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リアルでいますよf^^;

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年11月26日(日)10時46分47秒
編集済
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/76868

>「脅迫とはひとえに脅えた者の武器にすぎない」<

リアルでいますよ、そういう人f^^;
「脅迫」もまた「他化自在天」の生命が表に顕われたものでしょうから

一昨日から機嫌が悪くて、昨日は尋常じゃない目つきで八つ当たりされたけれどf^^;
別に僕は何も悪くなかったけれど謝ったけど
仏性を以って謝ることも、自分と相手の両方にある「他化自在天」の生命を責めることになるんですね

『敵』はこの人じゃない
自分と相手の心に潜む他化自在天の生命そのものですからね
悪を滅するを功といい善の生ずるを徳という、というのはこういうことなのかな?と感じつつある最近です

「悪」といっても悪人のことではなく「悪の生命」
「善」といっても善人のことではなく「善の生命」

善悪どちらも生命にあるのだから、「悪の生命」を滅するというよりは「忘れる」という実感でしょうか
(悪の生命を忘れる=善の生命と置き換える感じで「蘇らせる」ということなんでしょうね)

それを自分と相手の両方でそうなるように(^^)

そんなに必死に怒るほど、幼少期には同様に親から虐待に近いものをされて抵抗したんだろうなって察することができたからね
自分ではどうにも感情のやり場に困ってそうなってしまうのだろうけど
そして毎度のことだけどその後に自己嫌悪になる悪循環になってるようでf--;

そうした真面目な人柄だから怒りも素直に感じてしまうのだろうし、その「怒り」の原因は『人間不信』からきてる様子も
『人間不信』は仏性不信にも直結してるように感じられるんですよf--;

相手が悪いわけじゃないことぐらいは自分でちゃんとわかってる
わかってるから後で自己嫌悪になるけれど、そうなるのは「仏性」が基準となって自己嫌悪になってる様子だもんね
僕が責めるまでもなく、自分で自分を責めてるんだからそれで十分でしょf^^;
まったく可愛いやつ(笑)

毎度のことながら昼ぐらいには申し訳なさそうに謝ってきたけどf^^;
すっかり「仏性」が蘇った現象なんでしょうね(^^)
そういうのを繰り返して自分で自然と徐々に学んでいくんでしょうね(^^)

「仏性」とはどういうものか
「仏性」を素直に出すにはどうしたらいいのか

もっと自分の自然な部分を自分で素直に快く感じることができれば生きるのがずいぶん楽になるんだけどねf^^;
自分というものを快く信じられるようになると、周囲の人の仏性も信じれるようになるんだけど

自分自身がそのように「変わる」と、そういう自分の実感として周囲の人も「変わる」のが信じやすくなるんですよね

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

原田はじめ畜生執行部へ

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年11月26日(日)10時33分57秒
  栃木の久保田です。ヽ(^○^)ノ

執行部の面々┐(´д`)┌酒好き女好きの原田ニセ物会長を筆頭にして(///∇///)

会員さんには三桁の財務を押し付けるくせに自分は5口の秋谷元ニセ会長ヽ(^○^)ノ

ミナヨクイク事件をネットでばらされ世界的に強姦魔として名が売れた谷川ヽ(^○^)ノ

その名は・タ・ニ・ガ・ワ・でも世界デビューだ!

小物のクセに影にちょこちょこ隠れて蠢く法非八尋!

ひろしは今度は何をやろうとしてるのかな?


自分達の保身のためにいろいろやってくれちゃって
お前らほんとに何やってんだ(# ゜Д゜)

いつまでも大勢の人達を騙すことは出来ないよ

才能のある畜生共よ(# ゜Д゜)

畜生には畜生の役割が有るんだから分をわきまえよ!

 

M尊師のFacebookが更新をされています

 投稿者:ドミサイル信濃町の入居者  投稿日:2017年11月26日(日)10時17分28秒
  M尊師の全国ネットのTV出演に色をなした最高指導部が緊急対策会議を開いて組織の引き締めをはかるやうだ。南無公明党佛。南無公明党佛。南無公明党佛。  

まひこママさんへ

 投稿者:通行人  投稿日:2017年11月26日(日)09時21分47秒
  まひこママさんの書き込みを読みました。
どこも同じような感じですね。
私の地元にも基数の目標あります。来年から毎月の基数から年間基数に変わると説明がありました。
打ち出しする幹部は、これまでの現場の苦労をくみとった新しい打ち出しで現場の皆さんがやりやすくなったと思っているようです。
まったくそんな事ありません。結局、基数は下がらないのです。今年の月の基数×12ヶ月てすからね。
うちの地域でも多部数でやりくりしています。
聖教オンライン購読の場合は、そのオンライン画面をみせて証明するようになってます。

http

 

「随筆 桜の城 」より先生の思い。

 投稿者:コンペー  投稿日:2017年11月26日(日)09時21分37秒
  先生の随筆集「随筆 桜の城」を久しぶりに開いてみた。そのまえがきには…

「随筆」とは「筆に随う」と書くごとく、折々の心境そのままに、自由に筆をとってきた…と。
先生の真実の叫びが、散りばめられている。

1999年4月19日掲載の随筆。
「大東京の不滅の地盤」にこうあった。会長辞任の翌年の事。

1980年(昭和55年)のことである。この祝賀の創立50周年は、果てしなき卑劣な攻撃と、大難の風波が吹き荒れた日々であった。その本陣たる、東京も、さまざまな次元で、苦悩と苦杯を舐めてきた。一歩、退いたら、牙を抜き取られるような、厳しい状態の日々であった。皆も、何をしたらいいのか、どうしたらよいのか、ためらい始めていた。私は、その姿を見て、あまりに情けなかった。




なんと、ふがいない幹部たちよ。
私を引退させておいて、自分の責任まで忘れ去っている臆病な姿に、私は怒りを覚えた。



初代会長・牧口常三郎、二代会長・戸田城聖の、何ものも恐れぬ獅子のごとき、あの学会精神はどこへいったのか!




先生の魂の叫びである。
続いて、ある大芸術家の言葉を紹介されている。
「穴を掘るもののうえに、穴は崩れる」

「脅迫とはひとえに脅えた者の武器にすぎない」



さあ~新人間革命30巻 勝ち鬨の章

乞うご期待!





 

本日の政教珍聞で~す、って、原田怪鳥様、いったいドコで、ナニしてらっしゃいマスかぁ~(笑)

 投稿者:カンピース  投稿日:2017年11月26日(日)09時14分42秒
  おはようございます。原田怪鳥様、最近ついぞ御姿を拝見できないのデスが、いったいナニしてらっしゃいマスかぁ~(笑)

昨日の責任役員会とやらも、原田怪鳥様の御名前を拝見できませんでしたし、ナニやら、癌が再発したとの情報もありマスし、

小生、大変心配しておりまぁ~す、「元気デスかぁ~!!」(笑)

ともあれ、珍聞誌上には、会員を煽るコトバは満載でも、指揮をとられるべき原田怪鳥様や執行部の皆様方の御姿は全然見えましぇ~ん(笑)

こんなんじゃあ部数が伸びませんよぉ~(爆)

部数が伸びないのは、これすべて原田怪鳥様はじめ執行部の責任でありマスので、会員に負担増のないようにお願いしまぁ~す(笑)


「珍・人間革命」暁鐘もアメリカで終わりかと思いきや、カナダに飛んで、あれよあれよと言う間に七十二まできましたねぇ~(笑)

これで、「勝ち鬨」を加えてどう30巻で終わるのか? 原田怪鳥様の御決断を仰がないといけませんねぇ~(笑)

原田怪鳥様、会員を煽るまえに、自らの折伏報告と、「珍・人間革命」をどうされるのか? 大発表を期待しないで待ってまぁ~す(爆)



 

「思い出す」の法!

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年11月26日(日)07時09分55秒
編集済
   おはようございます。また「朝から重い」と言われてしまうかも知れませんが、昼、夜は「時事もの」が多いようですので……、

 組織にあった時も、会社にいた時も、あるいは近所や社会に居る時も、まったく同じ「生命の位置」にいる――これが人間の現実なのではないでしょうか。「実相」です。それ以外に自身の生命が“働き”かけられないのです。そうとしか“見えない”のです。みずからの「五陰」の内因がそう捉えてしまうのです。それを「境涯」と言います。

 それは、「因」と「果」による自身の「生命の位置」です。「縁」によって起動します。「内」にあるものの反映ですから、「思い出す」です。同じ言語でないと、意味が通じないのと同じです。同じ意味の「思い」を持っているから、意味が生じ、通じるのです。

 これを端的に述べられておられるのが次の御文です。
 「たとへば餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る 二乗は虚空と見・菩薩は種種の色と見・仏種・純熟せる人は仏と見奉る」(法蓮抄1050㌻)。

 同じ「恒河」(ガンジス)の川の流れも、飢えた餓鬼には火と見える、人には普通に水と見える、天上人には民を潤す甘露と見える、水はひとつだけれども、その因と果の果報、つまり境涯によって各別だというのです。この素晴らしい智慧が満載の法華経も、盲目の人には見えないし、肉眼を持つ人には墨の黒色と見えるし、声聞、縁覚には虚空の世界と映るし、菩薩には百花繚乱の実報土、仏には仏国に見えるというのです。

 また、その厳しき因果律を次のようにも述べられています。
 「法界三千を秘妙とは云うなり 秘とはきびしきなり三千羅列なり 是より外に不思議之無し」(御義口伝714㌻)

 やはり、「生命の位置」も十界各別です。修羅は天人といつも争っています。「争い」にしか、「心」が反応しないのでしょう。「争い」にしか、喜びを見い出せないのでしょう。何ものをも否定的に見て、地獄となって苦しみ、畜生となって愚痴をこぼし、修羅となって外に向かって瞋りをぶつけます。悲しい「性(さが)」なのです。

 これをあまり強調し過ぎると、爾前教のように「善の結果は善」「悪の結果は悪」と極端な思想になっていきます。法華経は、煩悩、業、苦の「三道」即法身、般若、解脱の「三徳」です。「三道」がそのまま「三徳」となる「妙法」です。いつか学んだ「始聞仏乗義」にありました。鍵になるのが「信ぜば」の三文字です。「信」の「心」を湧き出すことがそれほど重要だということになります。

 「三道」の「苦(苦果)」といっても、貪、瞋、癡の「三毒」です。その始聞仏乗義で明確に語っておられます。

 「此れ苦果の依身は其の根本を探り見れば貪・瞋・癡の三毒より出ずるなり、此の煩悩苦果の二道に依つて業を構う 此の業道即ち是れ結縛の法なり」(始聞仏乗義983㌻)。

 「煩悩濁」も、貪、瞋、癡、慢、疑の五鈍使から起る「濁り」でした。その「煩悩」と「苦果」の二道によって「業を構える」というのですから、つまりは、「悪の根源」は、餓鬼、地獄、畜生、修羅の三毒・四悪だということになります。その根っ子にあるのが「疑い」(=無明)です。その「不浄の濁り」に生まれ合わせてきたのが人間であるという紐解きが、この前段にあります。

 「我等其の根本を尋ね究むれば父母の精血・赤白二渧和合して一身と為る悪の根本不浄の源なり、設い大海を傾けて之を洗うとも清浄なる可らず」(始聞仏乗義983㌻)。

 われわれの根本を訪ねていけば、父母の精子と卵子の「二渧」が和合して「一身」となった(欲望という)「悪の根本不浄」がその「源」です。例え大海の水を傾けて洗ったところで清浄にはならない、というのです。

 その「三道」を、根本清浄の実体である「信」によって、そのまま法身、般若、解脱の「三徳」に転じていけるのが「思い出すの法」の「妙法」です。「思い出すの法」とは、根源的には「久遠の法」と一体の「久遠の仏」を思い出すということですから、一生成仏抄講義で学んだ「衆生本有の妙理」と同じと言っていいのでしょう。つまり「唱題行」です。


 

まひこママ様へ

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年11月26日(日)06時58分33秒
  栃木の久保田です。m(._.)m

まひこママ様m(._.)m初めまして栃木の久保田と申します。よろしくお願い致します。

一軒のお宅で読売新聞を50部を朝日新聞を50部を毎日新聞を50部┐(´д`)┌自ら望んで購読している読者が居ますでしょうか?

