『母性のディストピア』刊行記念シンポジウム 「戦後アニメーションは何を描いてきたか」 富野由悠季×國分功一郎×福嶋亮大×宇野常寛
富野さんとお話する貴重な機会を得た。
そこでも「富野節」は炸裂した。
前日に阿久悠のドキュメントか何かを観たらしい。
彼が「スター誕生」で森昌子を見出した時の話をした。
「阿久悠は、あのパッとしない田舎娘を見出したんですよ!スターにしたんですよ!あれこそがプロデュースなんです!そしてそれから、『スター誕生』の視聴率もグンと上がった!これこそプロデュースですよ!プロですよ!」
そして富野さんはこう締めくくった。
「僕にはできない!悔しい!」
「悔しい!」というのは富野さんの常套句だ。
それは嫉妬ではなく、最大級の評価だということだ。
そこに富野さんのピュアさと、懐の深さを感じるのだ。
富野さんにプロデュース能力がなかったはずがない。
彼は阪口大助や朴璐美など、綺羅星のごとき大声優を数多く見出し、育てている。
それでも彼は満足していないのだ。したくないのだ。
この貪欲さ。この若々しさ。
シンポジウムの話もしよう。
富野アニメの思想性・メッセージ性に話が及ぶと、必ず富野監督は「いや、仕事でやってるだけだから」「尺を埋めなきゃしょうがないじゃん」と、スカして見せた。
宇野さんはそれを「エクスキューズ」だと連呼したが、僕はそうでないように思う。
確証は持てないが、それは「はぐらかし」なのだろう。
「君達ごときに俺の創造哲学が解るはずがなかろう」
そういう自信が漲る振る舞いだった。
「俺は君らが解るようなレベルで創作していない」
僕が富野さんから読み取ったのは、そういう度を越えた高飛車な態度だった。
しかし彼は同時に、「観客にそれが伝わらないのは自分の限界」と連呼する。
自分の理想に市場が付いてこない。付いてきたように見えて、実は誤解・誤読の連続だった。
そういう苦い体験を何度もしてきたのだろう。
富野さんは僕にこうも告げた。
「これから君に大事になるのは、権利だよ」
僕は「痛感してます」としか言いようがなかった。
彼から日本のアニメ業界が学ぶことは、もっともっと、膨大にある。
今こそ頭を垂れて、彼の一言一言に耳を傾けるべきだ。
富野さんとお話する貴重な機会を得た。
そこでも「富野節」は炸裂した。
前日に阿久悠のドキュメントか何かを観たらしい。
彼が「スター誕生」で森昌子を見出した時の話をした。
「阿久悠は、あのパッとしない田舎娘を見出したんですよ!スターにしたんですよ!あれこそがプロデュースなんです!そしてそれから、『スター誕生』の視聴率もグンと上がった!これこそプロデュースですよ!プロですよ!」
そして富野さんはこう締めくくった。
「僕にはできない!悔しい!」
「悔しい!」というのは富野さんの常套句だ。
それは嫉妬ではなく、最大級の評価だということだ。
そこに富野さんのピュアさと、懐の深さを感じるのだ。
富野さんにプロデュース能力がなかったはずがない。
彼は阪口大助や朴璐美など、綺羅星のごとき大声優を数多く見出し、育てている。
それでも彼は満足していないのだ。したくないのだ。
この貪欲さ。この若々しさ。
シンポジウムの話もしよう。
富野アニメの思想性・メッセージ性に話が及ぶと、必ず富野監督は「いや、仕事でやってるだけだから」「尺を埋めなきゃしょうがないじゃん」と、スカして見せた。
宇野さんはそれを「エクスキューズ」だと連呼したが、僕はそうでないように思う。
確証は持てないが、それは「はぐらかし」なのだろう。
「君達ごときに俺の創造哲学が解るはずがなかろう」
そういう自信が漲る振る舞いだった。
「俺は君らが解るようなレベルで創作していない」
僕が富野さんから読み取ったのは、そういう度を越えた高飛車な態度だった。
しかし彼は同時に、「観客にそれが伝わらないのは自分の限界」と連呼する。
自分の理想に市場が付いてこない。付いてきたように見えて、実は誤解・誤読の連続だった。
そういう苦い体験を何度もしてきたのだろう。
富野さんは僕にこうも告げた。
「これから君に大事になるのは、権利だよ」
僕は「痛感してます」としか言いようがなかった。
彼から日本のアニメ業界が学ぶことは、もっともっと、膨大にある。
今こそ頭を垂れて、彼の一言一言に耳を傾けるべきだ。