表現の自由と作品を批判する権利について
先日『小説家になろう』のエッセイで、表現の自由と批判に関して述べられているものを拝見しました。
これに関して思うところを書いていきたいと思います。
さて、いきなり本題に入りますが、「表現の自由」というのは「『国家権力によって』言論などの表現が制限または禁止されない自由(権利)」を指します。
当然ながら法律用語です。
これはつまり、「政府が」検閲による出版差し止めや、集会の妨害などをしてはならないことを指します。
なので、例えば個人が「作品を批判すること」は当然に表現の自由には抵触しませんし、同時に個人が公の場で「〇〇するべきではない」と発信するのも、これはもう絶対的に表現の自由には抵触しません。
それらの是非は、法的な権利とは全く別のレベルの話です。
今期の『キノの旅』のアニメ第一話と同じ話です。
法的に認められていることと、人々から許されることは違う、という話をしなければいけません。
批判の是非を論じるなら、まずこのステップから議論を始めないと、いろいろとおかしくなります。
「批判をする権利」を認める場合、当然に「批判することを批判する権利」も認められなければなりません。
そうした言論を「言論封殺」などと言って封殺しようとすることがあれば、それもまた言論封殺です。
批判の是非を論じる場合、まずここを議論のスタート地点として、その上で「作品の批判をすることは好ましいことかどうか」という話をするべきです。
それは「権利」や「義務」などという法的な表現が妥当するものではなく、僕らがどういう世界を望んでいくのかという話になってくるはずです。
人それぞれ望む世界は違っているでしょうし、この『小説家になろう』という狭い世界だけを見ても、その世界全体が一つの考えに染まることはないでしょう。
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