日本ハムの舞台裏に、最大の仕掛け人がいる。ゼネラルマネジャー(GM)の吉村浩(52)だ。05年にGM補佐に就任後、今回で2度目の日本一を含めて5度のリーグ制覇。先進的なチーム編成の根幹を担うが、表には出ずベールに包まれている。大リーグでの編成業務経験を生かしてデータベースを導入。「スカウティング」と「育成」の2本柱を掲げ、永続的な強化指針を確立させた。栗山監督は「天才」と呼ぶ。指揮官と過去に手を携えたDeNAのGM高田繁(71)、元球団社長の藤井純一(67=池坊短大学長)の証言から人物像と手腕に迫る。

 吉村は「野球オタク」である。

 高田と吉村の初対面は、高田がGMに就任した05年1月だった。「彼のことは知らなかった。デトロイト・タイガースで仕事をして、優秀な人だと。一緒に仕事をしてほしいと言われた」。

 高田をサポートするGM補佐に、吉村が着任した。タ軍でも同職などを歴任し、阪神では3年間、強化などに携わっていた吉村を、球団がヘッドハンティング。球界OBの高田が編成トップに座り、吉村が参謀役を務めた。選手経験はないが、日米の球団運営を知るスペシャリスト。すぐ信頼が生まれた。

 「頭が良くて、数字、情報に精通している。すべてのプランニングをしたのが吉村君だった。みんな彼がやってくれた。何もしなくていい。それは楽だった」

 球団強化の2本柱に「スカウティング」と「育成」を掲げた。高田と吉村、球団代表の島田利正ら当時のフロントが先導したスタンスだ。限られた資金で、いかに効率的かつ継続的に強化、維持していけるか。基盤を固めた。

 「吉村君が、ある球団のデータを持ってきた。主力になっている高卒野手は、1年目からファームで年間何打席以上、立っています。で、何年後に1軍で活躍していますとか。投手なら年間何イニング以上を投げていますとか。それはすごいデータだった」

 デジタルだけではなく、アナログな一面もある。新体制1年目の05年ドラフト。吉村の発案で1人のスター選手が生まれた。高田は、こうお願いされたという。「福岡第一高校の台湾出身の遊撃手の視察を、お願いします。陽仲寿(よう・ちょんそ)です。1位クラスの選手です」。

 高田には初耳の名前で、指名候補リストに入っている程度だった。08年から2代目GMに就任し、当時スカウトディレクターだった山田正雄(72)も同行しチェック。すぐにほれ込み、1巡目指名して入団。後に改名した陽岱鋼である。

 高田は現在DeNAのGM。5年目の今季、3位で初のAクラス入りを果たした。「吉村君のマネをしてやっているけれど、まだまだ追い付かない。トレード、ドラフトなんかを、監督とかがやる時代はもう終わり。この世界は結果。彼には結果がついてきている」。日本ハムで3年間を共にした。敬愛を込めて言う。「いい意味でね。彼は、本当に野球オタクだよ」。

 吉村は「知将」である。

 藤井もスタートラインから、伴走してきた1人だ。吉村が入団した05年1月。同じタイミングで事業本部長に就任。日本ハム本社がサポートしているサッカーJリーグC大阪の社長を務めた経験を買われた。06年3月に球団社長に就任し、経営トップとして5年間、吉村の理解者として球団強化の礎を築いた。敬意を込めて、今でも「さん」を付けて呼ぶ。

 「吉村さんは、とにかくブレなかった。チームを作っていく上のビジョン、スタイルを持っていた」

 現在へ至る根幹に、独自のデータベース「ベースボール・オペレーション・システム」(通称BOS=ボス)がある。在籍または他球団選手、ドラフト指名候補など、野球に関わる項目をすべて数値化。吉村が米タイガースで学んだチームマネジメントの手段をアレンジして提唱し、導入に踏み切った。藤井は「あのコンピューターのソフトは、吉村さんの頭脳」と表現する。初期投資に約2億円。毎年、数千万をかけて現在もバージョンアップを続けている。

