○慰安婦募集方法(誘拐含む)
 Q4 慰安婦はどのように集められたか?
 慰安婦たちが申したてた身の上話は、第六章で検分したように、補償を意識してか正確さに欠けるものが多い。とくに稼業に入った動機については、前節で見たように官憲による組織的な「強制連行」はなかったと断定できる。
 では実状はどうだったのかとなると、当時の業者、なかでも女衒に当るのが適切だが、これまでに名のり出た者はなく、今後も期待薄となれば、当時の慰安婦たちから事情を聞きとった人たちの証言から推察するほかない。
 次に列挙したのは、これらの諸証言から私が信頼性が高いと判断してえらんだものである。

A 柴岡浩元憲兵軍曹(北満州チャムス憲兵隊)の証言―
 一九四五年七月、チャムスの軍特殊慰安所で、接客を拒否して業者になぐられていた美貌の朝鮮人女性(金城梅子)から次のような身の上話を聞き、業者に接客を禁じるとも申し渡した。
「私の父は北朝鮮・清津の資産家で町の有力者でした。ある時、大の親日家の父から関東軍が軍属のような立場で、歌や踊り等の慰問を募集している、男の子がいたら軍隊に志願させるところだが、その代りに関東軍に応募してくれないか、と言った。私は女学校で音楽が得意だったので私にぴったりと思って応募したら、実は慰安所だった」
(1)

B 榎本正代伍長(済南駐屯の第五十九師団)の証言―
 一九四一年のある日、国防婦人会による<大陸慰問団>という日本女性二百人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。(2)

C 井上源吉憲兵曹長(中支憲兵隊)の証言―
 一九四四年六月、漢口へ転勤、慰安所街の積慶里で、以前に南昌で旅館をやっていた旧知の安某という朝鮮人経営者から聞いた内幕話。
「この店をやっていた私の友人が帰郷するので、二年前に働ら(ママ)いていた女たちを居抜きの形で譲り受けた。女たちの稼ぎがいいので雇入れたとき、親たちに払った三百―五百円の前借金も一、二年で完済して、貯金がたまると在留邦人と結婚したり、帰国してしまうので女の後釜を補充するのが最大の悩みの種です。
 そこで一年に一、二度は故郷へ女を見つけに帰るのが大仕事です。私の場合は例の友人が集めてくれるのでよいが、よい連絡先を持たぬ人は悪どい手を打っているらしい。軍命と称したり部隊名をかたったりする女衒が暗躍しているようです」(3)

D 鈴木卓四郎憲兵曹長(南支・南寧憲兵隊)の証言―
 一九四〇年夏の南寧占領直後に<陸軍慰安所北江郷>と看板をかかげた民家改造の粗末な慰安所を毎日のように巡察した。十数人の若い朝鮮人酌婦をかかえた経営者黄は<田舎の小学校の先生を思わせる青年>で、地主の二男坊で小作人の娘たちをつれて渡航してきたとのこと。契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂とのことだったが、<兄さん>としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった。(4)

E 総山(ふさやま)孝雄少尉(近衛師団)のシンガポールでの体験―
 一九四二年、軍司令部の後方係り(ママ)が、早速住民の間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた……トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。(5)

F 梁澄子(ヤンチンジャ)が挺対協の日本大使館デモに参加している元慰安婦の金ハルモニから聞いた身の上話―
 一九三七年、十七歳の時に、金儲けができるという朝鮮人募集人の言葉に誘われて故郷の村を出た。どんな仕事をするかは行ってみればわかる、働いて返したあと、たんまり儲かる、そう言うので親の反対も押しきっていった。
 どんなとこでもここよりましだと思って朝鮮人が経営する上海の慰安所へ行った……
日本人のイズミ少尉に助けられ、一九四〇年に帰郷した。日本人を憎いとは思わない。手先になった韓国人が憎いので、デモには来たが、韓国政府に対して怒ってやったつもり。(6)

G 大岡昇平『俘虜記』より―
 彼(富永)はセブの山中で初めて女を知っていた。部隊と行動を共にした従軍看護婦が兵達を慰安した。一人の将校に独占されていた婦長が、進んでいい出したのだそうである。
 彼女達は職業的慰安婦ほどひどい条件ではないが、一日に一人ずつ兵を相手にすることを強制された。山中の士気の維持が口実であった。応じなければ食糧が与えられないのである。(7)

H 野本金一憲兵軍曹の回想
 一九四三年ビルマのアキャブ憲兵分隊の分駐所に勤務していたとき、慰安所のない配属部隊が尊重を通じてビルマ人女性の慰安婦を募集しようと計画したことがあったが、半強制的になっては治安対策上まずいと判断して、連隊本部へ申し入れ中止させた。(出典?)

