よーへいのインスタの文章。
あー、そうね~って思っちゃった。
文章は謎解き要素も入っているから、そのまま読んだらちょっと分からないけれど、自分の頭に浮かんで考えていたことと比較すると、そうだよねってなる。
面白いくらいに繋がっていて、同時に同じことを考えてる。
「明日、また」の歌詞。
あたしもその内容をチェックしていたよ
最近は本当に考えていることが重なってる。
よーへいのことがよく分からなかった頃はズレていたけれど。
Come Closerだね。
いつもこんな感じ。
あー!そう言えばそう言ってたね。あたし!
今、思い出して笑った!
よーへいと出逢って、1年3ヶ月になるね。
自称ツインレイな人達で、お互いがツインレイと意識してから、ここまでの状態になっている人達って、いないんじゃないかって思うわ。あくまでもあたしの想像だけどね。
うちらめっちゃ早いと思う。
それはきっといつも自分を観て、相手を観て、感じて、考えて、自分を、相手を知っていく…。そういうことを毎日毎日繰り返していたからだと思う。
よーへい以外の人とも勿論真剣に向き合ってきたよ。
だけどよーへいはやっぱり特別で、家族も含めた他の人達とは比べものにならない時間を、よーへいとの向き合いに使ってきた。
自分がやるべき事と、日常で必要なことはやっていたけれど、無駄なことは省いたり、削ったり、やめたりしながら、よーへいとの時間を作っていった。
自分の今までの人生を振り返っても、こんなに密に誰かと向き合ったことは無かったよ。
あたしは向き合いたい人間だから、必要な時に応じて家族や友達、周りの人達と当たり前に向き合ってきたけど、それらとは比べものにならないくらいの時間だった。
それでもこういう性格だから、何かトラブルがあると自分でどうにかしようとして、よーへいから離れて考え込んだり、自分だけで動いたことも結構あったね。そんな時ですらよーへいはあたしから離れずに、ずっと傍にいてくれた。違うことに気を向けていて、よーへいの方に向いていない時だっていつも。
そんなよーへいだから、あたしはひと段落すると、必ずよーへいの所へ戻っていけた。
あたしが放浪している間に他へいってしまったり、そういうあたしの行動を批判する人だったなら、今は一緒にいなかったと思う。
自分があたしのツインだと言った人は、よーへいと向き合おうとしているあたしを批判してた。それだけでも十分離れる理由になるんだよ。あたしにとっては。
それを批判するなら、あたしの行動が納得出来ないなら、批判しなくていい相手、納得出来る相手を探せばいい。ツインレイなんて関係ない。あなたの心を満たせる相手を探せばいい。そう思った。
この先の人生は、あたしそのままを受け止めて、受け入れてくれる人と一緒にいたい。
今日ね、ある人がこんな話をしてくれたの。
蓮池薫さんの講演会に行ってきたんだって。
薫さんはこう言ってたらしいよ。
自分は彼女と海に行った時に、彼女と一緒に拉致された。
彼女は女性だから助かるかもしれないと思ったけれど、自分は海に捨てられるかもしれないと思った。あの時は彼女のことなんて全く考えられず、自分が助かることしか頭に無かった。
北朝鮮では全てが管理される。生活する場所も、やることも全部。自由は一つもない。管理された人生しかない。
けれど君たちは違う。
個々で状況は違うけれど、少なくともこの国では自分の生き方を選べる。自分でどうにかしようと思えば出来る。
でも北朝鮮にはそんなものは一切ないんだよ。
こんなような話だった。
この国でも貧富の差はあるし、自分の思うようにならないこともある。子供は親を選べないから、理不尽に虐待を受けて亡くなることだってある。子供だけじゃなく、望まない死を遂げる人、何をしても報われない人はいる。
それでも多くの人は自分の努力次第で、自分の進みたい道を進める。そういう環境がある。
