9.11後、アフガニスタンに派兵したアメリカは、パキスタンとの国境地帯で反乱の急増に悩まされていた。そこで2006年夏、この急峻な山地帯に前線基地を点々と連ねて敵の補給線を分断するとともに、現地の村人には不足している物資を供給し人心を勝ち取るという作戦を立てた。これにより谷間の川沿いにくねくねと伸びている狭隘な道沿いに十数箇所の前哨基地が作られていった。奥へ奥へと進んでいった最後の前哨が「キーティング」と呼ばれる場所だ。だがこの前哨はとんでもない代物だった。
四方を切り立った山に囲まれている。斜面には花崗岩の露頭が点々とあり、木々は生いしげり、敵は隠れ放題だ。一方そこから見下ろされる「キーティング」の中にはほとんど隠れる場所がない。ヘリコプターの降着地帯は川を隔てたところにあり、橋を渡らなければ行かれない。最も近い米軍基地から車両でこようと思えば一本しかない4メートルにも満たない幅の道路を6時間も走らなければならない。
遠く孤立し、無防備で、最悪な場所。いざとなれば大規模な航空部隊の支援がなければ自力ではどうにもならないところ。古今東西の兵法にまったく反している前哨だった。
ここに送り込まれた「レッド」の面々は前哨を一目見て愕然とする。
“これじゃ金魚鉢のなかにいるみたいだ
”
“俺たちのやっていることが、敵にすべて丸見えだ
”
“「死の罠だ」
”
本書はこの欠陥だらけの前哨・キーティングが、2009年10月3日の早朝、タリバンの総攻撃を受けてからの14時間の出来事を、分単位、ときに秒単位で克明に記述したものだ。レッド小隊のチームリーダーの一人だった作者のクリントン・ロメシャが、退役後、生き残った兵たちをひとりひとり訪ね歩いて前哨内のどこでなにが起こっていたかをつぶさに聞き出し、あるいはまた無線交信の書き起こしなど軍の正式報告書の資料も駆使して書かれた「戦闘の真実」である。
実はそれまで連日仕掛けられていた執拗なタリバンからの攻撃は、前哨の情報をとるためのものだった。攻撃で挑発して反応を引き出すことで米軍の行動パターンを観測し分析していたのだ。米軍側の防御能力を読み解き、万全な攻撃計画が整った時、満を持して、タリバンが総攻撃を仕掛けてきたのが、この朝だった。このとき米兵50人。タリバンはなんと300人。
夜明けとともに一斉に火を吹いた猛烈な銃砲火が、周囲の山々の尾根からすり鉢の底のような前哨に降り注ぐ。防御の弱いところからたちまち敵兵に鉄条網内へ侵入されてしまい、仲間たちはせまい基地の中で分断される。発電機は早々に破壊され、コンピューターも使えない。どこに誰がいて、何をしているかが、指揮所で把握できず、有効な作戦が立てられない。散り散りになった兵たちは、ある者はたった一人で機関銃を打ち続けて持ち場を守り、あるものはトラックに閉じ込められて身動きできず、あるものはなんとか弾薬庫までたどり着こうと危険をおかし…。
午前5時58分に始まった戦闘の様子が刻一刻とつぶさに描写される。ロケット砲が飛び交い、機関銃が連射され、双方が重火器を打ちまくって弾薬を盛大に撒き散らすなかを掻い潜って、レッド小隊は態勢を立て直そうとするが、誰が生きていて誰が死んだのかもわからない。
防衛ポイントへ行こうにも、敵から丸見えのなかで、わずかな遮蔽物から次の遮蔽物までのほんの5メートルさえも、走り抜けようと思えば蜂の巣になる危険がある。10数メートル先に仲間が倒れているのが見えていても、救助に近づくことができない。かと思えばふいに目の前にタリバン兵が現れる。どこから入ってきたんだ!
空軍に救援を要請するが、すぐには来られない。敵の配置がわからないと攻撃できないし、逆に撃ち落とされる危険もある。なんとか情報を伝えなくてはならないが、敵はどこに何人、どんな武装をして陣取っているのかわからない。援護がくるまでどう防御するか。いや、守るだけではなく反撃しなければ持ちこたえられない。誰が行く?