I 河東三郎(海軍軍属設営隊員)の証言
 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。
 順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。(8)

 このような一連の証言から観察すると、慰安婦になった動機は各人各様、千差万別としか言いようがない。「だまし」と言っても、女たちではなく業者自身も乗せられたらしいケースが混る(ママ)となれば、詮索は不毛の作業になりそうだ。
 おそらく、第六章で紹介したビルマやフィリピンで米軍捕虜となった慰安婦たちのほぼ全員がそうだったように、大多数を占めるのは、前借金の名目で親に売られた娘だったかと思われるが、それを突き止めるのは至難だろう。在日朝鮮人の作家柳美里は、次のように書く。(9)
 どのような方法で朝鮮人慰安婦が戦地に赴いたか想像するに難くない。貧しい一家に年頃にいる……そこへ女衒(業者)が現れて言葉巧みに身売りをすすめる。なかには軍の威厳を笠に強要めいた言動をする女衒もいる……両親に売られ、泣く泣く慰安婦になった女性もいれば、父親が自分を売ったと言えず、軍の強制だと囁き、そう思い込んでしまった女性もいるだろう……様々な慰安婦のなかに強制連行されたと思い込むに足る(思い込むに足るに傍点付)状況証拠があったのだろう……

 やや意外にも思えるが、新聞広告などで公募していた例もいくつか見つかっている(表12―7参照)。
一例は、半島内で最大発行部数をほこる『毎日新報』(唯一のハングル新聞)に出た「軍慰安婦急募」(写真)の広告である。行先は○○慰安所とあるから甘言も何もなく、そのものずばりで首都京城の朝鮮旅館内にいる業者らしき人物が募集主になっている。 
 総督府の御用新聞とされた『京城日報』にも、求人欄にその種の募集広告がある。
 慰安婦と明示されれば、格式を重んじるこの新聞が掲載するはずがないと思われるのに、何かの手違いか四四年七月の広告ページに、自動車会社のタイピスト募集や産婦人科医院の広告と並んで「慰安婦至急大募集」がかなり大きな枠を取って堂々と出ている。
 前借金の三千円は現在だと一五〇〇万円ぐらいに相当する破格の高値だが、実際にはもう少し安かったのかもしれない。
 それより三年早い山西省臨汾行きの「給仕人」(ウエトレス(ママ))も、相場は月給十円か二十円だから、百五十円以上となれば、慰安婦以外の何者でもあるまい。
 さすがに、内地の新聞は警察の目がきびしく、この種の公募広告が見つかった例はまだないが、見たという証言もないわけではなく(10)、今後の調査に期待したい。
 名のり出た元慰安婦の身の上話で、公募に応じた事例はないが、応募者は意外に多かった可能性もある。

注(1)『憲友』八一号(一九九七)の柴岡浩稿と柴岡談
  (2)本田勝一他『天皇の軍隊』二九三―九四ページおよび榎本談。 
  (3) 『憲友』八一号の井上源吉稿と井上談
  (4)鈴木卓四郎『憲兵下士官』(新人物往来社、一九七四)九一―九三ページ。
  (5)総山孝雄『南海のあけぼの』(叢文社、一九八三)一五〇ぺージ。
  (6)尹貞玉他著『朝鮮人女性がみた<慰安婦問題>』、二三〇ページ。
  (7)大岡昇平『俘虜記』(新潮文庫、一九六七)三七四ページ。
  (8)河東三郎『ある軍属の物語』(日本図書センター、一九九二)六九ページ。
  (9)『新潮45』九七年十二月号の柳美里論稿
  (10)『季刊戦争責任研究』第四号の林博史論文、山田盟子『ウサギたちが渡った断魂橋』下、五一ページ、富沢繁『女たちの戦場よもやま物語』(光人社、一九八八)を参照。
(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」p382~390)

  戦時中、日本軍が駐屯している所には例がいなく慰安所があった。そして、大部分の慰安婦は朝鮮人女性である。国策でこのようなことをしたのは私には判らないが、慰安所の男達も、やはり朝鮮人が多かった。殆どが北鮮系の人達で、彼女達は軍属ということで、騙されて慰安婦になったといっていたが、もしそれが本当なら、人権問題で現在なら大変なことである。貧農の子女を人身売買する口実に、業者が勝手にそんないい方をしたのではないかと思う。大きな作戦には、部隊の後を追うようにして、朝鮮女性は男達に引率されていた。
(森利「モリトシの兵隊物語―一兵士の哀歓―」p311)

