文芸的な、あまりに文芸的な

人生にあるのは意味ではなく味わいだと私は思っている(谷川俊太郎)

田亀源五郎『弟の夫』を読む ~ゲイというマイノリティの物語に描かれる、<家族>という物語

田亀源五郎『弟の夫』全4巻。

ゲイエロ漫画界の巨匠が初めて一般誌で連載した、ゲイ男性と同居するホームドラマだ。

この物語は、ゲイへの偏見による「マイノリティが感じる苦悩」を巧みに描いた作品である。

しかしこの作品は「性的マイノリティ」の問題だけに終始しない。

登場人物ががゲイというマイノリティなだけでなく、主人公が「シングルファザー」という、世間的な少数者なのである。

このマンガでは彼らの日常生活が丹念に描かれ、そこから「彼らマイノリティが営む<家族>像」が浮かび上がる。

つまりこの作品は、「マイノリティが感じる苦悩」と「家族とはなにか(どのような存在か)」というテーマが二層構造になっているのだ。

 

あらすじ~~~~

弥一は、小学生の娘・夏菜を育てるシングルファザー。

弥一の元に、「弟の夫」であるカナダ人マイクが訪ねてくる。弥一の双子の弟涼二は、十年前に家を出て海外に行った以来音信不通だったのだが、実はカナダでマイクと同性婚しており、涼二が亡くなったのをきっかけに、マイクは涼二の唯一の親族(両親はすでに他界していた)である弥一の元を訪ねてきたのだ。

マイクは弥一の家に滞在することになり、弥一は初めてゲイの男性ーーそれも自分の義弟だという外人ーーと向き合うことに戸惑いを覚える。

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マイクが滞在してから思いもかけないことがいくつもあった。

弥一は近所の人に、世間体を考えマイクのことを正直に「弟の夫」だと紹介できない自分に気付く。

また、夏菜がゲイの外国人男性と住んでいることがクラスで話題になると、夏菜の友人の母親は娘に「悪影響が出るからあの子の家に行ったら駄目」と言っていたらしいことが伝わってきた。本人への直接のものではないが、人づてにゲイへの無自覚な嫌悪感が伝わってきたのだ。弥一は、世間にはーー自身も含めてーーゲイへの無自覚な偏見があることを実感した。

弥一と夏菜は、マイクと、弥一の元妻・夏樹(わけあって離婚したが、現在は仲は悪くない)を誘って温泉旅行に行くことになった。

弥一は「旅館の人は、俺たちを『外国人の友人をもてなしてる子連れ夫婦』に見えるのだろうけど、実際は俺たちは今『夫婦』じゃないし、マイクはただの『お客さん』ではない。こういう関係をなんて呼べばいいのかな」と夏樹に話す。

夏樹は「家族…でいいと思うよ」「私とあなたの縁は夏菜でつながっていて、あなたとマイクは涼二さんの縁でつながっているのだから」と答える。

旅行も終わり日常に戻ると、弥一は夏樹の担任教師に呼び出され「御宅の事情は余所の家庭とは違っているので、夏樹がういてしまっていじめられるのではないか」と言われる。

自身がシングルファザーであること、同居人の外人が同性婚だということ…。「心配だと言って、実はさらっと差別された」と感じる弥一であったが、「もし夏樹に変わっていることがあったとしても、他人と違うからという理由だけでそれをやめさせたくない」と担任に伝え、そして「うちにいる滞在者は、私の弟の配偶者であの子の叔父です」と、初めて自分の口でマイクのことを「私の弟の配偶者」だと言った。

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その晩、弥一はマイクに、ゲイだとカミングアウトされて以降なんとなく距離の出来てしまった、亡き弟・涼二との写真をみせてもらい思い出話をきく。写真の中の涼二はマイクと結婚して、弥一が見たことのないような楽しそうな笑顔をしていた。

マイクは言う。「涼二は結婚式で私の家族をみて、いつか日本に帰って、私を兄貴に『俺の結婚相手だ、新しい家族だ』と紹介したい、と言ってました」「だから涼二との約束を果たすために、弥一さんと家族になるために日本に来ました」