聖教新聞の多部数購読を会員に押し付け取らせている事の方が異例なのです。

聖教新聞社に勤めていた方に直接聞いたことが有ります。部数が500万部を越えていると『広告掲載代金を吹っ掛けられると。』

それぞれの地域で例えば栃木県の 最高幹部は本部職員がやってます。信濃町に報告しなくてはならない都合上、自分の地域で部数が下がってしまっては『評価』に繋がるため会員さんに過酷な目標を押し付け取らせている。と言ったところじゃ無いでしょうか?

大石寺の坊主達の様に学会の供養で喰えなかった坊主達が贅沢三昧出来るようになり堕落していったのと同じです。ならば、『施をとどめよ!』と言うのが日蓮大聖人様の教えです。

私利私欲の極悪坊主を見つけたら施をとどめよ(収入源を断て)とのご指導です。

池田先生の御指導を守ろうと意見を言うヽ(^○^)ノ

日蓮大聖人様の書き残された御書の御金言を守ろうと意見を言うヽ(^○^)ノ

そうすると信濃町の執行部から査問される。

そして査問されても言うことを聞かなければ処分される。

それでも聞かなければ除名される。

時代錯誤の学会首脳部、執行部、ヽ(^○^)ノ

まひこママ様m(._.)m

原田ニセ会長や秋谷は5口やミナヨクイク強姦魔の谷川や小物弁護士┐(´д`)┌法非八尋達、池田先生の平和思想を捨て去った極悪人共の贅沢な生活を守ってやる事は無いので、聖教新聞の多部数購読はやめることをお勧め致します。                               久保田m(._.)m

 

聖教部数

 投稿者:通りすがりのR  投稿日:2017年11月26日(日)02時56分2秒
  まひこママ様

まだそんなことしてるのですか?
私の地域も周辺に比べるとそれがとても厳しい地域で大変な思いをした経験があります
そんな所でも今はさすがに最近ですが、そういう目標はあくまでも自発目標に変わりました。

聖教オンライン有料が始まり真っ先に切り替え、購読部数を減らし、最初はオンライン分は購読にカウントしてもらえませんでしたが、有料が始まるずっと前から新聞はデジタル化がいいと言い続けてた経緯もあるので
今では、購読部数にカウントしてもらえるようになりました。

だから負けないで意見は言い続けて欲しいです。
私もそうでした。

 

21世紀への選択 「人間の価値」をいかに守るか P371 を投稿します。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年11月26日(日)02時34分49秒
  第十一章 人類共生への「選択」・・・地球的統合をめざして 369

21世紀への選択 「人間の価値」をいかに守るか P371 を投稿します。

ポイント
*、池田
 湾岸地域は、世界の平和にとってきわめて大きな影響を与えますが、日本では、

地理的に遠いこともあり、どうしても関心が薄くなりがちです。

日本に拠点を置く平和研究所が、この地域の平和に積極的な貢献を果たすことは、

大きな意義があると思います。

*、テヘラニアン
 NGOが、率先して行動を起こす以外にありません。とくに戸田平和研究所

の場合、研究プロジェクトの中心に「人間の安全保障」を据えており、軍事的な側面では

なく、"人間"をどう守り抜くかという観点から、国家の利害を超えた問題の解決をめざ

しています。


*、池田
 重大な視点です。人間の価値をどう守り抜くかが、二十一世紀の安全保障を考える

うえでの「ホシ」になるでしょう。

 私はそうした意味から、九五年一月、ハワイの東西センターで「平和と人間のための

安全保障」と題し、講演いたしました。

 二十世紀の教訓を踏まえて、人間の「生命の尊厳」に目を向けることの重要性が、広く

人々の意識のなかで共有されつつあります。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第十一章 人類共生への「選択」・・・地球的統合をめざして 369
新しい章が始まりました。世界平和への道筋が示されています。

若者よ!!世界に雄飛して奮起せよ!!

池田先生は、人間の「生命の尊厳を感ずる心」、「人との絆を貴ぶ心」「自然・宇宙と共鳴して
いく力」と法華経の智慧4巻で教えられました。

人との絆を断ち切り、師匠と共鳴する心を断ち切る働きは、悪魔の仕業です。
SGの執行部が、一日・一瞬でも早く真の子弟の道に戻れるように、祈ります。
鈴之助

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
青春の哲理より

*
青春とは苦悩の連続でいいと思う
そこにのみ
人間革命の絶対的要件があるからだ
*
苦行なきは青春を閉塞する
理想と逞しき実践の青春には
自由独立の曲が天空に響きわたる


2015:04月号大白蓮華より、立正安国論、先生の講義

ただ民衆の安穏のため 希望と勝利の対話を!
 民衆は、真の幸福の哲学を求めています。

 万人が生命の尊厳性を輝かせつつ、対話の力で善の連帯を広げ、調和と共生の社会を建設
していく、新しき運動を心の底から深く求めています。
 創価学会は、「立正安国の旗」を掲げて、どこまでも、民衆の幸福と世界の平和のために、
現実社会の変革に挑戦しゆく使命を貫きます。

 そこに、「人間のための宗教」の精髄があるからです。
 それは、仏教の根本精神でもあります。
 また、日蓮大聖人直結の実践の証しです。
 そして、これこそが創価の師弟の魂にほかなりません。

 

21世紀への選択 「人間の価値」をいかに守るか P371

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年11月26日(日)02時26分48秒
  21世紀への選択 「人間の価値」をいかに守るか P371

池田
 戸田記念国際平和研究所が主催した、キプロスでの第二回「ペルシャ湾岸安全保障

フォーラム」(二〇〇〇年五月)が成功を収めたそうですね。

素晴らしいことです。

テヘラニアン
 ありがとうございます。

 第一回の会議は、イラン、イラク、トルコ、サウジアラビアなどの中東諸国をはじめ、

アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、中国、そして中立的立場の国々など、一七力国

の専門家が参加してトルコのイスタンブールで一九九九年三月に開催しました。

NGO(非政府組織)がイニシアチブ(主導権)をとつて、この地域の平和構築を試みた最初の

ものとなりました。

二回目のキプロスでの会議とあわせて非常に大きな成果を得ることができたと思います。

池田
 いまだ緊張関係が続くこの湾岸地域において、率直かつ誠実な「対話」が継続さ

れたこと自体、平和創造への確かな一歩であると、私は思います。

非常に重要な取り組みです。

今後もぜひ粘り強く続けていってください。

テヘラニアン
 この地域はイラン・イラク戦争や湾岸戦争が行われたように、緊張感が

強く、さまざまな利害が錯綜しています。会議をどのように進めるか、当初、頭を痛めま

した。

幸いにも、この地域の永続的平和と経済的安定をめざすという会議の目的を、参加者が

よく理解し、対話がとてもスムーズに進みました。

それで最初の会議でも具体論に話が及び、「湾岸地域における非攻撃的防御の展望」

「協力的な共通の地域安全保障」「地域軍縮」「地域協力機構の展望」などのテーマを

めぐつて、未来を見つめる対話が積極的に交わされました。

池田
 湾岸地域は、世界の平和にとってきわめて大きな影響を与えますが、日本では、

地理的に遠いこともあり、どうしても関心が薄くなりがちです。

日本に拠点を置く平和研究所が、この地域の平和に積極的な貢献を果たすことは、

大きな意義があると思います。

テヘラニアン
 湾岸諸国の代表からも「世界の困難な状況を自主的に改善しようとしない

日本という国にできた平和研究所が、湾岸問題の解決に貢献しようとイニシアチブを

とつてくれたことに感謝したい」という声が寄せられました。

ともかく、NGOが、率先して行動を起こす以外にありません。とくに戸田平和研究所

の場合、研究プロジェクトの中心に「人間の安全保障」を据えており、軍事的な側面では

なく、"人間"をどう守り抜くかという観点から、国家の利害を超えた問題の解決をめざ

しています。

池田
 重大な視点です。人間の価値をどう守り抜くかが、二十一世紀の安全保障を考える

うえでの「ホシ」になるでしょう。

私はそうした意味から、九五年一月、ハワイの東西センターで「平和と人間のための

安全保障」と題し、講演いたしました。

二十世紀の教訓を踏まえて、人間の「生命の尊厳」に目を向けることの重要性が、広く

人々の意識のなかで共有されつつあります。

仏法者として、これまで私どもが強く主張してきた点ですが、いまや時代の大きな流れに

なってきました。

そこで、「文明間の対話」をめぐる私たちの語らいの締めくくりとして、現代世界にお

けるいくつかの趨勢を分析しつつ、二十一世紀文明の基調となるべき方向性について語り

合っていきたいと思います。



 

もう、完全な末期的症状と言えるかもですね

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年11月26日(日)00時45分14秒
  まひこママさま

ご苦労様です・・全地域とまでも行かないまでも・・

こんなことをやって、いつまでもつやら・・情けない話ですよね。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/76858

 

同盟題目

 投稿者:  投稿日:2017年11月25日(土)23時55分11秒
  今晩は、皆様
ありがとうございました
池田先生、奥様、皆様のご家族が健康長寿であります様に
会員同志が尊敬し合える組織になります様に
おやすみなさい
 

同盟題目!

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年11月25日(土)22時54分42秒
  23時に開始します。よろしくお願い致します。
池田先生と奥様のご健康、ご長寿を祈りましょう。
また、病と戦っている人が健康になるようお題目を送ります。
 

それでも聖教は減らせない

 投稿者:まひこママ  投稿日:2017年11月25日(土)22時28分47秒
編集済
  来年の目標を決める年末恒例の地区討議の打ち出しがありました。
目標を決めて共有することは悪いことではありません。
しかしながら、聖教の目標だけは…です。
私の地域では聖教新聞基数という目標設定があります。みなさんの地域では新聞基数ってありますか?
内外とわず基数の部数を購読してもらうのですが、その目標が高い高い。
お金で解決できる人は、多部数購読でクリアしています。
贈呈啓蒙は外部のみならず、内部の厳しい部員さんのところにもやっています。
そんなことしたら、永遠にお金を払って読んでくれなくなります。
多部数購読でたくさん配達されると大変なので、販売店さんに頼んでお金だけ払って配達は止めてもらう必殺「販売店止め」とか「個人会館配達」なんていう技もあります。
基数を減らしたい、基数を何とかしてほしいという、切実な声は毎年あがってきますが、
決まって幹部がいう言葉は「家庭訪問して活動家を増やそう」「がんばっている功徳は大きい」「困ったときにはいつでも言って。1部でも2部でも応援するから」です。
だから基数は絶対に減らせてもらえません。私の地域の話ですが…。
一体、だれがそんな指示を出しているのでしょうか?
だから、聖教新聞推進の活動報告をお願いしても全然出てきません。大きな会合に行くと聖教拡大の成功体験を聞かされますけどね。
 

The Logic in the place 様

 投稿者:花の輪  投稿日:2017年11月25日(土)22時12分51秒
編集済
  ご指摘ありがとうございます
確かに!
記憶違いでした

サンダーバード様
先生は、まだ諦めておられていないと思います
創価学会が、このまま非人間的組織になり
人間を抑圧する団体で終わる訳がない
絶対に人間を大事にする、人間の幸福に尽くす団体に戻る!
と思われていると思います

だから、解散しないのだと思います

一番迫害され嫌な思いをされた先生が、諦めておられない
ならば
弟子も諦めない
諦めない事で、師弟不二となる事が出来ると思っています

そして
だから、先生は決して嘘つきではないと思います
 

螺髪様、Say say say 様

 投稿者:dekahappy  投稿日:2017年11月25日(土)22時11分37秒
  Say  say  say 様

『我々は『七人の侍』だと思うのです。彼らは誰もボスではない。親分は存在せず、上下関係なし。完全に独立・自立した野武士たちが、ただ共通(共業:ぐうごう)する目的のために連携・協力して闘いました。それは自身のためであり、共通する皆のため。そして最後にこう言うのです。「勝ったのは百姓たちだ」と。』

ありがとうございます!
おっしゃるとおりです。
地位や名誉やましてやお金の為ではありません。
忙しいですし、別に要りません。
あえていえば捨て石ですから。


螺髪様

「くノ一」性と「田力」性の真の平等について
ありがとうございます!