  谷川部隊の祟明島上陸と時を同じくして、揚子江北岸の南通へ飯塚部隊足立大隊(第一〇一連隊一大隊)が上陸した。
  私は北岸の要港、天生港への舟便を待って南通へ向った。南通は日本の紡績工場もあった大きな町だった。江岸の楊柳は緑に萌えていた。私は独りで黄包車(ワンポーツの振り仮名)(人力車)に乗った。菜の花は黄色く咲き乱れ、のどかな田園風景が繰りひろげられていた。私は少しの不安も感ぜずに南通に着いた。
  ここへきて驚いたことは立派な遊郭がつくられていたことだった。東京部隊らしく、「吉原」と大書してある門を入ると、大きな池があって、その周囲に土壁の家が並んでいた。池のほとりには若い姑娘たちが兵士と戯れていた。近代的な町だけあって、女たちの服装も垢抜けしていたし、美人も多かった。それでも兵たちの話をきくと、開設当時はもっと美人がたくさんいたが、大隊本部が前進するときに、特別美しいのを何人か連れて行ったのだという。池畔には桃の花が咲き乱れ、まさに桃源郷、春らんまんの風景だった。(p40)

  部隊は三倉河という小さな町に入った。即製の日の丸を手にした町の顔役たちが出迎えた。中国兵は撤兵して一兵もいないという。一発も撃たずに無血入城だった。
  夕方になると一輪車をきしらせて、あちこちの部落から豚やニワトリの貢物をもって、村の有力者たちがやってきた。彼らは豚やニワトリを車からおろすと、隊長の小倉隼人大尉の前にひれ伏した。陸士出の青年将校小倉大尉は昔ばなしに出てくる王様のような態度で応待していた。
  村の有力者たちによって治安維持会がつくられると、隊長から早速「姑娘(クーニャンの振り仮名)はいないか」という申し入れが行なわれた。南通の「吉原」にならったのだ。治安維持会の代表たちは、「この町には商売女はいない。しかし素人娘でもよければ、近在の村から探してくる」とこたえた。数日後、十数名の若い姑娘が集められ、日本軍のための慰安所が開設された
  慰安所といっても急造の臨時慰安所だ。比較的大きな民家を接収し、いくつかの室に寝台を置き、そこへ女を置いて商売させた。軍人がそのまま慰安所の管理をするわけにもいかないので、部隊が連れてきた軍属の通訳が慰安所の番人になった。 (p43)

  如皋に着いて驚いたことには、数日前からここでは連日連夜敵襲を受けていることだった。如皋城は二重にも三重にも包囲されていたのだった。・・・
  城が包囲されているので、兵士は一人残らず防御陣に配置された。幾つかの城門や、城壁の上に車両の運転手や病院の看護兵までが銃を持った。
  この城内にも大きな民家を接収して、臨時慰安所をつくってあった。女は現地で調達した素人ばかり、七、八名で、特務機関の通訳が店の番をしていた。敵襲がはじまってからは慰安所どころではないので、やってくる兵隊もなく、特務機関員が独りで、手持ち無沙汰に店番をしていた。(p46・47)
 小俣行男「現代のドキュメント 侵掠 中国戦線従軍記者の証言」1982年

(注)同書には誘拐事例も記述あり。【従軍慰安婦】従軍記者の証言(誘拐事例)参照

 一九四一年一二月、日本はアメリカ・イギリス・オランダなどに対して戦争をおこし、東南アジア・太平洋の広大な地域を占領した(アジア太平洋戦争の開始)。そして四二年初めから、日本軍が占領したこれらの地域に軍慰安所が次々に設置されていった。
 これは戦争開始前から検討されていた計画的なものであった。それを示す重要な記録がある。陸軍省医務局の中堅幹部、金原節三医事課長(四一年一一月八日までは医事課員)が、陸軍省内でおこなわれた各種の会報(会合)の模様を詳しく筆記した「陸軍省業務日誌摘録」(「金原摘録」)である。
 たとえば、開戦直前、オランダ領東インド(インドネシア)を視察した軍医は、つぎのように報告していた(「金原摘録」一九四一年七月二六日付)。
現住土人は愛撫し、誠実をもってわが方に信頼感を抱かしむる様言動に留意する要ある。多く回教徒にて一夫多妻の点もあるも、貞操感も強し。かりそめにも強姦等を行い日本軍紀に不信を抱くことのなき様、厳重注意の要あり。一方、原住民は生活難のため売淫するもの多し。しかし、バンドンその他性病多きをもって、村長に割当て、厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり。(「深田軍医少佐蘭印衛生状況視察報告」)
(吉見義明「従軍慰安婦」岩波新書p58・59)

