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衆議院議員 二階 俊博

(8月1日)
 酷暑の中の参議院選挙が終わって3日もしない8月1日、成田空港から全日空機で北京に向った。
 機上のメンバーは、古賀 誠 自民党前幹事長と太田 昭宏 公明党幹事長代行と私の三人、1日早く出発された野中 広務 自民党元幹事長とは北京の「ホテルニューオータニ長富宮」で合流することになっている。
 今回の訪中は、もともと野中さんが、地元の皆さんとご一緒で、大連に学校建設のボランティア活動で、中国を訪問することになっていた。
ある日、赤坂プリンスホテルの会合の入口でバッタリ野中さんに出遇い「8月2日ごろから4、5日、時間の都合がつけば、北京へ行きませんか。古賀さんも誘ってあります・・・・」「都合がつけば、私もお伴をさせて頂きます」
 そして公明党の太田さんが参加されることになり、「野中訪中団」が中国を訪れることになった。
 その頃の日中間は、教科書問題、靖国神社の参拝問題さらに農産物のセーフガード等について、何れもむつかしい問題が横たわっており、政界雀の間では「今、何故中国訪問なのか」という声もあり、「今、このときだからこそ中国だ」という大きな期待もあった。
 私は、「両国の関係がむつかしい時だからこそ、中国側の首脳との間で忌憚のない意見の交換ができる野中さんの訪中に同行させて頂くことは意義の深いことだ。同時に、昨年の5月20日、5200人の有志の皆さんと共に「日中文化観光交流使節団」を率いて訪中した私は、その後もこの訪中団は日中間においても高く評価されていますが、今日なお語り継いで頂いている中国側の首脳の皆さんに、あらためてお礼を述べるいい機会だと考え、私は後者の方を選ぶことにした」

○戴秉國中央対外連絡部長等と会談


 到着の日の夜、早速、私たちは戴秉國中央対外連絡部長等と会談した。
 野中さんと戴秉國中央対外連絡部長(閣僚)とは古い友人であり、互いに信頼と尊敬の念を抱きながら、歴史認識や靖国参拝の問題では、中国側の今後の日中関係に対する憂慮を丁寧に、しかもくり返し述べられた。
 野中さんは「日本の歴史教育に関する問題点、靖国神社にA級戦犯が合祀に至る経過等を説明、この問題については、小泉総理ご自身が判断されることであって、我々は、意見を申し述べる立場にありません」と自らのポジションを明確にしつつ、「日本の歴史教育のあり方について、さらに日本は多宗教の国であり、毎年12月の24、5日にはクリスマスのお祝いをして、12月31日には、お寺に参って鐘を撞いて煩悩を払い、1月1日には神社にお参りして一年の無事を祈願するということをほとんどの国民は、自然に生活の習慣として、何等、違和感を持たない国民性がある。従って靖国神社のA級戦犯の問題も、死ねばみんな神様となり仏様となると信じている。従って、靖国神社への参拝そのものが日本の軍国主義復活とはまったく異なる問題である」と説明された。
 食事をはさんで三時間に及ぶ会議は、お互いに、意見は平行線のままではあるが、この時期に両国の幹部が話し合うことが大切であり、意見や思想、信条を異にしても相手を理解し合う努力を重ねることが如何に重要なことであるかを物語る会談であった。

この会談に関し、朝日新聞では
戴部長は「小泉総理の公式参拝は、中国国民の感情に非常に大きな影響を与え、今日まで築いて来た友好親善関係に大きな影響を与えると危ぐしている」と述べた。
野中氏は、「私が官房長官の時に(靖国神社に合祀されている)A級戦犯の分祀について何とかできないかと努力したが、神社側の判断で合祀されたものを、ほかからの力で抜くことの難しさを自ら経験した」と語り、A級戦犯分祀は現状では困難だとの考えを説明した。

産経新聞では、
野中氏は会談で「政治家、小泉純一郎として決断されることにとかく申し上げることは出来ない」と述べたうえで、「現在の状況を深刻に考えている。過去の歴史観を考えようとしても、今の若い世代は実感としてわかってくれる人たちが少ない状況がある」と述べ、先の戦争をめぐる世代間の歴史観の相違に理解をも求め、首相の靖国参拝への言及を避けた。

毎日新聞では、
野中氏は「首相が一人の政治家として決断されることに私どもの立場から申し上げることはない」と述べ、最終的には首相の判断に任せるしかないとの考えを伝えた。そのうえで「戦後の日本では近現代史が学校教育の中で十分に教えられず、卒業する状況があった」と指摘し、世代によって歴史認識に差が大きいとの認識を示した。
野中氏はまた、A級戦犯合祀問題について官房長官時代の経験に触れながら「靖国神社自身が合祀をしており、他の力で分祀することは難しい」と述べた。
以上のとおり、会談の内容について報道された。

(8月二日)
○何光暐国家観光局長との会談
翌朝、私たちは何光暐国家観光局長(閣僚)の招きで朝食会に出席した。何局長とは、かねてより古賀元運輸相が日中航空協定の締結に努力されお互いに懇意な間柄である。私も何局長とは四回目の会談であり、特に私は中国からの観光客の渡航ビザの解禁をめぐって困難な交渉をまとめ上げたカウンターパートであり、さらに昨年の五千人の訪中の際、中国側の中心的な役割を果された閣僚だけにその後もお互いの代理が何回も往来しており、中国流に言う、「古い友人」の関係とも言える。
野中、古賀、太田各議員から両国の観光振興について、意見が述べられ、何局長も特に来年は、中日国交三十周年の記念すべき年であり、中日文化観光交流一万人大会の開催を提案された。
私からは、WTO推進議員連盟の会長として、WTO(世界観光機構)総会が日本では9月28日から大阪開催される。開会式はソウルで9月24日に行われるが中国側から大型の代表団を日本へ送って頂きたい。この際両国の観光交流が一挙に裾野が拡がるように、国民レベルでの交流をより活発にしたい」と申し入れた。
 もしこのことが実現出来れば、靖国問題以後の最初の中国からの閣僚を迎えることになりこれだけでも意義は大きいと思った。
 何局長からは、「昨年の5千人の訪問は、日中交流の歴史の上でも、特筆すべき快挙であった。来年は国交30周年の記念の年に当り、日中間の交流を一層盛んにするために、中国からは30周年の記念行事の一つとして3000人規模の日本訪問を計画したいと考えている。30周年ですから、今度は日本からは一万人位の規模の訪中団を是非派遣してください。WTOには30名以上のメンバーで訪日できるよう考えている」との前向きの話し合いが行われた。
なお野中議員から「最近日本で外国人の犯罪が増加しているが、中でも中国人の犯罪が増えており、社会問題になっている。取締りに中国政府としても協力して頂きたい」と申し入れた。言いにくいことをお互いに率直に話し合ってこそ真の友情や信頼関係が築くことができるのである。
私からも「最近のピッキングという中国人の犯罪が増えていることは悩みの種だ。外国人の犯罪の中で中国人が多いと言われることは残念だ。」と申し上げた。
何局長は、「犯罪の取り締まりは厳重に対処しなければならない」との発言があった。
なお、木村和歌山県知事及び佐藤新宮市長から託された「WTO出席のため何光暐観光局長が来日された際、是非和歌山県へもお立ち寄り頂きたい。由良の興国寺や新宮の徐福公園のような中国との特にゆかりの深い地域に中国の閣僚として、是非お越し願いたい」とのメッセージをお伝えしたところ「スケジュールの調整が出来れば、折角のご要望に応えることが出来るよう前向きに検討したい」と語った。
 会談の翌日、中国の観光新聞等で最も権威のある発行部数20数万部のチャイナ・ツーリズム・ニュースはトップ記事で会談の模様を次の通り伝えた。

