MI6、秘密の巨額資金を保有 冷戦時代に
ゴードン・コレラ安全保障担当編集委員
1940年代後半、軍人らしい姿勢で、きれいに整えた口ひげをたくわえ、薄くなった髪の上に山高帽をかぶった初老の男性が、ロンドンの官庁街ホワイトホールの22番地に向かって歩いていた。
ここには当時、銀行があった。目立たない、軍人だけが使う場所だった。現在この建物は内閣府の一部だが、当時の「ホルツ」という銀行名が、今でも扉の上の石に刻まれている。この男性は「キャプテン・シオ・スペンサー」という名前で通しており、自分の銀行口座の一つから預金を引き出していた。
男性はその後、ホワイトホールを歩いて戻り、ブロードウェイ54番地にある自分の事務所に向かった。「シオ・スペンサー」が男性の本名でなかったことを示す手掛かりは、彼の行き先にある。
この事務所は「MI6」として名高い英情報機関の本部だった。男性は実はMI6長官のサー・スチュワート・ミンギスで、コードネーム「C」とだけ呼ばれることが多かった。
ミンギス長官の銀行口座の情報がこのほど新たに明らかになり、MI6の活動内容と中東での英国の役割をめぐり、新事実が浮かび上がっている。
ミンギス長官は1952年、財務省と外務省の最高幹部職員2人と面談し、とある内容を告白した。
この面談の驚くべき記録を発見したのは、ノッティンガム大学のローリー・コーマック博士。博士が英国立公文書館で発見した文書の内容が、BBCラジオ4の歴史調査番組「ドキュメント」の調査の基礎となっている。
MI6の過去資料は非公開だが、この文書は内閣官房長官の秘密かつ個人的資料のうち、このほど機密指定が解除されたものに含まれていた。
「相続した財産について(ミンギス長官は)衝撃的な情報を口にした」とコーマック博士は説明する。
ミンギス長官は当時、MI6の長官職を後任にまもなく引き継ぐ予定で、政府幹部に知らせておくべきことがあるという考えだった。
長官は10年近くの間、「非公式の積立金」として知られるようになった口座を管理していた。実質的には、長官個人の機密資金だ。
これが情報部のことだという前提に立っても、機密資金口座の存在は外部に知られてはならないものだった。そして実際、誰も知らなかった。「財務省も外務省も。当然ながら閣僚たちは知らなかった。MI6そのものの財務責任者でさえ知らなかった」とコーマック博士は説明する。
財務相の事務次官、サー・エドワード・ブリッジズは会議でミンギス長官に対し、その銀行口座と積立金の全額を尋ね、額が大きければ説明責任を問われる可能性があると説明した。
MI6予算は議会の秘密議決によって決定し、外相の政治的統制下にある。
「外務省の事前同意がないまま、『C』が非公式の積立金を利用すれば、外務省が承認していない政策を外務省が承知しないまま実行できてしまう。明らかにこうした事態が起きる可能性は低いが、予防策をとらないのは間違いだ」 今回公開された資料にはこう書かれている。
ミンギス長官は、「非公式の積立金」が80万ポンドに上ると説明したが、後にそれは控えめな金額だったことが明らかになる。実際の額はその倍近くの140万ポンドで、現在の価値では3900万ポンド(約60億円)以上に相当するという試算もある。
何のための資金だったのか。「C」の1952年の回答は、機密費の目的をよく表している。
「不測の事態に対応するため、大きな金額を手元に置くことは正しいという考えだった。不測の事態に、(1)不可欠な立場の人物に非常に大きい額の資金を提供するか、あるいは(2)何らかの政治的緊急事態にMI6予算が大幅に削減され、MI6の活動を必要な形で続けられなくなる場合に指示票を確保するため」だと「C」は説明したと書かれている。
(1)のケースはつまり、外国政府高官への巨額賄賂を意味し、(2)は第1次世界大戦の終戦時のように政治家たちがMI6予算を削減する可能性に言及しているようだ。
