2012年、尖閣諸島や竹島、北方領土を韓国、中国、ロシアなどの国々が「わしんとこの領土ぢゃもーん」と世界に向かって主張しだしております。ニッポンはそれに対して国際法や歴史的経緯などを引き合いにして領土の正当性を発信しておりますが、正直言って説得力に欠けるような気がしないでもないのです。旧ソ連が武力で実効支配してきた北方領土はともかく、尖閣諸島などはかつて日本人が鰹節工場を稼働させておったんですな。しかし、戦後は採算が取れないとかの理由で工場は閉鎖され、日本人は島から撤退してしまいました。そして無人島になったまま約半世紀が経ってしまったんです。
魚を獲ろうと思えばたくさん獲れる島なのに、魚の輸送や加工にコストが掛かり過ぎるから撤退する・・・経済性と言うより経営性優先の考え方ですね。「我が国の領土ぢゃ」と主張したって住民も居なけりゃ駐在者もいない。これが島で無く空き地だったとしたらホームレスのおっちゃんがブルーテントを張って住み着いてしまいますわな。本当にその島を守りたいのであればたとえ赤字であってもその島で生活をしているという「事実」を継続させていなければならないでしょう。
この問題と食糧自給率の問題って ちょっと似ておりません?
1960年代に材木の輸入が自由化されて、一気に日本の林業は衰退してしまいました。その後、小麦も大豆も輸入に押されて国内生産が減少してしまった。海に囲まれた日本なのに海産物まで加工された輸入品が主流になってきております。こうして「もうやめた」となっちまった農地の面積はすでに埼玉県の面積を超えたと言われております。その「もうやめた」元農地には外国人ならぬ猿、イノシシ、鹿などが我がもの顔で出没してんですね。そのうちこのような野生動物に町全体が占領されるのではないだろか?・・・なーんてコレ、冗談じゃないのよ。かつて林業で栄えた宮崎県椎葉村、ピーク時人口一万数千人いたのが、現在は3000人、しかし現在の鹿の頭数は約1万頭ですと! この村では家の周りの田畑に電気策を巡らせて鹿除けをしているから、まるで人間が動物園の柵の中にいるような物だそうだ。
食糧自給率の問題って単に食料が安くなるとか、食品の安全性が失われるとかの問題だけではないんですね。今現在 日本人は竹島や尖閣の何十倍、何百倍もの「領土」を「放棄」しておるのです。人類の歴史は食糧を巡って争いを続けた歴史だったとも言えます。生きる為に絶対に必要な食糧を生産するには土地→領土が必要です。その為にはその土地に誰かが居て、何かを生産するという生活をしていなければならない。たとえ生産効率が悪くてもその土地を守りたいのであれば赤字覚悟で住着かなけりゃならない。ひとたび盗られてしまったものを取り返すのは、かなりエネルギーのいる作業なのです。
食糧自給率の低下→耕作放棄地の拡大→森林、農地の荒廃→保水能力の低下→自然災害の多発・・・私らはテレビのコメンテーターじゃないんだから、にわかナショナリズム熱にウカサレズ毎日の食生活に根付いた「骨太自給率」に取り組みましょ。まずは米の飯と米エキスで勢いをつけて・・・。
東京おもちゃ美術館は「木育」の事業に取り組んでおります。暮らしの真ん中に木を取り入れ、赤ちゃんから始める生涯木育を提唱しているのです。この木育に取り組んでいると、いまさらながらに「食育」の大切さを痛感します。それは、あまりにも双方の自給率というものを、疎かにするわが国の有様が浮き彫りになってくるからです。
ご飯が真ん中の食卓文化。
一見、やさしげに感じるものではありますが、このメッセージはいまや悲痛な叫びに私には聞こえてきます。
世界第2位の森林大国であり、100%を超える自給率を達成できるにもかかわらず、木の利用の自給率は26%にまで落ち込んでしまっています。知らないうちに日本は世界で一番海外から木を購入する国になってしまいました。
食の世界の自給率も40%前後で推移していると聞きます。世界一美味しいと誰もが認める日本の米。古より食文化の真ん中に根付いている米。そして、その米を作り上げる水田が最も理想的なビオトープだとも聞きます。
もう一度、初心にかえって、"ごはん"を見つめ直すことが、"ごはん"の魅力に気づくことが、食の自給率、自然環境、そして文化にとって好循環作用を生み出すものになるのではないかと確信しております。
ご飯を中心とした「食育」と日本の森を守る「木育」は、ダブルの自給率を高める背骨です!
今から約半世紀前(昭和36年)の国民一人当たりの年間お米の消費量は118kg、現在の59kgのまさに倍量消費していた。
農地が足りないとのことで、秋田の八郎潟・新潟の福島潟など生き物の生息場所を奪って埋め立てし農地を増やした。
この埋め立てに費やした約10年でお米の消費量が大きく激変し米余り現象となり減反政策が始まった。
この時期(昭和46年)に自分はJAささかみに勤め始め8年後に現、パルシステムと出逢うべくして出逢った。
最初の10年間は食糧管理法があったため、米の物流が出来なく交流をひたすら続けた。
特別栽培米制度が出来た昭和63年から本格的に産直を開始。
当時の新潟経済連から袋他叩きにあってもこだわり米を作付し、時にはわざとモミ混入し規格外として法の網をくぐって産直し続けた。
平成5年の米パニックの時は当時16の産地のうち当JAを含め3産地がお米を供給した。
この時の教訓で翌年から予約登録米が始まり、同時ニエコチャレンジ米が急速の勢いで伸び現在に至る。
安いからと言って外国農産物でその地域の環境や生き物そして作る思いが伝わるだろうか。生消、共通認識に立ったお米、医食同源・心土不二の心はパルの産直米にある。
お米があってはじめて“和”ができるんです。