みなさま、台湾にも「即身仏」があることはご存知でしょうか。
今回は台湾の「即身仏」について、少し紹介していきたいと思います。
(写真も添付していますので、ちょっと怖いと思う方はお気をつけてください)
【目次】
「即身仏」と「ミイラ」
ミイラとは自然的に、もしくは人工的に防腐処理が施され、乾燥して長く保存された遺体のことを意味しています。
その語源について、『広辞苑』と『百科事典マイペディア』を見てみると、エジプトでミイラを作る際に使用された「没薬」のポルトガル語「mirra」が訛って「ミイラ」となったとされています。そして、ミイラの当て字は漢字で「木乃伊」と表記し、現在、中国語の中でもミイラのこと「木乃伊」(ムナィイ,munaiyi)と呼ばれています。
中国語の「木乃伊」も翻訳語ですが、「ムナィイ」の発音は「ミイラ」と全然似ていませんでした。『大辞林』によると、「木乃伊」とはオランダ語「mummie」の漢訳語と書いていました。一方で、台湾の医者・樊聖は「木乃伊」のことをアラビア語の「防腐処理用の樹脂」を意味する言葉「mumiya」を由来すると述べています。唐代ではペルシャから伝来した「蜜陀僧」(もしくは「没多僧」)という珍しい漢方薬がありまして、それも恐らくミイラのことを指していると考えられます。唐代の医書『新修本草』では、「蜜陀僧」の味を「しょっぱい」と評価し、下痢、痔には効き、顔でも傷薬として使えられそうです。
即身仏もミイラの一種に数えられますが、遺体の保存、死者のための儀礼を目的として「作る」ミイラと異なり、即身仏は自発的な意思によって、自ら「なる」ことが特徴的です。即身仏となった僧侶は人々の信仰対象であり、日本で最古の即身仏は1363年、即身仏になった新潟県西生寺の弘智法印です。ところが、即身仏といえば、やはり山形県を連想する方が多いでしょう。特に出羽三山の「湯殿山」の信仰と関連し、山形では6体(名?)の即身仏が存在しています。
湯殿山系統の即身仏は江戸時代に集中して、当時繰り返して発生する飢饉にも関係しています。即身仏になろうとする修行者は生前から木食行(米、麦、粟、黍、豆などの穀物を断ち、木の実のみ食べています)や水行などの荒行を行い、遺体を保存して人々を救済する願いをかける。
即身仏のことを更に知りたい方は是非↓
台湾の「肉身菩薩」
その湯殿山系即身仏の由来は空海の入定伝説に遡ることができまして、そして更に遡るとその源流は中国にありました。隋・唐時代以降、中国で遺体を防腐処理を加え、金泥などを塗って、仏像のように加工するミイラがありました。それらの仏像は「肉身仏」と呼ばれています。台湾でも中国の流れに引き続き、遺体を保存して、世の中の人々を救済しようとする僧侶を「肉身菩薩」と呼びます。江戸時代に集中する日本の湯殿山系即身仏と異なり、台湾の「肉身菩薩」は、2000年代にも新たに現れているのです。台湾大百科によると、台湾では戦後、6人の仏教僧侶が「肉身菩薩」となり、祀られている時間の順で、以下のように記しています。
- 1957年、慈航法師
- 1976年、清厳法師
- 1983年、瀛妙法師
- 1982年、普照法師
- 1979年、甘珠活仏
- 2004年、釈開豊
「肉身菩薩」になろうとする僧侶は、死後、火葬をせず、「坐缸」の形をして遺体を処理します。中国語の「缸」(gang)とは「大きなカメ」を指しています。そして、「坐缸」とは文字通り、遺体を坐ったまま、上下を二つの大きなカメに閉じ入れることを指しています。カメの中には木炭、石灰などを入れまして、一定な時間を経った後、カメを開いて中の様子をみてみます。もし腐ったら素早く火葬や土葬をし、もし概ね完全でしたら、肉体はそのまま「全身舎利」となります。ミイラの外見を保つ日本の即身仏と異なり、台湾の「肉身菩薩」は中国系統で、専門家が防腐の処理を施した後、なるべく生前のような輪郭を復元し、最後外側に金箔を貼り、金ピカの感じで人々に祀られていることが多いです。
六体(名?)の肉身菩薩を全部紹介することが出来ませんが、この前、私は、台北市北投区の安国寺に訪れ、③番目の瀛妙法師を参拝しましたので、③番目の瀛妙法師の方について紹介していきたいと思います。
(余談ですが、⑥番目の釈開豊は、この前の記事で紹介したことのある、精神病患者収容施設「龍発堂」の創始者であり、現在も龍発堂内に祀られています。それに関しては「龍発堂」の記事を参考してください!)
