第42回 誰とでもできること
2017.11.27更新
大学は、卒業論文の季節である。大学教師なので、この季節は、卒論を書いている学生たちと、とことんまで付き合う。「自分で何かテーマを見つけて、そのテーマに関わるフィールドワークをして、論文を書く」ということが求められているコースのゼミであり、とにかく一人一人、まったく違うことを追っている。毎年、よくまあこういうテーマを思いつくな、というようなテーマを見つけてきてくれる。
今年は「蓼食う虫」をはじめとする谷崎潤一郎の世界に耽溺して卒論を書こうとしている学生がいる。当然テーマは、結婚であり、恋愛であり、性愛である。結婚とは何なのか、恋愛とは何か、性愛はそれをつなぐのか、結婚は性愛がないと成り立たないのか・・・とか延々と議論している。そんなことは人類が始まってから、カウントレスな人間が考え続けていたことであり、たかだか二十歳ちょっとくらいのうら若い女性が一人で結論を出せるものであるはずもない。それでも格闘することに意義がある。
学生のテーマに付き合いながら私もこの答えのない問いに共に付き合う。前回のゼミのとき、思わず、「結婚は誰とでもできる、セックスも誰とでもできる、恋愛は、誰とでも、は、できない」と、ぼそっと、つぶやいてしまった。学生たちは、おお・・・というような表情で私を見る。
そうだ、結婚は誰とでもできる。それはおそらく結構長いこと、人類社会のあちこちで実証されてきたことであるに違いない。ライフコースにおいて、ある年齢になれば、結婚はするほうが良い、と周りの多くや、年長者の多くが考えたので、当人たちの気持ちはある程度聞いたふりはしながらも、ほとんど聞かずに、適当に年齢やら環境やら性格やら合いそうであれば、結婚させてきたのである。そして、まあ、気に入らない人もいたかもしれないけれど、おおむねほとんどの人は大人になったら、配偶者がいる、結婚している、ということになっていたのだ。
めちゃくちゃイケメンでなくても、絶世の美女でなくても、誰でも、結婚はできた。結婚式をあげる前に、顔も見たことがなかった、とか、写真だけで結婚させられてしまった、とか、そのような話を、今の私たちは、ひどい話だとか、女性の人権に関わる、とかいう言い方をすることに慣れてしまったけれど、マジョリティーが結婚している方が良い、という前提に立てば、そのような結婚の仕方も、あり、だったのだ。おおよそどんな人でも、周りが、まあそれでいいんじゃない、という見立てさえできれば、誰とでも結婚できた。そして、うまくいかない人もいただろうけれど、その人と人生を全うすることもまた、多かった。
つまり、結婚は、しようと思えば誰とでもできる。形させ整えば、誰とでもつれ添える。「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」という諺があったが、添ってみれば、誰とでも添えたのだ、きっと。
めちゃくちゃなことのように聞こえるだろうか。しかし、現在、結婚しない人が増えた一番の原因は、「誰とでも結婚できる」と思う人がいなくなったからである。50代の私のふた世代ほど前、結婚すべき本人たちは、「誰とでも結婚してもいい」と思っていなかったと思うが、その親たちは「いい人がいれば誰とでも結婚させよう」と、おおむね思っていた。親の権威もあった頃だから、そのようにして結婚させた。本人たちは思わなくても、上の世代が、「結婚は誰とでもできる」と思っていたのだ。今、いったい誰が、「誰とでも結婚できる」と思っているだろうか。若くて生殖年齢にある人たちは、間違いなく「誰とでも結婚できる」とは思っておらず「良い人」「好きになれる人」を探しているし、親たちも娘、息子が「誰とでも結婚していい」と思っていない。だから結婚できない人が結果として、増えた。
