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倒閣への第一歩、再び

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年11月20日(月)12時37分45秒
  今日は国会で代表質問。1時から。

立憲民主のエダノン党首に注目したい。希望の党になった玉木氏が、どういう質問をするのかも興味深い。


加計を認可した林芳正文科相。日本獣医師会から100万円の献金を受けていながら不記載。
刑事告発されるかどうかはこれからだ。

日本獣医師会は加計学園の新設に反対する勢力。そこから献金を受けていながら加計を認可するとは、100万円位では足りなかったのだろう。(失笑)
何でもかんでも金、金。金!本当に見すぼらしい安倍自公政権だ。


先日も書いたが、日本の人権状況に対し世界各国から218もの勧告があったらしい。
2008年には26、2012年には174、そして2017年には218と、安倍政権下で急速に増加している。

こんな状況の中、更に共謀罪が強行採決されたのだから、世界各国から勧告が来るのは当たり前。
日本国民の基本的人権は、まさに風前の灯火だ。

初代会長を治安維持法で殺された学会員が自公を勝たせ、平成の治安維持法である共謀罪を復活させたのだ。
知らなかった騙されたは通用しない。学会員が責任を持って廃止に追い込まなければ、功徳どころか罰を得るのは避けられまい。

国際ジャーナリストの組織である「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングで、日本は72位。G7中最下位という恥ずべき結果だ。
それなのに更に共謀罪が成立したのだから、来年のランキングがもっと落ちるのは確実だ。

国連人権理事会の特別報告者、デービット・ケイ氏は、日本政府が放送法第4条の「政治的に公平であること」をタテにして、政府に不利な情報を流せば電波停止だと、放送局を脅していることを報告。

放送法第4条の廃止を求める勧告は、アメリカからも出ており、ここを利用して、なんとか政府をギャフンと言わせたいものだ。

民主党政権時代のランキングは11位。それと比べて何ともはや、セコくて意地汚い政府だとつくづく思う。マスコミを自由にさせると、持たない事を自覚しているのだろう。

同じく特別報告者のジョセフ・ケナタッチ氏からも、共謀罪に対する勧告が出されているが、政府は反省するどころか怒って反論する始末。

日本は今、世界中から大丈夫か?と、批判を通り越して心配されるほどの国に成り下がった。

まず貧困層を食いつぶし、いずれ富裕層も同じ運命を辿る事は、簡単に予想出来る。








 

究極の勝負

 投稿者:ジョーカー  投稿日:2017年11月20日(月)11時33分4秒
  池田大作全集92巻 P86より
「仏法の師弟は峻厳である。日興上人が、弟子の日目上人を賞讃された一文がある。
『日目は、十五の歳に日興に会い、法華を信じてより以来、七十三歳の老体にいたるまで、決して違背したことがない』(「日興跡条条の事」富要五巻、通解)
 師の教えを寸分も違えない―五老僧らが、ことごとく、師弟の道を踏みはずし、増上慢となって堕落し、裏切り、反逆していったなかにあって、師弟の真髄の道が、ここに示されている。この道を生涯、最後の最後まで歩み通せるかいなか。これが信仰の究極の勝負である。」

:::::::::::

日目上人は「師弟不二の象徴」である。その観点から言うと、創価学会は師弟不二を最極に位置付けているのだから、御観念文から日目上人を削除するべきではなかったように思う。根底にある思想や意義よりも、大事にすべきものなどあるだろうか。師弟不二分断の一念では、最後に道を踏み外す。よって私は御観念文から、日目上人を削除することをしない。日蓮大聖人―日興上人―日目上人、牧口先生―戸田先生―池田先生、それぞれの三代の師弟の中に、信仰の究極があることを忘れまい。

54年の時流には逆らえない発言も、師弟不二分断の一念である。その一念に同調した人間たちは皆、道を踏み外した。一度分断されれば戻ることは難しい。どれだけ反省し、悔い改めようとも、割れたお皿は元には戻らないのと同様である。分断の一念は生命に深く刻まれる。まったくもって峻厳な世界である。

創価学会会憲の制定により、会長権限が強まった今、師弟不二の会長であれば、学会は善の方向に向かい、悪鬼入其身すれば、悪の方向へ向かう。この危険な状況を回避するには、師弟不二の会長が、会憲を改正し、会長を縛る条文を導入することである。もしも会長に悪鬼入其身したら、広宣流布の道が破壊される。

会長に悪鬼入其身させないために重要なことは、会員一人ひとりが賢くなることである。賢くなるとは、具体的には、会憲全文を読み、問題点を把握することである。今の時点で、会憲を知らない、または読んでいないのであれば危ない。現場の戦い(ミクロ)に追われ、会長の観点に立てない(マクロ)こと自体が問題で、それこそが魔王の戦略であることに気づかなければならない。

木を見て森を見ずを脱却することが、一人ひとりが会長の自覚に立つということである。木(現場)を見て、森(創価学会総体)も見る。この両方がなければならない。木を見て森も見れる人材を増やすことが、会長の悪鬼入其身への抑止となる。

正しいものを正しい、おかしいものをおかしいと思えなくなることを頭破作七分という。仏が魔に映り、魔が仏に映る、あべこべの世界である。師弟不二分断の一念こそが創価学会の54年の根底であり、頭破作七分の姿。師弟不二結合の一念となり、師弟不二分断という一凶を断ち切る。そこに自身の信仰の究極の勝負がある。

 

開目

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年11月20日(月)11時32分53秒
編集済
  鈴之助さま、いつも、ありがとうございます。

先生の対話集、他の指導書を読んで感じるのは師匠・池田先生は我らの目を開かせてくださった。

これは、間違いありません。

法華経の読み方、その現代的意義、展開・・

先生がそうされていなかった思うと、どれだけ、愚眼の我ら民衆は生きることに疲れ、

人生の意義を見出せず、愚人・エセ宗教家によって誤った道を進んでいたのかと思います。

池田先生は当然ながら、先代二代会長にも感謝しきれるものではありません。

今の原田に連なる悪逆の連中は敢えて言えば、我ら先生の弟子を覚醒してくれる役目、

使命を遂行してくれているのでしょう

彼らはきっと逆縁成仏、我らは彼らと戦って覚醒するという、ウイン・ウインの関係になりますね。
 

師に頼るのはやめないとね...

 投稿者:末席2017  投稿日:2017年11月20日(月)09時15分52秒
  解散勧告云々をめぐるやりとり、真相はわかりませんがいずれにせよ弟子としては今自分でできることをするだけなのでは?

その影響力の偉大さ故、私を含め期待した人は多いと思うけど、それでは弟子として情けないと今は反省しております。

具体的行動がどうあるべきかはきっとひとりひとりで違うと思うけど今すぐできることとして、私はおかしいと思うことに現場で声を上げていこうと思います。

支援はすでに拒絶しました。啓蒙は100%の否定はしませんが今の内容ではということで(今日の一面は新鮮でしたけど、幹部が写ってないからね)3歩ぐらい下がってます。

本当はみんなが日興上人にならないと行けないんだよね。
 

今週のことば 2017年11月20日

 投稿者:どうみょうてん  投稿日:2017年11月20日(月)07時20分43秒
  新しい人に
光を当てよう!
新しい青年を
大いに伸ばそう!
ここに地涌の勝ち鬨が。
 

この宇宙生命の実像を明かした仏法生命論!

 投稿者:螺髪  投稿日:2017年11月20日(月)07時20分2秒
   おはようございます。

 「人間革命」の次の一節は、印象深い箇所でした。第3巻「宣告」の章です。改竄の人間革命は読んでいません(笑い)。宗門擁護の姿が描かれていたといって、それは創価学会の真実の生い立ちを見るうえで意味のあることです。一人の社会人としての人間がそんなことを判断できないわけがありません。
 戦後、戦争責任を問う「東京裁判」の箇所です。「生命論」としても忘れられない一節でした。

 「正義はたやすく復讐に転嫁し、虚飾は時に力となり、公正たらんとする姿勢はたちまち威圧となる。反抗は卑屈に変わり、優越は時として義侠となり、勝利は残虐となる」(文庫本タイプ242㌻)。

 「生命論」というのは、実に興しろい。「生命体」の内の構造、外の構造、さらに内と外の関係性の構造をどんどん突き詰めていくと、そこに「同じ構造」が見えるというのです。「色心不二」は肉体と心が決して切り離して論じられるものではなく、むしろそれを一体とした方がその実体を正確に捉えることができます。依正不二も同じです。依報の環境がまったく別のものではなく正報と一体で、そのできあがった「生命体」の中に依報と正報を読み取ることさえできるというのです。それが、「生命論」としての仏法の見方といえます。

 御文から辿っていきます。

 「妙法蓮華の見なれば十界の衆生・三千の群類・皆自身の塔婆を見るなり、十界の不同なれども 己が身を見るは三千具足の塔を見るなり 己の心を見るは三千具足の仏を見るなり、分身とは父母より相続する分身の意なり、迷う時は流転の分身なり 悟る時は果中の分身なり、さて分身の起る処を習うには地獄を習うなり、かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり 妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」(御義口伝797㌻)。

 法華経見宝塔品第十一の「宝塔」を訳された箇所です。「宝塔」とは「仏」です。「仏」は「生命」ですから、それは、「生命体」としての“実像”と読み解けます。

 まず、一個の「人間」が「一念三千」であるという開き方です。

 「妙法蓮華の見」で見ていくなら、地獄から仏界までの十界が十界互具して、それに三世間が合すれば「三千の群類」、つまり「三千」となります。これをさらに開けば「八万宝蔵」です。その各々は「皆自身」、つまり「妙法蓮華経」の変化相を見るのと同じで、「塔婆を見る」わけです。その各々には、「十界の不同」、つまり因と果の「蓮華」により十界の差別(区別)があり、「己が身」を見るのは「三千具足の塔」を見るのと同じですし、「己の心」を見るというのは「三千具足の仏」を見るのと同じであるというのです。

 そもそも十界も、「己が身」は「三千具足の塔」を見るのと同じであり、「己の心」は「三千具足の仏」を見るのと同じだというのです。その「分身」とは「妙法蓮華経」という「父母」から相続した分身です。迷う時は流転の六道、九界の分身となり、悟る時は果中の分身となるというのです。どんな境遇に生まれ育っても、根本法さえ忘れなければ「妙法蓮華経」という「仏身」が開けるという読み方もできます。

 さて、その分身の起こるところを習うというのは地獄を習うことで、つまり苦しみを味わってこそ分身が起るというふうにも拝せます。しかして、たとえその宝塔が地獄であったとしても、それは「妙法蓮華経」の変化相であり、「妙法蓮華経」の五字以外の何ものでもないというふうに拝せます。それは、妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生であり、同時に一切衆生即南無妙法蓮華経の全体である、ということであると、読み解けます。

 異なる「三千」から見た「一念」がまったく一致するということはないと見ます。「水は(冷やすと)氷となる」とするのか、「氷は(溶けて)水となる」とするのかというのと同じです。認識した「三千」がその生い立ちにより微妙に違うのです。ただ、「最高峰を目指す」というのは同じです。同じ中心を回る「同心円」ということと同じです。その「最高峰」が「南無妙法蓮華経」だということです。