朝から仕事前に重いです(笑)
やっとこ仕事終わりました。
お礼遅くなりすみません。

私も、螺髪様、グリグリ様にならい、不軽菩薩の線から思索して参ります。

dekahappy
 

幹部訪問

 投稿者:ステルス会員  投稿日:2017年11月25日(土)21時55分51秒
  昨夜の報道を受けてか?・・
突然、幹部2名が「部員まわり」と称して我が家に来ました。
組織に対して感じている事や、公明党に対する考えを聞かれました。
何でも良いから思っている事を率直に言ってほしいとの事でしたので、
感じている事を述べました。
不穏な動きがないか調査(部員のチェック?)しているのかなぁ~・・。
 

左翼撲滅法門!

 投稿者:ドミサイル信濃町の入居者  投稿日:2017年11月25日(土)21時39分20秒
  政治的思想的左翼分子を撲滅する法門!南無公明党佛。南無公明党佛。南無公明党佛。  

組織内密告の奨励

 投稿者:ドミサイル信濃町の入居者  投稿日:2017年11月25日(土)21時34分54秒
  地区部長から直々に連絡がありました。組織内密告の奨励です。今回のテレビ東京の放映を見て、組織の内外で吹聴している人間を幹部に密告することを奨励しています。もちろん広宣流布のC作戦の一環です。査問除名への伏線です。物云えば唇寒し創価学会。  

花の輪さまへ

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年11月25日(土)21時31分19秒
  阿闍世王  投稿者:花の輪
投稿日:2017年11月25日(土)15時22分43秒
阿闍世王の最後は
悪瘡が体中に出来て、大地が割れて落ちて死んだという
仏法の厳しい法則

これは、阿闍世をそそのかした提婆達多のことです。

お手持ちにありましたら、調べてみて下さい。


阿闍世王
16ページ上段から下段迄
新版仏教哲学大辞典 昭和60年11月18日発行
創価学会教学部編者
青木亨発行者

序  創価学会名誉会長 池田大作 昭和60年10月12日
発刊の辞  創価学会会長 秋谷栄之助 昭和60年10月12日

創価学会創立五十五周年を迎えて新辞典発刊を企画して昭和59年1月に編集方針が検討されて昭和60年11月18日に発刊された。
 

WBS2017年11月24日の学会関連のもの

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年11月25日(土)21時06分33秒
  いろんな思いはあるんだろうな、と感じつつ
外部の方々の見方に近い内容に感じたかな

山口さんさ、質問されたときの「目つき」がちょっと気になったけど
視線を逸らしたね
それがどういう意味なのかな?と

ほかに、質問に答えてる声色
これも注目するキーになりそうに感じたけど

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

時代は我々の願いとは真逆方向に向かってる・・

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年11月25日(土)20時24分25秒
  露軍、比例なき性能の新型榴弾砲を導入へ
https://jp.sputniknews.com/russia/201711254312716/

「世界で最も死をもたらす潜水艦」の進水式
https://jp.sputniknews.com/russia/201711254312598/

アメリカ、中国でも次々と宇宙兵器を含めた新兵器が続々と誕生

世界中で激しい軍拡競争・・
 

20171119「憲法改正論議について」長谷部恭男教授

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年11月25日(土)20時13分59秒
編集済
  元職員ブログ掲載動画リンク
『安保法制と共謀罪を廃止せよー創価学会員有志が2017 10 22日仏共同テレビ局フランス』
https://www.youtube.com/watch?v=GeB34J-EG2o
『20171119「憲法改正論議について」長谷部恭男教授』
https://www.youtube.com/watch?v=0ummXybVeCs&feature=youtu.be
 

獅子の子様

 投稿者:花の輪  投稿日:2017年11月25日(土)19時08分43秒
編集済
  早速ありがとうございます

大丈夫です
先生の人生が、一貫して平和の為、民衆の為に、戦い抜いてこられた事を、ある面、会員より外部の人の方が分かっています

安保法案の時、
「創価学会は池田先生の思想に戻るべき」との記事が書かれました

また最近では
「変貌する創価学会」との記事も書かれています

勿論、誤解している人もいると思いますので
それは、対話していけば…
大丈夫です

獅子の子様の健気な師匠を思う想いに感動しました
自分も更に対話して、先生の正義を一人でも多くの人に話していきます

先生は
いつも人間的で率直で温ったかい方です
会員を利用するのではなく、会員が幸福な人生を歩めるように
支え、応援して下さる方です
この師に出会えた事は人生最大の幸福であり、最高の福運だと感謝する日々です
先生の御健康、御長寿を祈り抜いていきます


 

WBS

 投稿者:フロム関西  投稿日:2017年11月25日(土)19時01分53秒
  ワールドビジネスサテライト(・∀・)

あるがままに報道されたんじゃない?

後は観た人(学会員)が

自分で考えて 、

自分で判断することですね。
 

花の輪さんへ

 投稿者:獅子の子  投稿日:2017年11月25日(土)18時42分8秒
  ハンネが良いですね!(^^)v

そうですか 学会員さんでないご友人の方の方がよくわかっていらっしゃるようですね。

外から学会員さんに『ちょっとおかしいんじゃない』と声かけして頂き気づきのきっかけになれば有り難いですね。

先生と先輩方の友好対話の賜物ではないでしょうか。
今までの対話と言う種まきから公明党や原田執行部の狂いが内外問わず成長を促し芽を出しはじめて来ているのですね。

花の輪さんのお話を聞き
私も嬉しいです(^^)
声かけして頂き
ありがとうございます!

 

(無題)

 投稿者:獅子の子  投稿日:2017年11月25日(土)18時36分0秒
  虹と創価家族さん
SaySayさん
ありがとうございますm(__)m

原田執行部への怒りがあっても 先生を好きな気持ちがあっても
色んな感性と意見があり各々の戦い方がある中で
善が連携出来ない事程 残念で悲しいことはありませんからね。

SaySayさんが仰る通り
共通*共有部分での連携*協力が大事になりますね。
《七人の侍*百姓の勝利》
恥ずかしながら知らなかったので今ネットにてあらすじ読みました。
現在と重なるものがありますね。
了解しました。m(__)m

お互いの長所を認め合い活かし合う。短所は補い合えるような関係が築けたら素晴らしいですね。凄いパワーが発揮される事間違いなしです!又そうなれるよう微力ながら努めて参りたいと思います。

一人でも多くの方に理解と共感の輪を広げて行く事が広宣流布へと繋がって行きます!

SaySayさんのポジティブな思考に沢山の方が心救われているのではないでしょうか?
私もその一人です(^^;)
酷い家庭環境で育ったからかどうもネガティブで心配性な命の傾向があります。
元職員さんより年下なのですが年長さんのような考え方です(笑)

色んな意見に耳を傾け受け入れて行けることは良いですね。
良い意見交換が出来たように感じます!
自身の成長へと繋げて参ります。
ありがとうございます(^^)

虹と創価家族さんが仰るよう
原田執行部への怒りは即自身の切り捨ての命 魔との戦いでもあります。
油断 慢心があれば飲み込まれてしまいます。
『一人ももれなく』との祈りを日々再確認して行きたいと思います!
ありがとうございます(^^)

 

4.病子への愛情

 投稿者:The logic in the place  投稿日:2017年11月25日(土)18時19分48秒
  “病子”への愛情

 私は桜の花がことのほか好きである。私の信奉する日蓮正宗の総本山富士大石寺の境内にも、幾万本の桜を植えさせていただいたことは、私の少年時代の夢がかなったといってよい。
 この春も、目にみえぬ時の流れのなかで、冬から春となり、日本中のあちことに、桜の匂いがたちこめ、鮮やかな天空に、絵のごとく美しい。この花の四月も、またたくまに過ぎ去って行くにちがいない。
 春宵の詩情豊かな桜も、春の嵐から、身を守ろうと、可憐な姿を必死にうちふるわせているにちがいない。この桜は美事といえば美事、はかないといえばあまりにもはかない。
「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし」-業平の歌が、いたく胸にしみる、きょうこのごろである。
 この春も、桜の名所はたいへんな人出だったらしい。時移り、人の情けはいかに変わろうとも、花を眺め、花の下で一夜の歓びを尽くしゆかんとする風情は、昔も今も変わらない。
 しかし、いつもながら私たちの詩情の心を悲しませるのは、宴のあとの落花狼藉である。一夜明けると、桜の花の上野の山に、幾台ものトラックが出動しても間に合わず、係の人が途方にくれているというニュースを耳にすると、なにか寒風が胸をよぎる思いである。
 戦後のわが国に目立つものは「子供の猫可愛がりと観光地の紙クズ」という、辛辣な評を聞いたことがあるが、どこか一本、箍がゆるんだようなところが、感じられてならない。

 桜花の季節は、入学・卒業のシーズンでもある。先日、こんな記事を読んだ。某大学入学式に馳せ参ずる親子の風景である。
-途中で雨が降ってきた。ある父親は、着ていたレインコートを、自分より背の高い息子にはおらせ、カメラを手に、愛息の側を濡れながら小走りに走っている。息子は平然と、父親のコートを着て・・・・。ある母子。母は雨のなかを、大きな荷物を持ち、黒の羽織を着て、子供に遅れまいと必死についていく。息子は、母親のものであろう、女物のカサを自分だけさして、大またに・・・・。
 執筆者は、そこには「親子の愛情の美しさなどみじんも感じられなかった」と結んでいる。
 たしかにわが子は可愛い。私も三人の子供の親である。晴れの入学式を迎える親の気持ちも、十分わかるつもりだ。しかし、そうであればあるほど、大きな愛情で包んでやらなければならないと思う。子供はこれから、学校という一つの“社会”のなかで、立派な大人になっていくための素養を身につけていくのである。そのさい、もっとも重要なことは、甘えや依存心から自立心へと向けていくことであろう。親の愛情は、側面からでも、その自立の心の涵養を、応援してあげるものでなくてはなるまい。

 釈尊が亡くなる寸前に説いた教典に、「涅槃経」というのがある。
釈尊が入滅するとき、もっとも心配でならなかったのは、阿闍世王のことであった。阿闍世王は、当時のマカダ国の王。父を殺し、母をも害そうとし、釈迦教団を弾圧しつづけた悪逆の人であった。その結果、身に悪瘡を現じて、瀕死の苦しみを味わう。釈尊は王の行く末を憂えて深く祈る。そして、不治と思われた王の病も、たちまちに癒えたという。
 そんなこととはつゆ知らぬ王が、怪訝に思っているのに対し、臣下で名医の評判の高かった耆婆が、次のようにさとす。
「たとえば、人に七人の子があったとする。そのうち一人が病気になったとすれば、父母の子供への愛情は同じであるが、なかでも病子が一番気になる。それと同様に、仏の慈悲というものは、すべての人びとに平等であるが、そのなかでも、もっとも罪深い者に、ひとえに注がれるものである」
 -これを聞いた阿闍世王は、改悛の情厚く、のちに仏典結集のために大活躍している。

