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日銀・黒田総裁を悩ませる「あの政策」実施のタイミング

再デフレに陥らないために

出口政策は慎重に

筆者は日銀が「出口政策」のあり方を議論するのはまだ早いと考えている。

日本は、これからデフレ脱却に向けていよいよ正念場という局面に入ってくると思われる。このような局面でやるべきはインフレ目標政策に対するコミットメントをもう一度強化することであって、出口政策の話をすることではないと考える。あまりに拙速に出口政策の議論をしてしまうと、経済やマーケットにむしろ逆効果ではないかと考える。

しかしながら、日本では、出口政策の議論を早急に進めるべきであるという意見が多数となっている。その主な理由は、出口政策実施の際に懸念される日銀の赤字計上や債務超過リスクを事前に明らかにすべきだからというものである。

この点については、エコノミストらによってシミュレーションなどが提示されている。筆者も、シミュレーションをして欲しいと某メディアなどからリクエストされたことがあるが、どうしてもやる気が起きない。

その理由は、「日銀の債務超過や赤字計上」について経済的な意味がないと考えるからである。この点については、経済金融アナリストである吉松崇氏の論文(週刊エコノミスト11月7日号や「アベノミクスは進化する」所収の論文)にそのすべてが記述してあるので、ここでは言及しない。吉松論文を是非とも参照していただきたい。

筆者が出口政策で重要だと思うのは、むしろ、出口政策を始めるタイミングである。特に膨大に積みあがった超過準備をどのタイミングで削減していくかについては成功例が存在しない(テーパリングに関してはいくつかの成功例がある)。

出口政策はかなり慎重に進めなければならない。拙速な出口政策は経済に深刻なダメージを与えかねない。

 

「デフレ脱却」の判断の難しさ

これには歴史的な教訓がある。

戦前の世界大恐慌期において、米国は今回のリーマンショック時と同様のゼロ金利・量的緩和政策を1932年終盤から実施した。その後、株価上昇、及び生産の拡大、そして、インフレ率の上昇など、急速な経済の回復もあり、当時のFRBは1935年の半ば頃から出口政策の議論を始め、1936年後半より実際に出口政策を開始した。

このときの出口政策は、法定準備率の段階的な引き上げによって超過準備預金を必要準備預金にシフトさせることで超過準備を減少させていくというものであり、例えば、FRBが保有していた国債の売りオペなどのドラスティックな信用収縮策はとられなかった。

当時のFRBの金融政策決定に関する会合の議事録をみると、過度の「流動性収縮」がマーケットや経済に与える悪影響を懸念しており、出口政策としては最もマイルドな政策を選択した。さらにいえば、結局、利上げまでには至らなかった。

だが、米国経済は1937年に再び深刻なデフレに見舞われることになった(「1937年大不況」)。経済の急激かつ大幅な落ち込みによって、FRBは再び量的緩和政策を採用せざるを得なくなる。

そして、その後、米国は第二次世界大戦に参戦し、戦費調達の必要性が生じたこともあり、1942年より、FRBは「Bond Price Peg制」という国債価格維持政策を導入し、緩和を強化した。これは、現在、日銀が採用している「イールドカーブコントロール(YCC)政策」に近い政策であった。

以上の歴史的事実は、「デフレ脱却」の判断の難しさを雄弁に物語っている。1935年から1936年にかけての米国経済の回復は著しく、当時の誰もが、デフレは完全に克服したと考えた。いや、それどころか、株価の加速度的な上昇からバブル再燃懸念やインフレ懸念を表明する政府高官も少なからず存在した。当時のFRBは「満を持して」出口政策を開始したが、その結果は、再デフレを招くという大失政となった。

この失敗は、長らく米国のマクロ経済学者の関心を集めてきたが、最近になって、インフレ率の上昇が想定より低いことを懸念するFRB内の一部から出てきた「物価水準目標政策」検討案も、出口政策失敗のリスクを懸念しての動きではなかろうか。