百一師団がこの地方の警備につくと南通の町にも朝鮮人慰安婦たちが進出してきた。部隊では彼女たちを東門外の民家に入れて下士官兵用とし、城内にも一カ所慰安所を作り、中国人の芸妓たちを徴用してこれを将校用とした。月紅、少華の姉妹にも当然徴用の交渉があった。しかし彼女たちは、夫がいるからという口実を作り、断固として拒絶し、恋人への操をたてた。
(井上源吉「戦地憲兵 中国派遣憲兵の10年間」p103・104)

こういう世界へ入って来る子には、境遇や家庭に恵まれなかった子が多い。朝鮮生まれの三成楼の小百合もその一人である。……家に一銭の蓄えもないので、慰安婦を志願して―朝鮮では業者が別の名目で募集し実際は慰安婦にさせられたものが多い―漢口までやって来た。
(山田清吉「武漢兵站」p102)

○週に一度の検査日のことである。その日も、検査は順調に進んでいた。一人すむと、仕切りのカーテンを開いてつぎの女が入ってくる。そのくりかえしで、流れるように進んでゆく。突然、女たちの流れが止まってカーテンの外側がざわめきはじめた。女の泣き声やなだめる声が聞こえる。しばらく待ってもだれも入ってこないので、私はいらだってカーテンの外側に出てみた。半円形に立っている女たちの真ん中で、戦捷館の「二階回り」が見慣れぬ若い女の手を取ってひったてようとしている。若い女は尻を引っこめ、二つ折りになったような格好で後ずさりしている。女は私の姿を見ると、追いつめられた犬のようなおびえた顔をし、いっそう尻ごみした。
  私は二階回りに手を離させ、カーテンの内側に誘って事情を聞いた。女は昨日午後、内地から来たばかりで、今日検査を受け、あしたから店に出すことになっているが、検査を受けないと駄々をこねて困っているという。
  私は女も呼び入れさせた。赤茶けた髪、黒い顔、畑からそのまま連れてきたような女は、なまりの強い言葉で泣きじゃくりながら、私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いてきたのに、こんなところで、こんなことをさせられるとは知らなかった、帰りたい、帰らせてくれといい、またせき上げてなく。二階回りは、すっかり困りはてた様子である。(p146・147)

○昭和十九年四月、大陸打通作戦(湘桂作戦)が発起され、武昌兵站司令部が長沙に移動、武昌兵站の業務は漢口兵站が継承することとなり、武昌に支部を設置した。支部長長逵(つじ)中尉以下支部要員は六月中旬、揚子江を渡り、業務を引き継いだ。 
  武昌と漢口の兵站司令部は、どちらも昭和十三年十月、武漢陥落とともに開設されたもので、業務の種類、規模は似たようなものであり、慰安所も申し受けた。・・・
  九月に入って、業者らは慰安婦の減少を理由に補充を申請したので、支部は許可した。十月、京漢線を経由して、朝鮮から二人の朝鮮人に引率された三十人あまりの女が到着した。どういう人間がどのような手段で募集したのか、支部の知るところではないが、そのうちの一人が、陸軍将校の集会所である偕行社に勤める約束で来たので、慰安婦と知らなかったと泣き出し、就業を拒否した。支部長は、業者に対しその女の就業を禁じ、適当な職業の斡旋を命じた。おそらく、ぜげんに類する人間が、甘言をもって募集したものであったのだろう。(p220・221)
(長沢健一「漢口慰安所)

  彼女ら(慰安婦)の話によれば黄氏(慰安所業者)は日本流でいえば地主の二男坊らしく、学歴や地位も土地の校長先生よりも上に見られていたらしい。国の為、民族の為と当時流行の外征の将兵を慰める為にと小作人の娘たちを連れて渡支したのであった。
  だが彼の考えていた慰安所と現実の慰安所とは余りにも差があったことだ。彼の想像していた、いや渡支の際の契約は、陸軍直轄の喫茶店、食堂、或いは将兵の集会所となっていた。それが陸軍慰安所即ち売春業であることを知った。小作人の子、貧農の娘とはいえ、小学校も満足に出ぬ、善悪の識別も出来ぬ子供に売春を強いねばならぬ責任を深く感じ、「兄さん、兄さん」としたう、此の若い酌婦等に心から己の浅はかだった行動を悔いているようだった。
(鈴木卓四郎「憲兵下士官」p93) 

