「世界一のクリスマスツリーPROJECT」というものが、ネットを中心に批判を集めているようです。
私は今回話題になるまで、このプロジェクトについては全く知りませんでした。
もうすぐ本番を迎えるようですね。
あらかじめ私の立場を明らかにしておくと、私は批判ツイートが流れてきたことでこのプロジェクトについて知ったので、決して良い印象を持ってはいません。タイトルにある通り「残念」だと思っていますし、考えれば考えるほど「あぁぁ〜残念だぁぁ〜」という気持ちが深まるばかりです。
ただ、もうものごとは動き出しているのだし、それなら予定通りに、あわよくば多少の軌道修正を加えて、地元・神戸のためにもそれなりの成果が出てほしい。中止してほしいとか、失敗すればいいとか、関係者が不幸のどん底に落ちればいいとか、そんなことは決して思っていません。
さて、本題に入ります。
「世界一のクリスマスツリーPROJECT」とは
要するに、
震災の鎮魂の想いと復興のシンボルとして、
生木としては世界一の高さとなるクリスマスツリーにして、
ギネスにチャレンジしよう、というイベントです。
(公式サイトはこちら)
「そら植物園」代表、プラントハンター・西畠清順さんという方が旗振り役。
富山県氷見市の山に生えていた樹齢150年のあすなろの木を、山火事なども免れた縁起のいい木だとして運んできて
神戸の震災復興の象徴的なイベントであるルミナリエと同時期にクリスマスツリーとして飾り、
これを見た人々に何かしら感じてほしい…ということのようです。
あすなろの木は高さ31メートル。ニューヨークのロックフェラーセンター前の「世界最大級」のクリスマスツリーを超える高さで、
ここに飾り付けとして、電飾ではなくメッセージを書き込んだ反射板を吊るして「世界一多くのメッセージを吊るされたクリスマスツリー」としてギネス記録にも挑戦するそうです。
イベント終了後は、この木はバンドル(腕輪みたいなの)に加工されて記念品として販売されるとか。
Twitter上では批判だらけ…
Twitterで「#世界一のクリスマスツリー」で検索すると、ざっと反対派が9割5分という感じ。
私自身も、冒頭のとおりこのプロジェクトとの出会いが批判ツイートだったので、決してポジティブな印象は持っていません。もっと明るい話題として知れば、感じ方も変わっていたのでしょうか。
イベント自体はそう悪いものではないように思います…というか、このイベントだけが数あるクリスマスイベントの中でとりわけ有害なものだというわけではないはずです。クリスマスシーズンには数々の木々が伐採され、電力が消費され、低賃金のバイトが寒々しいサンタコスで長時間 屋外に立ちっぱなしにさせられているのですから。
なのになぜこのイベントだけがこうも叩かれるのか。
日々伐採される木々の中で、樹齢150年のあすなろの木にだけなぜこうも同情が集まるのか。
それは結局は、木がどうとか氷見市がどうとかよりも「震災」という、神戸市民にとっての聖域に軽々と踏み込んでしまったことに尽きるのではないかと思います、
なぜこのタイミングで、阪神大震災に見舞われた神戸市をリマインドするイベントが開かれるのか。なぜいま、東北ではなく神戸なのか。
そして神戸の鎮魂・復興と、氷見市の樹齢150年のあすなろの木をクリスマスツリーとして飾ることとが、どう関係があるのか。
私はたいした被害は受けませんでしたが、それでも阪神淡路大震災を経験した者として、「震災」という言葉には特別な重みがあります。その二文字を見ただけで、多くの人の…それもすぐ隣にいる、手の届く距離にいる人たちの、痛み、悲しみ、願いがモヤのように文字の周りに漂っているような、そんな感覚になるのです。
その言葉を口にするときには、それらの多くの魂に対する敬意を持って口にしなければならない、いわば言霊のようなもの。
震災に限らず、たとえば戦争を体験した人にとっての「戦争」は若い世代とは違うかもしれません。宗教の世界にもそういう言葉はあるかもしれない。知らない人、体験していない人なら一般名詞として軽く使える言葉が、体験者にとっては軽く扱えない、扱われたくない、そいういう言霊は他にもあると思う。
そういう言霊が、このプロジェクトから語られる「震災」の二文字にはこめられていない気がしてしまう。それが神戸市民には鳥肌が立つ。
神戸市民にとっての「震災」の意味を知らない人たちに倒された木は、こちら側から見れば「無意味に」倒されたに近い。
それは、加工製品となるために伐採された木、間伐のために切られた木とは、全く必然性が異なるのです。
オトナの事情は、こういうことでは?
