A1理論はミニマリスト

ポジティブにつぶやき中@A1riron

ブログと人生は似ている。『正解』はない。だから、自分で決める。

TOP > >
TOP > >
【スポンサーリンク】

なんだか微妙に早起きしてしまったので、

「短いブログ記事でも書くか。」

って思った。

 

で、仮眠する前につぶやいた▼この言葉をタイトルにしてみたw

 

僕が『ブログ』が好きなのは、『正解』がないからなんだろうな

って思う。

 

 

そう考えれば、

 

『ミニマリズム』とか、

『旅』とか、

『ゲストハウス』とか、

『読書』とか、

 

僕が好きなモノは『正解』がないモノが多い。

 

そういうモノに『正解』を付けようとしている人が僕は好きじゃない。

「ブログは毎月何PVですか?」

「モノはいくつくらい持ってるんですか?」

「ゲストハウスはいくつ泊まったんですか?」

「海外は何か国ぐらい周ったんですか?」

「本を読むのに1冊どれくらいのスピードで読むのですか?」

みたいな感じで聞いてくる人は多いし、まぁ、悪気もないんだろうし、一定の基準は必要なのかもしれないけど、

「なんか、貧しいな。」

って思ってしまう。

 

人生の『正解』は自分で決めたい。

 

 

学校の勉強とか、企業の予算とか、国家の目標とかは、

先に『正解』がある。

 

で、『正解』に向かっていったほうがより評価される。

 

でも、それは、組織の『正解』であって、個人の『正解』ではない。

 

個人の『正解』を、組織の『正解』に求める人にとっては、『正解』が違う人間が組織にいるのは都合が悪い。

 

なので、

「とにかく勉強しろ!」

「ごちゃごちゃ言わずにとっとと働け!」

「働かざる者食うべからず!」

になる。

 

でも、それって、一種の『宗教』だよねぇ?

『正解』の押し付け。

 

人類のとって、

「プロダクトの『生産性』」

が低かった時代は、

『企業』の『正解』が、個人の『正解』であり、

『国家』の『正解』が、個人の『正解』であり、

『宗教』の『正解』が、個人の『正解』だったんだろうな。

 

なぜなら、

それらが強大なパワーで『メディア』を支配していたから。

 

ここで言う『メディア』とは、かなり広い意味で、

「人と人との伝達媒体」 

くらい広い。

 

「学校」とか「教育」とか「井戸端」とかも、この場合の『メディア』に入れてもいいと思う。

 

 

 

 

なので、今までの人類の『正解』とは、そういう強大な『メディア』を支配している権力側に決めてもらっていた。

 

で、その権力側が決めた『正解』から外れた人は、

もう一つの権力側の『正解』に付くしかなかったんじゃないかな?

 

『資本主義』に対し、『共産主義』。

『自民党』に対し、『社会党』。

『巨人』に対し、『阪神』。

『吉本』に対し、『松竹』。

『優等生』に対し、『ヤンキー』。

『戦争』に対し、『ヒッピー』。

みたいな。

 

大きな『正解』に対するには、二番目に大きな『正解』の側に入るしかなかった。

 

どっちにも入らないごく少数の人は『変わり者』『一匹狼』でしかなかった。

 

 

でも、そもそも、

根本的に『人生』に『正解』なんてないはずだ。

人類自体が存在意義ないんだから、普通に生きてもダメに生きてもどっちでもいいと思う。 - A1理論はミニマリスト

思い煩うことはない。人生は無意味なのだ。(モーム) - A1理論はミニマリスト

 

今までの人類の『プロダクト』が、あまりにも貧弱だったから、それを精錬することに『正解』を無理やりくっつけていただけであり、

それはある意味で、人類の『はしか』、もっと言えば『厨二病』だったんじゃないかな?w

 

『正解』は、自分で作れるフェーズ

に、人類は到達しつつあるんだと僕は思う。

 

 

で、さっき目覚めてから、寝転びながら読んだ▼この記事。

 

 

 

現在の人類は、

『RPGツクール』『シムシティ』化

してきてるんじゃないかな?

 

自分の『正解』を作れる人は、その『正解』に基づいた『世界観』を構築する。

 

自分の『正解』を作れない人は、好きな『世界観』を持つ人をフォローする。

 

 

これは20世紀以前にも多少はあった現象なんだろうけど、なにしろ『メディア』が貧弱だったものだから、運とか経済力、あるいは権力によって、マイナーな『世界観』は潰されていっていたんだろうな。

 

 

DIYは、本来、個人で、個人が、個人の『世界観』を楽しむモノだったんだろうけど、それがインスタ等が普及することで、DIOという、

『世界観』を共有すること自体を楽しむ 

という、

むしろ『体験』を共有することのほうが、その、作ろうとしている『モノ』よりも大事になりつつあるんじゃないかな?

 

やっぱり! 「モノ」を売るな! 「体験」を売れ!

やっぱり! 「モノ」を売るな! 「体験」を売れ!

 

 

DIOから、『ゴールド・エクスペリエンス』が生まれる的なw

 

「悪」には「悪」の救世主が必要なんだろw

ゲスハの極み!アッ―!(打ち切り抜刀斎!w)

 

 

 

というわけで、、、

 

今の人類が求めているのは『モノ』ではなく、『正解』であり、 

 

その『正解』の『世界観』を自分のチカラで構築できる『個人』なんじゃないかと、僕は思う。 

 

『組織』ではなくて。 

関連記事