  女の前借金は多きは千二、三百円で、少ないのは五、六百円である。募集は台湾の基隆(振り仮名キールン)とか高雄とかでやるが、実際に女を集めるのは、募集の特約者で、つのりに応じてくる女も勧誘の手をのばす相手の女も、俗にいう玄人がいいとされている。素人は戦地向けのタマには適さないという、例外はある由。前借金のもっとも少ないのは百円の飯焚きである由。
  こうした者たちは、初めは将校向きの五円の女を希望するが、ほどなく下士官兵向きか徴用工向きの二円の女に転向したがる。五円の女では相手が少数で稼ぎ高が低い。相手が大多数の二円の女だと荒稼ぎが出来るからだという。女の手取りは五円も二円も率は一つで、二円の女でいえば半分の一円は前借金へ入れ、残る半分の一円が手取りとなる、とこう聞かされたが、表面はそうだろうが、陰では勘定が別にあるらしかった。
  私どもが南シナ海で短時日のうちに、二度も乗せてもらった紀州の第二江口丸という海上トラックの船長が、今いったような女たちをあわれんでいった。
ああいう女たちはみんなだまされて来ているのでねえ、この船でつれて来た女たちの顔というものが、当分のうち眼に残りましてねえ」
  話がちょっと脇へはいるが、私たちが三竈島(振り仮名さんそうとう)を去るときも、乗せて貰った第二江口丸には、そのころ六基地といったところから佐世保へ帰還する下士官兵がこぼれ落ちそうな多人数で乗っていた。・・・(p105・106)
(長谷川伸「生きている小説」の「事実残存抄」の章)
※出典の性格は「一般人が慰安所・慰安婦という存在を知らない」の項を参照

-簡単な軍歴をお聞かせ願えませんか。
 朝鮮の大邱医科専門学校を卒業し、京城で教育を受け、昭和十八年八月、独立混成第二十二旅団独立歩兵第六十六大隊に配属になりました。その時の階級は軍医見習士官でした。(p370)
-嫌なことはありませんでしたか。
 広州市内を歩いて行く日本兵が洋車にふんぞりかえり、降りると軍票を払わずに逃げ出したり、二〇銭を一〇銭に値切るため脅かしつづける姿を見受けたことです。朝鮮にもこんなことはありませんでした。
  それに初年兵の性教育、具体的にはコンドームの使用法に立ち会うことです。説明は人事係の准尉でした。
  朝鮮の学校の出身者だと慰安婦に直ぐ分かるのでしょうか。巡察や定期検査の折りなどよく相談を持ち込まれました。奴隷狩同様に連れてこられたとか、いつ帰れるのか、こんな体では故郷に帰れないとか。見習軍医では答えるすべもありません。黙って聞いているだけでした。(p371)

○○○○さん(原文実名)は、現在町田で診療所の所長をしている。戦争当時、「軍人が嫌いなので志願しなかった」が、一九三九年(昭和十四年)十二月に徴兵され、丸亀の歩兵連隊に入隊した。そこで三ケ月ほど過ごし、その後、軍医としての教育を受けた。彼が前線に赴任したのは、一九四一年になってからである。独・ソ千が始まったこの年、黒竜江省東部中ソ国境興凱湖の北岸に近い斐徳(蜜山のあたり)、自動車連隊に軍医として配属された。彼が初めて慰安婦御見たのは、そのときである。彼は一九四四年までの四年間を前線で過ごしている。
(p91)
 ・・・慰安所に往診に行ったことはさっき話しましたが、そんなとき、女性たちと話すこともありましたね。朝鮮人慰安婦は日本語がよくできました。
 どうしてこんなところにきたのか尋ねたことがあります。見習い看護婦にするからとか、兵隊の世話をしてくれとかいう理由で、ほとんどがだまされて連れてこられたということでした。産婦人科の軍医に聞きましたら、朝鮮人女性には、処女が多くいたということでしたね。(p94)
(西野留美子「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」明石書店)

○慰安婦の契約書類・募集条件例
(一号)契約書
一、稼業年限
一、契約金 
一、上海派遣軍内陸軍慰安所に於て酌婦稼業を為すこと。 
一、賞与金は揚高の一割とす(但し半額を貯金すること) 
一、食費衣裳及消耗品は抱主負担とす。 
一、年限途中に於て解約の場合は元金残額違約金及抱入当時の諸費用一切を即時支払ひ申すべきこと。
右契約条項確守履行仕る可く依而契約証書如件
  昭和 年 月 日
  本籍地
  現住所 
              稼業人
  現住所
              連帯人
       殿
        

(二号)承諾書
本籍
住所             稼業人
                   年 月 日 生
右の者前線に於ける貴殿指定の陸軍慰安所に於て酌婦稼業(娼妓同様)を為すことを承諾仕候也
   昭和 年 月 日
            右戸主又は親権者
            稼業人 


