2017-11-21 凍雲篩雪
蓮實重彦と学問
『ユリイカ』の臨時増刊号は蓮實重彦特集だった。最近はサブカルチャー雑誌めいてきた同誌には珍しいことで、昔は『國文學 解釈と教材の研究』あたりが、江藤淳や吉本隆明、柄谷行人や蓮實の特集を組んだものだが、今や文藝評論家的な人物で特集を組む雑誌もないし、この人たちより若い文藝評論家で組んでも原稿を依頼する相手がいないだろう。さて『ユリイカ』では大杉重男が、蓮實はなぜ博士論文にこだわるのか、というのを書いている。少し前に出た『文學界』での渡部直己によるインタビューで、日本の大学の専任教員で博士号のない者がいることを痛罵していたからで、渡部が、自分も博士号はない、と言うと、だが『日本小説技術史』というそれに匹敵する業績はあるとフォローしていた。大杉にもそれに匹敵する著作はありそうだが、やはり博士号がなくて大学教授であることにひっかかりを感じたのか、それなら夏目漱石だって博士号を辞退したのだから漱石から批判しなければならない、などと書いているが、漱石は大学教員は辞めていたし、博士論文を書いて授与されたのではないから違うだろう。
私は教わったことがあるので「先生」つきになるのだが、単に蓮實先生は、博士号があるのに大学の専任になれない者がおり、博士号もなければろくな業績もない文学研究者が東大教授などの地位にあることに教育者として怒っているに過ぎないだろう。現に蓮實先生を差出人とする学位記を持っている私もそうだし、蓮實崇拝家の新谷淳一もいる。
ところで蓮實は「学問」をどのように考えているのだろう。前にも触れたことがあるが、蓮實は、三浦雅士が、民俗学なんてのは文学みたいなものだから、と言った際、「違います」と決然として退け、学問と文学(文藝)は同じではありえない、と言ったことがある。だが「文学研究」において、蓮實は「学問」をしているのだろうか。一般的には、蓮實の専門はフランス文学でありフロベールであって、『『ボヴァリー夫人』論』がその集大成だと思われている。それ以外の、映画評論や文藝評論は、学問ではないということになるのだろう。だが、文学研究において学問といえるのは、まず書誌学であり、伝記研究であり、比較文学的実証研究だと私は考えていて、それ以外のあらかたは文藝評論である。だが蓮實はかつて三好行雄との対談で、伝記研究の学問性を否定して、それはたまたま対象が文学者だったというだけではないかと言っている。この場合、相手の三好が、日本近代文学の東大教授として「作品論」を提唱した人だという背景もある。だから、作品論が学問ではないとは言えない立場にあるため、蓮實が追いこんだともとれる。作品論など感想文に過ぎない、と言ったら蓮實は何としたか、興味がある。谷沢永一ならそう言っただろう。また蓮實のこの発言は、「作者の死」などを踏まえていると思われるが、実際にはこのような「ポストモダン」な学問論はすでに破綻している。ジル・ドゥルーズを称揚し翻訳してきた蓮實は、この「ポストモダンの破綻」について総括をしていないのではないか。
『『ボヴァリー夫人』論』は、私の考えでは批評であって学問ではない。文学研究というのは他の学問に比べて特殊であって、たとえば東大における博士論文を私は九○年代からだいたい把握しているが、文学の論文だけが、多く「文藝評論」である。国文学の前近代についてのみ、書誌学的学問は残っているが、近代についてはほぼ評論化している。
『ユリイカ』の特集は、蓮實にとって学問とは何かという問いを発さずに終わった憾みがある。