「8月2日午前、何光暐国家観光局長は日本政界の重要人物である野中広務元自民党幹事長、元内閣官房長官、衆議院議員ご一行4名と会見した。中日国交正常化30周年を迎えるにあたって、双方が関心を持つ中日観光交流などの問題について友好的に会談した。
 野中広務先生が日本政界の著名な政治家で、今回は古賀誠衆議院議員、前自民党幹事長、国会対策委員長、前内閣運輪大臣と二階俊博前運輸大臣、現在保守党幹事長代理と太田昭宏衆議院議員、公明党幹事長代理と共に訪中し、中国政府関係部門の要人と会談を行う予定である。
 何局長はまず、野中広務先生ご一行の訪中を歓迎し、近年中国観光業の発展状況を紹介した。また、何局長は中日国交正常化30周年を迎えるため、中日双方観光業界は大型イべントを企画し、来年適切な時期に「中日観光文化交流1万人大会」を提案した。これを機に中日両国の観光交流の更なる発展を期待する。それに、何局長は中国の西部開発に日本側のご協力を要請し、お互いに青少年の交流を強化することを強調した。また、日本からの青少年の中国への修学旅行を大いに歓迎する意を伝えた。
 また、中日両国のいかなる交流も平和と友好を前提にしており、一つの中国の原則を堅持した上で行わなければならないと何局長は強調した。そして、野中広務先生を初めとする日本政界の皆様が中日両国の文化観光交流に良き政治環境作りへのご努力を期待する。
 会談では、野中広務先生は中日の悠久たる友好交流に言及し、中国の豊富な観光資源と歴史文化遺産についても触れた。一人一人の日本人は皆中国に来て見るがよいとも希望する。また、何局長が中日観光交流に多大な貢献をされたことに敬意を表すると同時に今後両国の観光業の発展になすべく努力を表明し、今年9月大阪で行われるWTO総会への何局長の出席を熱烈な歓迎の意を表明した。
 衆議院議員、自民党前幹事長、国会対策委員長、前内閣運輸大臣古賀誠先生は長年何局長と付き合っている中で、中国観光業の発展に偉大な功績を実感している。今後可能な限り自らも中日観光交流に貢献することを表明した。
 また、会談では二階俊博先生は改めて昨年5千人の訪中に際し、何局長が最初から最後までご協力して頂いたことに感謝の意を表した。何局長の1万人交流計画にも積極的に取り組むことを表明した。太田昭宏公明党幹事長代理はあらゆる面での中日観光交流を進めるべきだと主張した。」と報じられた。

○徐冠華部長国家科学技術部長との会談

 8月2日午前10時より、国家科学技術部に、徐冠華部長(科学技術大臣)を訪ねた。北京、上海間の高速鉄道の建設について、かねてより中国では、日本及びドイツのリニア(磁気浮上式)鉄道建設に深い関心を寄せて、技術者を日本にも何回も派遣し、中国政府の要人も再三日本を訪れ、JR東海の山梨実験線でもテスト乗車を試みている。従って、徐部長は野中さんが自民党幹事長時代、自民党本部を訪ねたこと等を懐かしく語って熱烈歓迎の意を表した。
 野中さんからは、「今日は新幹線にもリニアにも明るい元運輸大臣の古賀さん、同じく元運輸大臣の二階さんにご一緒頂いている。太田さんも京都大学の工学部出身で鉄道建設の専門家で、新幹線やリニアに詳しい三人の同志とともに、徐部長と会談の機会を得たことを喜んでいる。」
 徐部長から私にも北京―上海の高速鉄道について、意見を求められたので「私は運輸大臣の当時から、中国要人の方々には、私たちは新幹線を中国に売り込むセールスマンではない。
 但し、日本の文化は古くは中国から多くのことを学んだ。その延長線上に、東京オリンピックの頃、新幹線の実用化に成功した。しかも、その後37年間にわたって、無事故を誇っている。この優れた技術を、中国の発展のためにお役に立つのなら官民挙げて協力を惜しまない。中国の車輌に日本のエンジンを載んで走ればいいのではないか。運行のノウハウについても大いに協力することが出来る。リニアについては実用化までまだ四、五年はかかる。日本でも実用化できていないリニアを中国に勧める段階ではないが、技術的にはかなり自信を持っている。日本と中国が相互に技術交流を進め鉄道技術を通じて両国がさらに友好的に発展できることを期待している。」と述べた。
 私は、日本があせればあせる程、かえってチャンスが遠のくのであって、新幹線の技術もリニア鉄道の技術も断然日本が優位にあることに自信を持って、中国側の理解を粘り強く求めていくことが大切だということを痛感した。
 

○唐家外交部長との会談


一行はこの日、唐家外交部長(外務大臣)を訪ねた。
 旧知の間柄の野中さん、さらに古賀さん、太田さんとも笑顔で迎えてくれた。私も丁度4回目お目にかかることになり、ラオポンユー(老朋友)古い友人と呼びかけられ親しく迎えられた。早速円卓で食事をしながらの会談に入った。
 唐家部長より、「小泉総理が終戦記念日に靖国神社を参拝されることになれば中国の朝野をあげて強烈な反発が起こる事は間違いなく、その際は政府と言えどもその怒りを押える術がない。実際問題として明年の国交正常化三十周年も極めて盛り上がりのないものとなろうし、それに先立って本年11月に予定されているASEANプラス3の際の中日韓首脳の朝食会もおそらく実現が困難になるであろう。この問題につき自分(唐)はハノイにおける日中外相会談において、田中外相に中国の立場を明確にお伝えしたつもりである。
 小泉総理のような優れた且つ国民の熱烈な支持を受けている指導者が日本の国内状況のみを考慮し、国際関係、就中、近隣諸国民の感情に対する配慮をされないなどということは全く自分たちには理解できない。中国には"大進大退"という言葉があるが、勇気ある政治家として知られる小泉総理が思い切って参拝見送りという勇気ある決断をされる事を切に願う次第である。」
 これに対し野中さんは、小泉総理を取り巻く国内情勢を説明の後、「自分(野中議員)からも官房長官を通して従来の経緯等を十分考慮に入れた上で結論を出されるよう進言しているが、この問題は結局のところ総理ご自身が自らの政治信条に従って判断されるべきであり、我々がとやかく言う立場にはない。」
ハノイにおける外相会談の後、唐外相がテレビカメラの前で"やめなさいと言明した"と言われたようだが、この発言は日本国内では礼を失したものとして評判が悪いと述べた。
唐家部長より、
「確かに自分は"おやめなさい"という言い方をした、それが日本の国民には強く映っており、それが自分の意図とは違う結果になっているのであれば、マスコミの皆さんに自分からも説明したい」旨述べられた。
 さらに、野中さんより「自分が官房長官の時に靖国神社のあり方について、出来ればA級戦犯を分祀し、靖国立法等により、なんとか靖国神社を内閣総理大臣をはじめ誰もがお参りできるよう努力してみたが、なかなか難しかった。昭和五十三年に、当時の宮司がA級戦犯を祀られたこともあり、周辺国からも非難されるような事態になり、中曽根元総理が一度公式参拝をしたが、現在総理が参拝できないという状態がまだ続いている、こういう状態を何とか解決できないかと思って努力したが、神社が自らの意思で入れたものを政治や行政の力により抜くこからとは非常に難しいことが分かった。」旨述べるとともに、靖国神社の明治時代現在までの沿革を説明された。
 唐部長より「トウ小平副総理(当時)が訪日した同年の昭和53年に当時の宮司が密かにA級戦犯を祀られたものと記憶している。今度のことが日中間の大きな傷跡とならないよう、折角の三十周年を迎える節目の年に、我が国の国民が日本を批判することとならないよう祈っている」旨発言された。
 これに対し、野中幹事長は、「昨日も戴部長に申し上げたように、自分たちは国会によって小泉純一郎氏を内閣総理大臣として首班指名したわけであり、小泉総理が内外情勢を十分判断されて、政治家として決められることであると思う。与党内でも神崎公明党代表も参拝について総理に意見を言っておられるし、田中外務大臣からも唐部長との会談の結果を先般総理に報告されている。総理も熟慮するとおっしゃっているので、そのことに自分は期待している。」と述べられた。
 唐部長は「中国は来年、日中国交正常化30周年という大きな節目を迎える。これから日中両国が相携えて21世紀を歩んで行くための一大イベントにしたいと思っている。是非先生方のご協力をお願いしたい。私は日本をよく知り心から愛している者として、靖国問題について、憂慮している。このことで、日中間に大きな亀裂を生じさせ、今日までお互いに築いてきた信頼関係が崩れかねないことを懸念している。」と述べた。
さらに「二階先生も国交30周年の記念イベントを考えておられるでしょうが、お互いに30周年の素晴らしい行事を準備する時間が失くなってしまう。もったいない。残念なことです。」
 そして「今日、中米関係が親密の度を急速に高めている。中日関係より中米関係の方が追い越すようなことは残念だ」と述べられた。
流暢な日本語で通訳なしの唐部長との会談は、厳しいやり取りの中にもお互いに相手を理解し信頼関係が築かれているのでスムーズに進んだ。

