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変わる女性の性表現~上野千鶴子さん、北原みのりさん対談
テーマ: 文化2015.9.24
朝日新聞デジタル
女性による「性」の表現に、変化が起きている。差別や抑圧の下で生きる「痛み」から、からりと明るい「笑い」へ。フェミニズムの先駆者・上野千鶴子さん(67)と、性や生き方をテーマにしてきた作家の北原みのりさん(44)が、背景を語り合った。
――今年、人型ロボットにセクハラをして遊ぶプログラムが開発されました。中心になったのは女性デザイナー。女性による「性」の表現として印象的な出来事でした。(注1)
北原 私は女性アーティストが性を表現した作品に、痛みや力を感じてきました。でも、ロボットに「痛み」はありません。「この『人』は何をやっても痛まない」と安心して、みんなが笑ってセクハラできる。おもしろいんだからいいじゃんと。「痛みを感じない体」の表現に戸惑いますし、暴力をユーモアとして笑うことに、違和感がある。女性の痛みを訴えるよりも、「笑って乗り越えよう」という風潮になっているのは、なぜなのか考えさせられます。
上野 女の身体を男の消費財にするのは昔からやってきたこと。女が表現される側からする側に変わったというだけのことでしょう。
――ろくでなし子さんの作品も痛々しさとは無縁で、笑いを誘います。(注2)
上野 女性アーティストにとって、女性器の表現は核心的な主題です。たとえば米国のジュディ・シカゴは、神話の女神から同時代の女性まで有名な女性たち39人の女性器のイメージをかたどった陶皿をつくりました。女性の性的自立はフェミニズムの大きな課題で、男が触ったり評価したりするものだった女性の性器や身体、快楽を、女性自身が取り戻して表現できるようにすることを掲げてきました。ろくでなし子さんはフェミニズムアートの系譜に無自覚でしょうが、「自分の性器を取り戻したい」という動機は共感できます。女性器をアートにするという彼女のアイデアはおもしろいですが、それが誰にどんな消費をされるかを考えてほしい。
北原 かわいく飾り付けられた作品を最初に見た時、従来の女性器アートと比べて、あまりに軽くて、新しいと思いました。女性器をゆるキャラにするなど、日本のサブカル的ですよね。ろくでなし子さんは自身の性器を整形したことから女性器アートに目覚めたと言われていますが、自分の女性器を取り戻すのではなく、「他者」のように、取り出して見せる女性器表現だったと、私は実際に作品を見ていて感じます。自分のものでないのなら、痛みもないでしょう。女性器を表現することが、必ずしも従来のフェミニズムで説明可能なものではなくなっています。
上野 セクハラ視線が蔓延(まんえん)する男社会で、ずたぼろに傷つかないように、感受性の閾値(いきち)をうんと上げて生き延びるという生存戦略をとってきた女性もいます。だけど自分を鈍感さでガードすると、使わない感受性がさびるというツケがきます。何が自分にとって不快か快感かわからなくなる。
――ろくでなし子さんは、「女性器はわいせつではない」と主張し、憲法で「表現の自由」が認められているにもかかわらず、わいせつ性を理由に罪に問われたのはおかしいと訴えています。
上野 彼女が「私にとって女性器はわいせつじゃない」というのは当然ですが、法がわいせつか否かを判定するのはいかなる文脈のもとで性器がわいせつになりうるかということですから、「性器はわいせつか?」という一般命題を立てるのは無意味です。たとえば「セックスは労働か」という問いの答えも、文脈によって、労働にもコミュニケーションにも屈辱にも愛の行為にもなります。
北原 女性器の置物が証拠として法廷に提出された時、検察側は傍聴席から見えないように箱に入れていましたが、ろくでなし子さん弁護団は「わいせつではないから隠す必要がない」と主張しました。ただ、今回陳列したことが問題になったのは、彼女の作品だけでなく、ワークショップに参加した女性たちが作った作品です。性に向きあい、優しく語り合うような場で作られた作品が、司法でわいせつかどうか問われること自体が暴力だと感じます。私は彼女たちの作品が公開されなくて、よかったな、と思いました。私にとって重要なのは、女性器がわいせつか否かより、女性器が本当に女性自身のものなのか否かです。
――性の表現は、「表現の自由」との関係でも議論されてきました。性の表現の中には、誰かを傷つける「表現」もあります。
上野 私は表現の自由は抑圧できないと考えています。想像力は取り締まれないからです。どんな邪悪な欲望であっても、表現するなということはできません。ただし公共の場で公開するかどうかは別。また実在の個人が被害を受けることは許されません。