外務省のジル・ベネット元首席歴史官は、「MI6は自分たちの資金を失っては困ると、かなり心配していた。なので、出所がなんだろうとどこかに資金があるなら、何としてもしがみつきたかったのだろう」と説明する。
機密費の大半は、第2次世界大戦末期の資金流入によるもののようだ(ただし口座自体はMI6の初代長官、サー・マンスフィールド・カミングまでさかのぼる可能性がある)。しかし、ならばその資金がいったいどこから来たのかという疑問が湧く。
公開された資料によると、流入した資金はMI6の「支援者」と呼ばれる人たちからの寄付だった。「1人の米国人は特に多額の寄付をした」と記録されている。
冷戦が始まったこと、そして1945年当時は米国の諜報機関も未来が不確かだったことを念頭に置けば、広い人脈を持つ何者かが英国に目を向けた可能性があるとコーマック博士は考えている。
「将来的な脅威を心配した米国人が、緊急事態に備えてMI6の資金を十分に確保しておきたかったのかもしれない」
公開資料からはほかにも、新事実が発覚した。
政府職員が「非公式の積立金」の存在を知った後の6年間で、引き出された資金は毎年数千ポンドのみで、やがて(もっと少額の)「公式」積立金と統合された。
しかし資料は、MI6が複数の作戦を実行するためには、積立金は不可欠だとも指摘している。資金に余裕があると分かっていれば、資金の枯渇を心配せずに作戦行動をとる裁量が得られるというのだ。
公開資料には、様々な秘密作戦の暗号名が並ぶリストもあった。「スキャント」、「スクリーム」、「ソーダスト」、そして「ストラグル」はそのほんの一部だ。すべて、中東での隠密作戦の名称だ。それぞれの作戦の年間費用も併記されていた。例えば、「ソーダスト」の場合は20万ポンドだ(エジプトの当時のナセル大統領に対抗する作戦とみられる)。
すでに知られていた暗号名もあるが、この時代を専門に研究した歴史家も知らないものが多数あった。どの暗号名が何を指すか、物によっては鉛筆の書き込みがあったのが役に立った。
秘密の作戦はスーダンやオマーン、レバノンなど、中東・北アフリカ全域に及んだ。中にはプロパガンダ作戦もあったが、たとえばシリアについては(実行されなかったものの)政権交代実現のための政府高官暗殺計が計画されていた。
こうした秘密作戦の多くは、1957年になって実行されていた。ナセル大統領がスエズ運河を国営化し、英国がエジプト侵攻に失敗した1956年の第2次中東戦争(スエズ危機)の翌年のことだ。そのことが何より興味深い。
「MI6:機密作戦の50年間」の著者スティーブン・ドリル氏は、新しく公開された資料を精査した上で、「すべてを総合すると、第2次中東戦争以降にこのような特別作戦が急増し手いることが分かる」と指摘する。「スエズ危機は英国とMI6に大打撃を与えたと思われていたが、実際はスエズを機に盛り返したのだ」。
コーマック博士も「スエズ前後にナセル打倒作戦が展開されていた」と同意している。
では公開資料は、好き勝手に動いていた情報機関がついに英政府の官僚たちに服従するようになる過程を物語っているのだろうか。
いや、そうとも言い切れない。確かに、MI6は秘密資金の存在を認め、財務省の管理下におくようになった。しかし同時に、その後も数年にわたり、積極的な隠密作戦への意欲は収まるどころか強くなり、一部の政府幹部は応援していたのだ。
何人かの政府高官や政府トップの閣僚の賛同を受け、積極的な機密作戦が実施されていたと明らかにもした。
現在のMI6は、自分たちは法律を遵守し、厳密な政治的・財政的の監督下で行動していると主張する。
しかし、もしも銀行で誰かが「キャプテン・シオ・スペンサー」名義で大金を引き出そうとするのを耳にしたら、ぜひお知らせください。
(英語記事 MI6's secret 'multi-million pound' Cold War slush fund)