○シルクロード敦煌への旅

私たち一行は、これからは要人会談とは少し趣を異にするシルクロード敦煌に向かうことになった。
唐部長からも「私は外国が多いから敦煌へはまだ一度も行ったことがない。素晴らしい旅を・・・」その言葉を聞きながら、如何にも中国は広い。外務大臣も行ったことのない名所があるのかと思う。北京から敦煌まで飛行機で約五時間、途中銀川で給油のため立寄り、地元の皆さんの心づくしの素晴らしい西瓜やメロンなどのとっても甘い果物を頂戴した。寒暖の差が激しいので、美味しい果物をつくることが出来るとの話であった。その後、一路シルクロードの旅、敦煌空港に向かった。
丁度乗り合わせた三十人程の日本人観光客は、山形県からやって来た観光団であった。
宿泊先の敦煌賓館で、私たちは、地元敦煌市の代表の皆さんの心こもる接待で、羊やラクダの肉等の珍味が出された。
朝夕の温度差が激しいので、それだけ果物がおいしいとの説明通り、メロンもプラムもなかなかの味で、立派なものだった。明日はいよいよ千年の歴史をかけて築き上げたと言われる特異な風土の砂漠の中に花を開いた仏教美術の真髄、砂漠の中の心のオアシスでもある大美術館を訪れることになり、一行もやや興奮気味。
昨年五月、五千名の皆さんと共に中国を訪れた「日中文化観光交流使節団」の団長を引き受けて頂いた平山郁夫先生から敦煌の神秘についてお話を伺ったことがあった。
憧れの敦煌にこんなに早くやって来れるとは思ってもみなかっただけに、今度の野中さんのお誘いは、これだけでも十分魅力のあるものであった。
野中さんは「恩師 竹下登元総理から二度にわたって敦煌へのお誘いがあったが、二度とも都合がつかずお伴をすることが出来なかった。竹下先生亡き後、いつか敦煌へとの想いがあったが、なかなか実現できなかった。」としみじみと語られた。
明日の日程は、敦煌の仏教美術の宝庫として、世界に名高い「莫高窟」、世界で一番美しい沙山と言われる「鳴沙山」、沙漠の中のオアシス「月牙泉」等を訪れることになった。

(八月三日)


○敦煌を訪ねて

 シルクロードの出入口である敦煌の、シンボルでもある莫高窟に向かう。
 鳴沙山の断崖に南北一・六キロにわたって上下四層四九二の洞窟壁画四・五万平方メートルが保存されており、息を飲むようなスケールの大きい奥行きの深い芸術の殿堂である。
敦煌研究院院長の樊錦詩先生の自らの案内で、いくつもの洞窟の中を懐中電灯を手に、薄暗い洞の中で三十メートルもある仏像や、千年の歴史を今に伝える壁画の数々、まさに立ちつくすような感動とこの時代に何年もの長い長い歳月をかけて次々に作り上げられた芸術の数々に、只々圧倒されそうな想いであった。
 莫高窟の洞の中の壁画が外からの陽のさすところは、長い歴史の経過と共にやや変色しかけているのが管理の方々の悩みの種であり、陽の当らないところは、昔のままの色彩をそのまま伝えている。思わず私は「人間は陽の当る場所を求めるものだが、莫高窟の美術品は陽の当たらないところの作品が色彩もそのまま維持されている。
 この場合は陽のあたらないポジションが幸いしていることもある」と思った。
 敦煌の開発に尽力された方々の写真が、外の庭に掲示されてあり、平山郁夫先生のほか池田大作創価学会名誉会長、そしてもう一人の日本の女性の写真が飾られていた。
野中さんは、「竹下先生が私を何回も何回も誘ってくれたお気持ちが今ここに来てよく分かった」と感慨深げに師の想いに耽っておられた。
 私たちは、今度は砂漠の中を少しばかり車を走らせ、敦煌記念センターに向かった。
 砂漠の中の瀟洒な建物は、日本の援助でつくられた有名な「敦煌記念センター」である。
 平山郁夫先生の発想により竹下登先生のお力によって、ここに敦煌の全ての美術品が集められており、歴史に残るご両者の偉業と先見性に驚くばかりである。
昼食のため、一度ホテルに帰り、午後は市内の刺繍工場等を見学、そして夕暮れの「鳴沙山」「月牙泉」に向かうことになった。
月牙泉は、薬泉とも言われる。泉は三日月状で、水が澄んで波静かであり、緑の草が生い茂っている。風が砂を吹き上げてもほとんど砂がこのオアシスに落ちないそうで、これも不思議の一つ。旧暦の五月の端午節、鳴沙山の山項から、月牙泉を眺めることがこの地方の人々の習俗となっている。
鳴沙山は、高さは数十メートル、峰は、刀で削ったように険しい。山頂から多くの観光客が砂の上を滑り降りると砂が音を立てる。案内の人の説明によると、晴れた時、山の上に管弦のような音色が聞こえて、まるで音楽を奏でているようで、かつては「沙嶺晴鳴」と呼んで、自然の奏でる大沙漢の演じる敦煌の一景であったと言う。

(8月4日)


○北戴河を訪問


 一行は、北京に飛行機で飛んで、次の会談の地「北戴河」に向かうことになった。
北戴河は中国北方随一の避暑地、夏には中国政府の要人がここに集まり、国策や党、国家の人事等についても重要な議論をするところとして有名である。最近は北京からの高速道路開通により北京や全国各地からの観光客も押し寄せている。
北京から一直線の高速道路で三時間、あらためて中国は広いなあと感じると共にインフラ整備も着々と進んでいる様子が手に取るように分かる。
「北戴河」では曽慶紅党中央組織部長が多くの報道陣と共に、ホテルの玄関まで出迎えてくれて、さらにそこには、最近日本に着任されたばかりの武大使の姿も見える。
私は以前「日本のO・D・A感謝の集い」に、連立与党三党の当時の幹事長の野中、冬柴、野田の各幹事長の皆さんと、特に私がお誘いを受けて中国を訪問し、すでに曽部長には野中さんから丁重に紹介されており、二度目お目にかかることになった。江澤民主席の側近で実力者である曽部長と野中さんは、気が合うというか前回と同様に互いに打ち解けた雰囲気の会談がはじまった。