 衆生の集まり、つまり組織や社会の「一念三千」であると捉えることもできます。

 「妙法蓮華の見」で見ていくなら、十界の衆生、またその集まりである三千の群類は、組織や社会の本体である「妙法蓮華経」という“自身”の塔婆を見ているのと同じです。各々には十界の違いがあるけれども、その組織や社会の「体」である「己が身」を見るのは衆生の集まりである「三千具足の塔」を見るのと同じですし、その「己の心」を見るというのは「三千具足の仏」を見るのと同じであると拝せます。

 ここでも、十界の衆生や三千の群類は、「妙法蓮華経」という父母から生まれた分身ですから、迷う時は六道、九界の流転の分身とならざるを得ず、悟る時に果中の分身となります。組織も社会も、その歴史の変遷を見れば、苦しみを味わってこそ、その本来の活力を生かせる組織、社会と成り得ますし、地獄を習うことが実は、果中の分身の必須といえます。民衆自らが地獄をくぐり抜けて勝ち得た“もの”でなければ、実り多き組織や社会とはならないと言えるかも知れません。

 その民衆の宝塔も「妙法蓮華経」の五字よりほかはなく、妙法蓮華経を見れば宝塔であり即一切衆生、一切衆生即南無妙法蓮華経の全体である、ということになります。この図式は、実存する「生命」の全てにあてはまるのでしょう。微細は素粒子やその先まで。眼を大きくして見れば、家族、組織や社会から、国家、地球、そして宇宙に至るまで。それが、仏法生命論の「妙法蓮華の見」ということになるのでしょう。

 その「妙法蓮華経」の構造を明かされているのが、「十如是」だと言えますが、これはまた、別の機会に譲ります……。

 現代文明の特徴は、細分化と分担です。細分化して分担を決め、その精密さと正確さで、かつての“技術”を各段というより次元の異なる凌ぎを見せています。その典型がICチップです。かつては機能する部品を回線をで結ぶという形でしたが、いまは写真の製版技術を使って微細、かつ正確な回路をつくり、そこに半導体などの部品をくっつけるという手法がとられています。微細、精密、正確な極小のIC回路の作製が可能となりました。

 この高度の技術を人間や社会システムにまで持ち込もうとしてきたのが現代の誤りです。なるほど、細分化、分担して制度やシステムを組めば、“仕事”は確実、正確に進みます。しかし、人間は部品ではありません。機械のように、いつもいつも、同じことを同じペースでやれるとは限りません。人間と担当場所の不適合箇所では、人間の側にストレスも生じます。一晩寝たり、酒をあおって回復する程度で済めばいいですが、その鬱積が解消されないで身体や精神を病む事態が頻繁になる、これがいまの社会とは言えないでしょうか。

 かつて、製造業のオートメ化の奔りの時代にもそんな論議がありましたが、いつしか下火となり、グローバリゼーションの波(つまり競争)の中で“効率経営”が先決となり、もはや論議の対象ともならなくなった感さえします。企業は過去最高の利益を確保しているのに、非正規労働者が全就労者人口の3分の1を占める2千万人を超え、人件費が決して上昇していない現実にそれを見ることができます。


 

21世紀への選択 現代に要請される「開かれた宗教」 P343 を投稿します。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年11月20日(月)02時53分43秒
  第十章世界市民の要件「共同体」と「世界」の往還のなかで

21世紀への選択 現代に要請される「開かれた宗教」 P343 を投稿します。

ポイント
*、テヘラニアン
 ガンジーの成功のカギは、宗教を「個人的な救済への道」とするだけで

なく、「平和と正義を実現する社会的な行動への道」と捉えていたことにあったのでは

ないでしょうか。

*、池田
 同じくキリスト教でも、イエス自身が、「剣によって生きる者は剣によって弊れる」と

ペテロに諭し、非暴力を説いていますね。

*、テヘラニアン
 そこでは、かたくなな教条(ドグマ)や権威的指導者の教説に盲従するのではなく、

自らが主体的に意識的に倫理上のことを決定し、その結果に責任をとるように

求められます。

つまり、こうした教えの前提には、すべての人間には、利己心を超え、普遍的な善をめ

ざす潜在能力があるとの思想があるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【名誉会長: “仏教以外の思想や哲学を縁として「正見」に入る人もある”と、大聖人は述
べられている。】

これは、深い哲学ですね・・・。
SG会員であれ、一般人であれ、社会をよくして、民衆を幸せにしていく智慧をもって活動し
ているひとは、法華経を実践しているのであると説かれています。

鈴之助
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まなこ様の法華経の智慧 第一巻 より いただきました。 感謝!!
民衆に呼びかける経典

名誉会長: “仏教以外の思想や哲学を縁として「正見」に入る人もある”と、大聖人は述べ
られている。
たとえ法華経に出あっても、偏見をもって、法華経の真実の素晴らしさを分かろうとしない者は、
これら仏教以外の賢人・聖人に劣るのであると(御書 p242)
また「法華を識る者は世法を得可きか」(御書 p254)と大聖人は仰せです。

「法華経の智慧」とは、社会をよくして、民衆を幸せにしていく智慧です。
そうでなければ仏法の智慧とは言えない。開いて言えば、民衆を幸せにする智慧は、すべて
「法華経の智慧」であるとさえ言えるのではないだろうか。

大聖人は、民衆を苦しめた悪王を討って世を治めた周の太公望や前漢の張良などについて、こう
述べられています。
「此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は・しらざりしか
ども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(御書 p1466)

仏教が中国に渡る以前であっても、これらの人々は仏法の智慧をもって民衆を幸せにしたのだと。

「民衆中心」とは「人間中心」と同じです。それは「宗派性」も「僧俗の区別」も超えて輝くもの
です。
赤裸々な一個の人間として、他者に対し、社会に対し、何ができるか ?- その意識や力を絶えず
湧きあがらせていく源泉が、「民衆の宗教」であり「二十一世紀の宗教」であるはずだ。

それが法華経の魂です。
 

21世紀への選択 現代に要請される「開かれた宗教」 P343

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年11月20日(月)02時50分16秒
  21世紀への選択  現代に要請される「開かれた宗教」 P343

テヘラニアン
 私も、ガンジーの信念の根底に、会長の言う宗教的普遍性があったがゆえ

に、彼の掲げる非暴力運動が、時代や場所を超えて有効性をもちえたのだと思います。

ガンジーの理念と方法は、アメリカでは公民権運動、南アフリカでは反アパルトヘイト

闘争、東欧では共産党独裁の打倒に応用され、パレスチナやアイルランドにも採り入れら

れましたが、成功の度合いに違いこそあれ、いずこでも有効だったのです。

私が思うに、ガンジーの成功のカギは、宗教を「個人的な救済への道」とするだけで

なく、「平和と正義を実現する社会的な行動への道」と捉えていたことにあったのでは

ないでしょうか。

池田
 つまり、宗教を単なる内面的私事に限定することなく、現実社会のなかでの

人間の生き方そのものを深い次元で規定していくものと、彼が考えたということですね。

この点、ガンジーは、「私は、人間の活動から遊離した宗教というものを知らない。

宗教は他のすべての活動に道義的な基礎を提供するものである。

その基礎を欠くならば、人生は『意味のない騒音と怒気』の迷宮に変わってしまうだろう」
(K・クリパラー二ー編/古賀勝朗訳『抵抗するな・屈服するなガンジー語録』、朝日新聞
社)と述べています。

こうした彼の宗教観は、宗教と生活を不可分のものとし、宗教を人間の諸活動の源泉と

考える大乗仏教のあり方と符合するものと、私には感じられます。

テヘラニアン
 大切なのは「行動」に結びつくかどうかなのです。

ガンジーの唱えた「非暴力」にしても、その思想自体はさまざまな宗教に見受けられ

ます。

ヒンズー教と仏教では「不殺生」が最も重要な戒律となっていますし、イスラムでは

「神の名の下に慈悲の心深き者」というのが、『コーラン』の各章の冒頭の言葉と

なっています。

イスラム教では、「ジハード」という言葉が、時には「聖戦」を意味すると解釈されて

きましたが、この言葉と預言者ムハンマドによる実践を細心に吟味しますと、イスラムで

武力に訴える行為は自衛の場合にのみ許されることがわかるはずです。

武力に訴えるのは、"外的なジハード"であって、"内的なジハード"は、それとは比較

にならないほど難しいとされています。

これは貧欲や排他、悪の心を取り除き、精神を浄化することです。

スーフィーではこれを「ジハード.イーアクバル」つまり「さらに偉大なるジハード」と

呼んでいます。

池田
 同じくキリスト教でも、イエス自身が、「剣によって生きる者は剣によって弊れる」と

ペテロに諭し、非暴力を説いていますね。

テヘラニアン
 そのとおりです。

したがって、多くの宗教では、暴力が非難され、愛と慈悲が主張されており、実際に

これまでの歴史のなかで、排他的精神と暴力が宗教的根拠によって禁じられてきた時代

をいくつか指摘することができます。

しかし残念なことに、それらは例外的な部類であり、それゆえ、「教理は崇高であるけ

れども、実践者はそれほどに崇高ではない」という逆説にも、私たちは当面しているの

です。

そのため現代に入って、さまざまな形をとる世俗的ヒューマニズムが次々と現れる

ようになりました。

なかでも、マルクス主義は宗教的決定論の代わりに歴史的必然を強調し、実存主義と

ポスト・モダニズムは自由を根本とする徹底的立場を選んでいます。

こうした思想は、一部の宗教的伝統が失ったものを「人間の自由」の名によって回復

させようと試みたものだったともいえます。

池田
「人間の自由」といえば、キルケゴールの実存思想などに影響を受けた、サルトル

が有名な言葉を残していますね。

テヘラニアン
 人間は「自由であることを宣告されている」との言葉ですね。

第二次大戦前後の荒涼とした時代に著述活動をしていたサルトルは、すべての存在に

意味を認めず、無意味な世界で人間は孤独であるけれども、自由と責任のある生を

生きなければならないと主張しました。

それ以前にニーチェが宣言したように「神は死んだ」世界では、人間は自分のみならず、

他者のためにも、選択をしなければならないという重大な責任を負っているのだ、と。

つまり、一つの選択をするにあたっては、常にその選択に含まれる倫理実践上の意味

を考慮するとともに、自身の行為が他者に採り入れられる場合の結果を常に想定

しなければならないというのです。

池田
 そこにある種の「他者へのまなざし」が生まれる契機もある、というわけですね。

テヘラニアン
 ええ。このように定義される世俗的ヒューマニズムならば、それは必ず

しも宗教的伝統のヒューマニズムと矛盾するものではないでしょう。

しかし人間の生き方という面から考えるならば、キルケゴールやパウル・ティリッヒが

いみじくも指摘したように、人間は世俗的ヒューマニストや実存主義者であるよりも、

宗教者たりうる存在といえます。

私は、この人間の生き方を深い部分で規定していく宗教的精神こそ、SGIに脈打つ

大乗仏教や、スーフィーの教えの根本をなすものではないかと解しております。

そこでは、かたくなな教条(ドグマ)や権威的指導者の教説に盲従するのではなく、

自らが主体的に意識的に倫理上のことを決定し、その結果に責任をとるように

求められます。

つまり、こうした教えの前提には、すべての人間には、利己心を超え、普遍的な善をめ

ざす潜在能力があるとの思想があるのです。
 

男子部Tくんの嘆き

 投稿者:ひかり  投稿日:2017年11月20日(月)01時15分36秒
  Tくん「公明党、つっくづく、サイテーだなって思って」

ひかり「え、どうして?」

Tくん「今、改憲について、ゴネてんじゃないすか」

ひかり「はい」

Tくん「次の選挙のことしかないんですよね、対策っしょ、対策。 ポーズ」

ひかり「まあいつものパターン?ですかねえ」

Tくん「どうせ強行採決するんじゃないすか? もう信用ゼロすね」

ひかり「ゴネてのち、強行採決が定番ですからねえ」

Tくん「よく恥ずかしくないもんすね」

ひかり「笑」

Tくん「何回もあのパターン、やっててすごいすね、ある意味あっぱれじゃないかと」

ひかり「笑」

Tくん「ツラの皮が象なみってことすか」

ひかり「象なみ(笑)」

Tくん「党名が自虐つーか、皮肉になっちゃってますね、もう」





 

