藤堂さんも一人暮らしだった。僕の部屋とはちがいよく片付いていた。照明は意図的に落とされていた。フローリングされた小ぎれいなワンルームだったが、暖房器具は電熱棒が赤く灯るタイプのヒーターしかなく、少し寒かったのを覚えている。壁ぎわにパイプでできた黒いシングル・ベッドがあり、その足もとには本棚が立っていた。反対側の壁には簡素な書き物机。たしか十一月の終わりごろのことだ。
座ぶとんを敷き、部屋の真ん中に置かれたロー・テーブルをはさんで向かいあった。藤堂さんのつくった野菜炒めを食べ、ビールを飲んだ。焼き肉も出してくれた。「八代はそういえばまだ未成年だったな」と藤堂さんはニヤつきながら缶ビールをグラスについでくれた。
警備員仲間に、やたらと笛ばかり吹きたがる六十過ぎの村田さんという男性がいるのだが、この村田さんがチンピラに、「うるせぇんだよ! 一日じゅう事務所の前で笛ばっかり吹きやがってよ!」とヘルメットを小突かれたという話を藤堂さんが面白おかしくした。「そのときの村田さんの言い訳がさ──」と藤堂さんは笑った。「『会社がどうしても笛を吹けと──』だったらしいぜ。管制補佐の
それから藤堂さんと僕とで飯田のいやみったらしいいつものしゃべりかたを真似しあった。管制補佐をやっている飯田はホスト上がりの二十三かそこらの茶髪の男だ。スーツもその当時のものをそのまま着ているらしく、まったく堅気の人間には見えない。紫色のジャケットを着た人間など芸能人以外で僕は初めて見た。「似てる、似てる。飯田の物真似は八代の勝ちだなぁ──」。二人でひとしきり笑った。
そして九時を少しまわったころ、明日も仕事だからそろそろ話さなきゃな、と藤堂さんは切り出したのだ。その声には明らかに硬さがあった。僕も思わず背すじを正した。藤堂さんは僕と馬鹿話をしながら、おそらく頭のなかではこれから話す体験談についてずっと考えていたのだ。
「俺の育ったのは」と藤堂さんは話しはじめた。電熱棒の明かりを受け、顔の右半分がうっすらと赤くなっている。「京都なんだ」
意外だった。ぜんぜん
藤堂さんはビールを一口飲み、グラスを座卓の上に戻した。僕もグラスを手にとって一口だけすすった。
「生い立ちをくわしく話しても湿っぽくなるだけだから、はしょるよ」と藤堂さんは言った。「五歳のとき、俺は両親と兄を一時に亡くしたんだ。まぁ──交通事故だよ。そんなテレビドラマみたいなことがあるんだなって思うだろう。あるんだよ。今もしょっちゅう起こってる。みんな事故なんてとくに気にしてないから目につかないけどな。新聞なんかで知ってもすぐに忘れちゃうし。つかの間かわいそうだなぁってちょっと思って終わりだよ。いや、それでいいんだよ。俺だってこんな境遇じゃなかったら、きっとそうだったと思うし──」、藤堂さんは左手で前髪をかき上げ、額から目尻にかけて走る古傷を右の指先でゆっくりとなぞった。じゃまくさそうにまた前髪を落とし、額の傷を隠した。「似たような事故が起こると、やっぱり胸は痛むな。家族みんなが死んじゃって、幼い子どもがぽつん、と残ったりするとな。
死んだものはいいんだよ。うん、死んだものは。かわいそうなのは人生という不可解なところに一人取り残された小さな子どもさ。ニュースなんかでさ、『幸いなになにちゃんだけはおばあちゃんと家に残っていて事故に巻きこまれず無事でした』、なんてのを聞くと、ほんとつらいぜ。幸い、って言うけど、その子はこれから一人で生きていかなきゃならないわけだもんな。そりゃ大変だよ。おばあちゃん、って言ったって、やっぱりおばあちゃん、って言うぐらいだから、そんなにいつまでもいてくれるもんでもないしさ。