○曾慶紅組織部部長との会談


 しかし、靖国神社に関しては次のようなやりとりがなされた。
 冒頭、曾慶紅・中央組織部部長より、
「野中元幹事長一行の御訪中を歓迎する。
古賀前幹事長とは野中元幹事長と一緒に1998年にお会いしたと記憶している。その時、野中元幹事長は、日本の未来を担う新しい指導者として古賀前幹事長達を自分に紹介してくださった。
二階保守党国会対策委員長は北京では既に有名人物であり、昨年五千名という空前の規模の使節団を連れて訪中され、中国の指導者達と非常に良い会談を行い、特に江澤民国家主席は二階運輸大臣との会談の冒頭に「重要講話」を発表した。
 太田公明党国会対策委員長とは、昨年訪日し、公明党党本部を訪れた際にお会いした。その時、太田委員長より「懐刀とは何ですか」と聞かれたことを覚えている。
 昨年訪日した時は、小渕総理が急に病気で倒れ、大変お忙しい中、各方面において行き届いたおもてなしをしていただいたことを非常に印象深く覚えている。訪日期間中、東京から大分、大阪等の地方まで非常に友好的なもてなしを受けた。自分は、様々な障害や雑音はあるにせよ中日友好関係の主流は良好である、との結論を導きだした。特に短い訪日期間中、野中元幹事長は自分と5回も会っていただいた。野中元幹事長は民間から政府に至るまで中日関係全体の発展、交流にずっとご尽力されてきている。特に1998年訪中の際、若い政治家を連れて盧溝橋や南京を訪問された。中日間に存在する歴史認識の問題に正しくかつ積極的に対応しようとする態度の現れであり、現在も存在する問題の良い解決方法を、今後協力して探し出せることを期待している。野中元幹事長は正義感にあふれ、戦略的視点、日中友好の精神を持った方であり、賞賛の意を表すとともに感謝申し上げたい。特に今回日中友好関係がこのような困難な状況にある中、訪問していただいたことを非常に感謝している。
 先日、訪中された与党三幹事長ともとても良い会談を行うことができ、我々は目下存在している難しい問題について率直に意見を述べあった。自分は現在の中日関係が直面している問題を非常に心配していると述べた。今年は新しい世紀の第1年であるにも拘わらず、歴史教科書問題、台湾問題、最近では靖国神社参拝問題と多くの不愉快な問題が発生した。自分はこれらの出来事が、中日人民の感情を傷つけ、二国間のみならずアジアにも影響を及ぼし、歴史に対する正しくない日本側の立場により中日友好関係の大局に影響することを非常に心配していると述べ、三幹事長に総理の靖国神社参拝の問題を適切に処理して欲しいと特にお顧いした。
 今回、野中元幹事長一行が訪中され、戴部長や唐外交部長と会談されたが、その会談の報告によって、みなさんの立場や態度を自分としても理解している。みなさんは日本において影響力のある政治家であり、この問題解決のために引き続き役割を果たされることを希望する。
 先日、自分は日本青年指導者代表団の32名と会い、彼らと楽しく会話をした。この代表団の派遣は、中日両国関係の発展に寄与するべく、昨年8月訪中された河野前外務大臣との間で合意に達したものであり、昨年中国側から50名の代表団を日本へ派遣した。彼らの報告によれば、日本で非常に行き届いたおもてなしをしていただき、大成功であったということであり、今回の日本側の代表団も非常に成功したということである。これからもこうした相互交流を続けていきたい。
 今回は北戴河までお越しいただき、ご迷惑をおかけした。これは特に胡錦濤・国家副主席の公務の関係であった。自分は訪日した際、野中元幹事長と最後にお会いしたのも東京ではなく京都「風月亭」であったので、今回を北京ではなく他の場所で古い友人にお会いするのが良いのかもしれない。」

これに対し野中元幹事長より次の通り発言を行った。
「曾部長が訪日された時、まさに日本が劇的に変化している時であり、到着された日に、自民党幹事長であった森前総理が二日目には総理となられて、外国からの初めての重要なお客様として貴部長と会われた。また、日中関係に長年情熱を抱き努力された小渕元総理、竹下元総理が昨年お亡くなりになったが、中国側からたまわったご好意に感謝したい。
この十年間日本には九名の総理がいたが、改革は進まず、国民は大きな不満と閉塞感を抱いていた。経済は悪化を続け、国民は政治家、官僚、経済界にも信頼をおけず、不満が極限にまで達していた。そのような状況下、国民にわかりやすい小泉氏を、自民党総裁選において自民党は選択した。
 小泉総理の就任以来三ヶ月、口ばかりで実際の行動が伴わないと野党やメディアから度々批判されているが、自分はこの期間、小泉総理は二つの大きなことを成し遂げたと思う。一つは慣習にとらわれず、自分の考えに従って自分の内閣の組閣を自らの判断で行ったこと。2つ目は熊本地方裁判所におけるハンセン病患者に関する訴訟において、政冶的判断として控訴を断念したことである。
8月15日の靖国参拝に関しては、総理は貴国をはじめとして東南アジア諸国に対しいかなる説明をするのかを考えつつ、一人の政治家として自ら決断を下すことと思う。ただ、今回の訪中の前、自分は福田官房長官に対し、総理に靖国神社の歴史背景、今の靖国神社のあり方がどうなっているかを再度検証して欲しいと話してきた。
 日中両国はアジア太平洋地域の平和と安定のための良いパートナーであるはずであり、来年国交正常化三十周年という重要な節目の年を迎える現在、このような難しい情況にあることを一人の政治家として悲しく、また悔しく思っている。また、こういう時期に、自分の訪中に同行することを決意してくれた古賀前幹事長、二階委員長、太田委員長の勇気に感謝申し上げたい。特に二階委員長、太田委員長は現在与野党国会対策委員会が開かれているが、他の人に代理出席させ、同行していただいた。彼らの友情には本当に感謝している。
 小泉総理は、ハンセン病の件で国民の拍手をもらったが、その決断の背景には、大臣をやめても総理の決断を求めた坂口厚生労働大臣の存在がある。靖国参拝については、神崎公明党代表が慎重に対応することを希望するとしており、小泉総理もこれを重く受け止めていると思う。小泉総理が『熟考する』と言っているのでこれを期待している。また阿南大使、武大使におかれては日中関係が困難な状況で就任され、苦労をおかけしている。
 今回は敦煌を訪問した。実は、1988年、竹下元総理に敦煌訪問のお誘いを受けたが当時お断りしたことがあった。竹下元総理は、当時の阿南外務省中国課長の協力も得て、敦煌文物保護センターを建築したが、今回の訪問でその建物をこの目で見、竹下元総理を偲んできた。
 また、今回銀川、敦煌等内陸部を見、また大連訪問を通じて東北の一部を目の当たりにした。貴国の指導者達がなぜ西部大開発に使命感と責任感を持っているかを強く感じることができた。
今回は過去中国が様々な歴史を生み出してきた北戴河にご招待いただき、光栄に感じている。」

 これに対し、曾部長よりさらに次の通りの発言があった。
「心温まるお話に感謝する。昨年竹下元総理、小渕元総理が亡くなられたが、自分も彼らを懐かしく思う。中日両国人民の友情の発展のため、国交正常化以降、先人達はどれだけの心血を注いできたか。彼らの後輩として、引き続き両国友好関係の発展のために努力していきたい。1998年に江主席が訪日した際、小渕総理との間で平和と友好のためのパートナーシップをうち立て、中日共同宣言に署名している。
 我々としても小泉総理の指導のもと、日本が各方面の問題を解決し成果をあげられることを期待している。しかしながら、靖国神社参拝の問題は、総理個人の問題ではなく、中国人やアジア人民の感情、正しい歴史認識に関わる非常に重要な問題である。我々も、最近マスコミの報道から小泉総理が、各方面の意見を聞くと述べておられ、最初の頃に比べると変化していることに注目している。総理が最後に正しい判断をしてくださることを期待している。
 いずれにせよ、我が党、国家・政府は「歴史を鑑とし、未来に着目する」、「高いところから遠くを見る」・・・「登高望遠」との方針でこれからも絶えず中日関係を促進していきたい。中日両国が二つの大国として、友好関係を促進、絶えず発展させていくことは、両国人民のみならず、全世界にとっても非常に意義のあることである。
野中元幹事長が中日両国関係が困難な時期に世代の若い指導者を連れて訪中していただいたことに重ねて感謝申し上げる。」

 会談終了後、一行は極めて友好的な雰囲気の中でタ食会を行い、さらに曾部長の特別の配慮で、洗練された見事な雑技を同行記者団も一緒に親しく観賞した。

(8月5日)


○胡錦濤国家副主席との会談


 いよいよ今日は、胡錦濤国家副主席との会談である。
胡副主席は、早くから江主席の後継者として中国国内では勿論、国際的にも最も注目と期待が寄せられている重要人物といわれている。
 冒頭、胡副主席より次の通り発言があった。

「野中元幹事長ご一行のご来訪を熱烈に歓迎する。みなさんとは古い友人である。野中元幹事長は自分より17歳年上であり、他の方々は自分より2~3歳年上、もしくは年下であると承知しており、自分とはいわば同世代の方々である。皆さんは中日友好関係を促進する為に努力をされ、積極的な貢献をされてきた方々である。先日、日本では参議院選挙を終えたばかりであるが、このような時期に訪中していただいたことは、みなさんが中日関係を極めて重視していることの表れであり、中日両国の政治家が交流を深めていくことは、両国関係を更に発展させる上で有利であると認識する。」