Cさん、のろける。

 投稿者:ひかり  投稿日:2017年11月20日(月)00時08分47秒
  Cさん「うちの旦那、見直しちゃった」

ひかり「ほお」

Cさん「男子部の時から、おかしいおかしいと思ってたことが、合点がいった。俺たち、間違ってなかった。 やっぱりヤツラ、変だった。 池田先生が、本幹で言われていたことが、ことごとく納得だ、って」


ひかり「本幹?」

Cさん「そう。 ずいぶん前から、本幹の後は、旦那と変だよね変だよねって話してたんだけどさ」

ひかり「変だよねって」

Cさん「そうですよ。 変だったですよ」

ひかり「アキヤー!とかコンペートーとか、あのあたりかな?」

Cさん「もっともっと前からだよ」

ひかり「どのくらい?」

Cさん「21世紀から」

ひかり「ほおー。 で、見直したって、何を?」

Cさん「あ、広布基金、やめようって、あと、当分会合もテキトーに。 新聞もね。 抗議の意思表示」

ひかり「ああ、そっか」

Cさん「旦那が決めたの。 私、言えなかったけどさ。 なんか、見直しちゃった」










 

同盟題目

 投稿者:  投稿日:2017年11月20日(月)00時00分27秒
  今晩は、皆様
ありがとうございました
池田先生、奥様、皆様のご家族が健康長寿であります様に

3.11の震災で、被害に遭われた地域の学会員さんとお話出来ました
聖教新聞の発表は、現実とかけ離れていることの様です
原田会長、副会長は手を差し伸べるべきです、現場に行くべきです
会員さん達を励ますべきです、仕事をしなさい
聖教新聞記者は、大本営発表をやめなさい
東北地方に御題目を送らせていただきました
おやすみなさい

 

東京座談会

 投稿者:窮状  投稿日:2017年11月19日(日)23時47分27秒
  SaySaySayさんへ

本日、某テレビ局が取材に来ました。
正式にはお三方のブログに出ると思いますが、
今週か来週の水曜日夜11時からの
ニュース番組で放送される予定です。

関西で放送されるかわかりませんが、
されなければ、どなたかがYouTubeで
流してもらえると思います。
 

Pさん激怒する

 投稿者:ひかり  投稿日:2017年11月19日(日)23時45分47秒
  幹部に声を荒げたことなどなかったPさんが激怒。


Pさん「拠点に来た圏幹部に、公明党大敗北をどう考えてんのよ?って聞いたのよ」

ひかり「はい」

Pさん「そしたらさ、幹部で何回も話し合ったんですけどって言うんだよね」

ひかり「へええ」

Pさん「幹部だけで話し合ったのか何度も?って聞いたよ」

ひかり「はい」

Pさん「そうです、何度もです、って言うわけだよ」

ひかり「ふうん」

Pさん「あたしらとなんで話し合わないんだよ!って言ってやった」

ひかり「ですよねえ」

Pさん「頭くるよ。 幹部で何度も話し合ったからって何かあるのかっつっても、別に何もって言うんだから。バカじゃないの?」


ひかり「支部幹部は、その場にいたんですか?」


Pさん「いたよ! 黙っててさあ。頭きたわよ。 あんたら、どっちの味方なの? なんで黙ってんの? あんたらも文句言ってたでしょ? 言いなさいよって、もうガミガミ言ってやった」


ひかり「支部幹部から上ってのは、何なのかな」

Pさん「グルよ。グル! みんなバカ!バカの集まり!」

ひかり「支部幹部から上は、活動家とは違う立場だって意識?」

Pさん「いや、特別なことなんて、何もないでしょうよ。 おんなじボンクラでしょうよ。 なんで、あたしらと同じに、公明党に文句言ってやろうとか、上をガンガン動かそうとか、思わないんだっつの! ああ頭くる!」

ひかり「で、そのあと、どうしたんです?」

Pさん「ああ、ああ、もういいよ! あんたらとの話はオ・ワ・リ!って言ってやった!」

ひかり「笑」

Pさん「そしたら、あの圏幹部、ギロってにらんだんだよ。 何様よ、まったく」







 

同盟題目

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年11月19日(日)22時54分38秒
  23時に開始です。池田先生と奥様のご健康を祈ります。
よろしくお願い致します。
 

トランプ大統領が核攻撃を命令しても、違法と判断すれば従わず

 投稿者:政局  投稿日:2017年11月19日(日)22時14分1秒
編集済
  別の選択肢を提案する考えを明らかにした。

(ハイテン米戦略軍司令官)

米CBSテレビが報じた。

https://this.kiji.is/304772860973778017
 

御都合主義のファンタジーに自閉しないために

 投稿者:小作人@地上の発心  投稿日:2017年11月19日(日)22時13分4秒
  石田次男の後を継いだ“秋谷城永編集長”の聖教新聞が第三代会長就任式を報じた時から、
師弟不二ごっこの言葉遊びはスタートしていたということである。
そして遅くとも公明党結成の昭和三十年代末までには、秋谷たち信濃町官僚がディテールを描出した、
会員統治のアイコンとしての池田大作像が完成していたと見るのが妥当。
先生ご自身の意思とは無関係に、将来の政権獲得を睨んで十年十五年のスパンで計算しつくされたカリスマ演出に余念がなかった。
(衆院単独過半数が射程に入れば満を持して公明党「総裁」になっていただき、、、との北條浩発言も、その一端が垣間見えたもの)
言論問題による政教分離宣言で頓挫してしまうが、一方で宗門からの独立企図(これも先生の本意ではない)が背景にある、
福島や原島主導のいわゆる「池田本仏論」キャンペーンが、強弱を付けながら「4.14」で破綻を迎えるまで継続し、
その過程で様々な都市伝説・・・大聖人の生まれ変わりだとか諸々・・・を生み出しながら虚実入り混じった池田神話がデフォルメされていった。

ようは生身の池田大作という一個人のパーソナリティーから完全に乖離した地点で銘々がカリスマごっこに狂奔し、
収拾がつかなくなったところで結局先生に詰め腹を切らせて後は知らんぷり……が54年問題の深層にあるわけだ。

で、自分が今日まで思い描いてきた、疑いもなく自明のものとしてきた池田大作像が、
遠い過去に醸成された信濃町話法の文脈に沿ったもののバリエーションの域を出ていないのではないか?
まずはそこから検証してみよう、見つめ直してみよう、他人が語り尽くして手垢の付いた池田大作論に準拠した師弟論に束縛されていないか確かめる良い機会だということ。。

例えばこの数ヶ月間で、私の周囲の当掲示板閲覧者で一番反響を呼んだのは、どなたかが貼ってくださった航空写真。
「ああやっぱり嵐桜伐採されていたんだ。なんてことするんだ!!」という落胆と怒りの声。

嵐桜に限ったことじゃない。まさかこんなことはしないだろうとの常識の範疇を超えた横紙破りを次から次へとやらかす原田執行部の理解不能な暴走をなすすべもなく凝視するしかない苛立ち。。

各人が今まで漠然とイメージしてきた「創価学会とはこういうところだ」との共有概念、最低限の了解事項が根底から音を立てて崩れ去っていく現状に対し、
現場の真面目な活動家なら程度の差はあれ誰もが抱く困惑と混乱ぶりを、積年の懊悩を添えてサンダーバードさんは正直に体現なさっていると受け止められないか?

自分がさも正しい師弟観に立って他者の非をとなえているかのような錯誤。
その自明の理とされる諸々の前提をまず疑ってみるスタンスが今求められているのだ。

それができずして、各自が勝手に自己都合で作り上げた偶像としての池田大作に縋り付いていては、
如何にしてこれから非戦・平和、人権尊重の哲学としての池田思想を、異なる思想信条・価値観を有する人々へも敷衍させていけるのか?

キョーサントーとは協同するななどと、何か自分が絶対的強固な価値体系に依拠しているかのような高見に立った不遜な物言いをしているようでは、
異なる立場にある他者と繋がる回路を塞ぐ近視眼的なドグマチシズムが濃縮されるばかりである。

創価学会という究極のムラ社会で紡ぎ出される御都合主義のファンタジーに自閉していてどうやって折伏なんぞ出来る?
自己満足のドグマの押し付け。草創期によく言われた「宗教の押し売り」に終始するだけだ。

ジキホーガキの群れが身を持って教えてくれたパラダイム・チェンジ。
解散ではなく創価学会消失。そして自立した信仰者のロールモデルを各人各様の流儀で価値創造しゆく再出発。。


 

悪を責める。

 投稿者:ニューリーダー間鹿メール  投稿日:2017年11月19日(日)22時09分0秒
  悪を責めることは大事です。しかし、信心をしていない不幸に泣く人達は今後はどうなるんでしょうか?もう組織にはつけさせることはできませんし、それだけの力はありませんよね。  

奇妙な会憲さんへ

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年11月19日(日)21時58分43秒
  >いずれにせよサンダーバードさんの言うことを今後マジメに受け取ってはならないと思います<

僕は仏性を信じたいね(^^)

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

(無題)

 投稿者:奇妙な会憲  投稿日:2017年11月19日(日)21時48分49秒
  えーと

> 「糾弾した後で相手が改心すれば」が成立する状態ですか?
> 傷ついての行為であったようだし、こんだけ疲れ切ってれば正気も失うでしょ

てことはサンダーバードさんが「正気失ってる」って思ってるわけですか?
「リアルの池田先生を知ったから言動や態度が変わったものと見えます」ってのはなんだったんでしょうか……

正気失ってるなら糾弾してもしょうがないけどもし嘘ついてたなら別でしょう。
そして「傷ついての行為であったようだし」も「こんだけ疲れ切ってれば」も
サンダーバードさんの言動から読み取るのは無理だと思いますよ。
私には嘘ついてたか正気を失ってたかわかりかねますのでこれ以上なにもしませんけど
いずれにせよサンダーバードさんの言うことを今後マジメに受け取ってはならないと思います
 

(無題)

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年11月19日(日)21時15分29秒
編集済
  http://6027.teacup.com/situation/bbs/76649

>目の前で吐かれた嘘に対し糾弾することも無く、その人をそのまま擁護するのは順序が違う。
糾弾した後で相手が改心すれば、一切罪は問わないというのが大聖人の仏法の順序だ。<

「糾弾した後で相手が改心すれば」が成立する状態ですか?
傷ついての行為であったようだし、こんだけ疲れ切ってれば正気も失うでしょ
それでさらに無慈悲なことをやれば『学会なんて大っきらいだ!』となり「アンチ」の誕生となるだけなんじゃないですかね
すでにその兆候が出てることに気がつきません?