(三号)金員借用証書

一、金 
右之金員拙者要用に付き正に請取借用仕候事実正也 然る上は返済方法は別紙契約書に基き酌婦稼業を為し御返済申す可く、万一本人に於て契約不履行の節は拙者等連帯者に於て速かに御返金仕る可く為後日借用証書依而如件 
   昭和 年 月 日
  本籍地
  現住所
              借用人
  現住所
              連帯人
         殿


(四号)
拝啓年内余日も無之嘸(さぞ)御繁忙の事と奉存候。陳者今回■■の御了解の元に中支方面に皇軍将士慰安を目的とする慰安所設立致す事と相成り左之条件を以て約五百名の酌婦を募集致候に付何卒大至急御手配煩し度御報知次第直に出張可仕候間御一報被下度奉願候 
 昭和十二年十二月廿八日                    
                             大内(黒塗り) 
        殿

     条件 
一、契約年限 満二ヶ年 
一、前借金  五百円より千円迄 
    但し、前借金の内二割を控除し身付金及乗込費に充当す。 
一、年齢   満十六才より三十才迄 
一、身体壮健にして親権者の承諾を要す。但し養女籍に在る者は■家の承諾なきも差支なし。 
一、前借金返済方法は年限完了と同時に消滅す。 
   即ち年期中仮令(たとい)病気休養するとも年期満了と同時前借金は完済す。
一、利息は年期中なし。途中廃棄の場合は残に対し月壱歩。 
一、違約金は一ケ年内前借金の一割。」 
一、年期途中廃棄(?)の場合は日割計算とす。 
一、年期満了帰国の際は帰還旅費は抱主負担とす。 
一、精算は稼高の一割を本人所得とし毎月支給す。 
一、年期無事満了の場合は本人稼高に応じ応分の慰労金を支給す。 
一、衣類、■具■料入浴料■■費ハ抱主負担とす。 

○当時「慰安所=売春宿」という意味用法は一般的ではない。女性が理解できず騙された原因
ある日、突然M主計少尉から、「軍医さん、慰安所ができることになりましたよ」と言われた。はじめは正直をいって慰安所は喫茶店のような憩いの場所であると思った者が多い。ところが、よく聞いてみると慰安所とは女郎屋である。
(「軍医のみた大東亜戦争」p131 2004年)

・虎頭から遠くない虎林には第十一師団司令部があり、関特演で四万の兵力が一挙に十万へ膨張したが、秋に入った頃、師団の経理部に着任したばかりの海原治主計少尉が「虎林に四か所の慰安所を開設」と知らせる会報を見て、部下に「慰安所とは何だ」と聞き「ピー屋のことであります」「現に民間のピー屋が四、五軒あるじゃないか」と問答した。
海原治(のち防衛庁官房長)談。
(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」p100)

「今でもときどき夢をみますよ……」
一九一四年(大正三年)生まれ、今年七十八歳になる本田新次郎さん(仮名)は、目を細めて宙を見た。彼は、過去をたぐりよせるようにときおり沈黙をはさみながら、長時間にわたり、今まで語ったことのない戦争中のできごとを話し続けた。

―私は、昭和十四年(一九三九)に召集され、二年間初年兵教育を受けた後、中支に派遣されました。歩兵隊でしたが、昔巡査をしていましたので、補助憲兵として湖北省宜昌県宜昌市に行きました。私のような者が三十五人ほど集められましてね、私は補助憲兵の班長でした。(p13)

 私が初めて慰安婦のことを知ったのは、漢口です。入口に「軍人・軍属以外の立ち入り厳禁」と貼紙がしてあり、「陸軍特殊慰安所」と書いた看板が立ててありました。門のところに、歩哨が立っていました。軍隊用のそばか大福を食べさせたり、酒を飲ませてくれるところかと思い、なかへ入っていきました。一軒目に入ったけれど、ガランとしています。二軒目に入ると、そこもはやり同じです。そんな家がずらり立ち並んでいました。そこにおばあさんがいたので、聞いてみました。
「そばか何か食わしてくれるのかい?」
「兵隊さん、ここはそんな所じゃありませんよ。そこに名札がかかっているでしょう。その女を買う所ですよ。」

見ると、木の札には、「花子」とか「つた子」とか書いてあります。それでようやく理解できました。三軒目に行き、「おい、その札の三番目の女はいるかい?」と聞きました。料金は一時間一円五十銭だったように思います。(p17・18)

(西野留美子「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」明石書店)