 閲覧可能なのは、ごく一部の幹部のみ。複雑で緻密なデータベースは、選手を年齢や実績などで「中核」「控え」「育成」などに区分。バランスが整っていれば一定の戦力で適正、将来的な安定も見えてくる。

 「吉村さんのポリシーは『選手供給サイクルの確立』だと。それを実践していくことだ、と」

 強烈な記憶が残っている。社長1年目の06年ドラフト。当時、日大の巨人長野を4巡目指名した。巨人への入団を熱望し、他球団が回避する風潮があったが、敢然と向かった。結果的に入団拒否。その前段で藤井は「なぜ巨人入団と騒がれている選手を指名するのか?」と、吉村に問う。すると「BOS」による長野のデータを基に、こう返答されたという。「うちに欲しい外野手なのに、なぜ指名しないのですか」。時に批判も受けるスタンスは、今も貫いている。

 編成トップであると同時に、経営者側の才覚もある。「この金額で1年間やってくれませんか? となれば、その中で収めてくる。予算内で、余らせる」と振り返った。吉村は選手の総年俸などチームに関わる年間の予算を1度も超過したことがない。ダルビッシュ(レンジャーズ)の推定年俸が最高5億円に達した時も、吉村は「7億円までは出せます」とサラリと試算してみせた。藤井は関西弁で「吉村君は知将やと思うわ」と表現した。

 吉村は「天才」である。

 栗山監督は監督就任前から公私で親しい間柄だった。今でも「ヨシ」と呼ぶ。12年に監督就任後、すごみを知った。

 こんなに頭の良い人に出会ったのは人生で初めて。バサッ、バサッと早く、正しいことを決断する。野球のことも含めて相談すれば確実に答えがある。正しいとか間違っているではなく、ヨシは答えをいつも持っている。聞けば、いつでもヨシの意見を聞ける。知恵袋的な存在がいることは、ものすごく大きい。

 ヨシからファイターズの監督のオファーが来た時、断れないと思った。2年前くらいにあった、もともとの打診は監督じゃなかった。「根本陸夫(※)になりませんか」って言ってきたんだ。頭が、おかしくなっちゃったのかと思った。「まず監督をやりませんか?」と。いろいろな勉強をするにあたり、ということだったのかな。1度は断ろうと考えた。オレは未知のモノだし、経験もない。迷惑を掛けたくない。

 そうしたらヨシが「命がけで野球を愛してやってくれれば、それでいいんです」って言った。「命がけでやってください。本当に野球を愛していますよね?」と。それはできるよね、能力は別として。野球を愛し、その仕事を一生懸命にやることはできる。

 ほとんどのことを言い当てている。すごいよ、ヨシは。愛情と決断力。そこに裏付けされた根拠がある。どんなに努力したって、ヨシみたいな仕事はできない。普通は一緒に仕事をすると嫌な部分が見える。それがなく、さらにすごくなっている。ヨシは天才だよ。【取材・構成=高山通史、敬称略】

 ◆吉村浩(よしむら・ひろし)1964年(昭39)6月16日、山口県生まれ。山口高-早大と進み、卒業後はスポーツ紙記者。退社後は米大リーグを視察するため渡米。92年からNPBパ・リーグ事務局に在籍。99年から3年間は、米デトロイト・タイガースでGM補佐などを務めた。02年から阪神・総務部に3年間在籍し、05年に日本ハムGM補佐に就任した。15年から3代目となるGMに就任。チーム統轄本部長と取締役も兼務。

 ※根本陸夫 57年に現役引退後、広島、クラウン、西武、ダイエーで監督。西武、ダイエーでは実質的なGMの役割を務め、さまざまな手法で選手獲得、チームを強化した。その手腕は「球界の寝業師」の異名を取った。