前回のコラム(「こんなに少子化対策している日本で、子どもが増えない厄介な矛盾」)で筆者は、「日本の少子化の要因は、結婚した夫婦が子どもを多く産まなくなっていることにあるのではなく、結婚しない人の割合が増加したことにある」と書いた。
ここ10年ほど、政府や自治体がお見合いパーティや「婚活」に躍起となり、大騒ぎしてきたことは記憶に新しい。これら結婚支援が少子化対策の名の下に行われてきたのは、上記のような認識が存在するからでもあった。
思えばここ数十年、独身貴族、パラサイト・シングル、負け犬(の遠吠え)、おひとりさまといった形で、なかなか結婚に踏み切らない独身者という「問題」が論じられ続けてきた。
アメリカでも数年前、社会学者が結婚しない男女の生態を活写した『シングルトン』という著作が大ヒットし、邦訳も存在している。
これらの著作に登場する独身者は、自らが結婚しないこと、子どもを持たないことについて、必ずしも否定的に捉えてはいない。
ところが日本の少子化対策の文脈で独身者が取り上げられるときには、彼ら/彼女らは自らの意志で「結婚しない」のではなく、仕事と子育ての両立困難や経済的困窮などの理由で「結婚したくても、できない」(=かわいそうな)人たちと描かれることが多い。それゆえ、「結婚支援」が少子化対策として大真面目に取り沙汰されることになる。
ところが今年、2人の社会学者が著した新書が、こうした言説状況に風穴を開けた。
最初の一冊は、荒川和久氏が著した『超ソロ社会:「独身大国・日本」の衝撃』(PHP新書)である。
博報堂のマーケッターでもある荒川氏は、「日本の20年後とは、独身者が人口の50%を占め、一人暮らしが4割となる社会」であることを正確に見抜きつつ、官製社会調査のトリックに対して批判する。
たとえば「日本人は9割が結婚したいと思っている」というタイプの主張を裏付ける官製統計に対して、「まだ結婚するつもりはない」(男性の47.7%、女性の40.6%)が、「いずれ結婚するつもり」として、「結婚したい」側に組み入れられていることを鋭く暴き出している。
ここでは、「結婚しない」という意志表示であったかもしれない回答が、「結婚したくてもできない」ことを意味する数字として一方的に解釈されているのである。
荒川氏によれば、自らの意思で結婚しない男女、すなわち「ソロ男・ソロ女」は約半数存在する。彼ら/彼女らは、「結婚に関して、女性は相手の年収や経済的安定は絶対に譲れないし、男もまた結婚による自分への経済的圧迫を極度に嫌う」という実利主義者ではある。
それゆえに「女性が輝く社会」では、(バリバリ働く)女性は結婚する必要を感じなくなり、女性の未婚率が加速するとまで述べて、既存の少子化対策の無効を宣言する。
また「結婚を勧めてくる既婚者たちは、結婚教の宣教師であり、勧誘者」と述べて、その善意の結婚強要を「ソロハラ」と名付けている。きわめて重要な問題提起といえるだろう。
さらに本書の白眉は、ソロ男やソロ女が作り出すソロ社会が孤立社会ではないという、力強いメッセージを打ち出していることである。
ソロで生きる力、即ち、ひとりでいられる能力は、誰かとのつながりがあるから可能になる。ソロで生きる力は自分を愛し、自分の中の多様性を育む力でもあるからこそ、他者とのつながりも可能になる。
そのような「超ソロ社会」はありうべき、一つの社会構想といえる。単にソロ男、ソロ女だけの問題でなく、離婚や死別の経験者、子どもが自立した以降の夫婦(カップル)など、誰にでもあてはまる、重要な問題を提起している。