北原 「少女」が強姦(ごうかん)されている様子を娯楽として消費するのを、「被害者がいないから」という理由のみで許容されることには、違和感があります。「実際に痛みは生じていない」「表現の自由だ」の一点ばりで、人権の観点から、差別表現や暴力表現について議論ができない状況がもどかしい。
上野 1970年代以降の性をめぐる「表現の自由」論争では、表現者は男たちでした。男が女の裸をどこまで見せるか、ヒーローみたいにいきがって司法権力と闘っていました。男が女をどこまで消費できるかが、表現の自由でした。
――今回の裁判でも「表現の自由」がテーマです。
上野 ろくでなし子さんの「性器はわいせつでない」という主張が裁判で通ったら、誰が喜ぶのでしょうか。その時に何が効果としてもたらされるかを考えると、誰のための何のための「表現の自由」かを問わない闘い方では困ります。
北原 現在の性表現文化の中では、レイプビデオからモザイクが消えるくらいの成果しか、あげられないかもしれませんね。
上野 間違った問いを立てると、答えが出ません。答えが出ないだけでなく、言葉は流用され、誤用され、濫用(らんよう)される。
たとえば「ヘイトスピーチ」は批判する側が作った言葉ですが、「沖縄で『ヤンキーゴーホーム』というのだってヘイトスピーチだ」という使い方をされています。「母性」という言葉も戦後は平和の象徴として使われますが、「わが子一人がかわいいという利己的な母性を超えて、お国に子どもを差し出すのが大和の母性である」という風に流用されました。「わいせつ」や「表現の自由」という言葉も、文脈によって意味も効果も変わります。
北原 性表現の自由の名のもとに軽視されてきた、表現による差別や暴力に鈍感な、この社会の人権意識の欠如の方が問題です。
――女性による性の表現が、軽く明るくなってきたように見えるのはなぜでしょう。
上野 多くの女性は男目線を内面化しているので、性差別的な表現を、ナイーブに「かわいい」「セクシー」と受け止める。女性の活躍の場が増えたことで、男性の「共犯者」になる女性も増えていくでしょう。
昔は、男社会で生き延びるために「女にこだわる女は嫌い」と女の弱さを否定する女が多かった。今は、女の弱さを逆に武器にするという、したたかな選択があります。たとえばセクハラロボットは、「男が考えれば許されないけれど、女がやれば許される」ということを利用しているのかもしれません。
北原 あえて男よりも過激な表現をすることによって、弱くない自分をアピールしたいと考える女性は、少なくないですね。
ただ、共犯者と言われたら女性も嫌ですよね。「あえて男性を利用している」と反発もあるでしょう。フェミニズムの言葉は時々冷たく響いて、女性たちに届かないように感じます。
上野 安易に敵と味方を分け、相手に白か黒かと二者択一を迫ると、手をつなげたかもしれない女性を追い込んでしまう。全肯定も全否定もせず、複雑なことを複雑なままに語り続けるしかないですね。塀の上を歩くように、一歩一歩バランスをとりながら。
北原 私が取材した「愛国」の活動にはまる女性たちは、フェミニズムが大嫌いでした。弱者の思想、被害妄想の思想だからと。沖縄、障害者、女など、弱者の立場から語られる「正しさ」への嫌悪が広まっているように感じます。とはいえ一方で、政治家がセクハラ発言をすると、ネット上で若い女性たちがとても強く反発する。フェミニズム的な怒りを持つ女性が増えているのも確かだと思います。
上野 弱い人ほど自分の弱さが許せず、自分より弱い人間の弱さに嫌悪感を持つからいじめます。正しさへの嫌悪感を「シニシズム」と言います。正しさで闘った人がとことん敗北したのが70年代。40年経ってようやく、「デモができる社会」になった。シニシズムに代わる世代が現れているのだと思います。
(構成・高重治香)
◇
(注1)今年5月のIT機器のイベントなどに、「セクハラ事案生成ロボ・ペッパイちゃん」が出品された。ヒト型ロボット「ペッパー」の胸のタブレットに女性の胸の絵を表示し、触れるとロボットが反応するもので、デザイナーの女性が発案した。触り続けると怒り、触った人の写真をツイッターに投稿する仕組みも。セクハラ是認との批判も浴びた。
(注2)自分の女性器の型をとって置物などを作っているアーティストのろくでなし子さんは①わいせつ物頒布の罪と②わいせつ物陳列罪で起訴され、公判中だ。①わいせつ物頒布罪は、3Dプリンターで造形する性器型のデータを支援者に送ったことが罪に問われた。②わいせつ物陳列罪は、北原さんが経営していた女性向けアダルトグッズ店で、ろくでなし子さんを講師に女性たちが性器型の置物を作るイベントが開かれた際の作品が、店に飾られていたことが罪に問われた。②に関わったとされた北原さんは積極的に争わず略式命令を受けた。
(朝日新聞デジタル)
