華氏65度の冬

うたを翻訳するということ

神々の詩 もしくは捏造された言語 (1997.姫神) ※

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A-ba, naa-nga MAPO.
アバ ナガ マポ
私の名前はマポ

A-ba aka-ki körömö-bö könö-mi-bu-mu.
アバ アカキ コロモボ コノミブム
私は赤い着物が好きです

A-ba, ötö-nga nag-ri-bu-du ei-bö mun-dak-ri-bu-mu.
アバ オト ガ ナグリブドゥ エイボ ムンダクリブム
私は弟(妹)が泣くのでかれを抱きます

A-ba, naa-nga MAPO.
アバ ナガ マポ
私の名前はマポ

A-ni, nönö tö, aya tö, ine tö, ye tö,
ötö si bu-i-bu-mu.
アニ ノノ ト アヤ ト イネ ト イエ ト オト シ ブイブム
私に祖母(祖父)と父(オジ)と母(オバ)と兄(姉)と弟(妹)がいます

A-ba, naa-nga MAPO.
アバ ナガ マポ
私の名前はマポ


神々の詩

この曲は今からちょうど20年前に放送されていた「神々の詩」というテレビ番組の主題歌で、それほど熱心に見ていたわけではないけれど、耳にはずっと残っていた。それを今回ここで取り上げたのは、ずっと「歌詞のない歌」だと思っていたこの曲に実は「ちゃんと」歌詞がついていたのだということを最近知って驚いたこと、しかもその歌詞というのが、国立民族学博物館の教授だった崎山理という人によって「復元」された「縄文人の言葉」で書かれているらしいことを知って二度びっくりしたということが、直接の理由である。(従って今回の「訳詞」はもちろん私が「翻訳」したものではなく、さるところからの「丸写し」になっている)。そういう今までと違ったことを敢えてしたのは、このブログのテーマになっている「うたを翻訳するということ」について改めていろんなことを、そこから考えさせられたからだった。

上に紹介した歌詞が「縄文語」であると言われてみると、実に「それっぽく」仕上がっていることにまずは驚く。そしてそれがこの曲独特の「地声のコーラス」と合わさることで、確実に「今まで誰も聞いたことのない音楽 (それでいてなぜか懐かしさを感じさせる音楽)」を作りあげることに成功していると思う。実際この曲は何度聞いても飽きないし、何度でも繰り返し聞きたくなる曲である。少なくとも私にとってはだけど。そして本当に縄文時代の人たちは、こんな言葉で話していたのかもしれないとさえ、ともすれば「思いたく」なってしまう。

しかしこの「縄文語」は、一体どんな根拠にもとづいて「復元」されたものなのだろうか?見たところ「ブム」という謎の語尾を除いては、現代の日本語が多少「訛った」だけの言葉になっているようにも思える。

助詞の「は」「が」「を」「と」が、それぞれ "ba" "nga" "bö" "tö" という音に対応している。縄文時代には現代日本語のワ行の音がバ行で発音されていたという想定があるらしいことが見て取れる。(ちなみに日本語のワ行がバ行に変わるのはロシア語の特徴でもある)。「が」が "nga"と表記されているのは、鼻濁音を意味しているのだろうか。さらに興味深いことには、現代日本語のオ段の音が"o"ではなく、ドイツ語の中で日本人にとって一番発音しにくい母音と言われている"ö" (オーウムラウト。「おぇ」というような音。ただし曲の中のオ段の音は、この音でなく全て普通の"o"で発音されている) で表記されている。縄文時代の人たちは、みんなこんな発音で話していたということなのだろうか。何でそんなことが分かるのだろう。

さらに "A-ba, naa-nga MAPO" というリフレインには「私の名前はマポ」という「訳詞」がついているが、「直訳」するなら「私は名前がマポ」になるはずである。今の感覚からすれば、ずいぶん不自然な言い方だと思う。万葉集あたりで使われている古代の言葉との対応からしても「吾が名はマポ(真帆?)」とかにした方が「それっぽい」感じになると思うのに、何でこういう助詞の使い方が選択されているのだろう。さらにこの箇所には、体言止めという「レトリック」が使われている。少なくとも現代日本語の感覚からするとこの部分はどうしてもレトリックに見えてしまうのだが、そうではなく縄文時代にはそれが普通だったというのであれば、その根拠はまた、何なのだろう。

私はこの歌詞について、詳しく知りたくなった。一語一語がどういう根拠と基準をもって「復元」された「縄文語」なのか。またこの歌詞は曲のイメージに触発されて「創造」されたものなのか、はたまた歌詞が先にあって後から曲がついたものなのか。いろんなことが、知りたくなった。