私が一連の批判を読み、公式発表や植樹イベントのSNS中継などを読んで思ったことは、このプロジェクトの精神性(本当にしたいこと、曲げられないこと)と、現実性(実現する上でやむを得ずそうなったこと、成り行きでたまたまそうなったこと)をごちゃまぜにしすぎではないか、ということです。
ここからは、個人的に見つけた情報をつなげてみた想像ですが、ことの成り行きはこういうことじゃないかと思います。あくまで想像なので、鵜呑みにしないでください。
1. 西畠さんと、あすなろの木との出会い
プラントハンター・西畠清順さんは「植物を人に届ける」ことを生業としている。
プラントハンターは古来は、たとえば辺境の地に冒険していってたまたま美味しくて繁殖力のある植物を発見し、それを自国に持ち帰って栽培する…みたいな社会に大きく役立った職業。ただしモノが充足した現代はそんな仕事はもう必要ない。
西畠さんのメッセージを読むに、この方はプラントハンターという職業に「植物を人に届けることで(たとえば花束を人に送るときのように)人にメッセージを届けたり、気づきを与える仕事」という21世紀的な解釈を加えています。(鍵括弧内は引用ではなく、サイトなどを読んだ上での私の解釈です。)このマインド自体はなるほど、と思うものです。
そんな西畠さんが、あるとき氷見市で樹齢150年のあすなろの木に出会います。そのことをご本人のインタビュー記事で語られています。
クリスマスツリーにする巨木がほしいという依頼もあって、九州や長野・北海道など日本全国ありとあらゆる所を探していたのですが、見つからずに困っていた、そんな時に、奇跡的に一本、このあすなろの木が氷見の山中で見つかりました。他の木と違って、前に立つとドキッとしました。今まで見た木に比べると、とんでもなく大きくて。ドキドキしながら、素のぼりでてっぺんまで登り気持ちが高ぶったのを覚えています。その企業との話は進まなかったので、自分でクリスマスツリーをみんなのために立てようと決めました。
素晴らしいものに出会って「ドキッ」とすること、その感覚を他の人にも届けたいと思うこと。その精神性は、共感する・しないはそれぞれですが、何ら社会的に批判されるべきものではありません。
今回のクリスマスツリーが、モミの木ではなくあすなろの木であるということには必然性はありません。
たまたま、世界一になりうる高さがあり、クリスマスツリーとして見栄えのするような末広がりに左右バランス良く枝葉が揃っている木(天然の木は日当たりや風の影響で、左右対称に枝葉が伸びるとは限りません)が、あすなろだった、というだけのこと。
が、上記サイトで
日本在来の常緑針葉樹で、木材としてよく使用されるヒノキなどに比べ、格下の木として、ヒノキになりたくてもなれない「明日」は「なろう」の木といわれ、いわば、落ちこぼれの木とされています。人知れず氷見の山奥にひっそりと自生していた落ちこぼれの木が、この瞬間に世界一輝く、夢と希望に満ちあふれた象徴の木となるのです。
とあるように、西畠さんの中ではあすなろの木のサクセスストーリーが思い浮かんだ。この、あすなろの木を「落ちこぼれ」と表現したことにも批判があります。ご本人は愛情を込めて仰ったんでしょうけど。
2. 「渡りに船」の、神戸港
いつかこの木を運びたい、人に届けたい、という想いを持ち続けた西畠さんにとって、ちょうどその想いを叶えるパートナーが見つかる…それが、開港150周年事業でなにかと派手なチャレンジがしたい神戸市です。
ちなみにその前哨戦である「レッドブル Flugtag(フルーグタグ)」が2015年にあり、レッドブル主催イベントの評判もよく聞くので見に行ったのですが、総合的には楽しい1日でしたが初開催ということもあって作り込みという点ではユルい感じでした。
キンコン・西野のプペル展の告知が散々だった…というのも見たことがあるので、まぁ行政だから仕方がないというか、詰めが甘いところはあるのかもしれませんね(笑)。
キングコング 西野 公式ブログ - 届けるということ - Powered by LINE
…話が逸れました。
樹齢150年の木のクリスマスツリーと、開港150年の神戸。
公式ではあまり強調されませんが、ともに「150年つながり」です。
神戸市としては、記念事業を通して神戸港に人を呼び込みたい。
また、クリスマスシーズンに行われる神戸ルミナリエは毎年のように資金不足が言われ、開催が危ぶまれています。
そこに話題になりそうなクリスマスツリーが来てくれるのは、願ったり叶ったり。
そう、何かとお互いに都合がいい。WIN-WINってやつです。
3. 植樹?伐採?事情によって折衷案?
