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神戸マラソンでリタイアしたらどうなるか

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昨日、神戸マラソンに参加しましたが、途中でリタイアしました😅

完走率は毎年およそ97%程度なので、走りきれなかった3%の一人になった、ということですね。

そう考えると大型都市マラソンでリタイアをするというのはなかなかできない経験です。どうなったのかをちょっとまとめてみました。

 

 

快晴の神戸マラソン

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前日の雨模様が一転して、快晴の神戸。スタート時の気温は9度。

私はこの時点で、リタイアすることを決めていました。理由は、ろくに練習していなくて、きつそうだから。

「練習していなくても走れよ!落選した人に失礼だろ!」

という言葉が、自分の頭の中でも何度もよぎるのですが、それをあえてリタイアしようと思っていました。だからリタイアを決めていた理由を別の言葉で言い換えると、このマラソンを通じて、きついことを自分に課さない練習をしたかったから、と言ってもいいかな。

 

とはいえ、走り出すと楽しい

そうはいっても、走り出すと楽しいものです。特に大型の都市型マラソンの非日常感は格別。だいたいどこでも応援の列が途切れないしね。

特に今回は、途中で辞めてもいいやという気持ちで走りはじめたし、ストップウォッチもスマホのランニングアプリも完全オフなので、私にはプレッシャーが皆無。

完走も目指さない。記録も目指さない。ただ「今ここを走る」という、とてもシンプルな参加になった。だから沿道の応援してくださる方とコミュニケーションを楽しむ余裕もあって、今までとは全く違う走りができたように思う。

例えて言うと、マラソンの最初っからずっとウイニングランをしているような感じかな。

(全然ウイニングじゃないけど)

 

ちなみに私、2014年の神戸マラソンにも出場してます。その時はかなり走り込んだにも関わらず、30キロ地点で足が動かなくなり、結局は4時間30分程度でのゴールでした。。

 

さあリタイア

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楽しく走ってきて「そろそろいいか」と思い、29.1キロ地点の救護所でリタイアしました。

結構ここに至るまで葛藤があった。当初は中間点(21キロあたり)でリタイアしようと思っていたのだけれども、余裕があったのもあって「もうちょっと」「あとちょっと」と欲が出てしまった。

もう少し正直な気持ちを言うと「97%の人が完走してるのだから、途中で止めるのはかっこ悪い」「最後までやり抜けない自分は、他人から笑われても仕方ない」「他の人が頑張っているのに、お前だけ楽をするつもりか」というような思考が、頭の中をグルグルと回っていた。

私には何か目標を途中で投げ出すのは世間体が悪いと思う思考のクセがある。それがここにきて顕著に表れてきた感じ。

 

それを振り切って、救護所へ駆け込む。

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救護所は閑散としている。

まだ29キロ地点だし、この日は天候も気温もよかったので、29キロ時点でリタイアする人は少なかったのだろう。まあ、もっともリタイア率は3%にすぎないというのもあるけどね。

 

救護所では、計測チップが回収され、ゼッケン番号を控えられ、リタイアである旨を申告する。

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救護所の人は(それが仕事だから当然なのだが)、とても体調を気にしてくれる。少し休憩することを促される。スポーツドリンクやタオル、それから防寒シート(アルミのブランケット)などを差し出していただいた。

 

ゆっくりと身体を休める私。

私以外にも数名の人が救護所でリタイアを申告していた。さすがに疲れていて、リタイアをする無念さがにじみ出ているように見える。

 

救護所を後にする

回収バスに乗って帰るという手もあったのだが、バスが出るのは関門閉鎖後(この時からみて約1時間後)で、それまで待つのも寒い。救護所のスタッフさんには電車で帰ると告げて、救護所を後にする。

この時、救護所のスタッフさんから

「電車に乗るお金はありますか?」

と聞かれた。私はリタイアする気マンマンだったからお金を持っていたけど、そうでない人ももちろんいるよね。

 