俺の場合は──父親の妹夫婦が引きとってくれたんだ。まぁ簡単に言えば、そこしか行くところがなかったんだよ。
叔母さんたちにとったらほんといい迷惑だったと思うぜ。結婚してまだ間がなかったし、ふたりとも三十前だったしな。それに子どもが欲しいっていうタイプの人たちでもなかったんだよ。叔母さんはジャズピアニストとして夜はたいていどっかのホテルで演奏してたし、叔父さんは〝なんとか〟っていう賞を取ったばかりの新進画家だった。うん、ふたりともいい人だったよ。良くしてくれた。いじめられたりなんかもいちどもない。ただ二人とも、この子がいなけりゃなぁ、ってどっかで思ってるんだ。なんでこんなことになっちゃったんだろう? って。そういうことって子どもにもわかるんだよ。いや、子どもだからこそ敏感にわかるんだな。俺も人一倍神経質なガキになってたし、つらくはあったな。はやく大人になって、京都の街から出ていきたいって、そればっかり考えてた──」
藤堂さんはいったん口を閉ざし、テーブルの上に視線を落とした。野菜や肉の載っていた皿から、わずかに食べ物の匂いがただよっていた。アパート前の道路からは車の走行音がくぐもって聞こえ、天井のすみの暗い部分にヘッドライトの反射が走った。どこかの部屋の床を誰かが歩きまわる音が聞こえた。なにかに苛立っているような慌ただしい歩きかただった。僕は黙って、話のつづきを待った。
藤堂さんはきまり悪そうに息を吐いてから、さっきより明るい声になってつづけた。
「まぁ、そんなふうな境遇だよ。ここまではただの前置きだ。ここからが本題──。
俺はでも、グレた子どもではなかったな。友だちとも遊んだし、ふつうに勉強もした──」
なぁ八代──と藤堂さんは照れの混じったような目になり、ローテーブルの向こうで前かがみになって僕の顔を見た。僕も藤堂さんの顔を見返した。
「おまえが小学生のころ、駄菓子屋へはよく行ったか?」
「駄菓子屋、ですか?」
僕は聞き返した。思わぬところへ話が飛んだからだ。しばらく考えてから、答えた。
「そりゃ行きましたよ。だけど、よくってほどでもなかったかな──」
そうだろうな、と藤堂さんは目の端にしわを寄せて笑った。そして、十歳以上としが違うわけだからそうなんだろうな、と独りごとのようにつぶやいた。
「俺の子どものころは小学校が終わると、たいてい駄菓子屋へ行ったんだよ。原っぱで野球をやってるか、駄菓子屋で遊んでるか──そんなもんだった」
いい〝おばちゃん〟がいてな、と藤堂さんは目尻のしわを深くした。「おばちゃんっていうより、もうおばあちゃんにちかい歳だったんだけど、俺たちは『おばちゃん、おばちゃん』って呼んでた。すこし太ってて──こだわりのない顔つきをしてた。丸い顔が笑うと、目もとに何ともいえない愛嬌がただよった。花でも咲いたような笑顔だった。歯がまだほとんど残ってることがおばちゃんの自慢だった。えび茶色の和服の上に白い割烹着をつけてた。割烹着からはお菓子の甘い匂いがほんのりといつも香ってた」
気の強いところもあってな、と藤堂さんはつづけた。「子どもが喧嘩しだすと店そっちのけで近くの公園につれてくんだ。そして砂場で相撲をとらされる。殴ったり蹴ったりできないから大した怪我もしないんだよ。どっちかが投げ飛ばされて、『なになに負けやがった』って子どもたちがはやしだすと、そんなこと言うなってすごい顔して怒るんだ。正々堂々と戦ったって、今回は相手が勝っただけだって、つぎ勝てばいいんだって、──それに本来──人生では誰も負けないようにできてるんだって」
