「巨影都市」がかなり乱雑な出来であるにも関わらず、強く心を打つのはある種の特撮映画だけが持つ真実味をビデオゲームで体験できるからだ。それは昨年大きな評判を呼んだ「シン・ゴジラ」が見せた特撮映画の真実味に、おそらく意図しない形で近いものになっている。意外なことに、近いジャンルのタイトルを考えても「ワンダと巨像」「地球防衛軍」のように「巨影都市」よりはるかに完成度の高いタイトルは数多く思い浮かぶものの、似た体験をできるゲームはすぐには思い浮かばない。唯一無二の体験になっていると言っていい。
タイトル発表当初は「絶体絶命都市」シリーズとウルトラマンやゴジラといった特撮キャラクターとのコラボという、「真・三国無双」のフォーマットに版権ものを乗せる「ガンダム無双」のような安易さを感じていた。ところがウルトラマンやエヴァンゲリオンが「絶体絶命都市」のフォーマットと交わることでまさかの爆発力が生まれ、思わぬ体験を作り上げた。特撮映画が強い真実味を持つケースに近いのだ。
特撮映画が真実味を持つとき、それは現実の人災や天災を背景に持った時である。そこで災害をテーマに描いてきた「絶体絶命都市」が、この2017年に特撮の名作たちと絡むことによって、奇しくも単なるコラボを超えた効果を生み出している。
特撮映画は文字通り様々な特殊効果を駆使して架空の世界を形作ったり、絵空事の世界をさも本物のように見せるようにする。なので、特撮映画は実写のみの映画以上に現実の出来事とは切り離されたフィクションの世界として独立させる傾向は強い。
しかし、現実の人災や天災をフィクションの出来事を取り扱うことが専門なはずの実写映画やドキュメンタリーではなく、特撮映画がそれを背景としたとき現実とフィクションがハーフになることで奇妙な真実味が生まれる。どこからどこまでを「絵空事の世界だ」と安心できて、どこまでが「現実に起きていることだ」とシリアスになればいいのか、その境界が曖昧になるからだ。
実際、今日まで名作とされる特撮映画では、現実の人災や天災を背景とすることでスクリーンの中で起きている怪獣の破壊に強い真実味を持たせていることが少なくない。これは特撮の巨匠であるレイ・ハリーハウゼンが関わった作品とて例外ではないだろう。1953年公開の「原子怪獣現わる」では当初こそレイ・ブラッドベリの短編「霧笛」を元にしながらも、タイトル通り当時のアメリカを中心とした水爆実験を背景とし、核によって巨大化した生物が都市に襲い掛かるという内容になった。核によって巨大化した生物というアイディアは、この作品以降一つの流れを形作る。
そうした流れの最大の成功例が翌1954年の日本で公開された初代「ゴジラ」である。こちらも核によって影響を受け巨大化した生物が都市を襲うという「原子怪獣現わる」のフォーマットに乗っ取りながらも、そのフォーマットを超えて歴史に残る完成度を得たのはまさに背景の差だ。現実の日本では第二次大戦中での戦火による被害、そして原子爆弾の被爆国だからだ。「原子怪獣現る」と「ゴジラ」の差は怪獣の圧倒的なキャラクター性、怪獣を描く技術のストップモーションと着ぐるみ、地上で逃げ惑う人間たちのドラマの差だけではなかった。アイディアの源となる核や戦争の被害の背景がアメリカと日本とではるかに差があったからだ。
「ゴジラ」がインスピレーションにしたものは都市破壊のシークエンスには東京大空襲の記憶が関わっていることなど数多く語られているが、核への恐怖の背景にはまず第五福竜丸事件が挙げられるだろう。公開の8か月前の1954年3月1日、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験「キャッスル作戦」によって広い範囲が放射性物質で汚染された。その範囲には、当時漁業に出かけていた第五福竜丸をはじめとする数多くの船舶が含まれていた。第五福竜丸に乗船していた23人の船員全員が被ばく、後年の調査では同じ海域にいた漁船からおよそ2万人が被ばくしたとも言われている。この事件が「ゴジラ」の冒頭、貨物船や漁船がゴジラによって謎の沈没を遂げるエピソードへと繋がる。「巨影都市」のゴジラのパートではこの冒頭部分をオマージュしており、船の乗客として体験する形になるのだが、原作のこうした背景を考えると不気味なシークエンスだ。