いわゆるアンチさんたちの話は内部同士の人間関係の絡みからがほとんど
典型的と言っていいぐらい

いわゆる『憎悪の連鎖』です

しかしどうやらそれを望んでるのもいるようですから利用されないようにね?ちょっと心配


憎悪の連鎖を断ち切るというのも投稿されてましたけど読まれましたか?(^^)
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72780
21世紀への選択 「寛容と多様性」・・ 地球ルネサンスの精神 p55

投稿者の赤胴鈴之助さん、掲載ありがとうございますm(_ _)m

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

ミネルヴァの梟さんに同意します

 投稿者:通行びと  投稿日:2017年11月19日(日)20時39分1秒
  悪を糾弾し正義を叫ぶ側が師匠を嘘つき呼ばわりする事は許せません。

もはや師匠を軽んじてるのですよ。

先ずは池田先生から電話があったというならそれをしっかり証明して頂きたい。


 

いろんなやり方があっていいのではないでしょうか?

 投稿者:ニューリーダー間鹿メール  投稿日:2017年11月19日(日)20時35分11秒
  面と向かって戦陣を切る人。表向きは従っているふりをして苦しんでいるメンバーを影で救う人。私のように一切の会合に出ないと断言して加担しないと決める人。様々でいいのではないでしょうか?  

(無題)

 投稿者:一壮年  投稿日:2017年11月19日(日)20時33分24秒
  法華経薬王品に「我滅度後、後五百歳中、広宣流布於閻浮提、無令断絶、悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩般荼等、得其便也。」とあります。

末法において、妙法を世界に広宣し流布してきたのは、寺でもなく、法華講でもなく、唯一創価学会のみであり、池田先生です。現実に世界192カ国・地域にSGIメンバーがいます。そして未来永劫に人類救済のその戦いをやめることはありません。

先般来「創価学会解散宣言」なるデマ・ウソを垂れ流した人が、ウソがばれて、ここにいられなくなって去っていったようです。どういう立場の人かは存じませんが、学会員ではないことは明らかですから、学会とは何の関係のない、反学会の立場の人であろうと推察いたします。おそらく「学会憎し、先生憎し」という一本の矢が心にささったまま抜けないのでしょう。そのため、創価学会が解散してほしい、消失してほしいという願望を書いてしまったのかもしれません。

しかし、創価学会の断絶を望むということは、広宣流布の断絶を望むということであり、それは悪魔・魔民等の願うところと全く同じなのだと思います。

どうやら、ここは反学会の人たちが、学会員のふりをして、学会に対する不満や愚痴や批判をのべるだけではなく、巧妙に学会や先生から学会員を離反させようとしているふしがみうけられます。しかし、私たち学会員は、決して悪魔・魔民等にたぶらかされることはありません!と一言申し述べておきたいと思います。
 

皆が考える公明党の本来の在り方

 投稿者:くぼたてつ栃木の仏敵退治久保田哲メール  投稿日:2017年11月19日(日)20時12分51秒
  栃木の久保田です。m(._.)m

安倍首相の頭の中にある様な大手の企業!それらを優遇し、経済を立て直して景気を回復しようとの思いはわからないでもない。しかし大手企業はここぞとばかりに自分達の会社の体力を上げようと溜め込んでばかりでけっして溢れるほどの状況ではないと思う。庶民がどんな大変な生活を強いられているか?庶民と共に生活をしてみないとわからないのだろうと思います。

今のまま突っ走っていけば歴史的には必ず支配者として悪名が残っていくと私は感じてます。庶民のしかも一番弱い立場の人々に焦点を当てて政治の舵取りをしていけば必ず善政を施した首相として名を残すことに成ると思う。

本来公明党が、言っていかなければならないことだ!

今やっていることはそれなりに金を持つ社会的立場が上の極めて少数の層の人達を芯に置いて物を考えておりその層の人達だけが力を盛り返し弱い立場の人達が次々とその力に押し潰されつつ有るのでは無いでしょうか?

安倍首相が、知らない日本の社会で安倍首相の舵取りによって弱肉強食に成りつつあるいいや既に成ってきている。その責任は安倍首相と安倍内閣と公明党と学会執行部に原因がありいくら誤魔化していったところで必ず後世の歴史学者とかに安倍内閣の執った政策が断罪される時が来ると思う。

信心無き執行部(*`Д´)ノ!!!師匠である池田先生を利用し、池田先生が積み上げてきた甚大な功績を亡き物にしようとし、池田先生の作り上げてきた学会を乗っ取り破壊しつつある。お前らほど世の中に居て貰っては困る存在も珍しい。

池田先生の一生にかぶって生まれ仰せた福運の故にお前達極悪執行部とも重なって過ごしてきた俺の人生。
今後もお前達の事だけは許す事はない。

 

最低限の協力?

 投稿者:昔の活動家  投稿日:2017年11月19日(日)20時08分9秒
  今の学会組織にはウンザリしている壮年です。
役職は何度断っても何度も来る・・来る度に断り続けております。
新聞啓蒙はノルマ制(ポイント)で、婦人部の悲痛な叫びに負けて他部数購読。
「新・人間革命」も、地区30冊の割り当てで、1冊の購入協力。
民音会員は500円払えば文句も言われないので、やむなく出費。
それでも、「来月の民音は○△ブロックで、行って下さいね。」の当番制。
同じく学会本部参り(?)も行く人が居ないと当番制。
こんな組織だから、役職を引き受けたら大変な重圧に襲われる事は「間違いない!」。
先日は「新聞配達員が高齢の為、変わってもらえないか?}とも・・
私、「配達に困っているなら、新聞やめてもいいですよ~配らずに済むでしょ?」と
言ったら帰りましたが・・いやはや、マイッタ!。

役職のある人は、皆、重複しているし・・負担は増すばかりですよね。
それが「組織を守る」って事なのか疑問です。
現況に合わせた組織体制の見直しをしないならば、崩壊したほうが助かります。
とりあえず、表向きは「最低限の協力」をしつつ・・。
 

第9の怒涛

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年11月19日(日)18時40分10秒
  罪を憎んで人を憎まず的な行き方は、結局現状肯定、何もしないというところに落ち着いてしまうのではなかろうか。

目の前で吐かれた嘘に対し糾弾することも無く、その人をそのまま擁護するのは順序が違う。
糾弾した後で相手が改心すれば、一切罪は問わないというのが大聖人の仏法の順序だ。
ダーハラ執行部でさえ、今すぐ改心するのなら私は受け入れるにやぶさかではない。

ただし糾弾という過程をすっ飛ばして容認するなら、現状を変える力になるどころかむしろ、積極的に不正を追認する事になるだろう。

あの牧口先生の有名な言葉の通りだ。

思うに、ダーハラ執行部の間違いも、根本原因は多分その辺りに有るのだと思う。

ダーハラ怪鳥も安倍首相も、根本的には創価学会の為を思い、日本の為を思ってやっているのだと、擁護しようと思えば出来ないことはない。

百歩譲って多少はそういう部分もあるのかも知れないが、大聖人も牧口先生以下歴代会長も、そういう選択はしてこなかったのは厳然とした事実だ。法華経の真髄を守る為、生命を賭けて来たのが歴史的事実だ。

その部分を変えてしまえばそれはもう、大聖人の仏法ではない。

法華経を行ずれば幸せになれるが、同時に必ず大難を招く。これを矛盾と捉えてあげつらい、不信を抱く人は多いが、それでは成仏などおぼつかない。

法華経は難信難解、そう簡単に悟りを開けるものではないと思う。
私もまだまだ全然悟ってなどいないし、この板の多くの人達もそれは多分同じだ。
既に悟った人には申し訳無いが、敢えてそう言わせてもらおうと思う。

ただ絶好のチャンスが迫っているのは確かだと思うが、チャンスとは言い換えれば、ふるいにかけられるということでもあるのだろう。

第9の怒涛を乗り切るか飲み込まれるか、今後の自分次第だ。








 

唯一の光明を!

 投稿者:あした 晴れるかな?  投稿日:2017年11月19日(日)18時18分13秒
  ──────────

有名な「異体同心事」には「殷の紂王は七十万騎なれども同体異信なればいくさにまけぬ、周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ」(御書1463p)と述べられています。

司馬遷の『史記』によれば
─殷の紂王は悪逆の限りを尽くしている。妲己におぼれ、酒池肉林の宴を張り、自身の意に逆らうものがあれば、あるいは殺し、あるいはその肉を塩辛にし、あるいは干肉(ママ)にし、また、諫言をした忠臣・比干の胸をえぐる等々であった。当然のことながら、民衆の幸福は一顧だにされることがなかった。一方、その殷の支配する諸国の一つであった周に文王がおり、善政をしき、諸国の王の信望をあつめていた。この文王の跡を継いだのが武王であり、彼は文王の遺志を受けて、暴逆(ママ)の紂王を討つ軍をおこした。その時を得た軍に、期せずして八百の諸侯が志を同じくして集まり、討伐に向かった。これに対し紂王は、七十万の大軍を繰りだした─
と記されております。

武王の軍は諸侯が集ったものであったが、天命のもと、悪を討つとの名分を掲げてその士気は十分に高かった。
一方、紂王の軍は七十万と数こそ多いといっても、戦意はまるでなかった。むしろ、心の中では武王がやってくるのを待ち望んでおり、…
池田大作全集24巻
P180~

───────────。
折伏、新聞、選挙、 民音、財務、配達集金、会合、連れ出し…

活動家が少ないので 1人に多くの負担がかかっています 体力がある人はまだ大丈夫ですが…

聖教新聞や創価新報に報道されるような活気は、ほとんどありません。

残念ですが 支部の青年部の活動家は0です。

打ち出しと 取って付けたような指導だけでは 当然の結末でしょう

負の面を見ずに まだこのまま続くのであれば 二の舞もあるやしらんです。

 

戸田講

 投稿者:ロマン  投稿日:2017年11月19日(日)17時49分7秒
  訂正されていますね。
現状、戸田講堂は椅子席になっているが、高齢者の方や、本部幹部会時にはSG I各国からも多数来られたりすることを鑑み、畳の上に絨毯を引き、椅子席にしている。
これを改装で畳を取り払った上で椅子席にする。また、高齢者の方が三階にある戸田講堂まで苦労ないよう、エスカレーターを取り付ける計画があると聞いている。