1996年に発行された「縄文鼎談 三内丸山の世界」という本の中に、この歌の作詞者の崎山理氏との対談をおさめた「ことばを復元する」という一章が設けられていたのを、図書館で見つけた。この歌に出てくる語彙については、大体その中に言及があった。

青森市の野球場建設予定地で、縄文時代前期から中期にかけて (約5500〜4000年前) 1500年にわたり繁栄した痕跡が残る巨大遺跡が発掘されたのは、1994年のことだった。上記の本はそれから一連の「縄文ブーム」を受けて出版されたものであり、姫神がこの歌を発表した時期とも符合している。

言語学者である崎山氏は、「縄文語」を「ツングース系の言語とオーストロネシア系の言語とが混ざりあった言語」であると想定し、さらにそれが現代日本語の「母体」をなしていると主張していた。オーストロネシア語族とは「日本列島の真南に扇型に広がる大語族で、その分布は、東はチリのイースター島、西はマダガスカル島まで地球を半周以上して」いるのだとのこと。一方でツングース諸語は「エニセイ川以東のシベリアから沿海州樺太にかけての広大な地域に分布」しており、「これまではアルタイ語族の一派といわれていた言語」であるという。

「神々の詩」の歌詞の主要な部分をなしている「親族名称」をめぐっては、以下のようなコメントがなされていた。

現代語のツマ(妻)はオーストロネシア語の tẻman ですが、これは配偶者のことですから、妻でも夫でも同じで、オーストロネシア語でもこの言葉は伴(とも)を意味します。お父さんはアヤで、オーストロネシア語のayaq (父)。

[対談者: 津軽弁でもアヤですね]

お母さんをイネというのは、佐渡や石川、福井で、これもオーストロネシア語の ina(母)からです。そのほか、親族名称を全体的に見ると、世代別に大きくくくれるようです。祖父、祖母はノノ (オーストロネシア語 nini) ですが、方言でも千葉のほか広く分布していますし、孫もそう呼んだと思います。アヤも父のほか、オジを含んだでしょう。イネも母とオバのこと。兄姉と年上のいとこがイェ、弟妹と年下のいとこはオトで、これらの語源は、ツングース系であった可能性があります。全体として、縄文の親族体系は世代型とも呼ばれるハワイ型をもっていたことになる。

…現代の各地の方言との比較や、「オーストロネシア語 (もっともこの「語族」には約1000の言語が含まれているとのことであり、具体的に何語をさしているか書かれていないのは、気になる。同書にはしきりと「原オーストロネシア語」という言葉が登場するが、それがどんな言語だったかを「復元」するのは縄文語の「復元」と同じかそれ以上に難しい作業になるはずである)」との対比関係が書かれている部分は、素直に読めるし、面白いと思う。しかしそれらが「縄文時代に話されていた言葉だった」というのは、何を根拠に言えることなのだろう。最後の「縄文の親族体系はハワイ型をもっていたことになる」という部分も、「もし縄文語の親族名称がその通りなら」という仮定の上に初めて成り立つ話であるはずなのだが、その仮定を証明してくれるような説明は、書かれていない。

そのうえで以下のような発言が次々に出てくるから、理解に苦しんでしまう。

縄文語では、カミ(髪)、トゥラ(顔)、ムナ(胸)などはツングース系、マア(目)、ミミ(耳)、パナ(鼻)、ピル(口)などはオーストロネシア系です。

…これについても、「今の日本語」の髪や胸といった単語のルーツがどこにあるかという話としてなら、素直に読める。しかしいきなり「縄文語では」という断定的な言葉で話が始まる根拠は、何なのだろう。せめて「私の考える縄文語では」ぐらいの留保は、つけてもらえないものなのだろうか。こちらが知りたいのは、文字も録音技術もなかった縄文時代の言葉を「復元」するなんてどうすれば可能になるのだろうというその一点なのである。

「縄文語を具体的な文で説明する」として、同書には以下の例文が掲載されている。「ブム」への言及はここにある。

「われわれは臼でアワを搗く」を例にしましょう。Mẻi-ba usu-du awa-bö tuk-ri-bu-mu、この中で-ba、-bö、-duのような動詞はすべてツングース語系、mẻi (われわれ)、usu (臼)、awa (雑穀)、tuk (搗く) という語彙はオーストロネシア語系です。動詞の活用部分の-bu、-muはさきにもいったようにツングース語系。

