ブッダと認知バイアス克服と民主主義という壮大なる三題噺をやらかすわけですが、たんなる大喜利ではありません。これによって、過去の科学者や思想家たちが束になっても解けなかった世界と人間の謎が、すべて解き明されてしまうことになってしまうのです。
この連載でこれまで見てきたように、人間社会で起きる悲劇はすべて<道徳感情>が引き起こす認知バイアスが元凶なのでした。そこから人類が解放されるにはどうしたらいいのか。その道を指し示すことにもなるのです。
ブッダほど偉大な存在なら、認知バイアスなんかすぐに克服して、世界を正しく見ることができたかもしれません。しかしながら、ブッダの境地に達した者が人類史上に果たして何人いたでしょうか。のちに詳しく述べるように、ブッダその人でさえ、ほんとうに悟りの境地に達していたかどうかは怪しいところがあります。
ましてや、私たちのような凡人は、どう頑張っても無理です。ところが、その凡人が何万人か何千万人か集まって、ただわいわい云い合っているだけで認知バイアスをある程度は克服してしまう。つまりは、ブッダの境地に近づいてしまう。
この民主主義のなんとも不思議な力について、これから語ることになります。
しかも、「三人寄れば文殊の知恵」というのは、知恵が三倍になって賢者となるのではなく、人々の因果や物語を三分の一ずつに分断し、筋の通った思考ができないアホにすることによって認知バイアスを克服するのだということを証明しようというのです。
極めて非効率で、一本筋の通った思想のない民主主義。そんなものが、なにゆえ明確なビジョンを掲げ意志決定も早くて効率のいいはずの独裁やエリート少数支配より優位になって、歴史上に生き残ってきたのか。ここにその秘密があります。
驚くべきことに、ブッダは2500年も前に、この原理を見抜いていたのでした。それなのに、弟子たちを含めて今日まで誰ひとりとしてその真の教えに気づいていません。
これからこの文章を読むあなたは、2500年のあいだ人類の誰ひとりとして読み解くことのでなかった世界の秘密をその手につかむこととなるのです。
まずその前に、認知バイアスとはなんであるのかというお話をしなければなりません。一番簡単なのは、この有名な錯視です。
実際には同じ長さなのに、上のほうが長く見えます。眼の錯覚だと知識としては判っていても、やはり上のほうが長く見えてしまいます。どうして、こんなことが起きるのでしょうか。
生存競争に有利だからこそ、進化の過程でこんな見え方になるような身体の仕組みになってしまったのでした。
こういう絵だけではなく、我々の眼の網膜に映っている光景はすべて、二次元的な平面映像です。それを脳内処理によって立体的に知覚しているのです。奥行きを感じられたほうが、狩猟採集では獲物を捕るのに有利ですし、迫ってくる怖い猛獣からも逃げやすくなります。
遠くにいるライオンがネコより小さく見えるから、「ネコより小さくて可愛らしいな」なんて思っていたら大変です。「ほんとは自分より大きくて危険な相手だ」と瞬時に判断できる者だけが、一足早く逃げ出して生き残りました。
しかし、人間の奥行きの知覚はそれほど正確でもありません。自然界の複雑な光景を完全に正しい立体として捉えるには脳の処理に時間が掛るため、かなり適当な見え方のまま、素早く危険から逃れることを優先しているのです。
目の前の光景を正確に見ることのできる人もいたはずですが、時間が掛っているうちに猛獣に喰われて滅んでしまいました。一瞬の差が生死を分けて、自然淘汰されるのです。
自然界の光景さえ正確には見えていないのに、人類最古であるスラウェシ島の洞窟壁画からでも4万年しか経験していない平面画像を見ることに、人間の能力はまったく追いついていません。洞窟の中は真っ暗で、年に何回かの儀式のときしか見る機会もなかったでしょう。日常的に平面画像を見るようになったのは、せいぜいこの数千年です。
そのために、両端にある小さな羽くらいの情報に惑わされ、紙の上の線を立体として知覚してしまいます。だから、同じ長さに見えても、手前よりも奥にある線のほうが長いはずだと脳が自動的に判断してしまうのです。
人間以外の動物も、猛獣から逃げたり、逆に獲物を追っ掛けたりするため有利になるよう進化しています。ですから、副作用として錯視があるのです。それぞれに敵や獲物や逃げ方が違うので眼の位置も違い、錯視の内容も違います。しかし、目の前の光景が時々おかしな具合に見えてしまうのは、人間も動物も変わりありません。
ほかの動物にはない、人間特有の認知バイアス。それをもたらす根源こそが、この連載のテーマである<道徳感情>なのでした。