未来の“ノーベル賞候補”と世界から注目を集める工学研究者、玉城絵美さん(30)。東京大学大学院博士課程に在学中、コンピューターで人の手を自由に動かすことができる装置「ポゼストハンド」を開発し、米誌タイムの「世界の発明50」に選ばれました。その後、ベンチャー企業「H2L」を創業。2013年からは早稲田大学人間科学学術院の助教を務めています。病床で生まれたアイデアからコンピューターに命を吹き込んできた軌跡と、玉城さんが見ている未来の景色を語ってくれました。

日本起業家賞2014のファイナリストにも選ばれた。玉城さんは左から4人目、中央は同賞を主催したキャロライン・ケネディ駐日米大使。

玉城絵美(たまき・えみ) 1984年1月生まれ、北谷町出身。2002年沖縄県立球陽高校、06年琉球大学工学部情報工学科卒業。08年筑波大学大学院システム情報工学研究科修士課程修了。10年に米国ピッツバーグのディズニー研究所でインターン。11年東京大学大学院学際情報学府博士課程修了、同年東京大学総長賞を受賞し、東大大学院総合文化研究科特任研究員。12年、東大の研究室の後輩だった岩崎健一郎氏、世界初の携帯電話向けブラウザの開発を牽引した元アクセスの鎌田富久氏と、ベンチャー企業「H2L」を設立。13年から早稲田大学人間科学学術院助教。趣味は文鳥を飼うこと。人生での挫折は、飼っていた文鳥がいなくなったとき、立ち直るのに半年くらいかかったこと。

日本起業家賞2014のファイナリストにも選ばれた。玉城さんは左から4人目、中央は同賞を主催したキャロライン・ケネディ駐日米大使。

玉城絵美(たまき・えみ) 1984年1月生まれ、北谷町出身。2002年沖縄県立球陽高校、06年琉球大学工学部情報工学科卒業。08年筑波大学大学院システム情報工学研究科修士課程修了。10年に米国ピッツバーグのディズニー研究所でインターン。11年東京大学大学院学際情報学府博士課程修了、同年東京大学総長賞を受賞し、東大大学院総合文化研究科特任研究員。12年、東大の研究室の後輩だった岩崎健一郎氏、世界初の携帯電話向けブラウザの開発を牽引した元アクセスの鎌田富久氏と、ベンチャー企業「H2L」を設立。13年から早稲田大学人間科学学術院助教。趣味は文鳥を飼うこと。人生での挫折は、飼っていた文鳥がいなくなったとき、立ち直るのに半年くらいかかったこと。

玉城絵美(たまき・えみ) 1984年1月生まれ、北谷町出身。2002年沖縄県立球陽高校、06年琉球大学工学部情報工学科卒業。08年筑波大学大学院システム情報工学研究科修士課程修了。10年に米国ピッツバーグのディズニー研究所でインターン。11年東京大学大学院学際情報学府博士課程修了、同年東京大学総長賞を受賞し、東大大学院総合文化研究科特任研究員。12年、東大の研究室の後輩だった岩崎健一郎氏、世界初の携帯電話向けブラウザの開発を牽引した元アクセスの鎌田富久氏と、ベンチャー企業「H2L」を設立。13年から早稲田大学人間科学学術院助教。趣味は文鳥を飼うこと。人生での挫折は、飼っていた文鳥がいなくなったとき、立ち直るのに半年くらいかかったこと。 日本起業家賞2014のファイナリストにも選ばれた。玉城さんは左から4人目、中央は同賞を主催したキャロライン・ケネディ駐日米大使。

■入院を機に研究者の道へ

 高校生になってから、先天性の心臓病が悪化して、体調を崩しました。将来も入退院を繰り返す生活なんだろうなと想像していました。

 入院は大変な時もありますけど、大変じゃない時期もあるんです。それは、安静に過ごす必要がある時期です。ぼーっとしたり、本読んだりして、ただただ安静にしている。当時、こんなに楽な生活はないと思っていましたが、部屋の外に出られないことが苦痛でした。

 それなら、部屋にいながら、外の世界に触れられる機械はないかなと思って探してみたのですが、売っていませんでした。じゃあ、私が作ろうと思ったことが工学系の研究者を目指したきっかけです。

 そのために、沖縄県外の大学に進学しようと思っていました。でも、容体が安定してから手術をすることになっていたので、高校卒業後も琉球大学付属病院に入院することが決まっていました。手術が終わらないと県外の大学には通えないので、まずは、と思って、県内の琉球大学を受けたところ、合格することができました。親せきからもお祝いをしてもらい、これは行かないといけないなと思って、県外大学ではなく、琉大に進学することにしました。