…どうも、腑に落ちない。「縄文語について説明する」と言いながらも、ここで「例」に出されている「縄文語」の実態というのは、「今ある言葉」をいろいろに組み合わせたコラージュにすぎないのではないだろうか。そしてその「今ある言葉」の選択基準は、日本で「田舎」と言われている地方や世界で「未開」と呼ばれている地域で話されている言葉は「古い言葉」であるに違いない、という先入観にしか、もとづいていないように思える。

サルトルは「文化人類学帝国主義者の最後の砦である」と言ったそうだが、この崎山理という人の断定的な話ぶりには、どうもそういった学者特有の傲慢さが見え隠れしているように思えてならない。

だいたい、「本州」の北端で5000年前に話されていた言葉が「日本語の母体」であり、「われわれの祖先の言葉」だったという感情移入の仕方自体、どうなのだろう。周知のように天皇の一族が自分たちの国家の対外的な自称として「日本」という言葉を使い始めたのは、3500年以上も後の7世紀のことであり、しかもその時点で東北地方は「日本」の領域には含まれていないのである。東北地方が「日本」に組み込まれてゆくのは、いわゆる平安時代に本格化してある意味現在まで継続している度重なる侵略を通じてのことであり、現在の青森県は決して「もとから日本」だったわけではない。

 (谷川健一の「白鳥伝説」などによると、「ひのもと-日本」は大和朝廷より先に日本列島に定住していた人たちが自称していたクニの名前であり、それが東日本に追いやられる中で国号そのものをも大和朝廷に奪われたのだ、という説があるそうです。このことは「旧唐書」「新唐書」などの中国の歴史書にも記載されており、その意味では現在の東北地方こそが「本来の日本」だったのだとも、言えないことはない。しかし当ブログでは現在まで継続している侵略・征服・支配の主体とをさす言葉として、「日本」という国家の名称を使っています)

「神々の詩」を作曲した初代姫神の故・星吉昭氏は、岩手盛岡の地から一貫して「東北の文化」「東北の心」を発信し続けていた人だったとのことであり、その人が「自らの祖先」への思いを込めて、祖先たちが経験したさまざまな喜びや悲しみや怒りや口惜しさに思いを馳せて作ったのがこの曲だったということは、疑いないと思う。だからこそ、聞く者をして襟を正さしめる何ものかが、この曲にはある。

しかしながら一方で、自らを「日本人」であると規定している人が、この歌を聞いて「懐かしさ」にひたったり、「自分たちの祖先の言葉が歌われている」と感じたりすることは、果たして「許されること」なのだろうか。この歌に歌われているのは「自分たちの祖先」どころか「自分たちの祖先が殺戮し、すべてを奪った相手」のことかもしれないのである。とりわけ私のように西日本で生まれた人間にとっては、むしろその可能性の方が高いわけだ。だから少なくとも私はそうした「緊張感」を持ってこのメロディと向き合わねばならないと感じるし、また自分たちの祖先が「作って」きた歴史への反省を促されているようにも、感じずにはいられない。

そもそもこの歌の「縄文語」の歌詞を「作詞」したという崎山理氏は、どこの人なのだろう。プロフィールを見ると「大阪府出身」と書いてあった。

私は、何だかすごくイヤな気持ちになった。同じ近畿地方の出身者としてである。

同じ関西人である司馬遼太郎が、死ぬ直前に書いた文章で三内丸山遺跡のことを「北のまほろば」という言葉で形容していたことに対しても、「すごくイヤな気持ちになった」ことを私は思い出した。「まほろば」などという言葉は、明らかに大和朝廷とその後継者たちが、自らの領土の「美しさ」を自慢するために使っていた言葉である。人一倍歴史に詳しいとみんなが思ってるし自分でも思ってたであろう彼のような人物が、他ならぬ天皇の一族によって侵略され蹂躙された東北の人々の暮らしのあとを、その天皇と同じ言葉で形容できるのは一体どういう了見なのだろう、と思ったのである。

もしも日本が「不幸にして」第二次大戦に負けず、朝鮮や台湾が植民地として日本の支配を受け続けていたとしたら、きっと彼はそこにも「まほろば」を見いだし、「われわれ日本人の魂のふるさとはここにある」とか書いていたに違いないのだろうな、とそのとき思った。いま現在その他で暮らしている人たちのことは二の次にするか、あるいは無視した上でである。司馬遼太郎は「反戦思想」の持ち主だったと今でも書かれることがあるし、私も十代の頃はそう思っていたけれど、全然そんなことはないのであって、彼が第二次大戦時の軍部のことを批判していたのはそれが「負けた戦争」だったからにすぎない。もし「勝って」いたならば、南京大虐殺731部隊についてもいっさい触れることなく、「坂の上の雲」と同じような景気のいい英雄譚ばかりを、その後の歴史に関しても大喜びで綴っていたに違いない。その程度の人物だったし、だから右翼が「安心して」愛読できるのである。

