1914年12月、トーマス・ワトソン Sr.(Thomas Watson Sr.)は、C-T-R(Computing-Tabulating-Recording)社の部門責任者を初めて全社的に招集しました。C-T-R社は、1911年に、いくつかの合併を経て設立された企業で、1914年5月、経営者として迎えられたワトソンは、その小さなまだまとまりのない複合企業を、1924年に最終的にIBMと改名する企業へと再構築したのです。
信条によって推進されるビジネス
C-T-R社のマネジャーたちは、新しいCEOからやるべきことを命じられると考えていました。しかし、逆に、「私がするべきことは何か」とワトソンは一同に尋ねました。彼は、製品ラインや戦略については語りませんでした。ワトソンが説いたのは、目的の統一でした。会議の記録によると、「社員全員が一丸となり、皆が同じ目標に向かって懸命に努力して前進してほしい」と彼はマネジャーのグループに告げています。
通常、企業文化はCEOから従業員へと伝わっていきます。しかし、C-T-R社としてスタートし、その後改名したIBMは、異なる方針をとりました。従業員からトップへ流れる文化を意図的に築いたのです。この文化の中心を占めるのは、製品やビジネスではなく、世界における自社の役割について共有されている信条であり、その実現に向けた行動指針です。
1911年の創立以来の一世紀にわたるIBMの存続の鍵となったのは、ほかならぬこの信条でした。信条に基づく企業は、その信条が揺るがないかぎり、変化に耐えることができます。100年にわたって、IBMはその基本的信条に忠実であり続けようとしてきました。テクノロジーが変化しても、グローバル経済が根本的に異なるモデルに移行しても、その姿勢は変わりませんでした。
トーマス・ワトソンSr.が責任者になったとき、C-T-R社はタイム・レコーダーや計量器、パンチ・カード式会計機を作っていました。それ以降の数十年で、IBMは情報関連のさまざまなビジネスを手がけました。具体的には、タイプライター、真空管の計算機、磁気テープ・ドライブ、ディスク・ドライブ、メモリー・チップ、リレーショナル・データベース、ATM、メインフレーム、パソコン、スーパーコンピューター、コンサルティング、ITサービス、ソフトウェア、アナリティクスなどが挙げられます。IBMの事業展開は1カ国から拡大し、2011年現在、170カ国以上のお客様にサービスを提供しています。
信条が時代とともに進化してきたのは間違いありません。それでも、製品、市場、および従業員の数世代にわたって世界中で一貫性を保っているのは驚くべきことです。1962年、トーマス・ワトソンSr.の息子であり、当時、IBMの会長だったトーマス・ワトソンJr.は、ニューヨーク市のコロンビア大学でスピーチの演台に立ち、将来のリーダーである聴衆に向かって演説を行いました。そのとき、IBMはちょうど創立50周年を迎えていました。ワトソンが招かれたのは、半世紀にわたる企業としての活動がIBMに何を教えたかについて考えを述べるためであり、そのスピーチの中心をなしたのがIBMの基本的信条でした。
「どの組織も存続し続け、成功を収めるためには、すべての方針や行動の指針となる正しい信条を持つ必要があると私は固く信じています」と彼は聴衆に語りました。「次に、企業の成功に必要な最も重要な要素は、この信条に忠実であることです。そして最後に、変動する世界の課題に組織が立ち向かうのであれば、その企業の歩みとともにすべてを変える覚悟が必要ですが、その信条は変えてはならないということです」
トーマス・ワトソンJr.のスピーチは、“A Business and Its Beliefs”(邦題 『企業よ信念をもて-IBM発展の鍵』)という1冊の本に収録されています。この本はIBMにおいては重要な文書となり、ビジネス・スクールの授業でもしばしば使われています。
もちろん、世界は常に進歩しています。40年後、サム・パルミサーノがIBMのCEOに就いたとき、彼とそのチームは、テクノロジーとグローバル経済で起きつつある困難な変化を見てとりました。IBMがその変化を利用しようと思えば、この場合もやはり、IBM自身が変わらなければならないことに気づいたとパルミサーノは振り返ります。IBMは、1990年代の大規模な変革を経て業績回復を遂げたばかりでした。
「率直に言って、経営陣と財務担当者にこの新たな変革を遂げる用意があるのかと疑問に思いました」とパルミサーノは言います。「約10年前、このような理由により、私たちがIBMの偉大さを取り戻すためには、原点に返ってそのDNAに触れる必要があると考えました。そこで、CEOとして私が最初に取り組んだ仕事の1つは、IBMの中核的な価値観を再検討する試みに着手することでした」