この「西畠さんの想い」と「神戸市のねらい」は、重なっているようでいて微妙にちぐはぐです。そりゃそうだ、一個人の職業魂と、行政や市長の思惑は一致しなくて当然です。
このちぐはぐさが、プロジェクトの「現実性」を前に複雑に絡み、そしてほころびが出てきます。
そもそもが、31メートルの高さにもなる大きな木です。
運搬するだけでも飛行機や列車の車体を運ぶような手段を使うらしく、また立てるのにもクレーンなどの重機を使うので、どこにでも運べるわけではありません。倒れないように補強もしなければならないし、巨大なツリーを人々に眺めてもらうにはそれなりの広さが必要になる。オシャレなビル街にポンと立てるってわけにはいかないのです。
なので船で運んでその場で立てられ、また対岸から埠頭を眺めるのに適したレジャー施設の多い神戸港はぴったりでした。
しかし港にはデメリットもあります。
山で150年生きてきた木に海風を受ける港の環境がいいはずもなく、また埋立地では植樹しようにもその大きな根を受け入れるだけの土はありません。神戸のどこか別の場所に植樹するにも、これだけのサイズの木の受け入れ先が見つかるか、見つかったとしてもそこまでの運搬経路、植樹方法のメドが立つか…。
ならば「植樹」は諦めるしかない、しかし伐採(木を切ってしまう)ことは憚られるので、イベント中だけは根を残した「生きている木」の状態を保ちたい。ならば根を残した状態で運搬・展示し、終わったら加工するという方法に。
ついでに、イベント終了後も「生かす」ことを考えると、根もかなりの量を残して抜かなければならないでしょう。イベント会場への運搬・設営の効率面でも、切り残す根を最小限に抑えられる今回の方法は何かと「折衷案」としては都合のいいものだった。
この写真を見ても、根は最小限に残されたんだろうなぁと察せられます。
結果として、一見すると人々に「樹齢150年の木を記念に神戸に植樹するんだ、ステキだなぁ」と期待させてしまう複雑なやり方だっただけに、のちに加工利用すると知れて期待を裏切られた感から批判が集まります。
4. ギネス挑戦でPR
さて、やるからには人集め・資金集めのためにも話題性が必要なので「ギネスに挑戦」「世界一」というPRの常套手段を絡めたい。
「生木として世界一高いクリスマスツリー」はわかりやすいキーワードです。それに加えて、一般からの参加性を高め、かつ西畠さんのマインドとも合う「世界一メッセージが多いクリスマスツリー」を目指す。
エコにも考慮して、電飾ではなく反射板に参加者がメッセージを書き込む、という方法をとっています。しかも西畠さんが自ら登って取り付けるのだとか。命がけです。
(しかし意図に反して「世界一高い」の部分だけが一人歩きして、「そんなことのために貴重な木を」と批判の矛先になっています。)
ただ、このメッセージ反射板の意義も明確ではありません。
販売ページの説明を見ると「願いや祈り、未来へ向けた夢と希望のメッセージ」を書き込むためみたいですが、震災に対する思いを綴ってほしいのか? 七夕の短冊として使いたいのか? まぁでもそこは、数を集めるためにもあまり特定しない方がいいということなのかな…。
出典:めざせ!世界一のクリスマスツリーPROJECT オフィシャルメッセージオーナメント|フェリシモ
ついでに、これはちゃんと調べてないのであくまで邪推ですが、ギネスになるためには「生木の」クリスマスツリーである必要があり、ゆえに伐採ではなくちょっと根を残して「植樹か伐採か微妙なやり方」で運搬することになった…という背景もあるのでは?という気がします。
5. 「ほぼ日」のサポートに、高騰する期待値
今回のプロジェクトについて、「ほぼ日」…「ほぼ日刊イトイ新聞」経由で知った方も多いのではないでしょうか。名コピーライター・糸井重里さんが主催するWEBサイトで、多くのコンテンツを配信しています。
細かい経緯はわかりませんが「ほぼ日」がこの企画に賛同し、「植樹式」をWEB上で中継することに。これによって、より多くの人がプロジェクトを知ることになりました。