 このエピソードには、仏法で説く慈悲の真髄が鮮やかに示されている。とともに私は、真実の親子の愛情のあり方にも、ひじょうに示唆するところが多いと思っている。
 なぜ病子が一番気になるのか。彼が、自立し活躍していくうえで、もっともハンディを背負っているからである。病は肉体的なものとは限らない。甘え、臆病、意志薄弱などの精神的欠陥の場合もあろう。ともかく、親の愛情というものは、健全な者より“病子”がどう立派に、独り立ちしていくかに注がれるにちがいない。
 こうした人間の心は、親子関係を超えて、社会一般にも通ずることであろう。社会には“病子”は多い。それをどう救うか-古来、宗教の存在意義はここにあったといってよい。
 私の恩師はよく語ってくれた。
 それは飢えた人に一片のパン、一袋の米を施すのもよいかもしれない。しかし、それだけでは、依存心を増すだけに終わりかねない。肝心なことは、それらの人びとがどう自立し、生命力強く生き切っていけるかだ。宗教は、その点に鋭く目を向けなければならないと。

 桜の話が、親子の愛情のあり方にまで発展してしまった。しかし、両者はどこかで、根と根が通じあっているように思えてならない。
 自分たちだけが楽しみ“あとは野となれ山となれ”式のエゴ。子供すべての自立心を育てようとせず、自分の子供だけの未来の願望のみに投影しようとするエゴ。近頃は、子供をあまりにも甘やかし、なんでも好きな物を与えて、わがまま放題に育てあげたあげく、結局は、子供の心が離れ去り、親が裏切られていく悲しき話を、あまりにも多く耳にすることが多い。
 私には、その荒れ果てたわびしき心の世界が、美しき桜の花とはなぜか対照的な、匂う桜と紙の散乱と、二重映しになってしまうのである。

『主婦と暮し・昭和53年6月号』掲載
 

ネット対策チームの対策様

 投稿者:花の輪  投稿日:2017年11月25日(土)17時32分12秒
編集済
  大、大、大賛成です

獅子の子様
自分は報道見ていないのですが
自分の友人達は、今の公明と池田先生の思想は間逆だと言っています
これだけ真逆な事をしている公明を応援し続けているのは
池田先生が亡くなっているのか
師に違背している人に乗っとられているのか
どちらかだと言っていました

創価学会の「おかしさ」を先生発と思っている人は意外に少ないと知り、嬉しかったです



 

池田先生にお応えする為に

 投稿者:信濃町のネット対策チームの対策  投稿日:2017年11月25日(土)15時46分18秒
  信濃町のネット対策チームの対策です。

原田学会の職員が会員さんを奴隷のように使うための魔法の言葉があります。

「池田先生にお応えする為に」
※他に「喜んでいただく為」として使用されることもあります。

使用例
「池田先生にお応えする為に」政教新聞の大啓蒙をしましょう!

「池田先生にお応えする為に」政教新聞を家族全員取りましょう!

「池田先生にお応えする為に」公明党を大勝利させよう!

「池田先生にお応えする為に」○○候補を当選させよう!

「池田先生にお応えする為に」財務を三桁やろう!

「池田先生にお応えする為に」未曾有の額の財務をやろう!

このように全部池田先生の責任にして会員さんを各種活動に隷属させます。

この活動の全てが職員の権力維持の源泉になるものです。
原田学会の職員ははっきり言いなさい!

「我ら職員の生活の為に」財務を三桁やろう!
「我ら職員の生活の為に」未曾有の額の財務をやろう!
「我ら職員の生活の為に」公明党を勝たせて権力維持させよう!
「我ら職員の生活の為に」に○○候補を勝たせて権力維持させよう!

皆様は私の意見に賛成されますか?
職員の皆様は反対されますか?
 

阿闍世王

 投稿者:花の輪  投稿日:2017年11月25日(土)15時22分43秒
  阿闍世王の最後は
悪瘡が体中に出来て、大地が割れて落ちて死んだという
仏法の厳しい法則




 

七人の侍

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年11月25日(土)15時19分47秒
  獅子の子さんの仰る通りと思います。(私は悪く受け止めていませんよ)誤解も含めて様々な受け取り方をされているでしょう。最終確認はとっていないと思います。年長さんからはよく「彼らは甘い」と「若さゆえ」を指摘されています。「ただ、成長している」とも。その通りでしょう。危なっかしさもあると思います。が、100%固いということは無いとなると、ある程度のバクチ的要素は残らざるを得ません。
そんな色々が混ざり合って化学反応を起こすのが「衆生世間」という生命体ですね。
考え方が100%一致することはありません。私も波田地一派ではありませんが、共通・共有する部分で連携できます。宮川さんともできるでしょう。

メディア側にも思惑は当然あるでしょうね。ただ今回のWBSに関しては憲法9条についてで、学会内部について言いたいのではなかったと思います。

この前、ある人と話していたのですが、我々は『七人の侍』だと思うのです。彼らは誰もボスではない。親分は存在せず、上下関係なし。完全に独立・自立した野武士たちが、ただ共通(共業:ぐうごう)する目的のために連携・協力して闘いました。それは自身のためであり、共通する皆のため。そして最後にこう言うのです。「勝ったのは百姓たちだ」と。
百姓たちも七人の侍を雇ってはいましたが、何もしなかったわけではなく、彼らの立場で闘いました。この勝った百姓たちが我々「民衆」なのだと思います。
 

元職員さん方を批判しているのではありませんよm(__)m

 投稿者:獅子の子  投稿日:2017年11月25日(土)14時36分59秒
  番組側が編集し放送する部分を最終確認したいとまで取材交渉されているのでしょうか?

此方の意図とメディア側の意図とでは思惑が違うと言う場合もあり活用するつもりが足元救われる可能性もありますので…。心配になった次第です。

不当な除名処分を受けた元職員さん方の戦いには頭が下がる思いで居ります。
並々ならぬ戦いでしょうから…
痛みもはかり知れません…。
その元凶である原田執行部への怒りは私も同じなんです!

だけどもあの報道では マイナス印象として
《創価学会=洗脳宗教》
《内部分裂*分派活動で仲間割れ》
《池田大作=無責任に雲隠れ》
と言うような悪い印象とメディア側の悪意を少なからず感じた次第です。
私の性格がネガティブなもので偏った見方になっているかも知れませんが…。

番組取材を受けた同志の皆さんの勇気ある声あげは本当に凄い!と感じましたよ。
勇気ある行動に敬意を表したいと思いますm(__)m

しかし一方では番組を見た内外問わずの方々に誤解を招いてしまったのではないか?
不快な思いを与え傷つけてしまったのではないか?と
心配になるような報道の仕方だったのではないかなぁと…。

TBSテレビ『報道特集』での天野さんの戦いを報道された際は『そうだ!そうだ!』と《共感》と心が奮い立たされる程の《感動》がありましたがメディア側の取り上げ方一つでこんなにも印象が変わるものなんですね…。

SaySayさんや他の方々の仰っている事 また元職員さん方を応援する気持ちもわかるからこそ大変複雑な心境です。

虹と創価家族さんが仰るように
今一度《祈りの確認》が必要なんじゃないかなと思いました。

元職員さん方の戦いを見守っていると なんだか危険な綱渡りをしているような…
不安な気持ちになる事があります。
仕方のない事かも知れませんが…

でもこう言った意見の相違や温度差で相手に嫌悪感を抱いたり攻撃したり手を携えない事だけは避けなければならないと思っています。

善は強いがゆえに団結しずらい…そうなると損ですよね。

色んな感性があって良いんです。
様々な視点から様々な意見がなされ より良い方向へ行く事を切に願い祈って居ります。

 

WBSみたけど。

 投稿者:二眼の亀  投稿日:2017年11月25日(土)14時17分55秒
  最後の山口代表のコメント

少数派の意見は黙殺されると言う事か?このタヌキ代表。枯れ葉を小判にしてみるがいい。
 

大白蓮華12月号

 投稿者:花の輪  投稿日:2017年11月25日(土)14時14分56秒
編集済
  大白蓮華12月号
11ページに掲載された写真
「会長として最後の本幹」での写真だそうである

「私が辞任するのはいい
  しかし、自分が辞任した後、どうしたら学会員を守ることが出来るのか?」
苦悩する先生
心労で目を悪くされた先生

それに比べて…
側近と言われる幹部の皆さんの明るい笑顔…

そして、この序列を見る限り、北条、山崎のようですね
北条氏急死の後、山崎氏ではなく秋谷氏が何故、会長になったのか?
その顛末を会員は全く知らされていないでは?
日達急死で日顕が「相承受けた」と言っているのと、同じ臭いがします

「1割離れても仕方ない」とのコメント
結果「1割位しか残らなかった」という現状になったように思います
残り9割近い人は
「胸の中の先生」と対話して頑張ればいい

先生は
信心を根幹に、それぞれの土俵で頑張り、勝利し、幸福な人を作りたいと思っておられたと思う
職場、家庭、地域等々

9割近い人が、離れている原田学会

原田学会は
会員の「時間、お金、エネルギー」そして
「1票」まで縛り上げて、自在にしようとしているように感じます
「先生を守る為」「先生に喜んで頂く為」と呪文の様に唱えて

会員に強いるのではなく、原田会長並びに
幹部、議員の皆さんこそ「先生に喜んで頂ける」ように頑張ってください

先生が喜ばれる事は
会員の幸福、国民の幸福、世界の平和です

会員は、これまで充分頑張って来ました
「魚は頭から腐る」
頭が腐っていない事を、口先だけでなく、是非行動で示してください










 

WBS見てないけど

 投稿者:小作人@地上の発心  投稿日:2017年11月25日(土)13時11分11秒
  たかだか数分のテレビ報道に、あまり過敏に反応することもないのでは。

視聴された学会員にとっては、ふだん外から自分たちがどう見られ、どのように認識されているかを考える一助にはなったでしょう。

裏を返せば、いつも思うことだが、立場を逆にして他宗教を一生懸命やってはる人の話を予断なく真面目に聞いている学会員がどれだけいるか……?

