「中動態の世界」と医療
第16回小林秀雄賞 受賞記念インタビュー
國分 功一郎氏(高崎経済大学経済学部准教授/哲学)に聞く
第16回小林秀雄賞(新潮文芸振興会主催)に,《シリーズ ケアをひらく》の最新刊『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院)が選出された。「中動態」とは何か,それが医療とどうかかわるのか。著者の國分功一郎氏に,執筆の経緯や本書に込めた思いとともに聞いた。
――受賞,おめでとうございます。受賞を知ったときの気持ちを教えてください。
國分 受賞は青天の霹靂でした。こういう話がきた場合,「断ったほうがカッコいい」と思う人もいるかもしれませんが,私はそういうカッコつけはしません(笑)。素直にうれしく,ありがたくいただきました。
――贈呈式では選考委員の加藤典洋さんから「この本には“重さのあるわからなさ”がある」という講評がありました。これを聞いてどう思いましたか。
國分 この本では明確な結論はあえて書きませんでした。何かを主張するというより,「中動態」という耳慣れない概念を読者の心に届けて,皆さんの考えが発展する役に立てばという思いが強かったからです。こうした思いが“重さ”として届いたようで,うれしかったです。
――そもそも中動態とは何か,教えてください。
國分 能動態・受動態とは別の,もう一つの「態」です。かつてのインド=ヨーロッパ語に広く存在していました。プラトンやアリストテレスの時代のギリシアでは,中動態が普通に使われています。
――能動態と受動態の中間,というイメージでしょうか。
國分 よくそう誤解されるのですが,違います。実はかつて,行為は「能動/中動」の対立として認識されていました。つまり,能動/受動の枠組みとは別の概念として「中動態の世界」があったのです。
――能動/受動,つまり「する/される」とは別,とはどういうことでしょう。
國分 「能動/中動」の対立では行為を「自分の外側で終わるか/自分の中で完結するか」で分類します。例えば「惚れる」というのは中動態です。誰かを“好きになろう”と意識して惚れるのではなく,好きという感情が“自分の中に立ち現れてくる”というイメージですよね。
一方,中動態と対立する意味での能動態は,例えば誰かを「殴る」というような“他人に働き掛ける”行為のことです。このように中動態の世界では,能動態のほうも現在のイメージとは異なっていたのです。
――中動態はなぜ多くの言語で失われてしまったのでしょう。
國分 言語学的には能動/中動の対立が先にあり,中動態から受動態が派生した後,能動/受動の対立へと置き換わったことがわかっています。こうした変化には「意志」という概念が関係しているというのが私の見立てです。
――意志がキーワードなんですね。
國分 実は,古代ギリシアには意志という概念はありませんでした。ところがあるとき,意志という概念が成立し,それと並行するように中動態が言語の表舞台から消えてしまいました。
――意志とは当たり前に存在するものだと思っていました。
國分 それは意志を前提とした,能動/受動の枠組みにとどまっているからです。よく考えてみると,意志という概念は矛盾を抱えていることに簡単に気付きます。
――矛盾,ですか。
國分 まず,私が意志をもって何かをするというのは,自分だけがその行為の出発点になることを意味します。つまり自分以外に別の原因があれば,自分の意志でやったことにはなりません。
しかし,過去の出来事や周りの状況に影響されない行為などありません。だから自分が行為の純粋な開始地点となることはあり得ない。でも意志の概念はそのような開始地点を前提にしています。
「歩く」というありふれた行為を行う場合でも,私たちは筋肉や関節の一つ一つをコントロールしてはいないし,歩き方を選んだわけでもない。「私の意志に基づいて歩く」ではなく,「私のもとで歩行が実行されている」と言うほうが実際に近いかもしれません。
――「私のもとで歩行が実行されている」とは,いかにも中動態的な表現ですね。
國分 ええ。中動態の世界は意志という前提なしに成立していました。一方,能動/受動の枠組みにいる現代の私たちは,あたかも全ての行為には明確な意志が先立っているように感じてしまう。意志という概念は極めて曖昧なものであるにもかかわらず,私たちはこの存在を信じて,ある意味「無理をして」使っているのです。
――中動態と出合ったのはいつごろでしたか。
國分 中動態という概念自体は大学生のころから知っていました。重要な概念だという印象は持ちながらも,どういう問題と交差するのかがわからなかった。「鍵を持っているのに,開けるドアが見つからなかった」というイメージです。
――これは多くの読者が知りたいことでしょうが,哲学者である國分先生が,なぜ医学書として『中動態の世界』をお書きになったのでしょう。
國分 あるイベントで,薬物依存症の女性をサポートする「ダルク女性ハウス」の施設長,上岡陽江さんと出会ったのがきっかけです。「自分の意志で薬を飲んでいるのだから,やめられないのは努力不足だ」と周囲の人は言う。でも「やめようと思うと余計にやめられない」というのが依存症だと。それを聞いたとき,「中動態という鍵が使える」とピンときました。
数日後,そのイベントに来ていた医学書院の白石さんから,Twitterのダイレクトメッセージで執筆を頼まれたんです。
――依存症という切り口で中動態を論じてみて,いかがでしたか。
國分 依存症という切実で具体的な困難を抱えている現実の人々に応えられる本になっているかどうかを常に確かめながら書き進めました。医学書だったからこそ自分に厳しくなれ,最後までぶれずに書ききることができました。
――依存症という問題に対し,哲学者として,中動態という概念で応えたということですね。
國分 はい。よく「哲学は真理を追求する学問」と思っている人がいますが,哲学者はぼんやりと中空を眺めながら真理を探しているのではありません。実際は,具体的な問題に直面して,それに応える概念を出すというのが哲学なんですよ。
――本書を読んだ医療者からは「欲しかった概念」という声もあがりました。
國分 医者という主体が,患者という客体を「治す」というやり方には限界がある。それに気付いて,いろいろな形で実践されてきた方々が抱いていたもやもやした気持ちに応えることができたのかもしれません。
――中動態はこれからの医療にどうかかわってくるでしょうか。
國分 今,医療のさまざまな場面で,「意志さえあれば何とかなる」という前提がなくなって,中動態的な方向に進んでいるような気がします。例えば糖尿病の食事療法は「食べ過ぎるとこうなりますよ」と患者の我慢を促すだけではなかなか長続きせず,「味わって食べる」という視点も重要とされているそうです。これは意志の力に訴えるのではなく「食べる」という行為そのものに注目する,ある意味中動態的方法ではないでしょうか。
こうしたやり方がうまくいくのは,実は私たちが今も「中動態の世界」を生きているからかもしれないですね。
――この本を通して,國分先生が医療者に伝えたいことは何でしょうか。
國分 私たちが当たり前だと思っている能動/受動の対立や意志という概念は,実は全く普遍的なものではないということです。中動態というキーワードがそのことへの気付きをもたらしてくれると思います。中動態の世界を知れば,皆さんが抱えている“もやもやした何か”が少し整理できるかもしれません。
ホテルオークラ東京で行われた贈呈式にて(左は第16回新潮ドキュメント賞を受賞したブレイディみかこ氏) |
(了)
こくぶん・こういちろう氏
1997年に早大政治経済学部政治学科を卒業後,東大大学院,パリ第10大学,社会科学高等研究院(いずれもフランス)などで哲学を学ぶ。博士(学術)。2011年より現職。主な著書に,『スピノザの方法』(みすず書房),『暇と退屈の倫理学 増補新版』(太田出版),『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院)など。