各地の会館でも改装工事がされているところもあるかと。
 

訂正です

 投稿者:二眼の亀  投稿日:2017年11月19日(日)17時42分43秒
  戸田講堂の件です
https://twitter.com/kosho_no_kanata

とのこと訂正いたします。
 

毎日が座談会

 投稿者:末端信者  投稿日:2017年11月19日(日)16時53分57秒
  宿坊の掲示板こそ、池田先生の言われる
座談会の姿だと思います。

真実の情報、体験、活動報告、そして教学、
それに、毎日、参加できることを、
善知識の皆さんに感謝します。

池田先生は仰っています。

「創価学会にも、将来、思いもよらぬ試練が待っているかもしれない。何もないことなどありえない」

「現在、現れているさまざまな課題は、
すべて万年の基礎を完璧に固めていくためにこそある。
そのための御仏意であると私は確信している。
仏法には一切、無駄はない」  また、

「広宣流布は難事のなかの難事である。
そんなに容易に進むものではない。決して、
あせる必要はないし、未来を見つめて着実に日々、一歩また一歩と前進していけばよい」

広宣流布の名に値しない 空転を繰り返す現在の学会の中で、
この宿坊の座談会が、真実の広宣流布への道だと思います。



 

再掲)動物農場の池田先生スピーチです。

 投稿者:信濃町の人びと  投稿日:2017年11月19日(日)16時53分4秒
  幸せな人様
ありがとうございます。スピーチ全編を再掲します。

■池田大作全集76巻
海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)①
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72076

■海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)②
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72139

■池田大作全集76巻
海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)③
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72366

■池田大作全集76巻
海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)④
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72559

■池田大作全集76巻
海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)⑤
http://6027.teacup.com/situation/bbs/72884

■池田大作全集76巻
海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)⑥
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73097

■池田大作全集76巻
海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)⑦
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73153

