先日、『ブレードランナー2049』を観てきました。前作の『ブレードランナー』から30年後の世界を描いた作品ですが、前作との大きな違いは、少々ネタバレになってしまいますが、「産むこと」、そして「居ること」であったと感じました。
今回の記事では、『ブレードランナー2049』と、同作品で主人公を演じたライアン・ゴズリングが2007年に演じた『ラース、とその彼女』の二つの作品について考えてみたいと思います。
《目次》
- 『ブレードランナー2049』のあらすじ
- 『ラースと、その彼女』のあらすじ
- 両作品の共通点ー不自然な彼女たちー
- 彼女たちは、何を表現したのだろうか?ーネタバレ含みますー
- 僕は、人造人間ー子でもなく、親にもならず、ただある主体ー
- 彼女は、いるのかージョイは、観客に問いかけるー
- 最後に、『ブレードランナー2049』感想です。
「あらすじは、もう知ってるよ」という方は、【両作品の共通点ー不自然な彼女】まで、とばしてください!!
『ブレードランナー2049』のあらすじ
【あらすじ】
2022年にアメリカ西海岸で大規模な停電が起きたのをきっかけに世界は食物供給が混乱するなど危機的状況を迎える。2025年、科学者ウォレス(ジャレッド・レトー)が遺伝子組み換え食品を開発し、人類の危機を救った。そして、元捜査官デッカード(H・フォード)が突然行方をくらませて以来30年の月日が流れた2049年には、レプリカント(人造人間)の寿命に制限がなくなっていた。LA市警のブレードランナー“K”(R・ゴズリング)は、ある事件の捜査中に、《レプリカント》開発に力を注ぐウォレス社の【巨大な陰謀】を知ると共に、その闇を暴く鍵となる男にたどり着く。
彼は、かつて優秀なブレードランナーとして活躍していたが、ある女性レプリカントと共に忽然と姿を消し、30年間行方不明になっていた男、デッカード(H・フォード)だった。いったい彼は何を知ってしまったのか?デッカードが命をかけて守り続けてきた〈秘密〉―人間と《レプリカント》、2つの世界の秩序を崩壊させ、人類存亡に関わる〈真実〉が今、明かされようとしていた。
『ラースと、その彼女』のあらすじ
【あらすじ】
幼いころのトラウマから人とのつながりを避けて生活し、毎日地味な仕事に従事する青年ラース(ライアン・ゴズリング)。そんなある日、彼はガールフレンドを連れて自分を心配する兄夫婦(エミリー・モーティマー、ポール・シュナイダー)と食事をすることに。しかし、ラースが連れて行ったガールフレンドとは、インターネットで注文した等身大のリアルドールだった。
両作品の共通点ー不自然な彼女たちー
両作品の共通点、それは、主人公の彼女(パートナー)が、実在する『ヒト』ではないということです。『ブレードランナー2049』では、ホログラムの女性ジョイ、そして『ラースと、その彼女』では、ダッチワイフのビアンカです。
(ジョイ。ホログラム、触ることはできません。可愛いですね)
(ビアンカと主人公、幸せそうです。)
そして、彼女たちを愛する主人公は、心を閉ざしがちのシャイボーイです。彼は、彼女を真剣に愛していますし、周囲の人間たちは、その彼を見守ります。
また、ここで言及しなくてはならないのが、前作『ブレードランナー』のヒロインであるレプリカント(人造人間)のレイチェルがいます。彼女は、人間に比べ、寿命は短く、生殖機能はない、と考えられていました。
(レイチェル、タバコを吸っているシーンが印象的です。)
一作目では、このレイチェルとそれを追う刑事の恋愛が描かれることになります。人と、人に非ざるものである人造人間が、心を通わすことで、人造人間は人間なのか?、そして人はどこから人間であるのかを問うのでした。
彼女たちは、何を表現したのだろうか?ーネタバレ含みますー
ここで彼女たちは何を表現したのかを考えてみたいと思います。そこで、簡単な図を作ってみました。
生殖機能 |
性的行為 |
触知 |
寿命 |
意志 |
|
レイチェル |
可能 (奇跡) |
可能 |
可能 |
4年 |
有り |
ジョイ |
不可 |
可能 (《器》が有れば) |
不可 |
永遠 (壊れるまで) |
有り (人工知能?) |
ビアンカ |
不可 |
可能 |
可能 |
永遠 (壊れるまで) |
無し(?)