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朝日新聞デジタル
女性による「性」の表現に、変化が起きている。差別や抑圧の下で生きる「痛み」から、からりと明るい「笑い」へ。フェミニズムの先駆者・上野千鶴子さん(67)と、性や生き方をテーマにしてきた作家の北原みのりさん(44)が、背景を語り合った。
――今年、人型ロボットにセクハラをして遊ぶプログラムが開発されました。中心になったのは女性デザイナー。女性による「性」の表現として印象的な出来事でした。(注1)
北原 私は女性アーティストが性を表現した作品に、痛みや力を感じてきました。でも、ロボットに「痛み」はありません。「この『人』は何をやっても痛まない」と安心して、みんなが笑ってセクハラできる。おもしろいんだからいいじゃんと。「痛みを感じない体」の表現に戸惑いますし、暴力をユーモアとして笑うことに、違和感がある。女性の痛みを訴えるよりも、「笑って乗り越えよう」という風潮になっているのは、なぜなのか考えさせられます。
上野 女の身体を男の消費財にするのは昔からやってきたこと。女が表現される側からする側に変わったというだけのことでしょう。
――ろくでなし子さんの作品も痛々しさとは無縁で、笑いを誘います。(注2)
上野 女性アーティストにとって、女性器の表現は核心的な主題です。たとえば米国のジュディ・シカゴは、神話の女神から同時代の女性まで有名な女性たち39人の女性器のイメージをかたどった陶皿をつくりました。女性の性的自立はフェミニズムの大きな課題で、男が触ったり評価したりするものだった女性の性器や身体、快楽を、女性自身が取り戻して表現できるようにすることを掲げてきました。ろくでなし子さんはフェミニズムアートの系譜に無自覚でしょうが、「自分の性器を取り戻したい」という動機は共感できます。女性器をアートにするという彼女のアイデアはおもしろいですが、それが誰にどんな消費をされるかを考えてほしい。
北原 かわいく飾り付けられた作品を最初に見た時、従来の女性器アートと比べて、あまりに軽くて、新しいと思いました。女性器をゆるキャラにするなど、日本のサブカル的ですよね。ろくでなし子さんは自身の性器を整形したことから女性器アートに目覚めたと言われていますが、自分の女性器を取り戻すのではなく、「他者」のように、取り出して見せる女性器表現だったと、私は実際に作品を見ていて感じます。自分のものでないのなら、痛みもないでしょう。女性器を表現することが、必ずしも従来のフェミニズムで説明可能なものではなくなっています。
上野 セクハラ視線が蔓延(まんえん)する男社会で、ずたぼろに傷つかないように、感受性の閾値(いきち)をうんと上げて生き延びるという生存戦略をとってきた女性もいます。だけど自分を鈍感さでガードすると、使わない感受性がさびるというツケがきます。何が自分にとって不快か快感かわからなくなる。
――ろくでなし子さんは、「女性器はわいせつではない」と主張し、憲法で「表現の自由」が認められているにもかかわらず、わいせつ性を理由に罪に問われたのはおかしいと訴えています。
上野 彼女が「私にとって女性器はわいせつじゃない」というのは当然ですが、法がわいせつか否かを判定するのはいかなる文脈のもとで性器がわいせつになりうるかということですから、「性器はわいせつか?」という一般命題を立てるのは無意味です。たとえば「セックスは労働か」という問いの答えも、文脈によって、労働にもコミュニケーションにも屈辱にも愛の行為にもなります。
北原 女性器の置物が証拠として法廷に提出された時、検察側は傍聴席から見えないように箱に入れていましたが、ろくでなし子さん弁護団は「わいせつではないから隠す必要がない」と主張しました。ただ、今回陳列したことが問題になったのは、彼女の作品だけでなく、ワークショップに参加した女性たちが作った作品です。性に向きあい、優しく語り合うような場で作られた作品が、司法でわいせつかどうか問われること自体が暴力だと感じます。私は彼女たちの作品が公開されなくて、よかったな、と思いました。私にとって重要なのは、女性器がわいせつか否かより、女性器が本当に女性自身のものなのか否かです。
――性の表現は、「表現の自由」との関係でも議論されてきました。性の表現の中には、誰かを傷つける「表現」もあります。
上野 私は表現の自由は抑圧できないと考えています。想像力は取り締まれないからです。どんな邪悪な欲望であっても、表現するなということはできません。ただし公共の場で公開するかどうかは別。また実在の個人が被害を受けることは許されません。
北原 「少女」が強姦(ごうかん)されている様子を娯楽として消費するのを、「被害者がいないから」という理由のみで許容されることには、違和感があります。「実際に痛みは生じていない」「表現の自由だ」の一点ばりで、人権の観点から、差別表現や暴力表現について議論ができない状況がもどかしい。