 これに対し、野中元幹事長より次の通り発言をした。
 「今回訪中し、中連部、外交部及び中国の各方面から行き届いた接待を受け感謝申し上げると共に、本日、胡錦濤副主席にお会いすることができて大変嬉しく思う。
 三年前、貴副主席がご就任間もない頃、最初の外遊先として日本を訪問された。当時、自分は貴副主席に対し若さに溢れ、非常に聡明そうであるとの印象を持ち、あこがれと期待感を感じたことを覚えている。ご就任以来、貴副主席が中日友好発展の為に果たされてきた役割にお祝い申し上げる。
 当時、貴副主席と親しく積極的に会談を行った小渕元総理、また同じく日中友好の為に長年情熱を以て取り組んでこられた竹下元総理が、残念なことに昨年相次いで亡くなられた。自分は残されたものとして、日中両国は来年、国交正常化三十周年を迎え、先人達が困難の中にも努力して切り開いてきた日中国交正常化を振り返り、その更なる発展の為に努力し、友好の実を上げていきたい。
自分は既に高齢であり、今回は日本の未来を担う政治家達をお連れした。古賀前幹事長は、私の最も信頼する政治家である。二階委員長は、皆さんご承知のとおり、昨年五千人の日中文化交流使節団を連れて訪中し、江澤民国家主席、貴副主席の他、中国の最高指導者の方々から熱烈な歓迎を受けた。その際、江主席から「重要講話」を発表していただいた。
 太田委員長は公明党であり、公明党は貴国との間に長い友好関係を築いており、日中関係を促進することを期待し今回の訪中に参加して頂いた。
 ここで貴副主席に2点お願いしたいことがある。
 我が国は、貴国の共青団が中心に行っている「母なる黄河を守る運動」に協力すべく「小渕基金」を創設した。今度日中緑化議連が中心となり貴国の植樹活動に協力していこうとしており、現在中国青年国際人材交流センターと相談中であるが、本年10月、貴国において記念活動を行う予定であり、貴副主席からも特別な配慮を頂きたい。
 二つ目は、『グローバリゼーションフォーラム』の件である。当該フォーラムは、アジアの平和と発展の為に創設され、総会が本年11月12、13日に東京において開催される予定である。詳細については、阿南大使から貴国に対して説明があると思うが、中国側からの出席につき宜しくお願いする。」

 引き続き古賀さんより次の通り発言があった。
「胡副主席とお会いできることを非常に光栄に思う。
今回訪中し、貴国指導者達との会談を通じ、野中元幹事長他先人達が日中友好関係発展の為に成された努力をあらためて深く認識し、これらの方々に対し心から敬意を表したい。我々の世代は野中元幹事長を始めとする先人達が築いた友好関係を如何に発展させていくかを考えなければならず、責任は重い。日中関係は正に困難な状況に直面しているが、今回の訪中を通じて、日中間の信頼関係を構築することが如何に重要であるかを再認識している。
これは個人的なことであるが、本日は自分の61歳の誕生日で、今朝、中連部が誕生日のケーキを準備してくれた。これは自分の政治生活の中でも極めて重要な1日になると思う。」

 私からは、次のように申し上げた。
「自分は昨年五月二十日、五千人の使節団と共に訪中したが、当時、江澤民国家主席、胡副主席をはじめとする中国の最高指導者の皆さんから熱烈に歓迎していただいたことを当時の参加者は今でも感動を以て思い起こすことが出来る。ご承知の通り日本には四十七の都道府県があるが、各都道府県は夫々、百人以上参加しているわけであり、どの県を訪問してもこのことが話題になる。
昨年、日本は中国からの団体旅行客ビザを解禁したが、この結果、今日までに既に一万人が日本を訪問している。今後さらに拡大していくであろうし、こうした国民間の交流を通じて、日中関係が更に発展していくことを希望する。
本年九月、世界観光機関(WTO)の総会が日本で開催される予定であり、136カ国の加盟国の代表が参加するが、貴国からもハイレベルの代表団が参加していただくよう期待し、ご協力をお願いする。」

 続いて太田さんから、次のとおりの発言があった。
「今から二十年ほど前、胡副主席が共青団主席をされていた時、創価学会の本部で池田会長と会談されたことを覚えている。自分は青年部長として同席し、青年交流につきお話をした。
今回の訪中を通じて、先人達が日中友好の為に尽くされた努力を感じ取ることが出来た。一つのことを成し遂げるとき、固い意思、行動力、友好的感情は基礎となるが、最近日本国内で偏狭なナショナリズムが台頭し、自分も心配している。靖国神社参拝問題や教科書問題等があるが、日中双方は大局をしっかりつかみ適切に対応すべきと考える。
日中間には、観光、環境保護、科学技術など協力をしていける多くの具体的な分野があり、今後ともこれらを促進させるために自分としても努力していきたい。」

 これに対し、胡副主席より次の通り発言があった。
「野中元幹事長他、みなさんの温かく友好に充ちたお話に感謝する。
自分が九8年に訪日し、日本の友人に会った時強調したのは、中日両国は一衣帯水の隣国であり、二千年以上の友好交流があり、多くの人を感動させる友好のエピソードが数多く残っているということである。前世紀、我々は不幸な一時期があり、中国人民に大きな困難をもたらし、同時に日本人民にも苦痛を与えた。戦後、両国の指導者及び有識者は長期間、絶え間なく努力を行い、1972年に国交正常化を達成し、それ以来30年、各分野において大きな発展を遂げ、両国人民に実質的な利益をもたらした。我々は前世紀に発生した歴史的悲劇を次の世紀においても繰り返してはならない。両国関係の歴史の発展の過程を振り返ると、両国が平和につきあえば相互に大きな利益があり、両国が戦えば互いに大きな損をすることがわかる。また、多くの先人達の努力と心血を注いだ努力の上に今日の成果があることを痛感させられる。中日関係の為に貢献をした両国の先人達のことを我々は永久に忘れてはならない。
 自分は、新しい世代の指導者の一人として、今日まで両国が成し得てきた成果を大切にしていきたい。我々の責任は中日友好というビルにレンガを積み、中日友好という樹に土をかけ、水をやることである。我々の関係にはマイナスとなることをする理由は何にもない。二十一世紀を平和、安定、繁栄、発展の世紀とすることをみんなが期待している。日中両国はアジア及び世界の重要なメンバーとして、アジアと世界の発展と安定のために重要な任務を負っている。中日友好開係を強固にし、発展させていくことは、世界に貢献することである。中国は今後更に改革を進め、建設を早めていくことに力を入れており、平和で安定した国際環境を必要としている。日本及び周辺諸国と友好を発展させていくつもりである。
日本も現在正に改革を行っているところであり、その実現の為に日本も平和な国際環境を必要としていると思う。両国の政治家達は、戦略的且つ歴史的な高い立場から中日関係をとらえるべきであり、正確に大局を把握しなければならない。
『歴史を鑑とし、未来に目を向ける』との方針でやれば、中日関係は持続的に関係を発展させることができる。中日関係の為に各分野において両国の政党、政治家は多くの仕事をし、成果を上げることができる。双方は共に中日共同声明、中日平和友好条約、中日共同宣言の原則、精神を遵守し、中日友好の政治的基礎を強固なものにしなければならない。双方は相互互恵の原則により、経済・貿易・科学技術、環境、観光分野における協力を通じて中日友好関係の物質的基礎を更に強固なものにし、また政府や政党間の交流を発展させるのと同時に、民間レベルでの交流を促進し、両国関係発展の社会的基礎を強固なものにしなければならない。また、我々は若い世代の交流を更に拡大させ、世々代々の友好を若い世代の間に深く根づかせ、長期的発展のための基礎を築かなければならない。更に我々は地域及び国際社会における協力を拡大し、両国の共同の利益を維持発展させる為に努力すると同時に、アジアと世界の為に貢献していかなければならない。
先ほど野中元幹事長他が交流を進める提案をいろいろされた。貴国による『母なる黄河を守る運動』に対する一層の協力という提案に関しては、共青団にお伝えするが、きっと積極的な態度をとると思う。
グローバリゼーションフォーラム及び世界観光機関(WTO)に関する会議への出席についても、関係部門に必ずお伝えし、積極的に検討させたい。
最後にもう一度、野中元幹事長が日中友好発展の為に成された努力に対し敬意を表するとともに、感謝申し上げる。」

