Twitterって面白いよなあと思う。終わりのない長編小説みたいだ。私は連続ものの小説が大好きで、それこそ何十年も続くシリーズを追っかけて読むのを何より楽しみにしている。どれだけすばらしい小説も、何年も続くと、物語が迷走する時期がある。長く続くシリーズであればあるほど、著者のモチベーションも下がるだろうし、そりゃ、そうなっても不思議ではない。でも、Twitterはどうだろう。書き手の数が半端ではないから、疲れはあまり見えてこない。フォローした数だけ、物語が進行していく(虚実入り混じっても、それはそれでいい)。そりゃ、ずっと見ちゃうわ。
Twitterって、新幹線の車窓から眺めるマンション群とか家々に似てるなと思う。すごいスピードで流れていく景色のなかに、様々な明かりが灯る窓が見える。あの窓の向こうには、知らない誰かの暮らしがある。様々な人生が、暮らしが、どんどん流れていく。誰かが生きて、悩み、泣き、笑い、恋をして、そして死んでいく。それぞれの人生。私がまったく知らない人の、何十年にも及ぶ人生。
新幹線に乗ると、いつも考える。みんな違って、みんないいっていう言葉、このシチュエーションに似てない? 車窓のこちら側の傍観者の言葉だと思ってしまう。所詮当事者じゃないから、みんな違ってみんないいと言えるんじゃないか。わずかに違うというだけで、不自由な思いをしている人は多いはずなのに。自分がその傍観者のくせに、こうやって考えている私も偉そうである。思考がぐるぐると回ってしまう。こんなことを朝っぱらから考えつつ、来週の東京出張前に、なんとか仕事を片づけなくちゃと焦っている。
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最近、死んだ父と母のことを頻繁に考えるようになって、ものすごく削られている。私の記憶にはっきりと残る、私の幼少時の父と母の年齢に私が近づいた、あるいは重なったことが原因だと思う。あのときの父と母と、今の私がどうにもこうにも重なって、理解できることがたくさんありすぎて、辛い。おまけに二人とも死んでるので、気の毒でならない。あのときの両親のあの言葉、あの行動はすべて、生活苦によるものだったに違いないと確信すればするほど、若かりし頃の両親が気の毒になる。私がなにより残念に思うのは、もう二人には絶対に会うことができないという、その事実だ。私のために、本当によくがんばってくれたねと、今となっては声をかけることさえできない。写真に言葉をかけたからって、何が変わるというのだろう。
週末の早朝からここまでポエムを綴ってしまうのも、すべて来週東に向かうことが原因だと思う。生まれ故郷から遠ざかっていたい。通り過ぎるのも辛い。行ってしまえば楽しいのに、行く前にちょっと気分が落ちるのは、遠足前日とか修学旅行前日となんら変わらないと思う。