これ自体は全くおかしなことではないのですが、ただ「ほぼ日(糸井重里さん)が絡んでいる」という事実だけで、パッと見の期待感が上がりすぎたという側面もあるのではないかと思います。
「ほぼ日」はこのプロジェクトを応援してはいても、プロデュースしているのはあくまで西畠さん、そして神戸市。「ほぼ日」並みのコンテンツ作りを期待して覗いてしまうと「あれ?」となるのは当然です。「今まで知らなかった植物屋さんが命がけでやっている企画」「神戸市が周年事業としてがんばっている企画」という目ではなく、「あの『ほぼ日』の企画」というフィルターで見てしまうんですもの。
6. 記念品としてフェリシモで販売
クリスマスツリーとしての利用が終わった木は、当初はそのあとどうするのかを明かされていなかったようですが、バングルに加工されフェリシモで販売されることが決まっています。その名も「継ぐ実」。
これも、植樹先はない、かといって並みの木材としての使い方では格好がつかない、これだけの数の加工品を希望者に届ける手段がない…というところに協力してくれたのがフェリシモだったのでしょう。
あと、フェリシモはメッセージの反射板集めにも力を発揮しています。
ただでさえ西畠さんがかなりの負債を抱えたという今回のプロジェクト。神戸市とて税金を広報にドバドバ当てるわけにはいきません。
そこに、多くの読者を抱えるメディアとしての「ほぼ日」と、多くの参加者の小口協賛を集められるフェリシモの協力によって、多くの人の目に触れ、参加を呼びかけられるシステムが出来上がりました。
7. 批判覚悟、むしろ歓迎?
今回のプロジェクトについて西畠さんは、
「巨大な木を多大な労力をかけて運ぶことで『この木が可哀想』とか『人間のエゴなんじゃ?』とか、そんな意見が自然に出てくると思う。議論になることが僕の願いで、実際人間1人が一生に消費する量は20メートルの木を110本分。木の命をいただいて生きていることも伝えたかった」
出典:巨木を運ぶことは人間のエゴなのか――プラントハンターが「世界一のクリスマスツリー」輸送プロジェクトにかける想い | キャリコネニュース
と仰っています。これがまた、うがった見方をすると予防線を張ったっぽく映っています。
もしかすると、計画過程で内部からも批判があったのかもしれません。
ただ、上記の流れを考えると現状が最良の折衷案であることは曲げられない。ならば「批判覚悟で臨もう」と腹をくくった…ということではないか。
本来であれば、「植物についての議論を巻き起こすこと」と「震災」「開港記念事業」との関連はありません。あくまでエクスキューズとして言ったことが、また批判の矛先を増やす結果になっている。
…以上が、私の想像する、ことの経緯です。あくまで私の想像で、事実に反する部分もあると思いますので鵜呑みにしないでください。
さてこう考えれば、クリスマスツリーで人集めがしたい行政がいて、最上級のツリーを知っている職人がいて、発信力のあるメディアがいて、人集めができる販売業者がいて…とすごい出会いで組みあがっていった奇跡的なプロジェクトように思います。
が、結果としてこのような批判を浴びているわけで、
その理由は冒頭で触れた通り「震災の言霊を語れる人がいなかった」…物語を構築しないままに、震災に触れてしまったことだと思っています。
そもそもなぜ震災に触れた… プロジェクトの「精神」とは
上記の流れを考えると、なにも無理に「震災」に触れることはなかったのです。
神戸市との関係はあくまで「開港150周年」。港のイベントであって、震災とは関係ない。
このプロジェクトが持つ「精神性」は、元をたどれば「プラントハンター・西畠さんの職業精神」です。
「植物を届ける」ことの意義、すごい木を見たときの感動、それを多くの人と共有すること、美しいクリスマスツリーを親しい人と眺める幸せ。
俗っぽくいえば「世界一のクリスマスツリーに、あなたはどんなメッセージを託しますか」的なことでも良かったのです。