■池田大作全集76巻
海外派遣メンバー協議会 (1991年2月14日)⑧
http://6027.teacup.com/situation/bbs/73176

~~~~~~~~~~~~~~~
おはようございます。 ?投稿者:幸せな人
?投稿日:2017年11月17日(金)06時47分8秒   通報
信濃町の人びと様の動物農場の投稿を、今一度貼らせていただきます。

http://6027.teacup.com/situation/bbs/72076
 

茨木のり子さんの詩 『倚りかからず』

 投稿者:小作人@地上の発心  投稿日:2017年11月19日(日)15時52分22秒
    もはや
  できあいの思想には倚りかかりたくない

  もはや
  できあいの宗教には倚りかかりたくない

  もはや
  できあいの学問には倚りかかりたくない

  もはや
  いかなる権威にも倚りかかりたくない

  ながく生きて
  心底学んだのはそれぐらい

  じぶんの耳目
  じぶんの二本足でのみで立っていて
  なに不都合のことやある

  倚りかかるとすれば
  それは
  椅子の背もたれだけ

  ----- -----

・・・今ここにいる自分とは無関係に、いつの間にか完成型としてそこにある「できあいの宗教」に倚りかかってはいないか?
   誰かが誰かを支配し酷使し督励する方便としての「できあいの師弟観」に呪縛されてはいないと、本当に言いきれるか?

   誰かが先生を嘘つき呼ばわりしたと言葉尻だけをとらまえて拘泥してしまってはいけない。

   創価学会を今日まで創価学会たらしめてきた前提が悉く脆くも潰え去っていったのは、四人組だか五人組だかだけに責めを負わせる事柄ではない。

   他人が語る「できあいの物語」に酔いしれ、他人が用意した「できあいの生き方・日々の過ごし方」を何の疑いもなく受け入れてきた、、、

   創価学会「解散」というよりは「消失」と言ったほうが適切だろう。
   もっと掘り下げれば、今まで自分が創価学会と呼んできた他者との関係性、信心と呼んできた事象の数々、
   池田先生と呼んできた人物への固定観念を再度捉え直す……「池田大作とは誰だったのか?」を各自が問い掛ける時機に巡り合わせたということ。

   しっかりと二本の足で立てているかを確かめ、今しかできない、今だからできること一つ一つへの喜びを噛み締めよう。

   安直に倚りかかる対象が一つもない、手探りでも自立した信仰者のロールモデルを築き上げようとの気概を持って。。。
   
 

こんな生活環境でも

 投稿者:生涯&広布一筋兄弟メール  投稿日:2017年11月19日(日)15時51分46秒
編集済
  広布基金をやれと・・創価貴族さまがたはおっしゃるのでしょうか?

年金は月6万5千円以下…難民化する老人激増の実態
http://biz-journal.jp/2017/11/post_21407_2.html
http://biz-journal.jp/2017/11/post_21407.html

他にも無料奉仕の民音の券販売、刊行物の購入、手弁当の選挙支援活動

聖教購読、拡大・・・

功徳爛漫、歓喜の活動・・はどこか、遠い世界になって老人会のような会合・・

選挙後も休息は許されず・・私の妻も含め休みなく活動している皆さん方。

もっとも、最近ではばあさんも見せかけ活動ですが・・

一人でも、多く目覚めさせたいと願っています。

「弟子の世紀」いいですね・・・

追伸:怪鳥の任期は2019年、11月までなんですね。

   ありがとうございました・・記憶力ほぼゼロになりつつある今日この頃です。







 

池田先生が責めたのは4人組という「人」なのか

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年11月19日(日)13時20分2秒
  こんな生活してると不思議な感覚になったりするんですね

唱題のとき電気をつけずにやると、なんだか自分自身をも含んだ宇宙と一体となってる唱題になってる不思議な感覚というのでしょうか

自分自身が宇宙のほんの一部に感じられて、そんな中で宇宙世界の平和・幸福を祈らずにいられない心境が自然と沸き起こる不思議な心境なんですよね

そんな心境に包まれながらの御祈念はほんと幸福感です

そうした心境のまま日常生活を送ると周囲にも心境が感応しやすいようで不思議というかまさに「妙」な「法」ですね(^^)

やっぱり人は本来は仏性になりたい欲求はあるんだと思います
キッカケがあればかなりの人が徐々に仏性に感応されやがて自分自身の仏性が普通に出しやすくなるようなんですね

それで、そうした日常から最近感じてることだけど
池田先生は4人組やら矢野やらはもちろん、宗門の日顕やらを責めたようだけど
池田先生は、悪いことをする「人」を責めたようで本当のところは「人」ではなく「生命そのもの」を責めたのが本当のところなんじゃないか、そんなふうに最近は感じられるんです

どう言ったらいいかちょっと難しいのだけど、物体としての「人」を責めたのではなくて、生命そのもの=不幸になる一念自体を直接責めたというのでしょうか
いや責めたというより仏性を「蘇る」よう厳しく諌めた、というのが本当のところなんじゃないか、と

4人組のひとりの秋谷元会長
27年ですか?会長をやったのは

その間の悪事のいくつかが掲示板で出たけれど、ほんの氷山の一角というものでしょう
27年間、池田先生は秋谷氏の悪事にどれだけの「仏性」で臨まれていたことでしょうか
掲示板に出てるものだけでも尋常じゃない悪事の数々ですよほんと
僕みたいに記憶力があまりなければとても全部なんて覚え切れないぐらい
その秋谷氏さえも池田先生は除名にまではしていない

それで、今回の場合、参考になりそうなものがありますね
http://6027.teacup.com/situation/bbs/58288
退学した学園生のエピソード   投稿者:寝たきりオジサン   投稿日:2016年10月18日(火)15時02分10秒

早いものですね
この話はもう一年前のものになるんですかf^^;
そんなに経ってる気がしないんだけど

池田先生がどういう行動をとったのか、という視点も大切ではあるんだけど、僕は池田先生の心境の動きに注視して読んでいました


追伸:実は笑ってしまったのだけど
▼▼▼▼▼▼
ある時は「今持っているお金を全部出しなさい」と先生から
かつあげされました。
「帰りの電車賃なくなりますわ」と言うと「歩いて帰れば
いいじゃないか、広布基金だよ」と言われ、帰りにその何倍もの
おこづかいをいただきました。
▲▲▲▲▲▲

池田先生にかつあげされたという表現がジョークにしか感じなくて実はちょっと笑えましたf^^;
どんな池田先生の姿のかつあげだったのだろ~~と(笑)
いや失礼f^^;
「かつあげ」ではなく『今考えると財務の精神を教えていただいたんやなぁと思います。』ということなのがわかる範囲だけどf^^;

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

五千の上慢

 投稿者:ミネルヴァの梟  投稿日:2017年11月19日(日)12時01分43秒
  安倍政権やダーハラ執行部を批判するのは正しい事だが、調子に乗って、遠回しに池田先生の事まで批判したり、嘘つき呼ばわりする人達が一定数いる。

そういう人は宿板にもいるし、宿板ほぼbotでも何人かいる。

同じ様にダーハラ執行部を批判しているからと言っても、そういう人達が本当の味方とは私にはとても思えない。

そういう人達は本当は先生が嫌いなのだろう。
仏法を行じていながら「師」という存在を、心のどこかで否定しているのだ。
自分のほうが中心なのだ。

釈尊が法華経を説こうとした時席を立った、五千の上慢に似た生命を感じてしょうがない。

自分の事を嘘つきと言うのは勝手だが、先生の事まで嘘つき仲間の様に言うとは何事だ。
凄く腹が立つ。

先生から直接電話をもらったと言うなら、事実だと証明してから出て行くべきだ。









 

サンダーバードさんへ

 投稿者:太ちゃん@歓喜の中の大歓喜編  投稿日:2017年11月19日(日)10時43分10秒
編集済
  なるほどねぇ

サンダーバードさんの名誉会長へのそうした「思い」はけっこう聞いたりしますよ
僕は内部外部にあまり関係なく絡んでいるし、リアルではなおさらなんだけどf^^;

とりあえずね、僕はぜんぜん怒ってないよ?
サンダーバードさんが根っからの悪い人とはとうてい思えないから擁護したんですよ
それは「自分の意思」であって自己責任ですからサンダーバードさんうんぬんではないです

サンダーバードさんの話だけでなく、極論を言ってしまえば池田名誉会長の話でさえも「どのように解釈するかも自己責任」という前提でいるけどね
そうでないと話をあまり理解しないまま鵜呑みにしてしまうだけで「自分自身の応用力」がつかないのを経験的にわかってるからなんだけどね
名誉会長の話を「指導」ではなく「話」という次元からみても十分に優れた内容と僕は感じてるんです


そういう話はともかくf^^;

そういう状態なら日常を人界を象徴する生活にすることで元気が出てきますよ(^^)
あんまり本心と違うことをやろうとしたことがだんだんストレスが効いてきてこうなったんだろうから
自分の自然な気持ちのまま「平らかなるは人」でしたね(^^)
まずは自分の自然な気持ちを取り戻したほうがいいですよ?

そうした日常で無理なく自然な範囲で唱題をすることでサンダーバードさんは幸福になっていけますよ(^^)
こんなに真面目なんだもん
仏が見捨てるわけないじゃん

真面目な心境でいるのは同じなのが確認できるので他の人の温かい言葉があったのでしょうね
しつこいようだけど僕はぜんぜん怒ってないからね?f^^;
ただただサンダーバードさんが福徳に包まれた幸せな人生になって欲しいな、という感じだから(^^)

http://www.geocities.jp/bosatu2015/

 

わが友に贈る 2017年11月19日

 投稿者:どうみょうてん  投稿日:2017年11月19日(日)09時54分38秒
  一人の勝利の背景には
無数の同志の祈りがあり
人知れぬ支えがある。
この麗しき人間の絆を
地域に社会に万代に!
 

本日の聖教広告

 投稿者:メンチカツ  投稿日:2017年11月19日(日)08時33分1秒
  ゆほびか 斎藤一人「最高の定め」を生きる法

コイツあやしいと思ってググってみた。
↓↓↓

観音信仰と経営体験に基づいた独自の人生観を持ち、それらを論じた人生訓・自己啓発に関する関連書籍などを出版している。

自著にて発表するところでは、高額納税者公示制度(長者番付)12年間連続10位以内。実質手取り額(税金を差し引いた残りの額)で日本一。2001年までに納めた税金は国税だけで138億1910万円。総資産200億円、平均年収は30億円
\\\\\\\\\\\




 

本日の政教珍聞で~す、原田怪鳥様、創価の世雄、専門部「記念総会」の開催御参加、誠に、ご苦労様で~す(笑)

 投稿者:カンピース  投稿日:2017年11月19日(日)08時16分24秒
  おはようございます。原田怪鳥様、創価の世雄専門部、11・18「部の日」記念総会への御参加、誠に、ご苦労様で~す(笑)

またまた、ナニやら、御書(経王殿御返事)を引用なされて御指導されたみたいデスが、果たして、その御書でイイんデスかぁ~(笑)

>つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし<(御所P1124)

しかしながらデスねぇ~、原田怪鳥様、この御文の前にナニが書かれているか御存知デスかぁ~(笑)

>但し御信心によるべし<(御所P1124)って、あるんデスよぉ~(笑)

で、そこで問題になるのは、原田怪鳥様に「御信心」があるかってコトデスよねぇ~(笑)

「11・18」も過ぎ、名実共に、独裁者となられた原田怪鳥様、「指導者」ではなく「独裁者」に果たして信心があるのでしょうかぁ~(笑)

まあ、独裁者となられた原田怪鳥様が、今後どの様な「御信心」を見せていただけるかを静観させていただきマスが、

くれぐれも、処分だの除名だの制裁だの恫喝だのといった「キチガイに刃物」状態にならぬように祈ってまぁ~す(爆)


それと、原田怪鳥様、なんとか「珍・人間革命」29巻を売ろうとされていらっしゃるのか?

わざわざ、あらすじなどを掲載され、「この一瞬こそが黄金の時!」などと煽られていマスが、

「清新」の章でのあらすじでは、大切な部分が紹介されてないデスよぉ~(爆)

言わずと知れた、清新六十、

>いや、私は、会長を辞めようかとも考えている。今や、学会本部には、世界中から大勢の同志が来る。海外の要人との対応も大事になっています。だから、会長は譲って、世界のために働こうと思っているんです<

この部分デスよぉ~、従来の山本伸一としては有り得ない決断が記された時デスよねぇ~(笑)

あらすじ、などというのであれば、この方向転換の瞬間を紹介するべきでしょうねぇ~(笑)

それとも、都合の悪いコトには頬かむりして誤魔化すのか? もしかして編集上の都合でカットされているのか?

ぜひとも検証してみたいと思ってまぁ~す(爆)


ともあれ、原田怪鳥様、各地各部に新たな布陣などと新任人事が紹介されてマスが、

この人事が、粛清の結果としての人事発表でないように、期待しないで待ってまぁ~す(爆)



 

二十一世紀への対話 175

 投稿者:まなこ  投稿日:2017年11月19日(日)08時05分15秒
  【トインビー】 ただいまの御説明に対する私の解釈が正しいとすれば、大乗仏教の法華経学派によると、“涅槃”とは再生が終わることではないということですね。つまり、再生は無隈に繰り返しながらも、生まれ変わった自我がそのカルマの好転に成功すれば、その生命は、無限に繰り返される再生において苦悩の境涯ではなく、幸福の境涯に入る、しかも幸福は“小我”が“大我”に近づこうとするなかにある、ということですね。
この教義は、ヒンズー教のなかの“小我”の本質は“究極の精神的実在”(“汝はそれなり”)に一致すると信じている学派で立てている教義と、同じものでしょうか。

【池田】 ヒンズー教はインドの伝統的な宗教であり、仏教はそれを変革しようとした非伝統的な宗教である点が対照的ですが、思想的には多くの点で同じ基盤に立っていることが認められます。
ヒンズー教と仏教とは相互に相手の理念を取り入れつつ、独自性を主張してきたともいえるでしょう。仏教は、それ以前、インド社会に影響を与えていたバラモンの教えを用いて、自らの教義を特徴づけています。仏教の後に確立されたヒンズー教も、仏教の影響を多大に受けているようです。
ウパニシャッド哲学の“汝はそれなり”という思想の影響は、仏教の中心的教義にもみられますし、その後のヒンズー教においても中心的な思想となっています。この原理は、インド民族の偉大な発見の一つといってよいでしょう。
ただ、この“小我”が“大我”に接近していくための方法については、小乗仏教が“小我”を滅することによって“大我”の中に立たせようとするのとは違って、大乗仏教においては、“小我”を否定しないで“大我”に融合させることに主眼をおいているのが、特徴であるといえるでしょう。