 今振り返ると、この選択は正解でした。入院しながら勉強ができる環境があったこと、先生方が厚いサポートをしてくれたことが非常に良かったのです。私が進学した情報系の学部は、入学してからすぐにパソコンのセットアップをしないといけないのですが、私は入院しているのでできませんでした。すごく時間かかる作業なのに、先生方がサポートしてくださって、私の状況を考慮してくれました。体調が悪いときも気を遣ってもらいました。

■どこでもドアが欲しかった

 大学3年の時、人間とコンピューターの関係などについて研究する「HCI」(human computer interaction)という分野があることを知りましたが、沖縄には情報がほとんどありませんでした。専門家に直接聞きに行ったり、研究機関に直接見に行ったりしないと情報がない状態です。

 そこで、3カ月に1回、国内の学会に参加したり、オープンスクールやオープンラボ、国内のいろんな大学、研究所に足を運んだりして、情報を集めていきました。特に東京と大阪、そして研究所が集中している場所にはよく行きました。

 県外まで研究を見に行く人は、私の回りにほとんどいませんでしたが、私はどうしても作りたかったのです。入院中に「外に出たい」と思った気持ちに加えて、実は、私自身があまり外に出たくないし、家に引きこもりたい気持ちが強いんです。これまで、取材に来てくれた記者のみなさんが、かっこよく記事を書いてくださっているんですが、すごく面倒くさがりです。

 当時からあまり外に出たくないなと思っている気持ちが、研究に向かわせました。引きこもっていても、人の肌に触れたいし、浜辺にだって行きたいし、どこでもドアのようなものがほしいのです。

 そこで、大学院では、ロボットハンドの遠隔操作について研究ができる筑波大学に進学しました。

■ロボット研究は私以外でもできる

 大学院では、プログラミングを朝から晩までする日もあれば、ずっと論文を読んでいる日もありました。実験、プログラミング、論文を読む、の繰り返しの毎日です。3カ月に1回は海外の学会で発表する必要があったので、論文も書いて、朝から晩まで発表の練習をしていました。

 ただ、修士2年の時、あることに気付きました。それは、ロボットの研究は、私以外の人もやっているということです。ロボットハンドを動かす研究は、日本、スイス、フィンランドやアメリカの研究者たちがいっぱいやっていました。それなら、私が研究しなくても、いずれ製品化されるし、私がこの研究をやらなくてもいつか製品が手に入ると思いました。

 当時、私はロボットが人のまねをするという研究をやっていて、成果も出ていました。国際学会で賞も頂いていたので、漠然と、これからもロボットハンドの研究をしていくのかなと思っていたのですが、もうやる必要がありませんでした。

でも、ロボットが感じたことを自分が感じるとか、人と人が感覚を共有するという研究はやられていないということにも気がつきました。

 入院している人が「ビーチに行きたい」と友人に話して、「代わりに海に行ってあげるよ」と友人と海の写真を見せられても、嫉妬するだけです。入院している本人だって、水を触ったり、砂の城を作りたいじゃない。言葉や目の情報や聴覚ではなく、感触を直接伝えたいのに、伝えられていないのです。はじめは単純思考で、ロボットを遠隔地に置いて操作すればいいと思っていたんですけど、そんな単純なものじゃなかったというのを修士の2年間で気付きました。

 そこで、やはり前述の「HCI」という研究分野に進む必要があると思いました。でも、日本の企業にHCIの研究者はいても、大学などの教育機関に研究者はほとんどいませんでした。困ったなーと思ったところ、母校の琉大の先生に相談しました。誰かいませんかって。

 すると、琉大の先生がソニーの研究者を教えてくれた上、その研究者が翌年度から東京大学で新しく研究室を開くということが分かりました。修士が終わって、博士課程への進学で初めて都内に出ることになりました。人とのつながりが、やりたい研究にもつながっていきました。

■研究は毎日13時間、ポゼストハンド開発へ

 東大の博士課程は、部屋にずっといるタイプの指導教官と学生、7人ほどの小さな研究室でした。午前11時から作業を始めて夜の12時までの13時間は毎日、研究。論文の締め切りが大体、3カ月に1回あるので、成果が出るように計画を立てているにも関わらず、進捗が追いついていないわけです。そんな来る日も来る日も研究に没頭している中で、開発に至ったのが「ポゼストハンド」でした。

[ポゼストハンドの動画]

PossessedHand: Techniques for controlling human hands using electrical muscles stimuli from rkmtlab on Vimeo.