弥一は「その約束は果たせたね。もうとっくになってるよ、家族」とマイクに答えるのだった。

マイクがカナダへと帰る日、弥一は夏菜の未来の幸せを願い、「俺に弟がいたこと、弟はマイクと幸せに過ごしたこと」を教えてくれた、マイクと過ごした日々の大切さを思う。  完

~~~~~

作者の田亀自身がゲイであるため、この作品に描かれる「ゲイが感じる苦悩」は実に現実的で、身につまされる。

マイクの元には、自身がゲイであることに悩む少年や、涼二の高校時代のゲイの友人ーー「カミングアウトせずに」生きていく者などが来て、性的マイノリティの人が直面する問題を描いている。

この作品のひとつの特徴は、明確な悪人(悪意)が出てこないことだ。

私は「最終巻はドラマチックに盛り上げるために、ゲイフォビア(嫌悪)な人物が出てくるのかな」と思って読んでいたのだが、登場するのはみな普通の、世間一般的な人ばかりであった。

作中には、「悪影響が出るからあの子の家に行ったら駄目」と言った友人の母親や、「弥一の家庭は一般的でない」と心配する担任教師が出てきたが、 彼らは「悪人」ではまったくない。むしろ一般的、いや「世間的」な人間である。

そしてこの世間的な一般人の持つ、無自覚で些細な偏見こそが、マイノリティを傷つけているのである。

作者田亀はインタビューにこう語る。

田亀: 人伝てにヘイトが来るのは、日本的でリアルだと思っているので、この漫画ではとても意識しています。陰ではそういった嫌悪の気持ちを持っている人でも、面と向かってダイレクトに気持ちをぶつけてはこないのが、日本でありがちな差別の姿だと思います。なので、それを描くことにとても意義があると思いました。
『弟の夫』で描きたかったのは無自覚の偏見、もしくは無自覚の差別です。自分がすでに差別構造の中にいるということに気づいていないことからもたらされる差別や偏見。

 ゲイ・エロティック・アートの巨匠 田亀源五郎と担当編集に聞く『弟の夫』の現場 「無自覚の差別」とは何か?

こうしたゲイへの「無自覚な偏見」は、実に巧みに作品に描かれていると思う。

さて、ゲイの悩みの問題については述べたので、作品のもうひとつのテーマ、

<家族であること>についてみてみたい。

この物語はおそらく、「ゲイの男性と同居する」というコンセプトを際立たせるために、意図的に「妻」という女性の存在を排除することになったのだと思う。

それが主人公弥一に「離婚して別居」という設定を与え、結果的に、物語は<家族の形とは何か>を問う方向へと向かいやすくなった。

作中で弥一は、旅館で元妻に「僕たちの関係って、なんて呼ぶのだろう」と尋ねる場面がある。それに対して元妻夏樹は「家族…でいいと思う」と答える。

「家族」だという理由は、「私たちは、縁があってつながっているから」だと言う。

この物語において、弥一の「家族」は2方向に存在する。「元妻と娘」と「弟の涼二」に対してである。

そしてもうひとつこの物語に出てくる家族がある。「マイクとその配偶者の涼二」だ。

「弥一と元妻夏樹」はすでに離婚しており、「弥一と弟の涼二」はまったくの疎遠であり、「マイクとその配偶者の涼二」は同性婚であり、どの関係性も「世間一般的な家族」の形とは違う。

しかしどの関係性も、彼らにとって「家族」である。「弥一と元妻夏樹」も「マイクとその配偶者の涼二」も、彼らは縁によってーーそして愛情によって、繋がれているのだから。

「弥一と弟の涼二」の関係性は、涼二がカミングアウトして以降二人の間に溝ができ疎遠になってしまったが、マイクがまた再び二人の縁を繋いでくれた。そう、マイクによって、弥一と弟の涼二は「再び家族になった」のである。

弟の涼二がすでに故人である、という点も、<家族の関係性>を考える上でのポイントになる。

「マイクと故人である配偶者」、「弥一と故人である弟」という関係性は、「以前、家族であった」というべきなのだろうか、それとも「今も家族である」といえるのだろうか?

この作品を読んだ方なら、「今も家族である」という考えに違和感なく首肯するだろう。

なぜならここで彼らが抱いている「家族」という概念は、物理的な存在ではなく、<関係性>そのものを根拠にしているからだ。

私が以前、このブログで 

ほったゆみ(原作)『ヒカルの碁』を読む。 ~死者は現在する。生者のなかに 

という記事を書いたとき、

『恐山: 死者のいる場所』(南直哉 著)という本から、

死者は実在し、生者と同じく我々に影響を与える。(略)

生前に濃密な関係を構築し、自分の在りようを決めていたものが、死によって失われてしまう。しかし、それが物理的に失われたとしても、その関係性や意味そのものは、記憶と共に残存し、消えっこないのです。

と引用した。

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

 

 死んだ者とも関係性がある限り、つまり「思い続ける」限り、「家族」という関係性は残ったままなのである。

これが『弟の夫』という作品が示す<家族という関係性>である。

『弟の夫』という物語を究極的にいえば、疎遠であった「弥一と故人である弟の涼二」という関係性を、涼二の配偶者マイクが再び<家族という関係性>へと繋ぎ戻す、という物語だ。

そしてマイクは、弥一と涼二を<家族という関係性>へと繋ぎ戻すという「役割を引き受けた」ことによって、マイクは弥一とも<家族という関係性>を結び得ることができたのである。

だから弥一が 「もうとっくになってるよ、家族」とマイクに答えたのは、それは戸籍上の概念ではなく、本心から<家族という関係性>になっている、という意味だ。

『弟の夫』は、物語最後のコマに、3枚の写真が載せられて幕を閉じる。

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「マイクと涼二」「夏菜が生まれたときの弥一と妻夏樹」、そして「温泉旅行で撮った、弥一、夏菜、夏樹と、マイクの4人」の写真である。

この3枚の写真は、彼らが「家族である」という証ーーたとえ「世間一般的な家族」の形とは違っても、彼らは間違いなく家族なのだーーであり、彼らの絆の記録なのだ。     <了>

 

本日のマンガ名言:もうとっくになってるよ、家族

 

追記)他にLGBTがテーマのマンガでは、ふみふみこぼくらのへんたいを以前書いたので、読んでみてください。

ふみふみこ『ぼくらのへんたい』を読む ~変態する思春期