雑な一般論を熱く語りたいときの心境

「結婚できない人たち」に苛立つ人たち、というか、人の悩みを話半ばで遮って(あるいは頭の中で遮断して心の中で)アドバイスをはじめたがる人は、聞きたくない話を聞くことへの耐性が低い。

 

一般論は目の粗いざるのようなもので、一見筋が通っているように見えるけれど、実は特定の条件を前提に想定したものなので、例外に弱い。また一般論は現実を知らない部外者がさまざまな建前から作り上げた神話も多く、問題の本質からかけ離れていることも多い。「挑発的な服装と馴れ馴れしい態度は性犯罪を招くので、慎み深い服装と礼儀正しい距離感を持って性暴力から身を守ろう」みたいな。

 

渦中の人物にとってこうした雑で現実離れした一般論による提案は有難迷惑だ。しかし雑な一般論は未知の問題に成すすべもない未熟な者と、他人の問題にやきもきが止まらない部外者の心を大いに安らがせてくれる。実際その価値は計り知れないので、問題の当事者として有用性が見込めないとわかるまで、みんな手放したがらない。

 

もちろん雑な一般論が現実の問題を解決するために役立つことはあまりない。しかし「これを実行すれば問題は解決する」という前提があれば、問題を抱えた人に出会っても一緒に悩む必要を感じなくてすむし、手出しできない問題を前に無力感を味わわずに済む。「その件についてはこちらをご参照ください」と答えればいいのだ。一刻も早くそのことを伝えて、話をさっさと終わらせればいい。なるほど、なんと世事に長けた賢明な提案かと感謝されることだってあるだろう。

 

相手が納得しなくても一般論への確信があれば、悪いのは相手の話を一般化している自分ではなく、こちらの親切な提案を退ける相手だと考えて心を安らがせることができる。

 

言われた側にとってこうした雑な一般論は「ぼくが、わたしがかんがえた、さいきょうのかいけつさく」くらいにしか映らないのだけれど、提案した側は「泥を金に変えてやったのに、その態度はなんだ」と思う。そして目の前にいるのは同情と理解を必要とする気の毒な人ではなく、然るべき努力を怠った自業自得な人、考えなしの迂闊な人だと断罪する証拠を掴んだと考える。相手が悪い、構った時間が無駄だった。

 

強固で雑な一般論を手札に持てば、自分は冷静で客観的なリアリストであり、論理的で現実的な提案を拒否する相手は不健全で飲み込みが悪く、謙虚さと感謝が足りないと信じ込める。レッテル貼りに成功すれば「依存的な相手と健全な距離をとる」とかなんとか、自分を正当化した上で称賛する理由までできる。

 

要するに見下している相手の悩みを軽く扱うとき、人は一般論を語りたくなるのだと思う。*1

 

経営であれ(「マーケティングの基本は…」)人間関係であれ(「生い立ちに起因する無意識のトラウマが…」)恋愛問題(「男とは…女とは…」)その他、学習法、親子関係、ペットの躾、ブログ指南、政治、経済、犯罪などなど。

 

こうした雑な一般論の背後には、語り手が何が何でもごり押ししたい結論が見え隠れしている。これは会話ではない。語り手はボーリングの球を転がすように雑な一般論を一方的に投げつづけ、相手の論拠というピンが倒れることを期待する。ピンが倒れてくれないと困る。語り手は救急車の音に親指を隠す子供のように、一般論への信仰で自分を守り、不安定な世の中を渡っているのだ。

 

しかし頼まれたわけでもないのに他人の人生に口出ししたいという岡目八目が止まらないときはどうしたらいいか。

 

コントロール欲求が強い人は安定感の欠けた機能不全家庭出身者が多い。まず自らの不安をなだめ、相手の人生を操作しようとすることを止め、他人と自分の区別を明確にすることが大切だ。

 

という雑な一般論を書いておくので、あとは個別に考えてみてください。

*1:人は見下している相手が雑な一般論くらいは当然知っているしすでに試したのかもしれないとは不思議なほど考えない。一般論を実行していれば問題は解決しているはずだと思い込んでいるからだ。