 まず、専用のアプリが入っているパソコンと基盤をUSBでつなぎ、14個の電極パッドが入ったベルトを腕に巻きます。そして、ベルトから全ての電極にさまざまな電気刺激を与えていきます。すると、手が動くので、きっとこの皮膚の下には手を動かす筋肉があるんだな、というのをコンピューターが学習します。ここまでが初期設定で、かかる時間はわずか5分ほど。個人差もほとんどありません。あとは、パソコンの画面から動かしたい指や動きを指示すると、人の手を自由に動かすことができるようになっています。

 筋肉は、脳からの電気刺激によって動きます。この原理を利用して、脳が発生させる電気刺激に似た電気刺激を腕に巻き付けた電極から与えています。筋肉が、脳から電気刺激がきていると勘違いすることで、指が動く仕組みになっているのです。

 ポゼストハンドに似た装置として、皮膚に針を刺すタイプの「侵襲性電極」というものがあります。しかし、これは医師が指や手のひらを動かす筋肉を針を刺しながら探していました。多分、この辺り、この位置に筋肉があるんじゃないかと予想して刺すわけです。もちろん、皮膚を切って筋肉を確認するわけにはいかないので、針で腕の筋肉を刺して、リハビリに使っていました。刺した場所を間違えて痛覚に当たってしまうと、腕を切断したような痛みにもなります。

 部屋にいながら、遠隔のものを感じるためにわざわざ針を刺すなんて考えられないことですし、そんなこと、わざわざやらないですよね。現実的ではないし、感染症になる可能性もあるので、こんな研究をする人はいませんでした。

 ポゼストハンドの良さは、筋肉に針を刺さなくていい点と、専門的な知識がない人でも使うことができる点です。医学的に、体内の筋肉をどうにか見られるような方法を一生懸命探したり、レントゲンから筋肉の位置を探るという方法もあったんですが、私は工学的な方法で解決をしました。数学の難解な問題を物理で証明するように,医学的に難しいことを工学で解決する形を取ったのです。

 ポゼストハンドを作るためには、コンピューターや生理学といった幅広い分野の知識が必要でした。工学以外の分野は、自分で勉強しないといけないので、論文や専門書を読むことから始めて、専門家に聞きにいったり、学会に行って勉強したり、また論文を読んだりしました。勉強しながら装置を作って、回路の設計をしました。ソフトウエアも自分で作る必要がありましたが、琉大の学部生のころに教えてもらっていたので、すんなりと取り組むことができました。

 いずれは、部屋にいながら、ポゼストハンドで仮想的に外に出て様々なものを触ったりすることが出来ると思います。そして、入院中の人や引きこもりたい人が部屋にいながら色々な経験をするようになるのです。

 その他にも、生きている時に人の感触をデータで取っていれば、亡くなった後でも人の感触を再現することが可能になると思います。今、ポゼストハンドでは、箏の演奏をするときに、どの指をどのタイミングで使うのか、教えてくれるようになっていますし、伝統舞踊の動きのデータを残しておいて、後ほど、コンピューターで人間の手に箏や舞踊の動きを伝えることができるようになると思います。

■積極性が世界への鍵

 繰り返しになりますが、沖縄で学ぶ良いところは、自分のペースで学べるところです。全体的に、大学の教員の方がきちんと答えてくれます。最新の情報は少なかったのですが、求めれば与えられました。学べる自由度は高かったです。

 沖縄では出会える人の数が少ないですし、首都圏にいると確かに会える人は多くはなります。でも、もっと言ったら、ニューヨークの方が会える人の数は多いわけです。沖縄だから会える人が少ないというより、大事なのは、海外であっても、会いたい人に自分で会いに行く積極さが必要だと思います。そして、知りたい情報も積極的に自分で取りにいくことが大事になります。

 それから、工学の研究者は今、女性がほとんどいません。工学の分野の製品や研究は、男性目線で生み出されてきました。ゲームだって男性が遊ぶ内容が中心です。でも、女性じゃないと開発できない領域もあると思います。例えば、陣痛の痛みが分かったり、出産を体感できたりするアプリの開発もできるかもしれません。生活とコンピューターをつなげる新しい可能性を秘めた研究に、たくさんの女性の研究者が増えることを期待しています。