メルケル独首相、滑り落ちる王冠の皮肉
カティヤ・アドラー欧州編集長
強く安定した指導体制といえばどこだろう。これを欧州の人間に尋ねたなら、今週までなら、誰もがドイツを指差したはずだ。
ドイツは、戦後の政治的安定と入念な合意形成の記録を誇ってきた。
しかしアンゲラ・メルケル氏が戦後の独首相として初めて、連立協議に失敗してしまったことで、その安定の記録は途絶えた。
「ドイツはどうなる?」という言葉が、このところやたらと新聞一面に踊っている。連邦議会から近所のバス停の行列、テレビのトーク番組に至るまで、この話題で国中がもちきりだ。
ドイツの人たちは目をこすりながら、呆然としている。いつもは生真面目な主流派の政治家たちが、どたばたと予測不能な解散総選挙に突き進んでいるかもしれない今の事態が、未だに信じられないのだ。
しかし大統領はそうはさせないつもりだ。フランクワルター・シュタインマイヤー大統領は、再選挙をしても極右に有利なだけだと懸念しているのだ。
シュタインマイヤー大統領は今や、各政党との個別協議を立て続けに重ねている。連立実現のためさかんに交渉と工作を重ね、各党に圧力をかけている。
22日には社会民主党(SPD)が、大統領と話し合う番だった。SPDは現在、メルケル氏の保守政党とともに暫定政権に入っている。
シュタインマイヤー大統領は自分自身も、SPDの人間だ。マルティン・シュルツ党首との意見衝突は避けられないかもしれない。シュルツ党首は、ドイツ人が「グロコ」と呼ぶ過去12年間ドイツを治めてきた中道左派・中道右派の大連立には、決して戻らないという立場だ。
連立交渉が20日朝に決裂して以来、シュタインマイヤー大統領も、連邦議会新議長のウォルフガング・ショイブレ前財務相も、いずれもさかんに義務や責任という言葉を繰り返している。
2人は義務や責任を強調することで、政界主流派のいかにもキリスト教ルター派的な罪悪感に訴えかけようとしたのだと言えるかもしれない。
大統領と新議長は、政治的パフォーマンスに走るドイツの政治家たちに対して、国益のため、そして欧州の利益のため、党利党略を横において、連立樹立のために努力してほしいと呼びかけている。
ドイツの国内主流派は、自分たちの政治的危機が国外からどう見られているか痛いほど承知している。海外はまさかドイツでとこんなことがと信じられず、目をこすっているのだ。
たとえばフランスのマクロン大統領も呆然としている1人だ。経済大国で政治的にも影響力の強いドイツと、メルケル首相の応援がなければ、マクロン大統領の野心的な欧州改革のビジョンは、ビジョンのままで終わってしまう。
欧州のエリートたちも一様に落胆している。英国が欧州連合(EU)離脱(ブレグジット)を決めた国民投票の衝撃を経て、EUは次第に自信を取り戻していた矢先のことだからだ。
状況はEU有利に進んでいるかのように思われていた。ユーロは強く、ポピュリスト的な国家主義者の支持率は下がりユーロ圏改革や難民政策、新たな多国間防衛協力などについて、計画がまとまりつつあった。
しかしそのいずれも、実現するにはドイツの指導力が必要だ。ドイツには自宅の車庫で自分の車を細々といじっているだけではなく、欧州全体の変化を推進するハンドルを握ってもらわなくては困るのだ。
それに、ブレグジットはどうなる?
確たる予測をするのは難しい。
メルケル首相に近い消息筋は、メルケル氏が連立政権樹立に苦労しているからといって、ブレグジットに対するドイツの姿勢に影響はないと私に話した。確かにドイツの主要政党は、離脱条件などについては考え方が一致している。
しかし貿易条件や移行期間などの協議については、メルケル氏が退任したり、何カ月も国内政治に手を縛られたりすれば、その不在は大きな損失となる。
確かに、メルケル氏はルールを徹底して守る人だが、その一方で実務的な現実主義者でもある。
メルケル氏は、ブレグジットについて良い合意結着を望んでいる。理由は主に2つだ。ドイツ企業に恩恵を与えるため、そして強い欧州を維持するため。メルケル氏は、ロシアやイラン、北朝鮮、トランプ政権下で予測不能な米国を、疑心暗鬼で見ている。それだけに、英国とは緊密な関係を維持したいのだ。
英政府は意欲的なブレグジット合意実現のため、独創的で想像力あふれる発想をEU側に求めている。しかし、そのためには欧州側に、政治的意思と強い政治力が必要だ。
EU内で、ドイツやメルケル氏の声ほど影響力の大きいものはない。同氏が政治的に沈黙してしまえば、ドイツ国外にも影響が及ぶ。
メルケル氏の政治生命はおしまいなのか。
ドイツでは「メルケルのたそがれ」を意味する「メルケル・デマルング 」という表現が飛び交っている。メルケル時代が終わりを迎えつつあるという意味だ。けれども私は、彼女を切って捨てるのはまだ早計だと思う。
メルケル氏はすでに首相を3期務めたベテラン政治家だ。あらゆる状況を戦い抜いてきた政治家だ。何もこの期に及んであっさり諦めたりするはずがないでしょうと、本人がそう言ったに等しい状況だ。
だがこれが、メルケル氏の政治家人生において最大の危機なのは間違いない。
かつてドイツの女王、欧州の女帝とまで言われた人だが、ドイツのテレビを見ていると、その権勢の衰退は痛々しいほど明らかだった。もうあなたは政治家としておしまいなのかとテレビで何度も尋ねられては、(強張った笑顔で)辛抱強く答えるその様子から、彼女の頭から王冠が滑り落ちつつあるのが見て取れた。
しかし、メルケル氏個人の支持率はいまだに、多くの欧州指導者たちがうらやましがるほど高い。自分の党には自分以外に首相を任せられる有力候補者がいないことも、メルケル氏は十分承知している。
ドイツの調査会社「フォルサ」が行った世論調査によると、ドイツ人の45%が再選挙を望んでいる。メルケル氏も連立政権が樹立できなければ、少数政権を率いるよりもその方が良いと話している。
そのため、再選挙の可能性は十分あり得る。
ドイツの若者の多くは、再選挙を楽しみにしている。
若者たちは従来の合意形成型の政治を、守り重視で退屈だと苛立っている。そして、これがドイツ政治大変動の始まりになることを期待している。古臭い連中を追い出すチャンスだと。
若者は政治家たちに、借金回避にばかり執心するのではなく、国内の道路や鉄道サービス、大都市圏外での脆弱なインターネット回線などにもっと投資してほしいと考えている。
ドイツはほかの経済大国と比べて、インフラ投資率が最も低い。
もしこれがドイツにおける政治革命の始まりなのだとすれば、革命はよりによって、ドイツ経済がかつてないほど好調で(輸出と財政黒字は拡大基調)、不透明な世界情勢を前に欧州が強力で安定したドイツの指導力をかつてないほど頼りにしているという、そういう時代背景で起きることになる。これはかなり皮肉なことだ。