救護所を出てもレースは続いている。先ほどはあれほどに声援をくれた沿道の人達は、もはや私には見向きもしない(目にも入らないのだろう)。

完全に落伍者である。まあ当たり前のことだけどね。

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ランナーの列を寂しく見送っていたのだけれども、それも見えなくなると完全に空間は日常に。公道を2万人もの人が走り、見ず知らずの人から力をもらいながら走るという非日常の空間は、ごくごく簡単な手続き一つで、完全に日常空間に戻る。

この時点でも、私はまだ「リタイアした無能な私」という気持ちがどこかにのこっていて、モヤモヤした気持ちになる。

 

ゴール地点へ電車で向かう

マラソンのゴールであるポートアイランドには、そのまま電車で向かう。ゴールに荷物が預けられているからだ。

ポートライナーからはランナーの姿が見えて、複雑な気持ちが抜けない。

みんな爽快な顔でゴールをしている。私だけがドロップアウトしたんだという気持ちが拭えなくて、テンションが低い。

(繰り返し言うが、これは私の思考のクセみたいなもの)

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荷物を取りに国際展示場へと向かうが、そこには無情にも「一般者の入場お断り」の文字が。リタイアした私はもはやランナーではないのかも??と思いながら、係のお姉さんに事情を話して入場。

ここらあたりのイレギュラー対応を取らざるをえないところも、落伍者ならではのこと。

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荷物ブースでは、完走したランナーたちがすがすがしい笑顔で、完走記念品(メダルとバスタオル)をもって荷物を探している。こういうところにも落伍者と完走者の違いが見せつけられるわけで、なんとも言えない気持ちになる😅

その後、着替えて自宅へと帰りました。

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リタイアして感じたこと

記事中にも何度か書いたけれども「みんなが頑張っているのだから、私だけが楽をしている」というような罪悪感がつきまとってくるのがよくわかる。

ああ、これが私の思考のクセなのだ。こういうことはマラソンに限らず、いろんな局面で思うよなあ……と、自分のクセについて改めてよくわかった。

 

それと同時に「じゃあこれまでの人生で、何かの目標をたてて、それをやり抜いて、自分は幸せになったのか?」と自問しても、答えがでない。私の人生の場合、何か目標を立てても「まだ足りない」「もっとやらなきゃ」という強迫観念みたいなものに追い立てられて、「もうこれでいい」と思うことがなかったからだ

文字通り私は自分の人生を「走り続けている」わけで、ゴールが見えない。いつかは死んでしまうので、それがゴールとも言えるのだろうが、いつたどり着くかわからないゴールに向かって走り続けるのはとても大変なことだ。その点、マラソンは42.195kmで終わることが明白で、どんなに時間がかかっても7時間くらいでゴールはできるのだから、終りが見えない分、人生マラソンのほうがキツい。

 

そういう観点から見ても「キツいときは降りてもいい」と自分に許可を出し、実際にリタイアをしたこの大会は、ある意味自分の人生で画期的なことだったように思う。罪悪感はつきまったものの、とにかく身体が楽。(走っていないので当たり前だけど)

本気で練習し、本気で大会に参加して、ノンストップで42キロを走りきったら、もうその日は何も食べられないし、興奮して眠ることも容易ではない。もちろん身体はバキバキ。

でもリタイアしたお陰で、ビールも美味しくいただけたし、自宅で昼寝もできたし、昼寝から起きて、家族のご飯を作るくらいの余裕もあったしね。

 

神戸マラソンでリタイアしたらどうなるか

何のプレッシャーもなく走り、沿道の人達とコミュニケーションできたことも、本当によかった。老人ホームや養護施設等の前を通るとき、そこの入居者の方々が一生懸命に応援してくださるのに涙が出そうになった。走るのをやめ、立ち止まって握手をさせてもらった。タイムを気にしていたら、彼らの姿は目に入らなかっただろうし、目に入ったとしても立ち止まることはなかっただろう。

応援に力をもらえるというのはこういうことかということが、実感できた。

 

「神戸マラソンでリタイアしたらどうなるか」という今日のタイトルに一言で答えるとしたら、完走やタイムを目標にしていた時には見えなかったものが見えたとまとめられるかな。

これが「楽しんで走る」ということかもしれない😉

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