執行部と方向性が真逆でも硬直したイデオロギーに呪縛されて、
想定問答集があるかのように、あらかじめ結論の出尽くした「仏法対話」に自閉していては、
ただの一方通行、話し相手からすれば「宗教の押し売り」。

池田思想の宣揚の仕方も各人各様。受け止める側の解釈も様々。
自分がカテゴライズする「正義」や「幸せのかたち」に固執しないことです。

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信濃町という区域をもはや脳内地図から消し去っているような私から見れば、例の三人組+αがやってること自体はナンセンスそのもの。
だけども彼らが身体を張ってあそこまで騒ぎ立て掻き回してくれたから公の前にあぶり出された事案も少なくない。

彼らの行動について「私憤を公憤にすり替えている」と批判するツイートをお見掛けしたが、、、
すり替えりゃいいのさ、どんどん“公”の場に暴き出しゃいいのよ。自由に解釈の余地を与えて。。

子供やあるまいし、他人様の行動を評価するのに自分のちっぽけな尺度で全肯定か全否定で針を振らせることもない。
自らを硬直したドグマ、結晶化して脳裏にこびりついた価値体系から解き放ち、運動のバリエーションを広げるのに知恵を回そう。

他人様の事を「憎悪の念」にとらわれているかのように見下して論評よりも……。

 

昨夜のテレビ東京

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年11月25日(土)12時10分47秒
  昨夜のテレビ東京の番組。

偏向報道でもされたのかなと思っていたが、そんな事も無いようだ。

今起こっている事をそのまま伝えているだけで、私は何も違和感を感じなかった。

今創価学会で何が起こっているのか、全然気がついていない学会員さんにはぜひ見てもらいたい番組だ。

自分の目で見た後どう感じるかは自由だが、重要な変化が起きているとの認識が広まれば、学会改革への大きな力になって行く。

安保法案は、池田先生の平和主義に反すると考えている学会員がこんなにいる。その事を全国に伝える意義は大きい。
創価学会から村八分にされ、孤軍奮闘している人達への大きなエールにもなる。

山口代表がコメントを求められ、何も知らないと言うのはおかしい。
衆院選惨敗後の総括でも、学会員票の離反という話は出ていたし、そのずっと前にも、安保法反対署名の受け取りを、拒否していたりしたではないか。

安保法、秘密法、共謀罪、9条……。すべて信仰の根幹に関わる問題だ。
もうこれ以上ゴマカシは許さない。
混乱を招くから触れなくていいというような問題ではない。

公明党の自民追従政策を拒否し、創価学会を除名される学会員さんが多数存在している事について、どう思うかも聞いてもらいたかったが、今回はまあいいだろう。
次の報道に期待したい。

しかしテレビ東京はなかなかのものだ。
犬HK、日テレ、フジでは、なかなか放送出来ない内容だ。

今後、テレ朝やTBSでも取り上げてもらいたい問題だ。
別の考えもあるようだが、私はそう思った。


p.s.  ハンドルネーム「匿名」とかいう者へ

        お里が知れますよだと? 何だその脈絡のないセリフは?意味がわからん。 悪口のつもりか?
        ウチも一応天皇家につながる家系らしいがそれがどうした。何か文句あるのか。

         金は確かに無いがな。ハハ(笑)

         それよりネットで遊んでないでちゃんと仕事しろっ!  この供養泥棒がっ!!

         お前の事だっ!!





 

キャン・ザ・キャン

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年11月25日(土)11時48分7秒
  「学会の弱体化につけ込み、会員を取り込もうとする寺と左翼」が存在するとしたら愚かとしか思えない。創価学会はある意味、終着駅です。学会が嫌になって他の宗教、組織で積極的に頑張っている人は私の周りには一人もいない。殆どの人は宗教とか組織とかにウンザリしていて、もうコンリンザイ。
元職員らや波田地さん一派(笑)、宮川さんらをそのように言う人がいますが、彼らは不満分子を取り込もうなどとはしていない。逆に池田先生の創価学会を取り戻して自分も元に戻ろうとしている。ベクトルは真逆です。澄んだ川に帰りたい鮭です。そこで産卵する。
「元に戻る」です。「蘇生の義」です。それが本来の「円満・具足」だからです。そのために「開く義」を活用するのです。開かれた対話です。
閉じ込める? 逆効果です。その仏法という《法則》に逆らい、真逆を行ったから弱体化させたのです。それを続ける? それこそウンザリ。もうコンリンザイ。

“彼をモノにするために戦うのよ 彼を閉じ込めておくのよ”
“缶のなかに詰め込んじゃいな できるうちにやっちゃうのよ 閉じ込めちゃうのよ”
“独り占めよ やれるときにやっちゃうのよ 彼を誰にも渡さないで!”
“アンタの妹はまるでずる賢いネコのようね 彼女がアンタの気に障るのよ”
“アンタの恋人イーグルはもう一方で ちょっとばかし邪悪な欲望が好きなのよ”
“夜はキャットをイーグルの巣にいれちゃダメよ イーグルは抵抗せず「イエス」って言っちゃうかもしれないわ”
“彼を缶に閉じ込めちゃうのよ 強引にやっちゃうの 無理なようでもやっちゃうのよ”
“やったもん勝ちよ やっちまえ やっちまえ 彼を渡したくないなら
立ち上がるのよ!”
『キャン・ザ・キャン』スージー・クアトロ
https://www.youtube.com/watch?v=xYoogY-UGio
 

11月24日責任役員会メンバーは全員折伏弘教成果発表したんですか?

 投稿者:原田奴隷学会  投稿日:2017年11月25日(土)11時47分11秒
  財務で優雅で呑気な生活をしている責任役員会メンバーの皆さん、あんたがたは会員ですよね?会員の基本は折伏弘教、唱題行です。やってなければ、会の責任を担う者として不適格ですよ!怪鳥以下、本日25日迄何世帯折伏成果を出したか?聖教新聞紙上に公表下さい。
あんたがたは、先生でも師匠でもありません。単なる会員です、会の責任を担ってるだけです。それで財務でのんびり優雅な生活しているのであれば、会員が本部に押しかけて外へ放り出されますよ。

本部内にもかなりの不満者が溢れて誰も助けてくれなくなります。たまには、上野公園で路上生活を十年くらいやってみては?病気も治りますし、不摂生、ふしだらな生活にピリオードをつけることも出来るんじゃないですかね。
明年1月2日迄に五世帯本尊流布と活動家として即戦力で末端組織に組み込むんしよう。直弟子直結の新来者が組織のブロック長やらニューリーダーとして来年から登場する。あなたがた、怪鳥以下副会長、責任役員会の高齢者も死んでいる暇なく、即折伏成果を出して下さいよね。ロケットスタート!!愛人作ったりはしないで下さいよね。
 

創価学会は仏法なのか?それとも資本主義思想なのか?

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年11月25日(土)11時44分16秒
  栃木の久保田です。ヽ(^○^)ノ

WBS・私も見ましたよ (^o^ゞ

創価学会が日蓮大聖人の仏法を教義とした宗教団体であるならば現在の執行部の会の運営は間違いなく違った方向に向かっている。

顕正会にしても邪宗門にしても対論の場で様々ないちゃもんを付けてきたのですが、御書の御金言から離れなければ負けることは120%無かった。必ず敵のデタラメが浮き彫りになりヽ(^○^)ノしどろもどろで『妖怪』の様な声で『ケッケッケッケッ』(笑)

と┐(´д`)┌話し合っているうちには見せない変な姿を見せたものです。

それこそが3代の会長が大聖人様の御金言を基にして会を運営していた証拠であり、秋谷は5口や原田は4号5号のニセ会長はアクセンチュア等と言う凡そ宗教とは何の関係もないコンサルティング会社などを取り入れ『儲けを中心に』会の運営を変えてしまった。

守銭奴共よ(# ゜Д゜)

お前達に民衆の幸せや世界の平和などを語る資格もないだろうし、人の幸せ平和に生きる権利なども眼中に無いのであろう!┐(´д`)┌

悲しい┐(´д`)┌可哀想な者共である。

これから社会の制裁を受けて行くのであろう

そのときになって泣きを入れるんじゃねーぞ!

散々正義の真面目な会員さんを処分してきたのだから・・・・。


 

ダンス・トゥナイト

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年11月25日(土)11時05分48秒
  『ビートたけしが「バカ」と言い続ける理由「時としてこの国は、バカ踊りしちゃうから油断ならない」』
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171125-00542481-bookbang-soci
>《日本はかつて真珠湾攻撃とかインパール作戦とか、バカとしか思えないことを国を挙げてやっちゃった過去がある。時としてこの国は、社会全体が阿波踊りのような状態になって、バカ踊りしちゃうから油断ならない。「鬼畜米英」だったのが、すぐ「ギブミーチョコレート」なんだから、その変わり身の早さったらない。本当に変な国だよね。》
《だからバカはおいらたち芸人ぐらいにして、日本全体がバカにならないように願っている。そのためには、何がバカか、どのようにしてバカが生まれるのかについて考える必要があって、本書(ビートたけし著『バカ論』)がそのきっかけになればいい。》<

この「バカ踊りしちゃう」習性を知り、だから「9割は大丈夫」と失効部。その結果、皆は幸せになったのか?
創価学会の弱体化……もはや深刻です。「限界集落」という言葉があります。
>65歳以上の高齢者が集落人口の半数を超え、冠婚葬祭や田んぼ・生活道路の管理など、社会的な共同生活の維持が困難な状況にある集落のこと。「機能を失った集落は消滅に向かう」とされる。旭川大学の大野晃教授(高知大名誉教授)が1991年に提唱した。
(2016-10-13 朝日新聞 朝刊 岐阜全県・1地方)<

今みなさんの座談会会場を見渡してどうかでしょうか? 65歳以上が半分を超えたらいずれここの座談会参加者はゼロになるという危機感はないでしょうか?

なぜこうなった???

何が過去に「因」としてあって、現在の「果」なのか? ならば未来に現在と違う「果」を望むなら、過去と違う「因」を創ろう。

かと言って暗くなってはいけない。その暗さは「果」であるだけでなく、同時に「因」になるのだから。たけしさん、阿波踊り自体は素晴らしいでしょう? リオのカーニバルにも負けない。「果」としてのバカ踊りじゃなく「因」としてのバカ踊りなのです。阿波踊りは。勝利の「因」を創っています。だから「♪踊らにゃ損!損!」なのです。地涌の菩薩も踊って地から涌き出ました。まずは一度、現実を直視したら、次は陽気に前を向き直しましょう。陽気に!!!

“みんなフロアを踏み鳴らすのさ みんなビートを感じるのさ 今夜みんな踊りまくるのさ”
“みんないい気分になるのさ 今夜みんな踊りまくるのさ”
“みんな飛び跳ねて叫ぶのさ みんな歌い出すのさ 今夜みんな踊りまくるのさ”
“その気があれば、僕のところでもいいよ”
“やりたいことは何だってできる”
『ダンス・トゥナイト』ポール・マッカートニー
https://www.youtube.com/watch?v=1LFTxmERTbw
 

ワールドビジネスサテライト

 投稿者:SaySaySay  投稿日:2017年11月25日(土)10時04分9秒
  『遠藤文書』のこの部分は極めて重要です。

>仏法に関する正邪は「主観」で決まるのではなく「文証・理証・現証」という「客観的」な基準に拠らねばならないということを教えてくださったのが、ほかならぬ目蓮大聖人であられます。だからこそ、その御精神のまま、主観的な思いではなく、互いの主張内容を
客観的に吟味すべきなのではないでしょうか。<
>具体的には、私どもの行動を「分派活動」と非難されましたが、私どもの主張のほうが正義であり、「執行部による性急な学会教義改変」のほうが池田先生の御指導に沿っていないのであれば、むしろ変更を無理に推し進めようとした行為のほうが、「池田先生を師とする創価学会」から逸脱しようとする、いわば「分派活動」となる――客観的には、こういう理路になってまいります。また、日寛上人の教学を根本としてきた戸田先生以来の伝統の学会から離反する「分派活動」ではないでしょうか。<
>お教えください。創価学会は、いついかなるときも「池田先生が基準」なのではないでしょうか。「そうでない」と言うなら、会長の意図に従わず、阻止しようとした私どもは「分派活動」となるのでしょう。「そうである。池田先生が基準である」と言うなら、池田先生の御指示でない教義変更を強要した方が「分派活動」をなされたことになります。<

「分派活動」とは何か? 「法を下げる」とは何か? 誰か? その《基準》は何か?