物議を醸しそうだが、結婚のみならず、セックスも、おおよそ誰とでもできる。しても良いかどうか、の倫理的問題は別として、さらに、HIV/AIDsの感染リスクやら、妊娠するリスクやら、やりたくない人に無理やりする、とか、そういう不穏なことはさしあたりここでは深入りしないことにしても、ともあれ、双方が合意しておれば、おそらく、誰とでもできる。熱烈に愛し合っているとか、しっかり結婚しています、とかそういうことではない状況でも、人間がセックスできることを、大体の大人なら、わかっているのではないか。法律で禁止されても、取り締まられても、性の商業化、というものが世界から消えないのは、この「セックスはおおよそ誰とでもできる」ことが前提にあるからだ。年老いて死ぬ間際に、「あの一夜限りの関係」とか、「行きずりのあの人との一回だけの性交渉」とか思い出す人も少なくないのだ。感情など、なくても、その時の盛り上がりで人間はセックスできるし、世界中でやってきた。
結婚も、おおよそ、誰とでもできるし、セックスだっておおよそ、誰とでもできる。しかし、誰とでもできないのが「恋愛」なのである。はい、この人と恋愛しなさい、などと言われても、できない。この人と恋愛しよう、と心に決めても、できない。思いのたけを告白されて、恋愛相手になって欲しいと、求められても、その気にならなければ恋愛できない。お互いがお互いに何らかの理由で、とてつもない幻想を抱くことができて、お互いがお互いを、何らかの理由で、ものすごく特別な人だと思って、お互いがお互いでなければ、他の人ではダメなのだ、と一定期間、思い続けることができなければ恋愛は成立しない。それは何という、ハードルの高い、また、何という、奇跡に満ちた、何という、心の震える出来事なのだろう。
もちろん、というか、だから、というか、恋愛している人と結婚することはたやすい。恋愛している人とセックスすることは嬉しい。それは簡単なことである。でも結婚できなくても、恋愛している本人たちは、恋愛さえしていれば、この上もなく幸福であろう。恋愛が破滅につながろうが、本人たちは、それで幸せだった、という事例など、どれほど小説や舞台芸術の題材になっていることか。また、セックスできなくても恋愛していれば、ただ、満たされているだろう。うまくセックスできない年齢に達していても、人間は恋愛だけはできたりする。恋愛している本人同士は、どんな環境であろうが、本人たちは、うれしいんだろうと思う。
そのようなことが人生において一度でも起これば、幸せなことだ。でも、起こらないことだって多いのだ。自分が恋をしていても相手はしていない、ということは日常茶飯事だし、だいたい、恋さえせずに人生を終えるのは、難しいことではない。そんな、特別で、誰にでも、は、できないことを、「結婚」の条件にしているから、今は、ほんとうに、結婚できる人が少なくなってしまったのだ。出会い系サイトも婚活サイトも結婚相談所も花盛りだが、登録する人たちの多くは「結婚相手」というより「恋愛する相手」を探しているように見える。一目で見て、ときめくような人が現れることを期待している。とても無理である。
どんな人とでもご縁があれば連れ添えるし、連れ添っていれば、セックスもできるし、セックスしていると、情が湧いてくるし、結婚してから恋愛できることだってある。イスラム社会をはじめとして、そのやり方を、人類の知恵として継承している人たちは、決して少なくない。自由であることがうれしいから、私たちはそのやり方をほぼ捨ててしまっている。「結婚は(おおよそ)誰とでもできる」が、「恋愛は、誰とでも、は、できない」ことを思い出せないと、とてもではないが、マジョリティーが結婚はできない。しなくても構わない、というところに、たたずんでいることにも、慣れてしまった今、ではあるが。
たかが恋愛、されど恋愛。こんな難しい問題を、卒論のテーマに選んで、ご苦労様なのであるが、卒業論文は人生に掲げる旗なのである。文学や歴史や社会学や心理学や、なんでも総動員して、考え抜けるところまで考えて、その後の人生を生きていってもらえば、教師としては本望、と言える。