なぜそれを神戸で?ということに関しては、
- 開港150周年のクリスマスを迎える神戸に、世界一のツリーを届けます
- 港とは都市と都市、人と人、現在と未来をつなぎ、ものや想いを届けるためのもの。「植物を届ける」仕事に通づるものがある
- この木に、みなさんの未来へのメッセージを託してください
- そのメッセージは、150年間「届ける」ことをしてきた神戸港で、植物を届けてきたプラントハンターが責任を持ってツリーに吊るします
- みなさんのメッセージでツリーは輝き、メッセージを世界一託されたクリスマスツリーとしてギネス認定を狙います
- これを機に、みなさんもこの人間関係が希薄化した現代社会で誰かに「届ける」ことの意義を云々だってクリスマスって大切な人と云々…
みたいなことでも切り抜けられたのでは。
あとの「なぜ氷見市の木なのか」「なぜあすなろの木なのか」「植樹なのか伐採なのか」「以後の用途は」といったことは、クローズアップする必要のないバックストーリーです。縁起がいいとか命がどうとか、一つ一つ拾っていくからプロジェクトの精神性がぼやけていく。
……。
わかります、これで「本当に参加者が集まるのか?」「世界一のオーナメント数を誇れるだけのメッセージが集まるか?」と不安になるのは、わかります…。
「震災」というパブのキラーワード、パンドラの箱を開けたくなるのは、わかります。
ですが、話題性のため、神戸ルミナリエとの相乗効果をはかるために「震災」に絡めたいのであれば、それは「ついで」ではなく「メイン」として丁重に扱うべきでした。
そもそも「震災」を掲げながら、主催側の口から震災に対する思いが語られないのはおかしい。
西畠さんは兵庫県川西市のご出身だそうで、震災と全くの無関係ということでもなさそうです。自分が大きな被害を経験していないので、もっと大変だった方の前では口をつぐんでしまう…というのならわかりますが。(私自身、神戸市にはいましたが被害が大きくなかったので「大変だった」的なことは決して言えません。)
近くで見ていたというだけでも何か語れることはあるはずなのに、自分の経験や思いを語らないということは、言葉にするほど「震災」に対する個人的な想いは特にない、ということなのでしょう。
そこがないままに「木を植えることは伝統的な鎮魂なので」的な一般論を話されても、ていうかそもそも植樹じゃないので、掘り起こされた木を届けられても、「震災」をいいように利用しようとしている…と見られて仕方がない。
いえ、いいんです、必ずしも西畠さんが語れなくても。
西畠さんという一人の人の人生にとって震災が大きな節目である必然性なんてないし、「震災に対する思いがないとはどういうことだ」という批判をする意味はありません。
ただ、もしそうだとしたら、「震災については触れない」か「西畠さんではない誰かを語り部とする」方が良かったはず。
現状は西畠さんがメインの発信者となっていますが、だとしたら震災云々には触れず、神戸市の記念事業でビッグプロジェクトを実行に移したプラントハンターとして語れば良かった。
震災について触れたいのならば、神戸市や当時の体験を語れる当事者が表に出るとか、西畠さんが語って角の立たないストーリーを裏方として構築してあげるべきだった。
「届ける」「運ぶ」ことがこれまでにない規模で実現されるこのプロジェクトにおいて、プロジェクト自体を人々に「どう届けるか」という点だけが抜け落ちていたことが、残念でなりません。
頼みの綱はあったのに…
神戸ルミナリエと同時開催を狙ったのであれば、ルミナリエにがっつりおぶさっても良かったのではないかと思うのです。
神戸ルミナリエも、今年は
本年は神戸開港150年、来年が兵庫県政150周年であることから、今回は特に作品の充実を図り、大きな節目となる年にふさわしい作品を設置します。
と言っているわけで、開港記念事業と神戸ルミナリエが協力関係にある様子。
出典:神戸ルミナリエ