 最後に野中さんより代表して次の通り発言があり、稔りの多い有意義な会談を終了した。
「先ほどの貴副主席の御発言の一言一言を心に刻んだ。歴史を鑑とし、歴史を直視し、世々代々の友好関係促進の為に今後も努力していきたい。江主席、朱総理にもよろしくお伝え願いたい。」


日中友好に想う

 参議院選挙を終えて、お互いに健闘をねぎらう為の乾杯は、東京でも地元でもその機会を持つことのないまま、お世話になった同志の皆さんに労いの言葉を交わす暇もなかった。
 各人は、各々の選挙の戦場から成田に一直線に向かい機上の人となり、一路北京に向かった。到着の後、直ちに連日、朝、昼、夜夫々の要人会談が精力的に行われた。
 会談が終わると、十数名を超える同行記者団(野中番)との記者ブリーフィングや懇談があり、その間中日友好協会の陳永昌副会長や呉秘書長等、旧知の間柄の古い友人の皆さんが記念の品を携えて、一行をホテルに訪ねてくださった。千年の歴史を誇るシルクロードの生んだ文化芸術の宝庫に圧倒されそうになり、うっとりさせられた敦煌の感動の1日を除いて、緊張した中国への旅であった。
 何故、今、中国なのか。この時だからこそ中国の要人との会談が重要なのだという我々一行の認識は一致していた。帰国の後、臨時国会の召集等、動かすことの出来ないスケジュールが詰まっていた。
 帰国の8月5日の翌朝の8時には、ホテルオークラで与党三党の幹事長及び国対委員長の会談が、私たちの出発の直前にすでにセットされていた。
そして、小泉総理の8月15日の靖国神社参拝の可否を判断しなければならない日は日1日と迫っている。
 中国側が主張される国交回復して30年、お互いに積み重ねて来た努力をここで崩してしまうのはもったいないのではないか。中日よりも中米の関係が先に進んで行くようなことは残念でならない。何れもの中国側の発言は、アジア外交推進の上で説得力がある。
しかし、日本国の内閣総理大臣が、熟慮に熟慮を重ね、政治家として自らの責任で判断をすると繰り返し発言される総理の決断に、野中さんや、古賀さんならずとも意見をはさむべきものではない。
 野中さんが中国要人に自らの政治スタンスを堂々と述べられた通りである。特に古賀さんは靖国神社と関係の深い全国遺族会会長代行の立場にあり、やがて近い将来会長に就任されるとの噂もあり、亡きご尊父の祥月命日には必ず靖国神社へお一人で参拝に趣かれることを私は承知している。
 古賀さんの心中も察するに余りあり、私は個人的に自・自連立政権の構築に互いに協力して以来、人呼んで、公明党の副代表の今度の参議院議員の選挙に当選された草川昭三議員とは、「だんご三兄弟」と言われる仲であり、互いに何処までも信頼し合っている。
それだけに、相手の立場を考えると軽々に心中を尋ねることは出来ない。またするべきでもない。
政治とは、かくも重要であると同時に非情なものである。
特に同行の太田公明党幹事長代理は、靖国神社の問題に関しては、党としても個人としても意見ははっきりしている。連立政権の一角を担う保守党の中も意見は分かれている。慎重派と積極的賛成派であるが、この問題で賛否の決をとることはしないという暗黙の方針で今日まで来ている。記者懇談会の席で国立墓地や国立墓苑さらにはメモリアルパーク建設等について、記者団から私たちは一人一人が意見を求められた。
 私は、「我々が外国訪問の際、その国のために勇敢に戦った戦士たちのお墓に献花を捧げることがしばしばある。それは、その国の歴史に対して、国民に対して敬意を払うことで当然のことだと思う。
 しかし、今、日本はアメリカの大統領が来日されても、中国の主席が来日されても誰からも我が国の英霊に献花がなされることがない。
 しかし、このことを靖国神社と切り離して考えるべきではないという古賀さんの考えに私は同調する。従って、私は、国交のある世界の国々の賓客が訪日された場合、時間が許せば参拝して頂けるようなメモリアルパークを築くことと、靖国の問題をどのように解決するか、この連立方程式を解く努力をこれからも慎重に重ねることが重要だ」と述べた。
 今回の中国への旅は、先にも述べたが、野中先生のお考えも、私共の考えも、中国へ弁明に行くのでもなければ、あらためてお説教を聞きに行くのでもない。
 如何なることがあろうとも、日中友好は子々孫々、世々代々―と、我々は幾度か誓ったことがある。その気持ちを大切に今後、どんなことが起こっても、堂々と中国に意見を申せるパイプは常に太くしておく努力が必要なことは申すまでもない。
 今回の訪中の各要人との会談の中で、必ず野中さんが言及されたことは、「今日まで日中友好に情熱を傾けて来られた竹下元総理や小渕元総理が他界され、だんだん中国とのパイプが細くなって行くことを憂慮している。」
 「自分の為すべきことは、これからの日中間の交流を深めて行くために、与党三党の次の時代のリーダーである自民古賀、公明太田、保守二階のお三人に来てもらい、これからの日中関係を引き継いでおきたいという私の願いから、大変忙しい日程の中、お三人に来て頂いた」と丁重にご紹介がなされた。
 微力でありますが、私も先輩政治家、野中広務元自民党幹事長のご配慮に対し、及ぶ限りの努力を重ねる決意である。
 中国を訪問すると、「今回の訪中は何回目ですか?」と尋ねられることがしばしばである。この際、あらためて中国訪問について振り返ってみたい。

※第1回目(1976年)
 想えば、昭和51年(1976年)、当時の仮谷知事(故人)を団長とする「和歌山県日中友好の翼」に参加したことが最初の中国訪問でした。

※第2回目(1982年)
 次には昭和57年(1982)、作家の神坂次郎氏を団長に、上西幹一氏(故人)(県教育委員長、上海の東亜同文書院卒)高垣宏氏(中紀バス会長、県公安委員長)寺田泰治氏(普化尺八同人会代表、医師)、大賀ハスの研究家で私の高校時代の恩師である故阪本祐次先生の奥さんのの阪本弘子さん等、150名のメンバーと共に「和歌山県日中伝統文化視察団」を編成、中国民航のチャーター便は当時としては画期的なことであった。
 「味(経山寺みそ)音(尺八)花(大賀蓮)の里帰り」というサブタイトルの想い出多い旅だった。

※第3回目(1989年)
国会議員となってから、ある日奥田元運輸相から、「実は竹下さんの構想だけど、十年間にわたって経世会(竹下派)が中心になって日中青少年交流を推進することになった。第一回目の団長を自分が引き受けることになった。団の事実上の責任者として君が秘書長をつとめてくれないか」
早速、スポーツ文化交流も含め、長城計画のスタートの年にふさわしい取り組みをはじめました。程なく1989年の有名な天安門事件が勃発しました。
当時は渡航禁止地域に指定されたり、政府高官の往来にもストップがかかるような状態だった。当時の私の判断は、天安門事件はあくまでも中国の国内問題であり、「長城計画」 は今後十年間の日中の青年交流に端緒を開くもので当初の予定通り、計画は実行すべきだと判断、その旨 奥田団長に進言。
 私たち一行は国会議員7名を含む約150名が事件発生後、はじめての外国人団体の訪問であり、受け入れ側の中国の全国青年連合会も感激され、大歓迎を受けた。その後、10年間にわたって、日中間の青年交流や地域交流にも些か役割を果し、竹下構想を実行することが出来たと喜んでいる。