内務省警保局『外事警察概況』昭和17年版(254~256頁)
五、邦人渡支阻止状況
拒否廳府縣名被拒否者住所氏名年齢拒否理由
香川縣高松市××
 藝妓 ××      當十七年
 同  ××      當十六年
河南省開封市軍隊慰安婦として渡支せんと出頭せるが、慰安婦の業態を知らず且年少にして身心発育不完全なる為本年九月之を拒否。

  菊丸さんがトラック島に渡ったのは、昭和十七年(一九四二)三月、満十八歳の春である。東京・西小山で芸者をしているとき、朋輩の五十鈴ちゃんと二人で、一人前五十銭のカキフライを食べながら決めた。その話を持ってきたのは五十鈴ちゃんで、置屋の借金を軍が肩代わりしてくれると聞いて、一も二もなく決めてしまった。・・・
  若かった二人は、そんな甘い夢を見てトラック島に渡った。まだ在世していた父親の反対には、「お国のためよ。誰かが行かなきゃならないものだし、行かせて」と、どこかで小耳にはさんだ大義名分で納得させた。"慰安婦"という職業がどんなものか、よくはわかっていなかった。どうせ芸者の延長みたいなものだと想像していたのである。
(広田和子「証言記録 従軍慰安婦・看護婦」p24・25)

判示第三の如く被告人丈太郎に於て婦女を誘拐したる事実は
(イ)被告人丈太郎に対する予審第一回訊問調書中其の供述として昭和七年三月十日頃長崎市外     方に於て同人に対し今度上海に海軍慰安所なる大きな料理屋が出来る故貴殿の娘を上海に奉公に出しては如何と申向けたるところ・・・ (20枚目)

被告人丈太郎に対する予審第一回尋問調書中其の供述として昭和七年四月初頃     方に於て同人に対し売淫の事は打明けずに働き先は海軍の慰安所にして「カフェー」の女給又は仲居の如き仕事を為す所にして収入は月七、八十円位と申し上海行を勧めたる事は相違なき旨の記載 (23枚目)

証人     に対する予審第一回尋問調書中其の供述として昭和七年四月初頃岡崎春吉(被告人原田春吉の事)が自分方に来り上海に行けば月七、八十円の収入ある故行きては如何、若し行きたる上都合悪ければ何時にても帰国して支障なしと申し、尚行先は海軍慰安所にして其処は「カフェー」にして水兵及士官等の飲食する場所なり、而して仕事は客の相手を為し品物を運ぶ等なり、一年位居り家を造りたる人もあると申したる故自分も父も之を信じ上海行を承諾したるが売淫を為さねばならぬとの事は春吉よりも亦岡崎雪野よりも聞かず。若し其の事が判明し居たらんには上海行を承諾する筈にはあらざりし旨の記載 (24枚目)

証人     に対する予審訊問調書中其の供述として昭和七年三月末頃松島章二方に於て同人に面談したる時同人は行先は海軍慰安所にして同所の女中として雇ふと申し尚仕事は客の酌或は食事の給仕にして月給は五、六円なるもチップ収入は五、六十円なりと申したる故之を信じて上海に行きたるが醜業に従事する事の話はなく自分は上海の慰安所に着く迄同所が醜業専門の所なることは知らぬ且又之に従事するものなることも知らざりし旨の記載 (28枚目)

証人     に対する予審訊問調書中其の供述として昭和七年三月頃松島章二が自分方に来り在上海の海軍慰安所の給仕女を世話し呉れ給料は僅か五、六円なるもチップは五、六十円に達すると申したる故自分は之を信じ同月末頃松島千代に其の旨を告げ上海行を世話したるが章二よりは売淫を為すものなりとの話は全然聞かざりし旨の記載 (28・29枚目)

証人     に対する予審訊問調書中其の供述として自分は昭和七年四月一日長崎出帆の船にて上海に渡りたるが其の際    外四名を上海に同伴しあるも松島章二は自分に此の女等は慰安所の女給として送るものなる故其の積りにて連行し呉れ若し女が質問したる時は「女給じゃ」と申し呉れと耳打ちしたることは相違なき旨の記載 (29枚目)
http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_C_003.pdf


控訴審判決文
第一、被告人稔、安太郎、寅雄、雪野及ミキの五名は伊吉と共謀の上(以下事実を判示するに当りて右被告人五名及伊吉を単ン位被告人稔等六名と略称す)
(一)被告人雪野に於て同年四月初頃長崎市内なる同人方に於て○○○○に対し行先は兵隊相手の食堂なる旨虚言を構へ且祝儀等に依る収入一ケ月二、三百円位ある旨甘言を弄して上海行を勧め同所をして其の旨誤信せしめて之を誘惑し(6枚目)