プロジェクト側からも「開港150年のクリスマスは、神戸ルミナリエに加えてもう一つのイベントを用意しました」という体で「未来へと希望を継ぐ、世界一のクリスマスツリー」的なものとすれば、
- なぜ神戸港でやるのか=開港記念事業の一環として、ルミナリエに協力
- なぜクリスマスツリーを展示するのか=ルミナリエがクリスマスシーズンの恒例イベントだから、クリスマスらしいものを
- 震災との関係=神戸ルミナリエの意志を受け継いで、よりイベントとして盛り上げたい
- なぜ反射板メッセージを集めるのか=神戸ルミナリエの電飾には「送り火」の意味がある。こちらも「光」を引き継ぎつつよりエコな反射板にアレンジ、また電飾ではできない未来への希望を託すメッセージを書けるという活用法も
- なぜまたギネスに=神戸港開港150年記念のクライマックスイベントとして、やって終わりじゃなくて記録として刻まれるものを
- 終わったあとはどうするの=「継ぐ木」から作った「継ぐ実」バングルを販売するので、記念品が欲しい方はどうぞ
- ところで西畠清順さんって誰=最上級のクリスマスツリーを持ってきてくれるお方。神戸港が、彼のキャリアの中でも「史上最大の樹木輸送プロジェクト」の拠点になれるならこれ幸い。ぜひこの方の活動にもご注目を
みたいな言い方も、できたのではないかと思うのです…。
「氷見市のあすなろ」については、神戸と同じく港で繁栄した都市に対する深い感謝と敬意を持って接すれば、あとは西畠さん視点のサイドストーリーとして語ればいい。そこでは職業人として嘘をつく必要はないし、美しく飾り立てる必要もない。震災の鎮魂としての植樹云々も、メインストーリーとして「ルミナリエと同じ意味合いですよ」という筋書きがあれば、プラントハンターという視点からの「鎮魂と植物の関係」として「あぁ、木ってそういう意味もあるのか」くらいに受け止められる。
もう元の木阿弥ですし別にこれが素晴らしいでしょってわけではなく、これじゃなくてもなんかせめて今回の批判を免れる何かしらの「物語」を、物語じゃなくても、現状5個ムッとくることがあったとして1つでも2つでもムッとポイントを減らせる気の利いた一言を、誰か語れなかったのか、今からでも語れないのかなぁ…と。
「議論を起こす」ためでも、手段は問われる
上記で触れた通り、西畠さんは「議論が起きることが願いでもある」と仰っています。
確かに「議論」は、人間が発展していく上で不可欠なものです。
今回の件で、私も震災について、神戸開港150周年事業について、神戸ルミナリエについて、また植物と人間の関わり方について意識するきっかけになりました。
しかし今の状況は、西畠さんが「願った議論の様態」ではないはずだと想像します。ネットという匿名の社会で、日々の自分と植物の関わりを省みるでもなく、荒々しく関係者に批判を浴びせているだけ。
本来であれば、自分の生活が植物にどれだけ恩恵を受けているかということや、植物の命を借りてこそ人間ができることなどを少し立ち止まって考えてほしい、そいういうことだったのではないでしょうか。その中でたとえば「私は割り箸ばかり使って植物を無駄にしている、これからは繰り返し使う箸にしよう」「僕もそうしたほうがいいだろうか」「自分にとって大切なものは別にあるから、なんと言われようと割り箸を使う」みたいな、それぞれの体験や生活に落とし込んだ「議論」を呼びたかったのでは。
生産的な議論を生むために投じる石は、見る人にとって「前向きな気持ちにさせるもの」でなければならないと思うのです。
「何かの命を奪う」という光景は、基本的に周囲を前向きな気持ちにさせるものではない。それとは逆の、暗く、沈んだ、やりきれない気持ちにするもので、そのやり切れなさの吐け口を探して人は批判的になります。
たとえば、テロリズムがそうです。これは人々に脅威を与えて、まさに議論を引き起こし、行動や態度を変えさせようというもの。それによって起こった議論がいかに人類の歴史に進化をもたらすとしても、その行為を是とするわけにはいかない。