瀛妙法師の「肉身菩薩」をお参りに!
瀛妙法師の「肉身菩薩」が安置されている安国寺(2017/10/9 撮影)
安国寺は、元々「慈善堂」と呼ばれ、最初は瀛妙法師によって建立された寺院ですが、現在は台湾の大きな仏教団体、仏光山の末寺に入り、寺院の建築なども色々立て直ししていました。安国寺の本堂では釈迦如来、観音菩薩、地蔵菩薩が祀られ、瀛妙法師は別室の二階に祀られる。毎月の例祭では、当寺の僧侶と信者を中心に二階で金剛経を唱えるという。安国寺の肉身菩薩は普段は予約しないと拝観できませんでした。私は最初知らなくて、予約なしに行き、一回断られましたが、運がよく、丁度担当の尼さんと出会いましたので、特別にお参りさせて頂きました。(中は撮影禁止でした!)
別室の二階に祀られる瀛妙法師の像は博物館に展示されたような大きなガラスの中にあり、金ピカの姿で赤と黄色の袈裟を履いています。周りには生前に使っている木魚、数珠などの仏具、修行の際に用いていた金剛経の経本などが展示されています。お寺よりも、むしろ人物記念館の雰囲気でした。
尼さんの話によると、開棺する際に、瀛妙法師のご遺体の舌が長く垂らしまして、仏教の言葉では「広長舌相」を呈し、非常によいとされています。(但し、現在では舌が見えず、口が閉じているままで、趺坐をしている様子です。)
出典写真リンク:●
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趺坐のままで亡くなった瀛妙法師は、生前自分の遺体処理について述べなかったのですが、後に後継者であり娘でもある明定法師の夢枕に立ち、特別な「轎棺」(轎は「駕篭」のことを意味します)という棺で趺坐のままで埋葬して欲しいと云い出したといいます。すると明定法師はあちらこちらで業者を探し、ある棺を作る店の中年女性が設計図を安国寺に持ってきてきました。それは、まさに明定法師の夢の中にみた「轎棺」のようでした。その女性は、金色の光に包まれたお坊さんが変な駕篭に乗せている姿をみて、そのモチーフでこの設計図を描いたといいます。そして、瀛妙法師の遺体を「轎棺」に乗せて境内で土葬をしました。亡くなった十年目、骨を拾い改葬しようとする時(※台湾では、昔土葬が多く、6年目から12年目の間に骨を拾い、改めて骨壷の中に入れて埋葬する風習があります)、棺を開けた途端から白檀の香りが漂っていて、棺の中には琥珀の色を呈した瀛妙法師の遺体があります。この瑞相をみて、現場にいた人は瀛妙法師の夢の中の要求、即ち「轎棺で埋葬して欲しい」こと、を思い出し、それを法師は肉身で成道しようとすることに間違いないと推測しました。後に防腐の処理や外見の復元などを施し、寺内で「肉身菩薩」として祀られるようにしています。
まだまだいる「肉身菩薩」
また、台湾大百科には書かれていないですが、上記した6名の僧侶以外、他にも「肉身菩薩」になった僧侶が存在します。例えば、3年の坐缸を経て2000年の際に安座した女性の肉身菩薩、「貢噶法師」はその一人です。彼女はチベット仏教の僧侶で、95歳で亡くなり、現在は台北の「貢噶精舎」に安置しています。
さらに、「肉身菩薩」になることは仏教と限らず、道教や台湾の民間信仰関わる人もミイラになる事例があります。その中に最も有名なのは「柯象」です。