その試みは、IBMの「ValuesJam」に結実しました。このイベントは3日間にわたってオンラインで実施され、世界中のIBM社員がディスカッションに自由に参加し、IBMが体現すべきものは何か、IBM社員が果たすべき役割は何かをテーマに話し合いました。このジャムは2003年の7月29日に華々しく開始されました。しかし、一般の企業が歓迎するような種類のイベントではありませんでした。IBMには、1990年代の初めに苦労して危機を回避した痛みがまだ生々しく残っており、意見の多くは厳しいものでした。一部の経営幹部はジャムの中止を求めましたが、パルミサーノは耳を貸しませんでした。ディスカッションが続いて発展していくにつれて、新たな見解が生まれ、IBM社員の物事の見方は深くなっていきました。
ジャムの終了時、ディスカッションに参加したIBM社員は数万人に達しており、そのアイデンティティーの探求はいっそう具体的で詳細なものになっていました。IBMの分析者は、ジャムで集まったテキストを調べて主要なテーマを得る作業に取りかかり、IBM社員が生み出した企業の価値観を要約しました。この価値観は行動規範にとどまらず、アイデンティティーも意味していました。2003年11月、新しい価値観が従業員に発表されました。新しい世界に向けて斬新な方法で生み出された価値観ですが、1914年にトーマス・ワトソンSr.が定めた信条に沿っており、極めて馴染み深いものでした。以下に示すのがIBM社員の新しい価値観です。
- お客様の成功に全力を尽くす
- 私たち、そして世界に価値あるイノベーション
- あらゆる関係における信頼と一人ひとりの責任
ValuesJamの実施以降、IBM社員の価値観はさまざまな方法でIBMの方針、プロセス、および日常業務に組み込まれており、IBMは目指す企業像を実現しようとしています。後続イベントのWorldJam 2004では、採用された方針と慣行の変更が多く確認され、価値観を生き生きとした現実に変えることを目的とする、継続中のプログラムが開始されました。
「まず基本に立ち返り、ルーツまで遡って、IBMの文化の基盤に触れることがなければ、製品とサービスにおけるIBMのポートフォリオの再構築やグローバルな会社の統合、世界的な景気後退のただ中でのSmarter Planetビジョンの開始など、ジャム以降のIBMの事業の効率化や継続維持はなかったと私は本気で信じています」とパルミサーノは語ります。
現代のIBMの企業としての価値観には、市場はおろかビジョンの記述さえ含まれていません。これは、IBMの歴史を通しても言えることです。IBMの価値観が問うものは、その在り方です。市場やテクノロジーは変化し続けますが、IBMの精神とそれを具現化した「IBMer」(IBM社員)と呼ばれる個人の特徴的な存在が変わることはありません。
関係したIBM社員:
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サム・ パルミサーノ(Sam Palmisano)
「すべてのCEOが切望している何かを手渡されたような気がします。1つの使命、正確には従業員全員による正しい変革という使命です」サム・パルミサーノはIBMの会長兼CEOです。1973年のIBM入社以来、パルミサーノは、エンタープライズ・システムおよびパーソナル・システム・グループ担当シニア・バイス・プレジデントや、日本IBMのオペレーション担当シニア・マネージング・ディレクターなどの指導的地位を歴任してきました。IBMグローバル・サービスのリーダーとして、彼は業界最大で最も多様性に富むITサービス組織を構築しました。社長兼CEOとしての10年間、パルミサーノは協調的なイノベーションによる変革を擁護することにより、イノベーションの先駆的な存在となりました。その変革の対象には、社内の企業文化とIBMおよび他の企業による製品開発だけでなく、多様な関係者による現実世界のグローバルな問題の解決プロセスも含まれました。パルミサーノはジョンズ・ホプキンズ大学を卒業し、アメリカ芸術科学アカデミーの会員に選出されています。さらに、レンセラー工科大学から名誉学位を授与され、ロンドン・ビジネス・スクールから特別名誉会員の資格を与えられています。パルミサーノはビジネス分野で数々の受賞歴があり、その主なものには、Atlantic CouncilによるDistinguished Business Leadership Award(2009年)、W. Edwards Deming Center for QualityによるInaugural Deming Cup(2010年)、Columbia Business SchoolによるProductivity and Competitivenessなどがあります。(上記記述はすべて2011年現在)
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トーマス・ J・ ワトソン Jr. (Thomas J. Watson Jr.)
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トーマス・ J・ ワトソン Sr. (Thomas J. Watson Sr.)