【トインビー】 結局、欲望に対処するにはいかなる態度が正しいのか――これに対するわれわれの判断は、われわれが“実在”の本質をどう認識するかで決まってきます。私の感ずるところでは、“究極の実在”とは、われわれがここで“宇宙生命”あるいは“大我”(宇宙的・普遍的自我)
と呼んだもののことです。表現としては、後者のほうがより明確でしょう。なぜなら、それは個個の人間の自我における二元性・両面性を示しているからです。
一面では、“小我”は――物理的自然から直喩を借りていえば――“大我”の一断片です。それは、全体から孤立した、全体のなかの一小片であり、――自己にとって最も抵抗の少ない行き方をするかぎり――全体に対して自己主張をし続けます。“小我”がこのような自己中心的な行動をとるかぎり、それは“大我”にそむき、離反することになります。
こうした“小我”と“大我”の関係は、正しいあり方ではありません。これを改めないかぎり、人間は決して善良にも幸福にもなれないでしょう。このことが真実であることは、あらゆる善意の人々が認めるところであると思います。それは、小乗仏教徒でも大乗仏教徒でも、またキリスト教徒でも不可知論者でも、その他の精神生活の求道者でも、同じであるはずです。ただ、彼らが意見を異にする点は、この共通の目的を達成するうえでの、それぞれ独自の処方箋にあるのです。
私の浅い知識の及ぶ範囲内で申し上げれば、あなたは“小我”と“大我”の分離、対立、緊張を克服するための小乗仏教の処方箋について、正しく説明しておられるようです。小乗仏教の阿羅漢は、“小我”を消滅させることによって“大我”との合一・調和を回復しようとします。そして、“小我”の消滅とは、あらゆる欲望を区別、差別することなく、全面的に消滅させることであると考えるわけですが、それ自体は正しい考え方です。
しかし、私も、あなたのおっしゃる通り、“小我”と“大我”の調和・合一を回復するための小乗仏教の処方箋は、実行不可能であると思います。個人は、“小我”を滅することに成功したとしても、それによって“大我”と再合一できるわけではありません。それどころか、むしろ自らを“大我”への接近から断絶させてしまうでしょう。この事実は、あなたが「一貫した自我の存在というものは否定できない。自我の意識は、生命の本然的な特性ともいえる」と指摘された通りです。
これが“我”におけるパラドックスであり、またむずかしいところです。“小我”があって初めて、われわれは“大我”を意識し、それに接近することができます。また、“小我”が自らにとって抵抗の少ない道を選べば、“大我”に背くことになるのも事実です。これら二つの事実が確かなものであるところからみて、小乗仏教の処方箋はあまりに単純すぎます。それどころか、あまりに幼稚です。たしかに“小我”の超克は必要なことです。しかし、われわれの立てるべき目標は“小我”の消滅ではなく、その方向を転換させることでなければなりません。つまり、小乗仏教の分析では“小我”をもってあらゆる欲望の“巣”であるとしているわけですが、欲望にもいろいろな種類があるため、われわれとしてはそれを見分ける必要があるのです。われわれは、自己中心的な欲望は抑制し、従わせていかなければなりませんが、“大我”との調和・合一へと向かう利他的な欲望は、――自我にとってどんなに犠牲が大きくとも――追求していかなければなりません。

【池田】 私は、そうした融合を実現する方途は、博士のいわれる“自己超克”に通ずるものではないかと思っています。そのように考えて誤りがないかどうか――この点を明確にするために、“自己超克”の意味をもう少し具体的に説明していただけませんでしょうか。

【トインビー】 私のいう“自己超克”とは、人間が、“小我”を“大我”に統合させる道程において、自らの“小我”につきまとう欲望を克服することです。個人が啓発され、悟りを開くことは、社会改革の方途として不可欠のことです。なぜなら、われわれ人間が生き、活動する場であるこの現象世界にあっては、行為者はすべて個々の人間であるからです。“自己超克”を達成する具体的な方法は、“小我”の本来的な欲望の一つである慈悲の導くところに従うことです。この慈悲は“小我”の関心の及ぶ範囲を拡大させ、“大我”全体をも包容させようとする欲望です。
このまぎれもなくきわめて重要な点においては、大乗仏教はユダヤ系の宗教――ユダヤ教、キリスト教、イスラム教――からも支持されているように、私には思われるのです。アラビア語で“イスラム”とは“自己放棄”、つまり“大我”に奉仕すべく“小我”を放棄することを意味します。これは、ユダヤ系諸宗教においては、“神”という擬人的な用語に象徴されています。私は、仏教による非擬人的な語彙のほうが、“我”についての言葉で表わせない真実を、より巧みに表現していると思います。

【池田】 私も、そう考えています。仏法では、“大我”とは宇宙生命そのものであると説いています。仏法の生命観の究極は、われわれ個人の生命が、その奥底では、この宇宙生命と一体になっているということです。換言すれば、人間生命は、宇宙生命が個別化、個性化したものであるともいえましょう。
人間生命の特質として、その能動性・発動性としての力をあげることができますが、その力をもたらす根源的実在は、宇宙生命に内在する“法”であるといえます。大乗仏教がユダヤ系の宗教と異なる点は、じつはここにあるのではないかと私は考えています。“神”という――ゴッドにせよ、アラーにせよ――擬人的な存在を想定した場合、人間生命それ自体に内在する能動性・発動性は、人間生命自体のものではなく、他者から与えられたものになってしまいます。とすれば、人間は、外からエネルギーを注入されて動く機械と変わらない、とさえいえるのではないでしょうか。
これに対して、大乗仏教は“法”としてこれを考えます。この“法”は、人間を離れて存在するものではありません。人間生命と宇宙生命とを貫いているものなのです。したがって、人間自身のうちにあるこの“法”を自覚することが、すなわち、人間生命と宇宙生命の一体性を覚知することになるわけです。
つまり、“究極の実在”を、ユダヤ系の宗教では“神”すなわち人間的存在としてとらえたのに対し、大乗仏教では、それを“宇宙生命”、そしてその底流に働いている“法”としてとらえているのです。

【トインビー】 たしかに“大我”は“神”と解釈するよりも“法”と考えるほうが、説得性があるようです。また、小乗仏教の欲望超克の方法は、大乗仏教のそれに比べて実践が困難であると思います。大乗仏教とユダヤ系諸宗教は、人間の行動に関する小乗仏教の規定に相反するものを、ともにもっているように思われます。すべての高等宗教は、人間が自己本位の欲望を克服することを要求していますが、これはじつに困難な課題です。
【池田】 欲望の克服は、たしかに困難なことです。しかし、人間はあえてこの困難な努力をしなければ、その内面にある“獣性”によって支配されてしまうでしょう。
私は、それらの高等宗教が“大我”の正体を明らかにできなかった点に、実践方法のむずかしさを生み出した原因があると考えます。つまり、自我を克服するといっても、では何によって克服するのか、克服される自我が欲望や感情などであることはわかるにしても、克服する主体たる自我とは一体何か、そしてその自我と“大我”とはどう違うのか――ということです。
仏法では、克服の主体である自我は“大我”と同じであり、したがって、悟ってみれば、自我はたんに“大我”の断片ではなく、それはそのまま“大我”それ自体であると説いているのです。ただし これはもちろん“仏界”という究極の悟りであり、それは内心の自覚であって、行動のうえでは“大我”の部分であることには変わりありません。したがって、自我の生き方は、博士のおっしゃるように、常に自己を宇宙に捧げようとすることでなければなりません。
私は真実の宗教の役割とは、人間に欲望超克の力と勇気を与え、その“人間性”を開発することにあると思います。そして、この宗教は、人間をしてその内奥にある“生命”という実在を覚知させ、さらにそれを宇宙生命へと融合させていく力をもっていなければならないと思います。

【トインビー】 実際には、“小我”も“大我”も同じです。そのゆえに、私は“汝はそれなり”が真理だと信ずるのです。しかし、この“汝はそれなり”というのは、たんなる知的な命題にしかすぎません。したがって、それは倫理的行動によって、まぎれもない真実であることが証明されるまでは、たんに真実であることの可能性を含んでいるにすぎないのです。しかも、この行動は“小我”によって実践されなければなりません。“小我”は、その貪欲性のゆえに“大我”から疎外されています。この貪欲性は、“小我”が、自らの目的のために宇宙を利用しようとする欲望です。貪欲の反対が慈悲です。この慈悲を実践することによって、“小我”は、現実において
“大我”になることができるのです。
 

世界で一番強い言葉

 投稿者:虹の戦士  投稿日:2017年11月19日(日)06時42分37秒
編集済
  法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔法王・日月・
衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の
心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり、我が己心の
妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経
とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば籠の中の鳥なけ
ば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥
も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて
必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩
の仏性はよばれて悦び給ふ、されば「若し暫くも持つ者は我れ則ち
歓喜す諸仏も亦然なり」と説き給うは此の心なり、されば三世の諸仏も
妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐・
一切衆生・皆成仏道の妙法と云うは是なり。是等の趣きを能く能く心得
て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。
日 蓮 在御判

法華初心成仏抄


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南無妙法蓮華経は太陽のように
世界で一番強い言葉
南無妙法蓮華経は母の笑顔のように
世界で一番やさしい言葉
南無妙法蓮華経は蓮華の花のように
世界で一番清らかな言葉
だから今日もいってみる
何回も何回も
一切衆生の幸福と世界の平和を祈って
ひとりのときも
みんなといるときも
何回も何回もいってみる
一切衆生の中には
自分もふくまれてるし
あのひとたちもふくまれている
一切衆生の幸せを祈ることは
国も民族も性別も年齢も関係ない

いつまでおんなじ南無妙法蓮華経
を唱える人たちどうしで互いに争う
必要があるのだろうか。

看板に騙されてはいけない、
一切衆生の幸福と世界の平和を祈る
ひとたちが集まることが大切

日蓮大聖人の名前で
一切衆生の幸福と世界の平和
を忘れた集まりがどこかにあるかもしれない

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池田先生のことを思うと、青春時代の
先生は健康もすぐれず、貧しく、道に迷う
みんなと同じ一人の青年。
その青年が、戸田先生と
出会い、異体同心の信心で折伏をして、
日蓮大聖人様の仏法でみんなを幸せに
していった。

そして、やがて世界のリーダと対話し、
世界中に大学を作り、ノーベル賞の候補にもなった。

まさに、ダメな凡夫が日蓮大聖人様の
仏法で立派な凡夫になれることをみんなに
示してくれた。池田先生を批判したり、
馬鹿にする人たち、おなじことをやって
みてから批判してほしい。

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人は言葉に騙される
憲法改正といったときに
三島由紀夫さんが命をかけて
訴えた憲法改正は自衛隊を
日本を守る存在にしたかったからだと思う。
それは日本を憂う、憂国の叫び。





ところが、安倍忖度の憲法改正は
日本をアメリカの属国にして、
アメリカの思うままに自衛隊を
世界に派遣し、アメリカのために
日本人が血を流すこと。自分の
金儲けしか頭の中にはないように思える。
三島由紀夫さんが生きていたら、
安倍忖度の憲法改正には反対すること
でしょう。

一切衆生の幸福、世界の平和を考えたら
やっぱり私は憲法改正には反対、日米安保も
反対だ。言葉を変えれば、一切衆生の幸福、
世界の平和を実現するならどっちでもいいと
思います。
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サンダーバード様へ

 投稿者:虹と創価家族  投稿日:2017年11月19日(日)05時55分23秒
編集済
  >一時でも関わっていたものとして責任はありますからね<

責任感のお強い方です。

真面目で誠実な方である故に、裏表のある人間が許せないのでしょうね。
ズルく生きられないから、過去に酷い仕打ち(抑圧)を受けられたのかもしれません。


>人間を抑圧する組織<

その痛みがこの一言から伝わってまいりました。

信仰者の組織的な抑圧ほど、たちが悪いものはものはない。
「自分が正しい」と思っているからです。

誰もが「自分が正しい」「自分が正義だ」と思っている。
正義の名の元に、人間を踏みつぶす。
それをサンダーバード様は見てきたのですね。


>先生も嘘つき<

サンダーバード様の心には、良くも悪くも池田先生がいらっしゃる。
先生を忘れていません。


抑圧の痛みの中で失われなかった責任感。
その責任感を、誰も踏みつぶす事はできません。

いまは心を、休めて下さい。

必ず共闘できると虹は信じています。
ありがとうございました。

 

11月18日、おしるこ食べましたか?

 投稿者:原田奴隷学会  投稿日:2017年11月19日(日)05時22分38秒
  衣食住という整った環境に感謝も出来ずに、有らぬことばかりを妄想する創価貴族たちよ!
お前らがいる限り、鋭い追求の言論が止むことはない。
いくら同調圧力をかけても、人心は益々離れて、お前らは軽蔑され侮蔑されて誰も見向きもしない存在となり果てる。覚悟することだ。
呑気に会議ばかりやっている、その背後で組織崩壊の序章が始まっており、取り返しのつかない時を迎えてしまった。

おしるこ食べて、題目唱えて下さいね・・・
私はあなた方には協力も援助もしません、もちろん祈りませんよ!無駄な時間を費やすことになり、悪徳の眷属になりますからね。頑張って下さい・・・
 

弟子の時代

 投稿者:dekahappy  投稿日:2017年11月19日(日)04時30分39秒
編集済
  すべての組織が崩落をはじめています。

外に帰属を求めても、確かなものは何処にもなくなってしまいました。

一見、自由な時代ですが、絶望の時代でもあります。

確かなものは、外には、何にも無いことに気がつく時代。