まず元職員らは取材を受ける際に必ず「池田先生、創価学会に傷をつけるような報道はしないでくれ」と約束させています。即ち《基準》は「池田先生の人間主義・絶対平和主義」です。
では、この「池田先生の人間主義・絶対平和主義」に傷をつけているのは誰か? 『WBS』番組・東京座談会で小平氏は「現在の原田会長を中心とする創価学会本部執行部は、師匠の“人間主義”“絶対平和主義”の思想と精神から逸脱し」と述べています。
これは事実か? それを見極める眼をまず持つ必要があります。死神と取引した眼ではなく、仏法者、池田先生の弟子であるなら信心の透徹した眼=仏眼、法眼、慧眼といった眼です。
その「眼」が「その程度か? たいしたことないな!」と民衆から言われることが「法を下げる」ことではないでしょうか。

「池田先生の人間主義・絶対平和主義」とはいかなるものか? まずこれを知らなくては、判断《基準》を正しく持っていないようでは「法を下げる」以前のことでしょう。
番組・座談会での登壇者は「こんなの絶対に変だ! 池田先生が認めるはずがない!」と述べています。これは彼女の知る「池田先生の人間主義・絶対平和主義」を《基準》にしての叫びでしょう。
ここで対決することになります。「池田先生の人間主義・絶対平和主義」を《基準》とするならば、その《基準》に近いのは彼女の方か、執行部の方か?
この《基準》から遠い方が、即ち「依法不依人」ではなく、「師弟不二」ではなく、「境智冥合」しない方が、執行部の方が「法を下げる」行為者です。

さらに番組に顔出ししていた男性信者は「現場の人たち(信者)が洗脳されている。自分で考えることができなくなっている」と述べています。
池田先生は本幹同中で「創価学会は学ぶ会なんだ!」と声を荒げて叫ばれ、自律・自立した信心を教えて下さっているにもかかわらず「池田先生の人間主義・絶対平和主義」を学ばず知らず、《基準》としていない9割かも知れない学会員こそが「法を下げる」人たちです。

時おり学会員は外部の人をあるいは馬鹿にして見下し、敵視しては池田先生・創価学会を知らないと批判するが、外部にも正しく「池田先生の人間主義・絶対平和主義」を知る人はたくさんいます。それと入会するかどうかは別です。ラカニエンヌさんはよく学会理解者である有識者の名前をあげておられました。
そんな正しく「池田先生の人間主義・絶対平和主義」を知る外部の人が「本当に安保法、共謀罪はいいの? 池田大作さんはOKと言っているの?」とその《基準》から疑問を投げかけられて来ているのです。

今は学会員よりも外部の人の方が池田先生・創価学会をよく知っているとはどういうことか?
これが「法を下げる」ことです。「何だ? ミスター・ダイサク・イケダには弟子はいないのか?」。こう思われ、思わせることが「法を下げる」ことです。

この「法を下げる」はいま現実に起きていることです。問題はその恥を外部にさらけ出すかどうか、マスコミを通じて知らせるかどうか、でしょう。
テレ東での「反対集会」とか「離反」とか「(執行部に対して)不満を抱える」という言葉は私も改めて欲しいと思います。不満と言えば愚痴に聞こえ、参加者に非があるように聞こえます。しかし「池田先生の人間主義・絶対平和主義」を《基準》とするならば、非は執行部の方にあり、「怒り」の方が的確です。

番組に顔出ししていたもう一人の男性信者は「(反対集会に参加して)下から変えていく力になりたい」と言われています。
どう変えていくか? 「池田先生の人間主義・絶対平和主義」を《基準》とするならば、本来のその《基準》に合った世界に戻していくということでしょう。「蘇生」です。
「妙とは蘇生(=空諦=如是性=ソフト=心法)」です。すると本来の姿「妙とは円満・具足(=中諦・中道=如是体=法則)」に戻る訳です。そのために「妙とは開く(=仮諦=如是相=ハード=色法)」を具体的に使います。色心不二の《法則》を活用するのです。
この「開く」を『WBS』にやって貰ったということです。《基準》を見失い「歌(池田先生の人間主義・絶対平和主義)を忘れたカナリア」が再びオンジョウ(音声・温情)を発するために。
この番組を見た外部の人が友人である学会員に「やっぱり、今のお前らおかしいで。池田大作さんとお前らの言うてることは違うで」と言ってくれるようなら、まだ諸天善神はこの国を捨て去っていない。御観念文から消されてヘソを曲げていなければいいが。
 

意味不明

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年11月25日(土)09時33分39秒
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/76812

『学会の弱体化につけ込み、会員を取り込もうとする』を法華講員や顕正会員が学会員を勧誘してる事実を僕はリアルにみてきてるけれどね

その『学会の弱体化』をさせてきたのは、27年も会長をやった秋谷元会長・現副会長であり、その流れを引き継ぎさらに弱体化させてる原田会長です

『学会の弱体化につけ込み、会員を取り込もうとする』という事態を招いたのは秋谷元会長・原田会長の指揮による結果ではないでしょうか

それだけではありません

この掲示板のこの状態もいうなればお二人の会長の指揮による結果のひとつというだけです
実権を持ったお二人が未だ最高幹部であれば、池田先生の責任ではなく、実権を持って指揮を行った両会長の責任と思いますね

昨夜のテレビも両会長の指揮による結果のひとつがこうなった、ということです
彼らに問題がある、ということであれば、10年ほども本部にいて両会長は彼らを問題のないよう育てることができなかった、という事実です

両会長の怠慢以外のなにものでもないでしょうね

それについてはスルーというのは両会長は無責任でもいいんです、と言ってるも同然ではないでしょうか

コメントしたついでだけど
なんだか「噂」になってる原田会長のご体調の話
事実うんぬんはともかく、年齢からしてそろそろ臨終のことを思う年頃なんじゃないでしょうか

僕の知り合いで原田会長にそっくりな人はほんと悲惨な亡くなり方をしたもんです
孤独死して発見されたのは三日後
玄関に入った直後に持病から心臓発作を起こした感じ

生前には希望を失いまともに生きる意欲すら失ってたっけ
持病でなかば自暴自棄気味の日々のようだたし、あんなアルコールの飲み方してたんじゃそりゃたった三ヶ月で逝っちゃうよ
正気あればやらなかったろうし、今でも生きてたろうと思う

周りの人たちはそんな状態に関わりたくないから、そんな日常が「孤独死」ということになったのです
持病があったにせよ、普段から良心的な人付き合いをしていれば「万が一」のときに必死に助けてもらえたんじゃないでしょうか

原田会長、あなたにはそういう「真心で必死に救おうとする人」が現在周囲にいますか?
僕は池田先生じゃないからこういう言い方しかできないけど、『真心』のままにっこり臨終を迎える人生が本当の裕福なんじゃありません?

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

メディアは反アベのために取材する

 投稿者:匿名  投稿日:2017年11月25日(土)09時21分29秒
  WBSを見たが、いつもの主張。
創価学会は平和主義や人間主義に戻ってアベに反対しろ。公明党に圧力をかけろ。
これである。

知識人が公明党を褒める記事の大半もこれ。
野党がだらしないから、与党内野党に期待しているに過ぎない。

創価学会や公明党のための取材にならないのが、残念である。
 

二十一世紀への対話 177

 投稿者:まなこ  投稿日:2017年11月25日(土)09時18分30秒
  【池田】 人間存在がなるほど現世の生だけのものだとすれば、死後の運命などということは問題ではなくなってしまいます。しかし、こうした死後についてのとらえ方の相違は、この世でのわれわれ人間の生き方を大きく左右することが考えられます。
そこで、生まれながらにして個々の人間の運命が異なるのはなぜかという点について、博士のお考えをお聞きしたいと思います。とくに、博士は“宇宙の背後にある究極の精神的実在”を主張しておられますが、それが人間の運命を左右する意志的な存在なのかどうかという点について、伺いたいと思います。

【トインビー】 人間の運命が異なるのはなぜかについては、私も、他の脱キリスト教的な西洋人と同じく、遺伝や環境の相違がこれを部分的に説明するものと考えています。しかし、それと同時に、彼らのうちでも運命予定説に近い考えをもつ人々の幾人かよりは、私はカルマの役割を重視しています。私はまた、彼らのうちでわれわれが経験的に知っている人間本性の精神面を越えたところに、何らかの“究極の精神的実在”が存在することを信じない人々とも、意見を異にしています。
私は、私自身の人生で直接にカルマの働きを体験してきましたし、私が直接間接に知っている人々の生涯にもカルマを見てきました。また、人間社会や制度の数々の歴史のなかにもカルマが働いていたことを、見ることができるのです。社会や制度は、死を免れない存在である人間群が、互いに関係して織りなす網状組織(ネットワーク)であり、これら人間群は一つの網状組織を一個人の一回限りの人生よりもずっと長期的に存在しうるものとするため――事実、しばしばそうなっていますが――順次交代しながら、前任者から後任者へと引き継いでいます。
したがって、社会や制度の歴史にカルマが作用していることを証明するには、個々の人間存在の場合のような、生死の繰り返しのなかで一貫した同一性を保っているといった仮説は、必要ないわけです。社会や制度の存続を支えているのは、あくまで人間関係の網状組織であり、そこに一時的な関わりをもつ個々の人間存在ではないのです。
ここで、私のいう社会や制度の歴史に作用するカルマの実例を、イギリスの歴史から三つあげてみましょう。
十四~十五世紀に、イギリス国民は、フランス攻略を目的として百年戦争を起こしましたが、結局はこれに失敗しました。このため、イギリス国民は、ヨーロッパ大陸制覇の野望を永久に放棄することになり、大陸列強によるイギリス攻略を防ぐという唯一の目的を除いては、ヨーロッパ問題に関する一切の軍事的・政治的干渉を差し控えるようになりました。これによって、イギリスは、その“カルマのバランス・シート”の借り方勘定を、首尾よく帳消しにしたのです。
また、十七世紀のイギリス国民は、国内政治において暴力的でした。彼らは、内戦を起こし、国王を死刑に処し、絶対君主制を廃して軍事政権を打ち立てています。しかし、これに幻滅を感じた彼らは、その後、政治面では非暴力的になりました。つまり、国内政治の面でも、イギリス国民は“カルマのパランス・シート”の借り方を、貸し方に転ずることに成功したわけです。
十八世紀および十九世紀初頭のイギリスでは、雇用者たちが情け容赦なく産業労働者を搾取し、私利を貧っていました。二十世紀に入ると、イギリスの中産階級は、産業労働者に対するそれまでの経済的圧迫を悔い改め、自らすすんで、より公平な経済的処遇を認めようとしました。しかし、そのときすでに労働者たちは自衛手段として、労働組合を結成していたのです。これらの労働組合は、いまや強大化して攻勢に転ずるほどになっています。そして、権力を握った組合員たちは、自己の利益のために、かつて雇用者たちがやったのと同じ、情け容赦のない行為に出ています。この場合、イギリス国民は、もう一度“カルマのパランス・シート”の借り方を貸し方に転じようとしたわけですが、今度はそれに失敗してしまいました。結局、経済関係では、互いに慈愛の念をもつことができなかったのです。労使の関係においては、互いの立場が逆転したとはいうものの、行為の無慈悲さには少しも変わりがなかったわけです。