※第4回目(1990年)
 1990年、渡部恒三現衆議院副議長を団長に、岡島正之衆議院議員(当時)を秘書長とする第二回長城計画が実行されることになった。
 当時、政府高官の往来禁止が解けていない状況にあり、海部内閣で運輸政務次官をつとめていた私は、表向き訪中がむつかしい事情にあった。
 しかし渡部団長は「キミが俺に団長を押し付けておいて、一緒に行ってくれないとはないだろう。最初の1日だけでも行くようにしてくれ」
「分かりました。中国側の鉄道部と意見交換のいい機会でもありますので、思い切ってお伴します」この時、渡部副団長と共に、江澤民総書記(当時)との会談の機会を得た。
結局第二回長城計画にも参加することになった。

※第5回目(1999年)
今から2年前、1999年の6月、雲南省昆明市で開催中の世界園芸博覧会に私の後援会、新風会の有志百四十名が、新しく「関西空港―昆明」の路線を開設された日本エアシステムで、見学ツアーを組むことになった。
 国会開会中でもあったので、私は、金曜日の午後、羽田―関空―広州―昆明というルートで、二泊三日の駆け足で世界園芸博の見学をすることができた。
 博覧会の会場、日本コーナーは、能舞台や野立て、真赤なコイも泳いでいる日本庭園等も配置して、農林水産省や園芸協会等の若いスタッフの皆さんは張り切っていた。
問題はないですかと尋ねると、日本語の話せる中国の学生に来てもらっているが一人でも二人でも日本語の出来る人がほしいと言われた。咄嗟に、一緒に連れて来ていた、大学生の私の三男伸康に「二十日程でもいいからボランティアで手伝わないか」と話し、一度帰って出直すことにして夏休みを中国の博覧会現場で働かせてもらって、彼は素晴らしい体験をさせてもらった。

※第6回目(2000年)
そして、昨年1月、運輸大臣として連休を活用して、2泊3日のいつもの駆け足の中国訪問となった。
北京―上海の新幹線計画、鉄道公園プラン、テクノスーパーライナーの上海へのテスト航海についての協力要請、アジア周辺の海賊取り締まり対策に関する日中協力について、何光暐国家観光局長との間で、日中観光交流に関する日中観光担当大臣の調印、中日友好協会との懇談、さらに在北京の経済界の新年賀詞交換会(北京大使館)、さらに中日友好協会主催の歓迎会に出席等、目が回るようなスケジュールであった。
この際、両国の観光関係の将来の拡がりのために、私は次のメンバーの皆さんにご同行を願った。
日本航空 兼子勲社長、全日空 野村吉三郎会長、日本エアシステム 舩曳寛眞社長、日本交通公社 松橋功会長(日本旅行業協会JATA会長)、近畿日本ツーリスト 田平英二社長、阪急交通社 今道博社長、日本旅行 南隆明専務、全国旅行業協会(ANTA) 今野三男会長代行、東日本旅客鉄道 大塚陸毅現社長、日中友好和歌山県議会議員連盟 門三佐博会長等の我が国の観光関係を代表する有力な方々にご参加願ったことが、今回の野中訪中団の際にも各要人の皆さんから異口同音に高い評価を頂くことになった五千人の日中文化観光交流使節団につながった。
新雪の降りしきる天安門を眼下に眺めることの出来るレストランの一室で、中日友好協会の皆さんの熱いスピーチが続いている。
「丁度日中間の交流の歴史は2000年に及ぶ。その間互いに不幸な一時代も経験したが、悠久の歴史は連綿として続いている。我々は今年2000年という記念すべき年を迎えた。これからさらなる2000年の友好の歴史を築いていくために今年は何としてもそのことを記念する行事を是非考えてもらいたい。昨年もあった、来年もある。しかし2000年のこの年に日中間に、お互いに記念すべき行事を運輸大臣に考えて欲しい。」熱のこもった強い要望が続いた。
隣におられた谷野大使(当時)の意見を聞くと「私も特にそう思う」と言われた。
しばらく考えた私は、
「2000年の記念すべき年に国民レベルの交流が重要である。今、私に出来ることは、2000年だから2000人の日本の友人の皆さんをお誘いしてもう一度今年の五月頃(その後は、衆議院の解散総選挙が予想されていた)、北京を訪れることを計画しよう。丁度日本の観光界を代表されるような方々が、ご同席の上で、これらの皆さんにも積極的な協力をお願いして、もう一度私たちは多くの友人と共に帰ってくることにしたい。但し人民大会堂に着席でパーティーが出来るよう予約は中日友好協会が責任を持ってもらいたい」
この会談が発端となって2000人の大デレゲーションが中国を訪問することになった。
計画の途中で、私は政変等で、立場が変わるかもしれない。しかし約束は約束である。この計画を円満に推進するため帰国後、日中文化交流使節団の団長には名実共にふさわしい平山郁夫先生にお願いすることになり、幸いご快諾を頂いた。
平山先生はかねてより、中国との文化交流において偉大な実績の持主であり、何と言っても竹下先生との信頼関係が深い。病床の竹下先生もきっとこのことを喜んでくださるであろうという思いもあった。
運輸省、特に当時の観光部長の藤野公孝君の獅子奮迅の活躍は今でも語り草となっている。
関係者の皆さんの日中友好にかける深い想いと、団結の力で、大きく言えば日本全土を動かすことになり、当初の二千名は軽く突破して、三千人、四千人と膨らみ、やがては人民大会堂の二階席を使っても5200人が限界だということになり、5200人をもって"満員御礼" となった。

※第7回目(2000年)
 いよいよ2000年5月20日の人民大会堂には、江澤民国家主席、胡錦濤国家副主席、銭其国務院副総理、唐家外相、何光暐国家旅游局長等、錚々たる中国要人が姿を現し、最大の敬意と歓迎の意を私たち一行5200名のメンバーに示してくれた。
 一時間に亘る江澤民主席と私との会談には、中国側は前述の最高指導者の他にも顔を揃えてくれた。中国側は、斉懐遠中国人民対外友好協会会長、季成仁中国共産党対外連絡部副部長等。日本側も平山団長はじめ中馬弘毅運輸総括政務次官(当時)、泉信也現国土交通副大臣、谷野作太郎駐中国大使(当時)、土井勝二運輸審議官(当時)、藤野公孝運輸省観光部長(当時)、金子原二郎長崎県知事、松橋功(社)日本旅行業協会会長(JTB会長)、舩曳寛眞定期航空協会会長(JAS社長)、大塚陸毅現JR東日本社長、山崎広太郎福岡市長、井山嗣夫国際観光振興会会長、石月昭二(社)日本観光協会会長、井手正敬JR西日本会長、宮本一関西電力副社長(当時)、多田公熙(社)中国経済連合会会長(中国電力会長)等これまた錚々たる日本の各界の代表的な皆さんが同席された。
 丁度その日は台湾の陳水扁総統の就任式典の日であり、総統のスピーチの原稿が翻訳され、江主席と私の会談の一時間前に届けられるというあわただしく、また若干、緊張気味の1日であった。
その会談の日、江澤民主席は「日本との友好は主流である。次の時代の青少年の交流にお互いに努力しよう」―――私たちに呼びかけると同時に「重要講話」は十三億の中国国民に語りかける江主席の講話だった。私たちの訪問と共に「重要講話」は、中国中央電視台(CCTV)によって、テレビニュースで九分間繰り返し報道された。同じく翌朝の人民日報はこのことをトップニュースで伝えた。

※第8回目(2000年)
 最近では、2000年10月の「日本のODA(開発援助)に感謝の会」に当時の与党三党幹事長野中、冬柴、野田の各幹事長が招かれた際、野中幹事長から、「中国へ行くとよくあなたの話が出る、是非一緒に行きませんか」というお誘いを頂き、朱鎔基首相や曽慶紅組織部長にお引き合わせを頂いた。冬柴、野田両幹事長は勿論、古くからの中国通であり、友人も多い。
その時、「日中緑化推進議員連盟」の皆さんも訪中されており、北京市の郊外に小渕基金による緑化運動を展開されており、その式典にも参列させていただいた。昔から中国の諺に「十年育人・百人育樹」という言葉がある。これは「人を育てるには十年かかる。しかし樹木を育てるには百年を要する」という意味である。赤土だらけの広大な土地に、木を植え、やがて緑の大地にしようという小渕元総理のロマンと雄大な理想を受け継いでやっているとの議員連盟の団員の意気込みが印象的でした。