「人生では誰も負けない?」、僕は思わず聞き返した。
「なぁ、子どもに向かって言うセリフじゃないだろ」
「どういう、意味だろう──」
「わからん」と藤堂さんは首をふりながら笑った。「おばちゃんが言ってくれた言葉で、いまもわからない言葉が1ダースはあるよ。へんに哲学的なところがあったんだ」
こんなこともあったな、と藤堂さんは思い出し笑いの顔になってつづけた。
「夕方、店の前を営業マンらしい中年の男性が通った。そしたらおばちゃんがそれを見ながら俺たちにこう聞いたんだ。『あのおっちゃんと、おばちゃんとどっちがエラい?』
みんなちょっと考えてから口々に言ったよ。『そらあのおっちゃんや、男やもん!』『 口髭も生やしとおったしな』『背広もうちのお父ちゃんよりええのん着とおった』
『あほぅ!』っておばちゃんは隣にいた坊主頭の後頭部をはたき、そいつは目を白黒させた。『そんなもん男やとか髭やとか背広とかで決まるかい!』、なにが口髭じゃ! とおばちゃんはもう一発坊主頭をはたいたんだけど、坊主頭はひとこともまだ発してないんだよ。『あんたらそんな見かけだけで判断してどうすんのぉ? あのおっちゃんに、おっちゃんは仕事好きか? って聞いて、おっちゃんが、うん好きやで言わはったらおばちゃんと引き分けや。嫌いで嫌いでしゃあないわ言わはったらおばちゃんの勝ちや。なんでかっていうとおばちゃんは〝駄菓子屋のおばちゃん〟が大好きやからな。あんたらの相手すんのが大好きや。おばちゃんは日本一の駄菓子屋のおばちゃんなんや。そやからおばちゃんのほうがエラいんや』
ボサボサ頭に野球帽をのっけた子どもがすかさずこう言ったよ。『おばちゃん、ジンセイでは誰も負けへんのとちがうの? 髭のおっちゃん、たぶん仕事大嫌いやで。背なかがしょぼくれとったもん。そしたら、おばちゃんに負けたんやろ?』
『あほぅ!』っておばちゃんはさっきと同じ坊主頭の後頭部をしばいた。『もしそうやったら、あの髭のおっちゃんが負けたんやない。おばちゃんが勝っただけや。あのおっちゃんも日本一になれるもん見つけて、つぎ勝ったらええ』」
僕は笑った。妙に
まぁ、そんなふうなちょっと変わったところもあるおばちゃんだった。だけど俺たちは学校が終わると、たいていおばちゃんのところへ行ったよ。例の坊主頭は後頭部をはたかれても嬉しそうに割烹着にしがみつくんだ。とにかくこいつはおばちゃんにしがみつくのが大好きなんだよ。おばちゃんも抱きよせ、その頭をゴシゴシとなでる。丈夫そうな歯を見せて、大きな笑い声を上げながらな。
ある時、図画の時間に好きな人の顔を
俺たちが夕方帰るとき、おばちゃんは店の前の道まで出てきてダンスした。不器用に両足を動かして、肩の高さまで上げた両の手のひらをヒラヒラさせながら踊るんだ。黄色味がかった西からの日差しが、おばちゃんの丸っこい体の輪郭をぼんやりとふち取ってた。俺たちも笑い声を上げながら真似してダンスしたよ。近くにある小山から土の匂いを含んだ風がふいてきた。どこかの家の軒先で風鈴が鳴った。おばちゃんはお菓子の匂いの染みついた割烹着をつけたまま、夕明かりのなか、いつまでも踊りつづけてた。
おばちゃんは身寄りのひとりもいない人だったんだ。子どもだったからくわしい事情まではよくわからないんだけど。つねに店のなかだけは、小学生の男の子や女の子の干し草みたいな匂いでいっぱいだったけどな──。
「記憶のたわむれ」③ へ つづく