音楽界が「戦前化」するまで
大正モダン・昭和モダンの時代、日本の音楽界をにぎわせていたのは洋楽やそのカバー曲だった。日本コロムビア・日本ポリドール・日本ビクターなど外資系のレーベルも多かった。そもそもレコードやラジオなどのメディア自体が欧米由来で、日本は西洋を真似ることで音楽界を豊かにしていた
大衆音楽界の主流は「流行歌」だった。ジャズなどの洋楽が日本に流入し、そのカバー曲や、洋楽的な音楽手法に則った歌手が大衆を魅了するヒットソングとなった
原曲は「Sing me a Song of Araby」。MGM映画「受難者」のテーマ曲だが、映画は本国ではヒットせず日本のみで流行した
欧米風の名前を名乗り、洋楽のカバー曲や影響を受けた楽曲を歌い続けた歌手たちだが、「時代の空気」が活動を委縮させるようになる。ディック・ミネは時流への配慮から「三根耕一」へ改名した。1940年には内務省がカタカナ芸名を禁じる命令を行い、覆面歌手として話題を呼んだミス・コロムビア(画像)は「松原操」名義になった。この1940年のヒット曲は以下のように「戦時歌謡」ばかりだ
1938年(昭和13年)、ミネが中国大陸に演奏旅行中に、古賀政男が「日本の流行歌は日本の名前で歌った方がいいだろう」とミネの了解を得ずに、本名を一文字変えて「三根耕一」名義で『どうせ往くなら』、『旅姿三人男』などを発売
1940年(昭和15年)以降も、「結婚後は人気が落ちる」という通説を覆し、『目ン無い千鳥』『愛馬花嫁』などのヒットを続けるが、内務省からのカタカナ名前の芸名を禁じる指令の対象となり、ミス・コロムビアとしての活動に終止符を打ち、松原操として活躍を続けた
アジアの繁栄をテーマにした楽曲の性質上、外地(植民地)でもヒット。韓国では戦後に開局したラジオ局が「東亜行進曲」「東洋行進曲」と題したパクリソングをジングルに採用している
1942年には外資系レーベルの会社名も変更された。日本コロムビアは「日蓄工業」に、日本ポリドールは「大東亞蓄音器」に。日本ビクターは「日本音響」へ変更された。この年のヒットソングは完全に軍歌だらけ。アメリカのレコード会社であるコロムビアが反米音楽を発表する事態に
1942年(昭和17年) - 商号を日蓄工業株式会社(Nitchiku Kogyo K.K.:通称ニッチク)に変更。これは戦時下での外来語(敵性語)禁止に伴うもので、レーベルもコロムビアからニッチクへと改められた
1942年3月、戦時中の外国語使用禁止の風潮を先取りし、社名を『大東亞蓄音器株式會社』に変更。ブランド名については、邦楽部門を大東亜レコードに変更
戦局が悪化する中で、敵性語排除の動きを受け、社名を日本音響(株)と改称。生産工場も軍の管理となる
2年後に敗戦となる1943年。いよいよ戦況が悪化すると、完全な洋楽演奏の禁止が実施された(洋楽排斥を訴える雑誌)
内務省と内閣情報局は、ジャズなど米英の音楽の演奏を禁止すると通告した。米英の音楽は「軽佻浮薄」で、国民の士気と健全な娯楽の発展を阻害するというのが理由だった。1000曲余りのリストも発表。生演奏はもとより、レコード演奏も禁止された。
ファションが「戦前化」するまで
大正から昭和初期にかけて、都会の若者の間で流行ったのが「モボ・モガ」と呼ばれる欧米の影響を受けたファッションだった。
モボ・モガとはそれぞれ「モダンボーイ」「モダンガール」を略した言葉。
大正~昭和初期に、ファッションや流行など西洋文化の影響を受け現れた若者たちを指す。
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