【池田】 ただいま述べられた、社会や制度における宿業(カルマ)の作用というとらえ方には、私も全面的に賛同します。私には、個々の人間が集合して構成している社会も、一つの超生命体のように感じられます。社会は独自の運動法則をもち、成長し、増殖する働きをもっています。また、社会には自己再生能力のようなものも内包されているようです。これらの機能は、私には、生命体特有のものと思われるのです。したがって、社会、制度、国家というものが、生命体と同じように、宿業を自らの内に形成し、それによって影響され、さらに新たな宿業を形づくっていくという原理を設定することは、私には妥当であると感じられます。
とすれば、国家、社会をリードしていくべき為政者は、このような大きな次元での宿業までも考え、そのバランス・シートを調整していくという、高度な、また大局的な感覚をもたなければならないでしょう。たとえ政治的な技術や経済面の能力が優れていても、宿業を次から次へと悪化させて、バランス・シートを狂わせていくようなやり方は、終局的には国民を不幸にしてしまうといわざるをえません。第二次世界大戦時における日本は、まさしくこの宿業のもつ重みを無視し、その暴走を許し、清算のために多大の犠牲を強いられた、明らかな例であるといえましょう。
さらに、利潤優先の経済成長が日本にもたらしている公害の過酷な現状も、国土自体の宿業のバランス・シートを借り方にし、その結果、手ひどい反撃を受けているのだということができるでしょう。

【トインビー】 あなたは、カルマに関する私の考えを、さらに大きな次元で具体的に説明されたように思います。ところで、さきにあなたは、私のいう“究極の精神的実在”がどんなものかについて、おたずねになりました。
私は、ユダヤ教徒やキリスト教徒や、イスラム教徒が信奉しているような、唯一無二・全能の、しかもその他の点では人間的な男性神というものの存在を信じておりません。また、ヒンズー教や、キリスト教以前のギリシアやスカンジナビアなどの神々のような、人間の姿をした男女の神神も信じません。同様に、人間が、あるいは他の太陽系中の棲息可能な惑星上の人間に似た生物が、宇宙最高の精神的実在であるという説も、信じがたいものです。
人間は、善悪の区別を意識する存在です。また人間は、その良心によって、常に善行をなすように命じられるものです。にもかかわらず、現実には人間は、ごく控え目にいっても、しばしば悪行をなしています。人間が、自らの行為を体験でき、しかも自らの悪行に良心の呵責を感ずるということは、人間が、常に人間性にまさる何ものかを信じていることを示しています。

【池田】 つまり、人知を越えた何らかの実在に対する人間の謙虚さが、人間の倫理的行為を可能にしているということですね。また、その究極の実在への畏敬の念が宗教であると――。

【トインビー】人間性は、その本有的な自己中心性を克服できないかぎり、常に悪行をなすものです。しかし、ときとして、その克服を果たすこともあります。つまり、人間は自己を越える何ものかのために――他の人間とか、ある人間集団、または全人類とか全宇宙のために――自己を犠牲にすることもあるわけです。そのようなとき、人間は、自己の貪欲さを満たすために宇宙を利用しようとするのではなく、逆に宇宙に献身しようとしているわけです。人間に自己犠牲をなさしめる衝動は、愛です。愛も貪欲もともに欲望の一形態ですが、両者はまったく正反対の目的に向かうものです。貪欲性は、宇宙をその中の一小片に従属させようとし、愛は、その一小片を宇宙に従属させようとするものです。
『聖書』の一節には「神は愛である」とあります。しかし、私は、人間のような人格をもつ神の存在というものは信じません。もし人間に似た神が存在するとすれば、その神は愛するとともに憎みもするでしょうし、また、善行をするとともに悪事をも働くはずです。事実、ユダヤ系の神がおよそその通りであることは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典に述べられています。このように、愛が人格を有するとか、その愛が全能であるとかいうことは、私には信じられないのですが、ただ、愛が“究極の精神的実在”であることは確信しています。ただし、これも神の存在に対する信仰、また人間の再生への信仰と同じく、あくまでも検証不可能な仮説です。

【池田】 しかし、もし“究極の精神的実在”が愛であるとするならば、愛とは本来人間の心の中にあるものですから、究極的実在とは宇宙に存在するものであると同時に、人間の内に存在しているものである、ということになるのではないでしょうか。

【トインビー】 人間にみられる愛は、人間同士の一つの関係をなすものです。人間は、愛する反面、憎みもし、善をなす反面、悪事もなすものです。“究極の実在”が、ヤーウェの神やビシュヌの神のような人格的なものであるとは、まず考えられません。しかし、“究極の実在”が人間以下のものであるとか、あるいは超人間的なものであるとかいうことも、考えられないのです。次のように否定語を用いて表現すれば、私の考えに最も近い定義となりましょう。すなわち、人間は精神的に最高の実在ではない、しかし、人間でない精神的に最高の実在ないし“究極の実在”は、また神でもなければ、神以外のものでもない――と。

【池田】 非常に含蓄のある、またそれだけに難解な定義であると思います。私は、この博士の定義を、次のように敷衍できるのではないかと思います。
すなわち、“精神的に最高の実在”が神でないという場合、その神が、ユダヤ系宗教でいう人格神を指していることは、これまで博士が何度も指摘された通りです。しかし、その実在が神以外のものでないという場合、この神とは人格神ではなく、あえていえば、宇宙生命に内在する“法”であるといえないでしょうか。この“法”とは、宇宙のさまざまな現象を起こし、かつそれらの現象の間に厳然と調和を保っている、あらゆる法則の根源となる実在であるといえます。
この“法”を根底とした宇宙の運行は、それ自体、万物の調和を築き、かつ保とうとする“慈悲”ないしは“愛”であると思います。人間が自己中心性を発揮することは、この調和を乱すことです。逆に、宇宙生命に内在する“法”を志向することは、宇宙の調和に従うことになりましょう。このような“法”は、博士のいわれた“精神的に最高の実在”と同じ考え方のように、私には思えます。
それはまた、博士がいわれたように、“人間以下”でも“超人間的なもの”でもありません。
つまり、人間が“精神的に最高の実在”を求め、自己中心性を克服したときに、その実在は、その人間の内にも顕現されるということです。いいかえれば、宇宙生命に内在する“法”は、宇宙の一部である人間にも、可能性として内在しているわけです。
また私は、人間の運命というものは、“究極の精神的実在”にその人間がどう関係するかによって決まるような気がします。つまり、その実在が意志的に人間の運命を決定するのではなく、むしろ人間の“究極の実在”に対する態度や行動が、人間自身の運命を決定づけていくということです。そういう人間の態度や行動が、人間の宿業(カルマ)を形成していくものと考えます。
そういう意味からも、運命を各人の宿業の因果であるととらえた仏法こそ、人間の本源的な次元での責任性・主体性を確立するカギを秘めていると思うのです。人間自身のそのような責任性・主体性を確立することが、人間の宿業はもちろん、社会や制度の宿業をも転換していく第一歩ではないかと考えるのです。

【トインビー】 カルマ(宿業)を非人格的な言葉で表現したことは、仏教の偉大な知的・道徳的業績の一つであると思われます。粗野な宗教は、同じ真理を人格的な表現によって――“神の羨望”とか“最後の審判”とかで――示し出そうとしてきました。このような描写は、カルマの概念に人間的な恣意的行為の意味合いをもちこむことになり、その本質を誤り伝えることになってしまいます。
 

わが友に贈る 2017年11月25日

 投稿者:どうみょうてん  投稿日:2017年11月25日(土)09時05分38秒
  不屈の地涌の菩薩は
自らの苦悩と戦いながら
他者に尽くしぬく。
偉大な誓願の人生に
幸の光彩は輝き光る!
 

本日の政教珍聞で~す、原田怪鳥様、ブラジル、アルミニオ市が池田先生に『名誉市民』称号、誠におめでとうございま~す(笑)

 投稿者:カンピース  投稿日:2017年11月25日(土)08時42分53秒
編集済
  おはようございます。原田怪鳥様、ブラジル、アルミニオ市が池田先生に『名誉市民』称号、誠におめでとうございま~す(笑)

授与式は18日とのコトで、一週間遅れの掲載、相も変わらず遅い報道、誠にご苦労様で~す(笑)

ところで、やはりというか、時流なのか?、博正サンはナニしてらっしゃいマスかぁ~(笑)

目に見えぬトコロで「池田家外し」が進んでいるんデスかねぇ~(笑)


また、責任役員会が24日、本部別館で行われたみたいデスが、誠にご苦労様で~す(笑)

原田怪鳥様が出席されたとの記事がありませんが、怪鳥様は御参加されましたかぁ~? それとも御病気の治療デスかぁ~?

ともあれ、「諸案件について審議・了承した」ってありマスけど、やましいコトが無いのであれば、議事録を公開したらいかがデスかぁ~(笑)

「密室政治」じゃあ人心は掴めませんよぉ~(笑)


ところで、ハナシは変わるのデスが、原田怪鳥様は昨日のWBSをご覧になりましたかぁ~(笑)

ボケカス反板も狂ったように反応してましたけどぉ~、(笑)

ただ、学会員としては、残念なトコロもありましたねぇ~(笑)

師匠が威風堂々の歌を舞っている姿を、まあ、一般の方にはそう見えるのか? 「踊りを踊っている」と表現されたのは残念デスねぇ~、

「舞を舞っている」ぐらいには表現してもらいたかったでぇ~す。指揮を執る姿を「踊り」としか表現できないのは、会員としては不満なトコロかなぁ~?


オモシロかったのは、山口代表への質問デスねぇ~(笑)

「支援団体である創価学会の中で、反対の運動があることにいかがお考えででしょうか?」の質問に、

「コメントは差し控えさせていただきマスッ!」と仏頂面で答えたのは笑えましたよぉ~(笑)

何か言うと、ボロが出るから「差し控えた」のか?

ナニか? 「そんなコト、聞くなよぉ~」的な顔に見えたのデスが、山口代表サマ、ぜひ、お答え下さぁ~い(笑)


これまた、別件デスが、原田怪鳥様が怪鳥就任以来、そ~いえば指揮を執っている御姿を拝見したコトがありましぇ~ん(笑)

本幹では最後に「誓いの君よ」を合唱するのデスからぁ~、ぜひ「創価学会仏」のトップであり、「じ・き・で・し」の原田怪鳥様に、

「踊りを踊って」指揮を執って頂きマスように、期待しないで待ってまぁ~す(超爆)




 

「くノ一」性と「田力」性の真の平等について<下>

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年11月25日(土)06時54分32秒
  「くノ一」性と「田力」性の真の平等について<下>

 「畜生道とは愚癡無慙にして徒(いたずら)に信施の他物を受けて之を償(つぐな)わざる者此の報を受くるなり、法華経に云く『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば○当に畜生に堕すべし』文」(十法界明因果抄430㌻)。

 「田力」性は、“道理”を表(おもて)としますから、段取りを大事にします。職場でも、段取りばかりを丁寧にして、「これでやった」なんて、安堵感に浸っている「田力」性もいますから、「くノ一」性からは馬鹿にされます。一方の「くノ一」性は、面倒な話が嫌いで「地区五ねっ、わかった」と途中を端折(はしょ)たりします。結果主義と言えば結果主義です。

 そもそもが、比丘比丘尼、優婆塞優婆夷の衆生、つまり人類全員が信用できるものではない、との仰せもあります。

 「第五比丘比丘尼有懐増上慢優婆塞我慢優婆夷不信の事 文句の四に云く上慢と我慢と不信と四衆通じて有り、但し出家の二衆は多く道を修し禅を得て謬(あやまっ)て聖果と謂い偏(ひとえ)に上慢を起す、在俗は矜高(こうこう)にして多く我慢を起す女人は智浅くして多く邪僻を生ず自ら其の過を見ずとは三失心を覆う、疵を蔵くし徳を揚げて自ら省(かえりみ)ること能わざるは是れ無慙(むざん)の人なり、若し自ら過を見れば是れ有羞(うしゅう)の僧なり記の四に云く疵を蔵くす等とは三失を釈するなり 疵(きず)を蔵(か)くし徳を揚ぐは上慢を釈す、自ら省(かえりみ)ること能わざるは我慢を釈す、無慙の人とは不信を釈す、若し自ら過を見るは此の三失無し未だ果を証せずと雖も且らく有羞と名く」(御義口伝718㌻)。