耳をつんざくような砲弾の音や、着弾した時の振動、立ち込める煙が、ページの間から立ち上ってくるようなリアルな描写が続く。
キーティングの写真をみると、素人目にも裸同然の前哨だ。このなかに閉じ込められて、四方八方から雨あられと浴びせられる砲弾をくぐって撃ち返すのか。あっという間に蹂躙されそうだ。1ページめくるたびに事態がめまぐるしく変わるので、読んでいても息をつく暇もない。
レッド小隊の兵士たちのキャラクターも丁寧に描かれている。全身筋肉の体躯と怪力が自慢だがイラク以来の歴戦の強者ながらも酒飲みで癇癪持ちのガイェゴス。アメリカ国内勤務を断って海外に戻してほしいと願い出てここへ来た戦闘好きで大口叩きのカーク。不祥事で学校を追放されて以来マリファナ漬けだったが、たまたま通りかかった陸軍徴募事務所のポスターに「契約書にサインすれば一時金が二万ドル」ときてあったのを見て入隊したコプス。年中悪ふざけやいたずらを仕掛けでは相手を怒らせるものの、どこか憎めないメイス。赤貧の家庭に育ち、陸軍に入ることが唯一の選択肢だった従順が取り柄のジョーンズ。苦境に追い込まれても決して動じないラスマスン。仕事一点張りで、教え魔の兄貴・ラーソン。喧嘩と酔っ払うことが好きだが小隊のほとんど全員と仲良くするのがもっと好きで、いつも物事を丸く収めてくれるラズ。
彼らの人となりをその写真とともに見ながら、彼らの置かれた重大な危機を追っていくのだ。惹きつけられ、感情移入し、肩入れしたくなる。頑張れ! やっちまえ! 敵兵に負けるな!
この死闘がどのように展開し、どんな結末を迎えたか。おそらく読み始めたら一気に最後まで読みたくなるはずだ。400ページ以上の長い本だが読み応えはこの上ない。
それにしても、戦闘とは。この闘いの意義とはなんだったのだろう。ここで最後まで勇敢に闘い、命を落としていった男たちの鎮魂は、いかに成されるべきなのか。
あとがきで作者は言う。
“銃撃戦が終わってからだいぶたつと、戦闘を生き延びた兵士はほとんどが、矛盾するふたつの強い感情にとらわれた。まず、沈黙を守ろうと、とっさに思う。言語は不完全な道具だし、戦闘をくぐり抜けたものはだれでも、戦いの恐ろしさを言葉では伝えることができないと知っている
”
“その反面、言語がなければ、言葉がなければ、戦争とそれに付随するすべての経験は忘れられてしまい、他人に伝えることはできないという不安感が残る
”
“本書執筆には、多少の抵抗とためらいがあったが(中略)私たちが成し遂げたことにきちんと栄誉を授ける唯一の手立てだと信じるに至った。
”
“生き延びられなかったキーティングの戦友たち(中略)彼らをふるさとに帰らせる、たったひとつの手立てだった
”
彼らの闘いを、手に汗を握りながら読んできて、最後にこの一文にたどり着いた時、不思議と浮かんだのはタリバン兵たちのことだ。この本においては、当然のことだが彼らには名はない。名も知らぬ、いきなり襲いかかってきた300人であり、「敵兵」とか「タリバン兵」としかいいようがない。だが、立場を入れ替えたらどうだろうか。本書のタリバン版があったら。タリバンの陣地に身を置いて、タリバン兵たちの人となりを知り、写真で顔をみて、かれらがいかに周到な戦略を立て、大国アメリカの軍隊を翻弄したかを描いたら。
頑張れ!まけるな!とレッド小隊に肩入れした感情が、ため息とともに体から抜けていくようだ。作者のロメシャは、タリバンが仲間の命を奪ったことに対しての強い怒りを抱く一方で、かれらがプロの兵士、プロの軍隊として実に高度な闘いを挑んできたことへの敬意も表している。
どの立場にあっても尊いのは「命」だ。その命がいかにそこに在ったかということは、記録するしかないし、記録すべきなのだ。この闘いにどんな意義があったのか、私にはわからない。が、この圧倒的な記録=ノンフィクションを読んで、大義だの正義だのと、あらかじめ与えられたフィクションの薄っぺらさを思うのだった。
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