以降の「ゴジラ」がシリーズ化していくにつれ、初代公開当時の切実な時代背景は鳴りを潜めていく。特技監督を務めた円谷英二による「ウルトラマン」などの特撮TVのヒットにより、主にキャラクター性を高めたフィクションとして隆盛する。もちろんそれは正しい。特撮映画が現実の災害や社会を背景に持つのはジャンルの本質というよりも、時代の奇妙な巡りあわせだというべきだ。特撮の本質を最初から社会背景に求めた作品も少なくないが、それらすべてが名作ではない。同様に「巨影都市」が独特の体験となったのも、当初から意図したものというより数多くの時代の巡り合わせが関係している。
なにしろ「絶体絶命都市」自体が現実の災害によってシリーズの存続を危うくさせていた。そう、2011年3月11日に起きた東日本大震災である。当時開発中だったの最新作「絶体絶命都市4」は発売を中止。当初震災への配慮だと見られていたが、プロデューサーの九条一馬氏のTwitterでの発言によれば予定としていた時期までに完成が間に合わなかったことが原因だと語られている。しかし、当時版権を持っていたアイレムはシリーズの生産を中止を決定する。
そもそもの初代が阪神淡路大震災を参照している面もあり、以降シリーズ化していくうえで現実に発生する地震などの災害との折り合いはどうしても避けられないのもあった。この災害を経て、放射能への恐怖や地震や津波による破壊は日常的なものとして刷り込まれることとなり、シリーズ全体が生産中止になったことも含めて「絶体絶命都市」というタイトルは時代と巡り合い、シリアスな背景を背負うことになってしまったと思う。
だが3.11はいつまでもタブーになっているわけではなかった。「絶体絶命都市」も九条氏をはじめとしたスタッフによって立ち上げられた制作会社グランゼーラによって2014年に版権が取得され、販売が再開される。昨年2016年にはついに特撮にてその災害を背景に持った映画が公開される。庵野秀明監督による「シン・ゴジラ」である。ここでのゴジラはもはや、過去数十年に培ってきたキャラクター性からうって変わって、東日本を襲った津波と、福島原発事故の両方の現実をモデルにした、禍々しい災厄として国家が立ち向かう様が描かれている。震災と福島原発事故の記憶がまだ生々しいゆえに「シン・ゴジラ」はまさに特撮映画が時代背景と巡り合うことで爆発した作品だった。
その震災の記憶と特撮映画の奇妙な巡り合わせがビデオゲームにも及ぶ。それが「巨影都市」である。「絶体絶命都市」のフォーマットを持った「巨影都市」は表立って東日本大震災などをモデルにはしていないものの、ゲーム内で表現される特撮のキャラクターたちは「シン・ゴジラ」もしくは初代「ゴジラ」と同じ効果を持っている。そう、登場する特撮のキャラクターたち全てが、「絶体絶命都市」のフォーマットによって善悪の前提がすべて剥ぎ取られており、災害としてのみ描かれているからである。
実際、冒頭でチョイスされた特撮がウルトラマン対ザラブ星人という点からして善悪を剥ぎ取る意味合いが大きい。もともと正義の超人と悪の怪獣の対決という善悪のわかりやすい構図なのだが、原作ではザラブ星人がにせウルトラマンに化けることによって街を破壊し。ウルトラマンは本当に味方なのか?と疑いを持たせるエピソード。暗に正義のウルトラマンといえどもその巨体で戦う限り、街を壊し、そこに住む人々を脅かしている悪の部分があることを示している。
「巨影都市」で描かれるウルトラマンはスーパーヒーローでもなんでもなく、実態の知れない災害としての不気味さを持つ。逃げ惑うプレイヤーの視点からは、ウルトラマンもにせウルトラマンもどちらが本物で、どちらが善悪かなのかは関係ない。ただ脅威でしかない。これが面白いのは以降のシリーズのウルトラマンティガやウルトラマンゼロといった正義側の馴染みやすいキャラクター性であっても、すべて反転して災害の脅威のみに映ることだ。
シリアスな災害として特撮を捉える効果は、「ウルトラマン」などをモデルとしてきたアニメ「エヴァンゲリオン」や「パトレイバー」(※原作アニメにウルトラマンをパロディした回がある)にまで及んでいる。いままでも特撮作品がゲーム化されてきたが、それらはキャラクター性を拡張するような格闘ゲームであったり、対ゴジラのシミュレーションゲームであったりした。しかし、「巨影都市」では善も悪もない、キャラクター性もまったく関係のない超自然の驚異や謎としてのみ存在している。
筆者はこのコラボ一回きりで終わるのは惜しいと考えている。仮に続編が可能だったならば、やはり巨影の脅威を見つめることがメインなのだし、ジャーナリスト側を主人公に逃げ惑いながらカメラで巨影撮るみたいなメインにするようなゲームメカニクスでさらに主要な体験をシャープに仕上げたものを望みたい。