崎山理という人が大阪の人で、かつ青森の縄文遺跡に感動し、そこで話されていた言葉について想像したくなったとしても、それはそれでいい。しかしその感動がどんな種類の「感動」だったのかということは、やはり問題だと思う。もし「日本」という国家が「東北」に何をしてきたのかという歴史をそっちのけにして、そこに「日本人」としての自分のルーツを見出すような「感動」の仕方をしていたのだとしたら、それは三内丸山の死者たちに対しても、いま東北に生きている人たちに対しても、失礼な行為だと思う。場合によっては彼のやっていることは、自分の祖先が殺した相手に自分の祖先の言葉を喋らせて悦に入っている醜悪な行為にすぎないかもしれないのに、そういった恐ろしい可能性については、考えもしないのだろうかと思ってしまう。

というより今の私にとってこの「神々の詩」は、もはやそういう歌だとしか思えない。

ネットでこの歌について検索してみると、私が調べた限り「今ある言葉」のパッチワークでしかない「縄文語」は至るところで絶賛されており、「日本民族の魂を揺さぶる」とか「日本の伝統がここにある」とかいった賛辞が溢れている。「日本の心を象徴する歌としてぜひ東京オリンピックのテーマソングに」とかいった声もある。やめてほしいと心から思う。そもそも私はオリンピックそのものを心からやめてほしい1人なのだけど、そんな風に「日本」という言葉を使ってこの歌をもてはやすことが続けば続くだけ、その「日本」によって滅ぼされた東北の原住民の人たちの魂は、浮かばれなくなると思う。その意味で日本という国家は、「死人に口無し」とばかりに、自らが侵略し征服した相手から未だに多くのものを奪い続けているのである。

私はいつか世界から国境がなくなる日が来ればいいと心から思うし、地球の裏側で発見された5000年前の人骨が世界中の人たちにとって「われわれの祖先」であると見なされうるような時代が来ればいいのにと強く思う。言い換えれば、世界はひとつになるべきだと信じている。

しかしそれはあくまでも、世界から戦争をなくすことに成功した後の話である。

そのためには日本を含め、戦争を通じて自らを「発展」させてきた全ての国々が、その歴史を反省するところからしか何も始まりはしない。「誇っていい戦争」があるとすれば、それは侵略者を撃退した戦争か、圧制者を自分たち自身の手で打ち倒した戦争だけであると私は思う。

その反省を持たない「日本人」が、東北を、いわんや沖縄や北海道の伝統文化を「自分たちの誇り」のために消費の対象にするなど、許されないはずである。そういうことができる人たちは結局「侵略の歴史」を「誇り」続けているにすぎないのだ。そういうことを続けている人間がいる限り、世界はいつまでたってもひとつにならない。

「うたを翻訳するということ」は「異文化理解」とテーマをひとつにしている。「異文化理解」と言葉で書くのはカンタンだけど、それが本当に「可能」なことなのかという確信すら、正直言って私の中にはない。しかし「異文化」のことを私自身が「知りたい」と思っている気持ちだけは、少なくとも本物だと言える。だから私は「うたを翻訳するということ」を続けている。

その作業にあたって私は「元の歌詞に勝手な意味はくっつけないこと」などの様々なルールを自分自身に設けてきたが、今回この歌と向き合うにあたって改めて肝に銘じねばならないと思ったのは、「自分に都合のいい解釈をしないこと」である。他者の言葉は他者の言葉として受け止めねばならないのであって、そのこと自体は当然のことにすぎない。ところがこの「神々の詩」の作詞者は、学問的な装いのもとに「他者の言葉」そのものを捏造し、それを代弁することで「日本人としての自分」を表現するという、とてつもないことをやっている。ある意味、「華氏65度の冬」の究極形態と言えるだろう。それは同時に「他者から言葉を奪う」という最大の暴力の究極形態でもあると私は思う。そしてこの曲の場合、なまじっか曲がよくできているだけになおさら「タチが悪い」のである。

作詞者の崎山理という人に対しては今やそんな風に反感しか感じていない私なのだけど、作曲者の星吉昭さんはその辺りのことについて、どう感じていたのだろう。私はどうしても、気になってしまう。

「縄文語」などという変な意味さえくっつけられていなければ、いつまでも普通に聞き続けられた歌なのかもしれないけどね。「青春に決着をつける作業」はいつもそんな風に、かつて愛したものとの無数の訣別を通じて進めて行くしかないものなのである。

なかなかに、しんどいことだ。

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