上野 1970年代以降の性をめぐる「表現の自由」論争では、表現者は男たちでした。男が女の裸をどこまで見せるか、ヒーローみたいにいきがって司法権力と闘っていました。男が女をどこまで消費できるかが、表現の自由でした。
――今回の裁判でも「表現の自由」がテーマです。
上野 ろくでなし子さんの「性器はわいせつでない」という主張が裁判で通ったら、誰が喜ぶのでしょうか。その時に何が効果としてもたらされるかを考えると、誰のための何のための「表現の自由」かを問わない闘い方では困ります。
北原 現在の性表現文化の中では、レイプビデオからモザイクが消えるくらいの成果しか、あげられないかもしれませんね。
上野 間違った問いを立てると、答えが出ません。答えが出ないだけでなく、言葉は流用され、誤用され、濫用(らんよう)される。
たとえば「ヘイトスピーチ」は批判する側が作った言葉ですが、「沖縄で『ヤンキーゴーホーム』というのだってヘイトスピーチだ」という使い方をされています。「母性」という言葉も戦後は平和の象徴として使われますが、「わが子一人がかわいいという利己的な母性を超えて、お国に子どもを差し出すのが大和の母性である」という風に流用されました。「わいせつ」や「表現の自由」という言葉も、文脈によって意味も効果も変わります。
北原 性表現の自由の名のもとに軽視されてきた、表現による差別や暴力に鈍感な、この社会の人権意識の欠如の方が問題です。
――女性による性の表現が、軽く明るくなってきたように見えるのはなぜでしょう。
上野 多くの女性は男目線を内面化しているので、性差別的な表現を、ナイーブに「かわいい」「セクシー」と受け止める。女性の活躍の場が増えたことで、男性の「共犯者」になる女性も増えていくでしょう。
昔は、男社会で生き延びるために「女にこだわる女は嫌い」と女の弱さを否定する女が多かった。今は、女の弱さを逆に武器にするという、したたかな選択があります。たとえばセクハラロボットは、「男が考えれば許されないけれど、女がやれば許される」ということを利用しているのかもしれません。
北原 あえて男よりも過激な表現をすることによって、弱くない自分をアピールしたいと考える女性は、少なくないですね。
ただ、共犯者と言われたら女性も嫌ですよね。「あえて男性を利用している」と反発もあるでしょう。フェミニズムの言葉は時々冷たく響いて、女性たちに届かないように感じます。
上野 安易に敵と味方を分け、相手に白か黒かと二者択一を迫ると、手をつなげたかもしれない女性を追い込んでしまう。全肯定も全否定もせず、複雑なことを複雑なままに語り続けるしかないですね。塀の上を歩くように、一歩一歩バランスをとりながら。
北原 私が取材した「愛国」の活動にはまる女性たちは、フェミニズムが大嫌いでした。弱者の思想、被害妄想の思想だからと。沖縄、障害者、女など、弱者の立場から語られる「正しさ」への嫌悪が広まっているように感じます。とはいえ一方で、政治家がセクハラ発言をすると、ネット上で若い女性たちがとても強く反発する。フェミニズム的な怒りを持つ女性が増えているのも確かだと思います。
上野 弱い人ほど自分の弱さが許せず、自分より弱い人間の弱さに嫌悪感を持つからいじめます。正しさへの嫌悪感を「シニシズム」と言います。正しさで闘った人がとことん敗北したのが70年代。40年経ってようやく、「デモができる社会」になった。シニシズムに代わる世代が現れているのだと思います。
(構成・高重治香)
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(注1)今年5月のIT機器のイベントなどに、「セクハラ事案生成ロボ・ペッパイちゃん」が出品された。ヒト型ロボット「ペッパー」の胸のタブレットに女性の胸の絵を表示し、触れるとロボットが反応するもので、デザイナーの女性が発案した。触り続けると怒り、触った人の写真をツイッターに投稿する仕組みも。セクハラ是認との批判も浴びた。
(注2)自分の女性器の型をとって置物などを作っているアーティストのろくでなし子さんは①わいせつ物頒布の罪と②わいせつ物陳列罪で起訴され、公判中だ。①わいせつ物頒布罪は、3Dプリンターで造形する性器型のデータを支援者に送ったことが罪に問われた。②わいせつ物陳列罪は、北原さんが経営していた女性向けアダルトグッズ店で、ろくでなし子さんを講師に女性たちが性器型の置物を作るイベントが開かれた際の作品が、店に飾られていたことが罪に問われた。②に関わったとされた北原さんは積極的に争わず略式命令を受けた。
(朝日新聞デジタル)
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