また、本当は、気がついていても、気がつかないふりをする時代、何かにしがみつく時代なのかもしれません。

確かなものを当然探していくでしょう。

平たくいって、一番確かなことは、どんな人も死をむかえること。平等であり、絶対的です。

核が存在する核時代でもあり、死を見つめざるおえない時代。

死を忘れた文明から、死を直視する文明への移行にも思えます。
死を直視するか、逃げるか、ごまかすか、死に逃げ込むか。
きわどい時と思います。

絶望に対しての希望とは何でしょうか?
本当の希望を見つける時なのでしょう。

信仰と死は直結しておりますので、様々な反応があると思います。

以前アルベアさんが教えて下さいました、キューブラロスの死の五段階からのご展開を最後に添付させていただきます。

弟子の時代。池田先生に触れた我々世代。
仏法者とするならば、重くまたありがたい時代と思います。

私も私の立場で、希望を見つけて頑張ってまいります。

dekahappy



アルベア様のご投稿より

「衝撃の五段階」と「気づきの五段階」はエネルギーの「変換」「還元」「循環」現象です。人々が誰でも日常的に繰り返している現象です。この繰り返しの現象の中で「探究」を続けているのです。
少し慣れると誰でも「自己観察」できる現象です。
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1段階 「否認」
突然の出来事に遭遇すると、人々は大きな衝撃を受け、「こんなはずない」と否認する段階。「仮にそうだとしても、自分は助かるのではないか」といった部分的否認の形をとる場合もある。
第2段階 「怒り」

なぜ自分がこんな目に遭うのか、嫌な思いをしなければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。
第3段階 「取引」

取引である。「悪いところはすべて改めるので何とかしてほしい」あるいは「助けてくれればどんなことでもする」などと直面・回避・逃避する取引を試みる。神(絶対的なもの)にすがろうとする状態。
第4段階 「抑うつ」

取引が無駄と認識し、運命に対し無力さを感じ、失望し、ひどい抑うつに襲われなにもできなくなる段階。すべてに絶望を感じ、間歇的に「部分的悲嘆」のプロセスへと移行する。
第5段階 「受容」

部分的悲嘆のプロセスと並行し、死を受容する最終段階へ入っていく。最終的に自分が現実を受け入れざるをえない事がわかってくる。受容段階の後半には、突然「気づき」が生じる場合もある。
「気づき」の五段階

「気づきの促し」から、もたらされた「成仏」「昇天」の五段階を紹介します。キューブラ・ロスの「死の五段階」とは真逆・反転現象の「気づきの五段階」です。
第1段階 「気づき」

自分自身の全てを受容した瞬間に、「キッカケ」により「気づき」が生じます。「キッカケ」とは家族の一言・友人・仲間・映画・演劇等の言葉等が「キッカケ」になる場合が多いです。
第2段階 「喜び」

「気づく事」により、全身にわたる感動・喜びの反応がもたらされます。生まれ変わりの確信等、愛に包まれていたことに「歓喜」するのです。
第3段階 「確認」

自分自身が気づいた事を確かめる「確認現象」がもたらされます。「全てこれでよかったのだ」という満足感に満たされるのが観察されます。
第4段階 「検証」⇒「感謝」

「確認」したことを自分自身で「検証」します。例えば、生まれてきた事、育てられてきた事、出会った人々への感謝が言葉となって自然に語られます。「光の中にいる事」を体感するのです。
第5段階 「反転」

「光」「光の中」を感じると自然に「反転現象」がもたらされます。真面目に・素直に、正直に在る事が生きる事で大切な事だったことに気づくのです。
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※私は「死の五段階」を「衝撃の五段階」と呼んでいます。人は誰でも予期せぬ出来事に遭遇した時、同様な段階を経ていくからです。「衝撃の五段階」は「身体機能」の学習にもなるのです。
「気づきの五段階」は「非二元・悟り現象の五段階」として見る事もできます。
今まで紹介してきた「非二元」「悟り」の体感・体験者が語る「悟りの階梯」をわかりやすく時間軸に沿って示すと次の通りです。2017.8/5.3:32.ブログ参考
「悟りの階梯」と「気づきの五段階」
「探究」⇒一瞥体験⇒「悟りの迷い」(自分がある)⇒「悟り」自分自身が消える
「気づき」⇒「喜び」⇒「確認」⇒⇒「検証」⇒⇒「反転現象」
「衝撃の五段階」と「気づきの五段階」は「反転の関係」「作用反作用」の働きでもあります。
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昨日は組織信仰からの魂の独立記念日

 投稿者:ニューリーダー間鹿メール  投稿日:2017年11月19日(日)02時55分49秒
  これからが本当の信心ができますね。うれしいですね。わくわくしますね。もう組織をとうさず池田先生直決の時代が個人個人できるようにすべて池田先生が手を打たれたのだと私は思っております。もう、自由です。無理な打ち出し、夜中の会合、無意味な公明党支援全部終わりました。これから苦しんでいる人の為に法のため師匠のために動けると思うと最高に喜べます。もう、私も男子部の中で差別を受けることもないと思うとホッとします。組織活動やめて最高に今が幸せです。                                              

お先に御免

 投稿者:サンダーバード  投稿日:2017年11月19日(日)01時51分55秒
  >ここまで強く創価学会を批難されているのは、
心に深い傷と痛みをお持ちだからではないでしょうか。<


嘘つきだらけの創価学会には興味もなく

馬鹿馬鹿しくて関わりたくないのですが

一時でも関わっていたものとして責任はありますからね


あとやはり認識が甘いですね

創価学会公明党(完全同一体、国民を騙して別々の組織をよそおっているだけ)は民衆の敵ですから

人間を抑圧する組織ですから

創価学会公明党が多くの人から強く批難されるのはあたりまえ


先生も嘘つき、宮川さんも嘘つき、私も嘘つきと結論もでたし

あとは時間の問題と思われるので関わるのはやめます

お先に失礼します
 

21世紀への選択 「真理こそ神」ガンジーの宗教観 P340 を投稿します。

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年11月19日(日)01時49分50秒
  第十章世界市民の要件「共同体」と「世界」の往還のなかで

21世紀への選択 「真理こそ神」ガンジーの宗教観 P340 を投稿します。

ポイント
*、池田
 "神は真理であるというより、真理こそ神である"と主張し、セクト性を徹底して

排したのが、ガンジーでした。

 彼は真理について、こう述べています。

「真理に対する献身は、我々の存在を意義あらしめる唯一のよりどころです。

 我々の活動のすべては真理を中心とすべきです。

真理は我々の生命の息吹そのものにならなければなりません」

「真理をぬきにして、生のいかなる原理も規範も認識することはできません」


*、テヘラニアン
 彼の進めた非暴力の実践、その中核をなす「サティヤーグラハ(真理を求め、堅持する

こと)」の運動はすべて、人間の善性を信じ、呼びかける「対話」を基盤としていました。

ですから、"敵"と思われる存在に対しても、彼は分けへだてなく人間的な心をもって

接しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

池田先生が倒れられてから、怪鳥を始め、主任副会長たちはこう言ったに違いありません。

【「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらは、かの偉大な修行者からうまく解放された。】

言うまでもなく、偉大な修行者とは釈迦であり、池田先生です。

鈴之助

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まなこ様の法華経の智慧 第一巻 より いただきました。 感謝!!
如是我聞の意義

名誉会長: その通りです。日蓮大聖人は「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・
未来までもながるべし」(御書 p329)と仰せになっている。

次元は異なるが、一般にも、本当に民衆を思う強い一念は、その人が亡くなった後でも人々の心
を動かしていく。

マハトマ・ガンジーは、こう遺言したと伝えられている。
「私の精神が世界の光明であり得るなら、私は墓の中からでも語り続けよう!」と。

そして、未来の人類まで救おうという師匠の一念を「不二」で分かちもつ弟子の戦いによって、
現実に人は救われていく。現実に「法」が、慈悲の働きを及ぼしていくわけです。

師匠がいる間は、まだ、いいかもしれない。師弟というのは、それが本物であるか否か、師が
いなくなったときに試されるのです。仏法は厳しい。

釈尊が入滅して、皆が嘆き悲しんでいたとき、一人の老僧がもらしたという。

「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。

『このことはしてもよい。このことはしてはならない』といって、われわれは悩まされていたが、
今これからは、われわれはなんでもやりたいことをしよう。

またやりたくないことをしないようにしよう」(中村元訳『ブッダ最後の旅 ?- 大パリニック
バーナ経』、岩波文庫)と。

この老僧を、諸君は、とんでもない人間だと思うだろう。

しかし、現実に人の心というのは、こういうものなのです。

二十一世紀のリーダーである諸君の使命は重大です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
法華経の智慧 第五巻
国家崇拝を拒否

名誉会長: 「大勢力」を誇る四衆が、何の力も持たない不軽菩薩をバカにし、迫害した。
四衆の「力」と傲慢に対して、不軽菩薩は「精神」で挑んだ。

「暴力」に対して「非暴力」で戦った。「多数」の横暴に対して「一人」で戦った。

それは近代においては、インドのガンジー、マーチン・ルーサー・キング師の戦いを想起させる。

民衆による人間愛の人権闘争です。
 

21世紀への選択  「真理こそ神」ガンジーの宗教観 P340

 投稿者:赤胴鈴之助  投稿日:2017年11月19日(日)01時46分10秒
  21世紀への選択  「真理こそ神」ガンジーの宗教観 P340

テヘラニアン
 ええ。そして第三には、現代世界の増大する複雑さに相応する倫理を発達

させるために、在来の諸文明の伝統を適応させようとしている多種多様な宗教的世界観と

世俗的世界観があります。

 これらのなかにも、原理主義者と神秘主義者、全体主義者と自由主義者、現実主義者

と理想主義者が見られるのです。

そこで私の立場ですが、私は自身をマハトマ・ガンジーのような真理の探求者と

みなしております。

 つまり、すでに真理を発見したというのではなく、常に真理を実験するのが好きな

人間なのです。

真理は、それを得たと思った途端に失うものだと、私は思っております。

すでに得たと思えばそれ以上の探求はそこで終わってしまいますし、他の人たちと

ともに真理を求めて対話をしなければならないのに、それも停滞してしまうからです。

ですから、私の考える真理とは、「対話による真理の探究」なのです。

池田
 おっしゃる意味は、よくわかります。

 "神は真理であるというより、真理こそ神である"と主張し、セクト性を徹底して

排したのが、ガンジーでした。

 彼は真理について、こう述べています。

「真理に対する献身は、我々の存在を意義あらしめる唯一のよりどころです。

 我々の活動のすべては真理を中心とすべきです。

真理は我々の生命の息吹そのものにならなければなりません」

「真理をぬきにして、生のいかなる原理も規範も認識することはできません」
(竹内啓二訳『私にとっての宗教』、新評論)と。

また彼は真理を、「内なる声が語ること」であり、「万人の胸の内に存在するもの」

であり、「活気づける力」であると位置づけました。

彼のこうした「真理」に対する考え方は、すぐれて内発的であるとともに、実践的で

あったと思います。だからこそガンジーは、「一人に可能なことは、万人に可能である」

と言いえたのだと、私は考えるのです。

テヘラニアン
 同感です。彼の進めた非暴力の実践、その中核をなす

「サティヤーグラハ(真理を求め、堅持すること)」の運動はすべて、人間の善性を信じ、

呼びかける「対話」を基盤としていました。

ですから、"敵"と思われる存在に対しても、彼は分けへだてなく人間的な心をもって

接しました。

彼は、味方だけでなく敵にも、正しい道を発見し歩めるよう自身の内面を観る

ように求めたのです。

当時、インドにいたイギリス人の多くも、彼の勇気と謙虚さに影響を受けずにはおれ

ませんでした。

こんなエピソードもあります。

・・・ガンジーを獄に投じたイギリス軍の司令官は、自分の長靴に穴があいているのを

苦にしていました。

そのことに気づいたガンジーは、獄中で苦労して長靴をつくり、「あなたのご多幸を祈る

」との言葉を添え、その司令官に進呈します。

感動した司令官は、生涯その靴を自分の部屋に誇りをもって展示し、それをイギリス

とインド両国の友好の証としたのです。

私たちがいま、世界に広めていかねばならないのは、セクト性にとらわれない、広い

意味での宗教的・人道的な精神ではないでしょうか。

池田
 ガンジーは自らの宗教観について、「(私の言う)宗教とは、宗派主義を意味しない。

宇宙の秩序正しい道徳的支配への信仰を意味する」と述べています。

また、その宗教とは「人の性質そのものを変えるものであり、人を内なる真理に

しっかり結びつけるものであり、人を常に清めるものである。

それは、人間性の普遍的要素である」とも述べています。

この開かれた精神性、宗教性こそが、現代社会に求められているのです。
 

杞憂であればいいが

 投稿者:悩める会員  投稿日:2017年11月19日(日)00時32分54秒
  いま、公明党と自民党、公明党と創価学会の分離工作が、各方面でなされています。

ここを拝見するに、憲法9条、真の池田門下のスローガンを掲げる学会員の諸君が多数おられることは、大いに結構。
しかし、反安倍や理念のみを唱え、具体案の全く無い共産や社民と同じレベルにまで落ちたり、あるいは彼らと協同しないでいただきたい。

現実を直視した誇り高き平和勢力たれ。
 

サンダーバード様

 投稿者:男子部Nメール  投稿日:2017年11月19日(日)00時26分31秒
  こんばんは。

一連の流れを見させていただきましたが、サンダーバード様も間違いは間違いと認めるべきではないでしょうか?

サンダーバード様を応援している、平田さんや、太ちゃんさん、虹と創価家族さんに申し訳ないです。

自身の一凶を見破り、お題目を上げ切りましょう!
 

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