に氏真の文書がはじめて発給されます。特に神社に対する流鏑馬銭等の徴収を安堵する内容で、これは当主の権限でした。この頃から、駿河国・遠江国(現静岡県)の経営が氏真に任されていきました。

――義元の死後、氏真の動向はあまりクローズアップされていません。
久保田 義元の死後、織田を打倒するため弔い合戦をするのではなく、領国の経営に乗り出します。
これは理由があり、桶狭間の戦いで戦死した武将も多く、その家ごとにショックを抱えていましたから、まず安定を考えていたのでしょう。桶狭間の戦いが永禄3年(1560年)ですから、その後、氏真名義での文書が当然多く発給されます。
大河ドラマの『おんな城主 直虎』でやりました「井伊谷徳政令」の話ですが、あれは、井伊谷や井伊氏をつぶしたいがために徳政令を発令したのではないと考えています。
氏真は徳政令を出することで徳のある政治を行いたいという考え方を持っていたのではないでしょうか。ただそうなると金貸しはたまったものではありませんので、徳政令に従った金貸しには、損だけさせるのではなく特権商人としての地位を認めるなど、バランスの取れた政治も行なっていました。ちなみに、徳政令は、個別に義元も出しています。
ほかには、富士大宮楽市も行い、信長より一歩先んじて、当時の楽市楽座政策に影響を与えたと思われます。そういう意味でも悪政を強いたわけではありません。


戦国時代の常識「討ち死に」をせず生きる道を選ぶ


その後、東は信玄、西は徳川家康の挟み撃ちにあい、懸川城に包囲されます。戦国時代では「もはやこれまで」と城を枕にして討ち死にするのが戦国大名の生き方かもしれませんが、あえて生きる道を選びました。
現在の掛川城

久保田 しかし、領国経営に一定の成果を収めても桶狭間で破れたことの影響は大きく、今川氏は大名としては無理ですがここで有力大名の部下となり与力大名として存続しようと考えたのではないでしょうか。
追い詰められて一族全員自死した武田勝頼と比較しますと、非常に対照的な生き方です。
義元は家康を幼い頃から駿河で養育し、名軍師・太原雪斎の教育も受けさせました。氏真と家康は年齢もそう変わりませんし、独自のパイプもあったのでしょう。懸川城籠城では戦うだけではなく、交渉も行なっていました。同時に、氏真の奥さんである早川殿は北条氏康の娘ですから、北条氏とも交渉し、逃げ場を確保するため努力をしていたと思います。
徳川氏や北条氏とのパイプがあり、それが上手く生きて、近世に幕府が編纂した「新編相模国風土記稿」によると、氏真は早川殿の実家になる小田原城に近い相模国早川に館を構えたようです。
その後、北条氏康の息子である氏政が武田氏と同盟を組むと、北条氏を頼ることも難しくなったため、家康の居城である浜松へと今度は移ることになります。
懸川城で破れてから、実は氏真は一歩一歩地道に交渉し、生きる道を選択していたのです。

ライター情報: 長井雄一朗

建設業界30年間勤務後、アーリーリタイヤで退職。フリーで建設・経済・政治・外国人労働者・中国・韓国について執筆。働き方改革は執筆テーマの1つ。ワイフとともに、日本や海外旅行を満喫。好きな言葉は「私の人生これからだ」

URL:Twitter:@asianotabito

コメント 1

  • 匿名さん 通報

    いかにも今の日本人的ってことでは。

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