自分でどうにかならないことは、行政や色んな機関に相談できるし、たまたま通りがかった人が助けてくれるような幸運に恵まれることだってある。100%とは言わないけれど、自ら手を伸ばしたなら手助けてくれるような場所やもの、人はいるかも知れない。日本はそんな可能性のある国。
けれど北朝鮮はゼロ。ゼロでなくてもゼロに限りなく近いんだろうね。
今朝ニュースでやっていたけれど、シリアもそうだね。可能性って言葉自体が存在しない。
あたしとよーへいは日本に生まれたから、それでも自分達の力で出逢い、向き合い、ここまで進んでこれた。もし北朝鮮のような、自由のきかない、生きることすらままならない国で生まれたなら、もう生きてはいなかったかもしれない。
貧困に喘ぐ国で生まれたなら、生まれて数日で命を落としたかもしれない。
日本だったから、今こうやって向き合えている。
なんて恵まれているんだろうね。
それでも苦しいことはある。
生きることを時にやめたくなることだってある。
だけど、あたしやよーへいには生きれる環境がある。
だからしっかり自分で自分を生きなきゃいけない。
他人に決められた人生でも、誰かを真似た人生でもなく、「あたし」で、「俺」で生まれたのだから、自分で自分の人生を生きなきゃいけない。
それは育ててくれた両親だけでなく、祖父や祖母、もっと上のご先祖さん、友人や知人、自分を助けてくれた色んな人達への感謝でもある。
自分で生きる…それは自分で生きることを手助けしてくれた人達への恩返しでもある。
目に見えない恩返し。形にならない恩返し。
「明日、また」の歌詞の英語の部分。
私はいつの日も「誰か」になりたがっていた
持てやしない光の持ち主
なれないと気づいた時、私は泣いた
だから諦めて
自分自身の人生に留まりながら
その「誰か」を超えることにする
ここ。
この部分。
人はみんな誰かに憧れる。
自分が理想とする誰かに。そしてその誰かのようになりたいと、そんな風に生きたいと思う。
でも…誰かになんてなれないね。
たとえ自分と似たところがある人であっても、自分と違う誰かにはなれない。
自分は自分としてでしか生きられないから。
だから「私は私だ!」、「俺は俺だ!」と腹をくくって、自分が作り上げる人生を全うするしかない。
苦しいこと、辛いこと、悲しいことを、自分なりの方法で受け止め、受け入れ、それらから生まれた心の壁を壊しながら、昨日より今日、今日より明日、少しだけ強くなった自分に「良くやったな!」と言い聞かせて、前に進んでいくしかない。
そうしながら進んでいったなら、理想の、憧れの誰かを羨ましがるのではなく、進んでこれた自分自身を誇りに思えるはず。誰が何と言おうと、自分自身を認められるはず。心から自分を好きになれるはず。
そして…輝いている自分の姿に気付くはず。
誰かに夢を託すんじゃない。
誰かに救ってもらうんじゃない。
誰かに引っ張ってもらうんじゃない。
誰かに期待するんじゃない。
誰かに理想を押し付けるんじゃない。
誰かが何かをしてくれるわけじゃない。
困難の中でも自分を省みながら、自分を知りながら、至らなさ醜さに苦しみながらも、自分が自分自身のために人生を歩む。
それでしか本当の意味で心は満たされない。
それが出来たならきっと、自分自身にも、自分の生き方にも誇りを持っていられる。
そして…そんな人は既に知っている。
人の愛し方を。
自分の満たし方だけでなく、大切な人の心を満たす方法を。
もうそれが自然と出来ていたりするんだよ。
共に心から笑い合える方法を…もう知っているんだよ。
あたし達はそれを知るために、ずっと向き合い続けていた。
今まで生きてきて、やっと知ることが出来た気がする。
よーへいだったから。
諦めず、逃げ出さず、ずっと向き合って来れた人だったから。
誰も知らない。
誰も解らない。
二人だけの場所で。
あたし達はずっと…向き合ってきたね。
漸く新しい段階に入っていけるかな。
100メートル走を1年3ヶ月、休みなしにしてきた気分だよ
よーへいは長かったから、それ以上かな