 「四衆」とは、出家の「比丘 比丘尼」と、在家の「優婆塞 優婆夷」です。比丘は「有懐」、比丘尼は「増上慢」、優婆塞は「我慢」、優婆夷は「不信」とされています。

 「有懐」とは、李白の詩に「答王十二寒夜独有懐」とあるのに習ったようです。「世人之を聞けば皆頭を掉(ふ)り、東風の馬耳を射るが如き有り」(かぐわしい春風が馬の耳を吹きぬけても、馬になんの感動もないこと)。いわゆる「馬耳東風」です。他人の忠言や批評などを聞いてもまったく心に留めず、少しも反省しないことの譬えだそうです。

 「優婆塞 優婆夷」は、在家の男女です。音写ではありますが、男性に要塞の「塞」をあて、女性に異民族や、たいらげる意の「夷(えびす)」をあてています。鎌倉時代の源頼朝は、東方の異民族を制圧する“征夷大将軍”でした。

 「三失心」は、「我慢」「上慢」「不信」です。「我慢」が自分の勝手な意見に執着するのに対して、「上慢(=増上慢)」はいまだ悟りを得てないのに得たと思うこととあります。「無慙」の「慙」は、恥じる、恥ずかしく思う。だから「無慙」は、その「恥」がないことになります。そこから、自分の罪を他人に対して恥じないことを意味します。

 もう少し、字義に立ち入ってみます。
 「慙」は「慚」と同じ。「斬」の下、あるいは横に「心」を置いている。「斬(きる)」の字義は、切る、刀できる、断ち切る、切り殺すの意味。

 「信」は、「恩」「報恩」「感謝」に通じます。「不信」を「無慙」と当てられたのは、忘恩、不知恩、非礼、不遜と読み取れます。「無慙」は、「忘恩」「不知恩」「非礼」「不遜」に通じる、心の違背だといえます。だからこそ、「偉大なる心はつねに感恩の情に満つ」(新渡戸稲造)です。

 「無慙の人とは不信を釈す」(御義口伝718㌻)
 「疵を蔵(か)くし徳を揚げて自ら省ること能わざるは是れ無慙の人なり」(御義口伝718㌻)

 「我慢」といのは自身の中の満(満杯)、「上慢」はこの上がないとする満(争い)、「無慙」は「恩」をないがしろにする満(断絶)でしょうか。「無慙」はやがてすべての否定の「不信」に向かうのでしょう。その意味で「忘恩」は「不信」への入り口です。とすると、「恩」を切り捨てる処から「不信」はやってきます。単視眼、固定観念、短絡的衆生が陥りやすい思考方法です。

 “男尊女卑”の側の巻き返しなんて思わないでください(笑い)。間違いなく両方が必要なのです。「くノ一」性はもちろん、「田力」性もです。「人間」という括(くく)り中で「一つ」のものです。どちらが欠けても、「人間」はありません。いま、あまりにも、「くノ一」性の重視になりつつある現代の文明に警鐘を鳴らすために、「田力」性の必要性、否、両性の調和ある文明の必要性を言いたいのです(笑い)。

 「田力」性の発揮をを求めるのなら、「田力」性の“場”をつくることが先決です。良くも悪くも、「田力」性は「道理」です。一枚の“紙切れ”を配って、「何も意見を言うな」では無理です。まるで犬・畜生を追っかけるような、家畜の“場”を造りながら、「田力」性の闘いだけせよといっても、誰も振り向きはしません。

 調和ある“文明”のあり方について、こんなふうに述べられておられます。

 「法華経の行者は日月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は衆星・江河・凡夫のごとしと・とかれて候経文なり、されば此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず 法華経を持たせ給う人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん候らめ」(四条金吾殿女房御返事1134㌻)。

 「末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり」(阿仏房御書1304㌻)。

 「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(諸法実相抄1360㌻)。

 「ただ・をいて物を見よ・ただをいて物を見よ、仏のまこと(実)そら(虚)事は此れにて見奉るべし、さては をとこははしら(柱)のごとし女はなかわ(桁)のごとし、をとこは足のごとし・女人は身のごとし、をとこは羽のごとし・女はみ(身)のごとし、羽とみ(身)と・べちべちに・なりなば・なにを・もつてか・と(飛)ぶべき、はしら(柱)たうれなばなかは(桁)地に堕ちなん、いへ(家)にをとこなければ人のたましゐなきがごとし、くうじ(公事)を・たれにか・いゐあわせん、よき物(妻子)をば・たれにか・やしなうべき」(千日尼御返事1320㌻)

 「仏」の「まこと(実)」と、「そら(虚)事」は、実相と、仮想(=物語)だと読むことも可能です。

 「未来部の為にとの羅針盤」とは、「自」よりも「他」を前面に押し出した「利他行」、「万人成仏の法華経」、なかんづく、その根幹は「人法一箇の南無妙法蓮華経」にあるということは疑いのないところなのでしょう。
                                               (おわり)

 

「くノ一」性と「田力」性の真の平等について<上>

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年11月25日(土)06時53分30秒
  「くノ一」性と「田力」性の真の平等について<上>

>抑圧の時代であろうと、混乱の時代であろうと、池田先生の弟子であるならば、小さくても、一人でも、一人の人の為に、未来部の為にとの羅針盤があれば難破することはないでしょう。
 どうであれ、各個人が、今、確かな羅針盤を築き上げる時なのでしょうね(投稿者:dekahappy     投稿日:2017年11月24日(金)11時04分59秒 )<
http://6027.teacup.com/situation/bbs/76786

 そうだと思います。だったら、これもいれておかなくっちゃっ!(笑い)。題して、「くノ一」性と「田力」性の真の平等について。

 確か、アーノルド・トインビー博士によると、男性の欲望は“支配”であり、女性のそれは“奪う”ことであるとありました。それは逆に言えば、男性は“支配した”と感じれば、また女性は“奪った”と感じれば欲望を充足したと認識するということになります。実に単純です。簡潔です。認識の世界は“意味の世界”なのです。

 「女性」を「く」「ノ」「一」性、「男性」を「田」「力」性としたほうが無難なようです(笑い)。女性ホルモン、男性ホルモンが、女性、男性ともにあるように、その“特性”を顕す「性分」と見た方が適切なのです。明らかに「田力」性の時代ではありません。文明全体として確実に「くノ一」性に向かっています。これを「女性の時代」と表現することもできます。

 私的には、「くノ一」性は「2K1Y」と見ています。“綺麗”“かわいい”、そして“優しい”でしょう。一方の「田力」性のほうは「3T」です。“力がある”“楽しい”“地位財産”です。“楽しい”にはスリリングが含まれます。このあたりは“異論”が出そうですが(笑い)。「財産」は、蔵の財、身の財、心の財で、それは「徳」と言えるかもしれません。どれを魅力と感じるかはその人の価値観に依ります。

 「くノ一」性と、「田力」性の「差」は、十界の「差」と同じように、「区別」と見た方がいいようです。各々特徴があるものの、上下の「差」ではなく、特性による「区別」です。「田力」性だけを中心とするのは、これまでの人類の歴史に見ても危険極まりないですが、かと言って、「くノ一」性に依存し過ぎるのもどうかというのが、ここでの主題です。

 「くノ一」性に悩んできた先人たちの叫びがあります。「くノ一」性は、愛しくもあり、憧れでもあるものの、それに怯(おび)え、慄(おのの)いてきた一面も垣間見られます(笑い)。

 「徒然草」で吉田兼好はこんなことを言っているといいます。
 【「女の性は 皆 ひが(僻)めり」
  「人我の相深く、貪欲甚だしく、物の理(ことわり)を知らず」。

 迷信に陥りやすく、言葉たくみなのに、なんでもないことも、こちらが問う時には答えない。用心深いのかと思えば、あさましい事まで問わず語りに言い出す。
 (※「浅ましい」=見るに堪えられない、ひどい)
 (2014・6・15公明新聞、作家・西村和子筆)から抜粋、※の註は筆者】

 人我、つまり、「他人と自分」に固執した在り方や考えが強く、貪欲が甚(はなは)だしくて、道理に暗いというのです。

 同じく「徒然草」です。
 「すなおならず、つたなきものは女なり」
 (※拙(つたな)き」=能力が劣っている。ふつつか)

 「くノ一」性を「鬼」としているのは在原業平です。

 「業平が歌にも 葎(むぐら)を(覆)いて・あ(粗)れたるやど(宿)のう(憂)れたきは・かりにも鬼の・す(※集)だくなりけり と云うも女人をば鬼とよめるにこそ侍れ、又女人には五障三従と云う事有るが故に罪深しと見えたり、五障とは一には梵天王・二には帝釈・三には魔王・四には転輪聖王・五には仏にならずと見えたり、又三従とは女人は幼き時は親に従いて心に任せず、人となりては男に従いて心にまかせず、年よりぬれば子に従いて心にまかせず 加様に幼き時より老耄(ろうもう)に至るまで三人に従て心にまかせず思う事をもいは(言わ)ず 見たき事をもみず 聴聞したき事をもきかず是を三従とは説くなり」(法華初心成仏抄554㌻)
 (※葎(むぐら)=つる状の草)

 古来、「田力」性にとって、「くノ一」性は脅威でした。「精」を摂られ、「清」を採られ、最後には「生」までも取られる存在だからです。爾前教ではとくにそうです。

 「涅槃経の文に一切の江河のまがれるが如く女人も又まがれりと説かれたるは、水はやわらかなる物なれば石山なんどの・こわき物にさへられて水のさき・ひるむゆへに・あれへ・これへ行くなり、女人も亦是くの如く 女人の心をば水に譬えたり、心よわくして水の如くなり、道理と思う事も男のこわき心に値いぬれば せ(塞)かれて・よしなき方へをもむく、又水にゑがくに・とどまらざるが如し、女人は不信を体とするゆへに只今さあるべしと見る事も又しばらくあれば・あらぬさまになるなり、仏と申すは正直を本とす故に・まがれる女人は仏になるべからず 五障三従と申して五つのさはり三つしたがふ事あり、されば銀色女経には『三世の諸仏の眼は大地に落つとも女人は仏になるべからず』と説かれ大論には『清風は・とると云えども女人の心はとりがたし』と云へり」(法華経題目抄946㌻)

 要約すると、【心よわくして水の如く】【清風は・とると云えども】→【不信を体とする】

 「海人は魚をとるに・たくみなり・山人は鹿をとるに・かしこし、女人は物をそねむに・かしこしとこそ経文には・あかされて候へ、いまだきかず仏法に・かしこしとは、女人の心を清風に譬えたり 風はつなぐとも・とりがたきは女人の心なり、女人の心をば水にゑがくに譬えたり、水面には文字とどまらざるゆへなり、女人をば誑人(おうにん=たぼらかす)にたとへたり、或時は実なり或時は虚なり、女人をば河に譬えたり・一切まがられる・ゆへなり、而るに法華経は・正直捨方便等・皆是真実等・質直意柔輭等・柔和質直者等と申して正直なる事・弓の絃のはれるがごとく・墨のなはを・うつがごとくなる者(※墨繩をうったような)の信じまいらする御経なり」(日妙聖人御書1216~1217㌻)

 要約すると、【風はつなぐとも・とりがたきは女人の心なり】【女人の心をば水にゑがくに譬えたり】【女人をば河に譬えたり・一切まがられる・ゆへなり】です。

 ただし、この御文は、日妙聖人はそうした女人を乗り越えた賢人であるとされています。

                                                (つづく)

 

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