社会にインパクトを与えたいがための殺人や、所属組織に抗議する目的での自殺、そういう「命の犠牲」を議論の端緒にしようというのは、注目を集める上では効果的ではあるかもしれませんが、その悲しみを「やむをえない手段」として容認するわけにはいかないのです。
「議論を起こしたい」「気づきを与えたい」時に、人が取れる手段は様々です。
有名なところでは、テーマは異なりますが「世界がもし100人の村だったら」という絵本がありました。誰を傷つけるでも、もちろん命を奪うでもなく、その新鮮な切り口は多くの人をハッとさせました。
環境系で言えば、もう10年も前になってしまいますが、「イマジンウォーター」が話題になった際にその企画展が東京で開催されました。体験型の展示でおもしろ楽しく、水について意識するよう働きかけるものでした。
まぁ、西畠さんは何もここまでソーシャルな議論を生みたかったわけではなく、植物を扱う者として人々にもっと知ってほしいことがあってね…ってくらいのことなんでしょうけど、それは「今、ここで」「震災と絡めて」語られる必要はなかったのです。
おそらく「世界一のクリスマスツリーPROJECT」は、いろんな事情によって、誰もが理想形としたものとは異なる形で進んでいっているのでしょう。イベントや事業、ビジネスというものはそういうものです。
しかし一度このあすなろの木に「植樹」という道が絶たれた以上、「植樹」も「土に返す」ことも難しいだろうなという目算があった以上、これは「命を奪う」ことになり、「議論のきっかけ」として要件を満たさないものになっている。
「鎮魂」という言葉に触れるプロジェクトにおいて、奪われた命に対して「弔う」ことには触れず、「議論を起こす」という言葉で語られてしまったことが残念です。
なんか重たい話になってしまいましたが…
とはいえ、ネット上では批判が9割でもリアルの世界では「いいじゃないの」って声の方が多いと相場が決まっています。ネットには、とりわけTwitterには批判的な言葉や冷笑的な見方が集まりやすいので。
実際、人々の思いが綴られた反射板オーナメントで光り輝く巨大なクリスマスツリーは、見た人たちに大きな感動を与えるに違いありません。(反射板でどこまで見る人に光が届くのか心配ではありますが。)
そしてその反射板を自らリスクを冒してまで一つ一つツリーに飾り付けていく西畠さんの姿に勇気づけられる人もたくさんいると思います。事故なく安全に取り付けが完了することを祈ります。
神戸市民にしてみたら、このことに税金が使われてどうやの、市長の構想がどうやのと気になる部分はあるとは思いますが、どうせ同じように時間が過ぎていくならそこをチクチクつつくよりは少しでも神戸が素敵な都市として栄えていくことを望みます。
「世界一のクリスマスツリーPROJECT」。
ツリーはすでに神戸メリケンパークに立っているようです。
ライトアップのイベント期間は2017年12月2日(土) ~ 2017年12月26日(火)です。
最後に…
人が頑張ってやっていることに対してやいのやいの批判するというのは、それをあえて言葉として発信するというのは、あまりやりたくないことです。
一方で、たびたび書いた通り「神戸の震災復興」や「鎮魂」を軽く扱われた気がして、これはいただけないと思ってしまったことも事実。
しかしこのようにブログに書き記す過程で、何があったのか、何が自分の気に障ったのかを冷静に考えられて、突き詰めれば要するに自分は「神戸が好き」ってだけで、西畠さんは別にそこを侵したいわけではないってことは明らかです。
語り方には気をつけてほしいなって点はあるけど、このプロジェクト自体は悪いものではないし、神戸が好きならその神戸市が盛り上げようとしてやっていることも邪魔する必要はない。そう考えて、自分の中のモヤモヤもだいぶ収まりました。
その思考過程をこうして記すことで、このプロジェクトについてモヤモヤしている方にとって何かプラスの作用があれば幸いです。