「柯象」は一体どんな人、いつ、どのようにミイラになったのか、はっきり分かりませんでした。地方の言い伝えによると、1871年の雲林(台湾中南部)柯象という人が台南からある仏像を持ってきまして、その仏像は非常に霊験で、地元の人々に信仰されていました。そして、1879年亡くなる直前柯象信者に、自身の遺体を小部屋に閉じ込み、そして柴で百日を燻製することを要求し、そうすると、仏になれるという。また、もう一つの説において、柯象は奇病で亡くなり、その弟は彼の祀られたい遺言に応じて自家の庭で土の窯を堀り、遺体を安置し、百日を経ったら神になったといわれました。
その後「柯象」が徐々に北極星の神、「玄天上帝」と見なされました。如何なる経緯でこうなったのかは不明ですが、現地で日本の植民地支配を反抗する「土庫事件」と関連することによって、「柯象」が有名になります。
明治11年の際に、「柯象」を祀っている寺廟の関係者が、玄天上帝(柯象)からのメッセージを受けました。その内容は、関係者の一人である黄朝は、日本を倒して台湾の国王になるべきだという。従って、寺廟関係者と信者を中心に一揆を起こそうとしたが、情報のリークで最終的に失敗になりました。その後、関連する「犯人達」が捕まえまして、「柯象」のミイラも「犯罪証拠」として、警察に没収されました。その後、「柯象」のミイラは寺廟から離れまして、警察学校で人体模型と共に「教材」になったり、博物館の所蔵品になったりとして、長い間地元から離されていました。
2009年、師範大学台湾史研究所の院生が「柯象」を主題に研究を展開している際に、「柯象」が曾て祀られた雲林の北極宮に聞き取り調査をしました。それを機に、地元の信者さんが長い間行方不明の神様の所在(国立台湾博物館)を知ることになり、大変感激したそうです。2011年9月20日、国立台湾博物館と北極宮の協力によって、「柯象」の「帰省」が始まり、所有権は博物館で有りながら、北極宮に9ヶ月間の展示を貸出ました。(2012年ー2013年の間、博物館が特別展示会を開催しました)
ただし、その後、「柯象」をめぐって「その所有権を地元に帰すか、帰さないか」と問題で両方がややギクシャクし、「柯象」も博物館と北極宮との間を行き来しています。地元の人々は議員さんに頼んで、政治的な力を介して人々の注意を喚起しようとし、地元に返すべきだとのべました。他方、博物館側にとって「柯象」は台湾人にとって、重要な歴史材料として保存しては行けないの立場です。
即身仏・肉身菩薩のミイラは、大事しなければいけない所蔵品(モノ)として存在すべきか、それとも地元での信仰対象(カミ)として存在すべきか
色々考えるべきとこえろがあるでしょう。
参考文献
- 堀一郎、1965、「湯殿山系即身仏(ミイラ)とその背景」、『堀一郎著作集 第二巻』
- 内藤正敏、2010、「出羽のミイラ信仰--飢餓の宗教 即身仏」、『歴史読本』
- 江燦騰、台灣大百科:戰後台灣的肉身菩薩崇拜 (http://nrch.culture.tw/twpedia.aspx?id=26284)
- 簡克勤、「國立台灣博物館收藏文物「柯象」與土庫事件研究」、國立台灣師範大學台灣史研究所碩士論文
- 李金賢、2013、「進出博物館之間: 文物歸還與木乃伊柯象」、『國立臺灣博物館學刊』