※第9回目(2001年)
 そして2001年、今回の訪中により、都合九回、中国を訪問したことになる。何れも時代の節目節目に偶然、遭遇して、今となっては夫々、極めて意義の深い訪中であった。
第1回目から今回の訪中まで、必ず立派な先輩、指導者に恵まれたことも幸運であった。今、あらためてこれらの諸先輩に心から感謝を申し上げたい。その故をもって中国側のトップレベルの政治家や指導者にお引き合わせを頂き信頼関係を築くことが出来たことは、出来たこと私の大きな財産でもある。
 靖国神社の問題は、帰国後、野中、古賀両氏は自民党のパイプで、中国の事情を官邸にも報告されたでありましょうし、私と公明党の太田さんは、8月6日に開催された山崎、冬柴、野田各幹事長と大島、太田、二階の国会対策委員長との会談で、報告をした。
 三幹事長が、近く総理にお目にかかってさらに意見を交わすことになり、当然結果は、三幹事長にお任せすることになった。結局、小泉総理は自らの信念と国際外交にも配慮しながら、熟慮の結果として、13日の参拝となった。中国、韓国向けの総理の想いを談話やさらに、15日の戦没者追悼式典でも真摯に述べられ、多少、温度の差はあれ、現在、中国、韓国とも最悪の事態はまぬがれることになったと思われる。
 しかし、問題はこれからで、日本と中国、日本と韓国との一衣帯水の関係の間柄をより緊密に、真の友好と協力関係を揺ぎ無いものとすることは我が国政治、外交の要諦でもある。
韓国との関係においても、先に作家の神坂次郎先生が描かれた「海の伽倻琴」が私も多少関係して、韓国語に翻訳出版され、韓国の識者の間でも高い評価を得ている。
和歌山県ゆかりの雑賀鉄砲隊の活躍の場面が時にはロマンを秘めて、あらためて今静かに両国の間で、各方面に浸透している。
先日、私に韓国の要人から、これを映画化してはどうかといううれしい提案もあった。
私も神坂先生も、この物語の翻訳をスタートさせたころからそのことはすでに考えている。
しかし、今年は、韓国との間で現在開催されている世界陶芸博覧会、私も日本側の協力メンバーに、社団法人全国旅行業協会会長として名を連ねている。是非成功させたいと願っている。
この九月にはいよいよWTO(世界観光機関)の総会がソウルと大阪で日韓共同主催で行われる。加盟世界百三十六ヶ国から千人から二千人規模の出席者が予定されており、この成功のためには両国の協力がなければならない。来年はワールドカップである。私は、現在もWTO推進議員連盟の会長として、日韓両国の共催のW.T.O総会のために、韓国の金文化観光大臣とも話し合い、両国のデザイナーの合作により、ポスターも完成され、さらに日本側は記念切手まで発行して大会を盛り上げようとしている。

 いよいよ成熟した日韓の文化、観光、スポーツの交流の流れも軌道に乗り、両国の国民参加の交流の流れは待ったなしで、何人もこれを止めることは出来ない。三年前、金大中大統領が国会で演説された「過去は問わない、未来志向で!」その後、文化解放に踏み切られ大統領の英断と親日の気持ちは、今や我が国の広く国民各層に伝わって、教科書問題もようやく理性的に落着をみようとしている。
 今度は小泉総理が外交手腕を発揮される番である。我々も出来る範囲で協力を惜しんではならない。当然、野中さんも古賀さんも公明党の太田さんも同じような想いでおられる。
特に、来年は日中両国の国交回復三十周年を迎える。
 この時に両国民が心から国交正常化を喜び合えるよう、我々は一層努力することが先人の皆さんが苦労に苦労を重ね、耐え忍んで井戸を掘り続けて下さったこと、同じように中国の多くの指導者の皆さんにも、感謝を申し上げる道であろうと思う。
 最後にここに今あらためて五千人訪中の際の江澤民主席の重要講話と当日、人民大会堂における私のご挨拶をご覧頂き中国訪問のレポートのペンを置く。

江澤民主席「重要講話」
 ――人民日報一面より――

江澤民主席は二階運輸大臣、平山会長と各位の友人をあたたかく歓迎した。
江澤民主席は次のとおり述べた。

「今回の日中文化観光交流使節団の訪中は、人数、規模において中日両国国民の交流史上空前のことである。これは日本政府が中日友好関係の発展に向けた積極的な姿勢を示すのみならず、日本国民の中日友好事業に身を投じる大きな情熱を体現している。今回の大型友好交流が両国国民の相互理解と友情の増進に重要な役割を果たすと信じている。
 地理的には中日両国は一衣帯水の隣国である。歴史的に見れば、両国国民は2000年以上にわたる友好交流がある。文化伝統面で言えば、両国の文化は源は遠く流れは長い。両国は不幸な一時期も経験したが、両国国民の間の善隣友好は主流である。新中国の成立以降、毛沢東主席、周恩来総理、鄧小平同志、現在の指導者は終始、中日友好協力関係の維持、発展を高度に重視し、中日の民間交流を絶えず促進してきた。
 現在の国際情勢のもとで、両国国民が相互理解を深め、両国の友好協力を不断に発展させることは、両国国民と子孫後代の根本利益に合致し、地域と世界の平和と発展にも有利である。1998年に貴国(日本)を公式訪問したが、歴史をかがみとし、未来に向かう精神に基づき、小渕総理と両国が平和と発展の友好協力関係に努力することを共同で確立した。昨年、小渕総理が訪中し、双方は両国が各分野における実質的な協力の重点と方向性をより一層明確にした。中日両国政府と国民の共同の努力のもとで21世紀の中日関係は一層発展するだろう。
 中日友好は最終的には両国国民の友好である。国交正常化であれ、あるいはその後の両国関係の発展であれ、民間友好はともに極めて重要な役割を果たしてきた。新しい情勢の変化と要求に適応し、両国の民間友好は各種の柔軟で多様な形式で不断に前に向かって前進し、一連の積極的な成果を得たことを喜ばしく思っている。未来を展望すれば、21世紀の日中友好は両国国民、特に両国の青年に希望が寄せられる。我々は民間友好の伝統と優勢を継続させるだけでなく、これを不断に拡大、強化し、青少年の友好交流を一層推進し、中日友好事業の後継者を早急に育成し、両国の友好の旗印を一代、また一代と伝えていかなければならない。使節団の中国の友好訪問が円満な成功をおさめることを祈る。」

 

二階運輸大臣(当時)挨拶

   2000,5,20

「今回、平山郁夫会長が日本政府および民間団体合同の、日本の各地、各界、各層の5000名あまりの代表が参加する大型使節団を率いて訪中し、江澤民主席閣下および中国のその他の指導者にお会いし、ともに友情を語り、未来を展望することができ、光栄に思っている。
 日中両国は1972年の国交正常化以降、両国関係は順調に発展している。江澤民主席が一昨年11月、日本を公式訪問され、昨年7月には小渕総理も中国を公式訪問され、両国関係は21世紀の発展に堅い基礎を築いた。森新内閣は日中共同声明、日中平和友好条約、日中共同宣言が定めた原則を厳格に守り、両国の平和と発展の友好協力パートナーシップへの取り組みを押し進めるために最大限の努力をする。使節団は中国を訪問したのち、必ず日本国内でさらに日中友好を宣伝し努力するであろう。
 日中友好の源は流れは長い。両国は確かに不幸な一時期も経験したが、今日我々は深く反省し中国人民に尊敬と信頼の気持ちを胸に、日中友好の新しいページを開くために人民大会堂に集まった。江澤民主席とその他の指導者が人民大会堂へこのような交流大会に出席してくださることは、日中文化交流史上かつてない快挙である。哀心より感謝する。中国に「水を飲むものは井戸を掘った人を忘れない」という古い言葉がある。日中友好に貢献してきた先駆者、先輩の数々を忘れてはならない。前人の業を継ぎ、未来を開拓し、日中友好という大事業により多くの貢献をしていきたい」

(おわり)

 

 

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