読んだ。
言及されてるダルちゃんおもしろいよね。ふつーに続きどきどきしながら待ってる。
あまり本を読まないから、実は知らないだけでそういう苦悩モノいっぱいあるのかな。でも、ネット上で読む機会は少ないから書いてみる。
女性が生きづらさを感じるシーンって、あなたじゃなく、女性であるあなたって役割を押し付けられる機会が多いことだと思う。そういう強制はまあ男性の方が少ないから、辛さを感じる機会も少ない。
それで、学生時代に保育を選んだ僕のこと。
家族が転勤族で、引っ越すたびに家の前が幼稚園や保育園だった。背が高い男の人ってだけで子どもが寄ってくるから、これが僕の適職だって単純に進路を決める。勉強嫌いだったし。
学年は200人。うち男子が11人いて、僕だけなぜか一人で女子30人のクラスへ。(そこは男子三人でよかったのではといまでも思う。)
この時はじめて学んだのは、女の人は、意識して女の人のコスプレをしてくれてたんだってこと。男子が僕しかいないから遠慮も何もない。舎弟よろしく「あ、うっす! はい」みたいな。
まあでも学校は慣れればなんてことなくて。別に期待も何もされてないから、男として特別な振る舞いをする必要もない。ピアノを連弾したり、折り紙を折っては季節が過ぎる。
2年次の春から実習に入る。
僕は体力や腕力がめっぽうなくて、行く先々で先生にため息をもらった。表情に(なんて使えねえんだこいつ……)ってありあり浮かんでて。ああ、そっか、僕は男性で、男性としての役割をまっとうできてないんだなって。学校の成績はトップだったけど何の役にも立たなかった。
女性の先生たちと同程度の力はあった。でも、求められているのはそういうことじゃない。楽器が下手でも、保育理論に疎くても、やって貰いたいことがある。このときはじめて男性である自分を辛いと感じた。
でも、もっと辛かったのは学校に戻ってからだった。先生や同性の友人に話したら失笑・苦笑のオンパレード。「当然だ」って。そっか、僕はいっぱい勉強も訓練もしたけど、それは本筋じゃなかったんだ。
女性が無意識に求める男性像。男性が自らをまっとうな男性と認めるための能力。そういうものが世の中にはあって、時に努力とは無関係に降り掛かってくる。
なーんてことを学生時代に感じながら、紆余曲折を経て会社経営の身。
最近、当時に似たことを思う。
いま女性有料・男性無料の婚活サイトを運営している。男性は無料のかわりに面談を通過しないと登録できない。そこで感じたエピソード。
面談三日間のよもやま話。
ことさらに主語を大きく話すつもりはないのですが、僕ら男性が選ばれる側に立つのは慣れてないなあという実感。自分をフルーツ棚に並ぶ商品に変えよう、ということではなく選ぶ側の視点に立つという意味で。
面談で話が膨らむのは自分の紹介が上手いひと。話し上手とはちょっと違う。顔やお金が婚活に関係ないとは言えないけれど、少なくとも面談者が推すコメントはそこでのトークに立脚してる。
彼らが女性側の視点で話しているかといえば必ずしもそうではない。日々の営業なり短時間で自分を売り込まないといけない経験がベースになっているように思う。
そう考えると男性アイドルはすごい。顔がいいのがデフォルトだから、キャラを立てないことには見つけてもらえない。それには自分を知って、周りとの違いを理解しなければいけない。きっと一朝一夕なんかにできない。
恐ろしいのは、こうして女性が選ぶという視点に立つと自分も同様に眼差されているんだと理解できること。女性はその眼差しの存在に、僕らよりもずっと幼いころから気づいているであろうということ。
男性に視座を置けば自分を過度に評価せず、あるいは卑下するのでもなく、他者との違いを適切に誇れるならばそれを好しと思う相手も見えるのだろう。
いうて僕も独身なんですけどね(笑)
現場からは以上です。
僕ら男性って、ナチュラルに自分を選ぶ側って認識してる。だから選ばれる視点を持っていないし、自分が選べない側に立つと時にフラストレーションを感じる。
男が男として生きる辛さ。それは、例えば能動的に愛さないといけないとか、稼がないといけないとか、細かいこと言えばキリがない。でも、一言で述べるならこうだろうか。
マジョリティゆえの弱さを見つめる機会の少なさ。そこから生まれる同調圧力。
ダメなオレを愛しておくれと振り切る。あるいは、ある種の体験と言語化の得意な女性から学ぶ。どちらも一つの手段だけど、できれば男性がフラットに自身の弱さを語れると嬉しい。それをダサいなんていう風潮くらいは変えたいよね。