|
この表をみる限りですが、『ブレードランナー2049』にジョイのような女性が出てくる必要性がわかってくるような気がします。前作の『ブレードランナー』では、寿命が人と比べ短い、儚い存在であったレイチェルが、『2049』では、男性と愛を育み、奇跡的に出産をするなど、人間との差異が、もはや存在しない、と感じさせるまでになっています。こうした、レプリカント(人造人間)と、人間の対比が、曖昧になっていくなかで、レプリカントが可能になった領域でさえ、叶えることができない存在として、ホログラムの女性であるジョイが存在することになります。たとえば、セックスの相手となるために、ジョイはレプリカントの売春婦を彼女の《器》として用いることになります。
ジョイは、極めて男性の理想に近い存在であるとともに、触れるという根本的なことができない存在でも有ります。これは、ダッチワイフにさえ可能である領域でさえ、望むことができないことになります。
僕は、人造人間ー子でもなく、親にもならず、ただある主体ー
ここで、『ブレードランナー2049』のジョイと、新型レプリカントである主人公の恋愛について考えてみたいと思います。
レプリカントは、生殖機能をもたない(と考えられてきた)存在であるため、主人公Kは、親になることが許されない存在である、とも言えます(制度的にも、肉体的にも)。彼は、同様に、子であることも否定されるのです。
彼は、子でなく、親になることもない存在として登場し、死にます。人間には、親になることはなくても、子であることがないという人間は存在しません。
その彼の思い人である、ジョイは、前述したように、理想的な女性であると同時に、産むこと、触れることのできない女性でもあります。彼らには、過去がない、子でも、親でもない、という共通点を持ち、関係を育んでいきます。
ジョイが、レプリカントと人間の子なのか悩む主人公に、「きっとそうよ。」と告げるシーンには、彼女なりの覚悟があったことが伺えます。彼女が、人間のように死ぬ、起因となるのは、こうした人間に近づきつつあるKとともに歩むことへの望みます。これは、ジョイ自身の成長と捉えても良いのではないでしょうか。
哲学者ハイデガーのいう被投性と先駆的覚悟性といった関係性が、描かれているように感じました。
彼女は、いるのかージョイは、観客に問いかけるー
そして、彼女たちはいるのか、という問いについて考えてみたいと思います。 『ブレードランナー2049』で、最後に、主人公が倒れたシーンで、わたしは、「これで、ジョイと、天国で幸せに」と、思ってしまいました。しかし、ジョイに、天国はあるのでしょうか。そもそも、彼女は、いたのだろうか?とも考えてしまいました。
それは、ただのセーブデータの消滅なのか、一つの命の死なのかという問題です。
『ラースと、その彼女』では、主人公によるダッチワイフの彼女ビアンカの死が宣告されることによって、物語は幕をおろします。彼は、ビアンカの死から、他の異性への好意を示すことになるのです。ダッチワイフの死は、周囲の人々に共有され、本当の人の死として扱われることになります。
ビアンカは、本当の人間として近所や職場の人々に扱われることで、人格があるとされ、彼女を介することによって、主人公や周囲の人々は親交を深めることになるのです。彼女は、人形であり、意思を持たない空虚な存在ですが、機能的にも、また人々の認識の中でも、存在した人物として、死ぬことになるのです。
わたしは、東北地方の山間部に寝泊まりし、とある宗教団体に取材させていただいたことがあるのですが、そこの信者さんや宗教者の人たちの生活の中に、前世や来世、そして霊や神が、機能的に大きな影響を与えていることを目の当たりにしたことがあります。見えないもの、確認できないものでも、周囲がその存在を信じ、「ある・いる」ように扱うことで、機能として、実際に存在するように感じられるのです。
『ラースと、その彼女』も、同様に、周囲の人々の好意で、彼女は生きることになり、死ぬことになります。『ブレードランナー2049』においても、同様に、ホログラムであり、触れることのできないジョイですが、共通の思い出や日々の会話を通し、Kにとって重要な存在であるだけでなく、それを見守る、私たち観客にとっても、存在する女性として認識されるにいたります。観客にとって、ジョイと、他の女性は、スクリーンで見ているため大きく違いがないように感じられますし、かつ、とてつもなく可愛い(わたしの主観ですが、)のです。
そして、彼女は、映画を見る観客の前で、死ぬことになります。この映画を見た人なら、この彼女の死を、単なるデータの消去であるとは捉えることはないでしょう。彼女は、ホログラムであり、データであったと同時に、人間として死んでいったのであると思いました。
最後に、『ブレードランナー2049』感想です。
ただ、一言です。「ジョイ、欲しい」の。一緒に妻とこの映画を鑑賞したのですが、帰り道は、ジョイの話しかしませんでした。わたしが、もしあの世界に住んでいたら、もう完全に、ジョイ廃人だったでしょうね。
映像も美しく、素敵な映画でした!
他にも、映画について記事を書いております!読んでいただけたら嬉しいです!