(二)被告人ミキに於て前同日頃同市○○なる被告人章二方に於て○○○○に対し勤口は食堂の女給にして客を取る要なき旨詐言を構へ且百五十円位を前借するも二、三ケ月にて完済し得尚毎月五十円位親許に送金し得べき旨甘言を以て上海行を勧誘し同女をして其の旨誤信せしめて誘惑し(6枚目)

第二、被告人稔等六名及西田五三郎は共謀の上五三郎に於て同年五月初頃長崎県北高来郡○○○○方に於て同人に対し一年居れば内地の三年乃至五年分の●ある故二女ナカノを上海駐屯帝国軍隊の酒保の如き所の売子として奉公せしめては如何との趣旨の詐言並甘言を構へ同人より之を聞知せる○○○○をして其の旨誤信せしめて同女を誘惑し(7枚目)

同年四月初頃長崎市      方に於て同女に対し一ケ月七十円位の収入あるに依り上海に行き同地の海軍慰安所に於て「カフェー」の女給又は仲居の如き仕事を為しては如何と甘言並に詐言を構(?)へ同女をして其の旨誤信せしめ之を誘惑し(7枚目)

被告人稔等六名並に被告人春吉は共謀の上春吉に於て同年四月初頃同市      方に於て同女に対し行先は海軍慰安所にして水兵或は士官等相手の「カフェー」なるが収入は一ケ月七、八十円に達し一年位居り家を造りたる人もある故上海に行きては如何と詐言甘言を以て●ひ同女をして其の旨誤信じせしめて之を惑はし(8枚目)

同年三月末頃長崎市     なる被告人章二方に於て     に対し上海に於ける海軍慰安所の女中として同地に行きては如何、給料は月四、五円なるも祝儀に依る収入は五、六十円に達する旨詐言並に甘言を構へ同女をして其の旨誤信せしめ之を誘惑し(9枚目)

被告人中田丈太郎に対する第一回予審訊問調書中其の供述として・・・私は昭和七年三月十一、二日頃長崎市外      方に行き同人に対し今度上海に海軍慰安所と称する大きな料理屋が出来る故娘を上海に遣らぬかと申したるところ同人は     をも招致したる故同人にも前同様話したるに両名共娘に相談すると申したり。・・・上海に行き淫売すると言ふ事は言わず女給又は仲居の如き仕事をせねばならぬと申して勧誘したるものなる旨の記載(26枚目)

被告人中田丈太郎に対する第一回予審訊問調書中其の供述として・・・私は      方に於いて同人の娘      に対し上海行を勧め売淫をせねばならぬ事は言わず勤め先は●●●の慰安所にして「カフェー」の女給又は仲居の如き仕事を為す所にして収入は月七、八十円位と申したる旨の記載(28枚目)

被告人岡崎(原田)春吉に対する第三回予審訊問調書中其の供述として・・・私は・・・等に上海行を勧めたる時慰安所に行けば醜業をせねばならぬ事は言はざりし旨の記載(29枚目)

証人     に対する予審訊問調書中其の供述として・・・行先は上海の海軍慰安所なるが其処は「カフェー」にして水兵や士官等の飲食する所なり。而して仕事は客の相手を為し品物を運ぶ等なり。一年位居り家を造りたる者もあると申したる故私も父も之を信用し上海行を承諾したるが春吉よりも亦岡崎安太郎の妻よりも売淫を為さねばならぬ事は聞かず若し醜業せねばならぬ事が判明し居れば上海には行かざりし筈なり。然るに上海に行き売淫に従事せしめられたる旨の記載(30枚目)
http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_C_002.pdf


また同判決文によると、募集業者間で「慰安所とはこういうところだ」と説明をしている描写がある。業者自身「慰安所」という皇軍用語の意味が分からなかったわけだ。

被告人岡崎安太郎に対する第一回予審訊問調書中其の供述として・・・私は長崎に帰り私方に西田五三郎、藤田の妻ミキを呼び・・・上海在住の村上富雄と共同にて海軍指定慰安倶楽部を経営することに為り右慰安倶楽部は内地の女郎屋と同様の事をなすものなる事を話し同所に送る女を世話して呉れと申したり (16枚目) 
 
被告人岡崎雪野に対する第二回予審訊問調書中其の供述として・・・梶原伊吉が安太郎と共に上海に行きて後伊吉より手紙にて通信があり自分は藤田、村上と共同にて海軍指定倶楽部を経営することに為り安太郎が金を出すことを承諾したる故女を雇ふて送られ度く女雇入に付ては中田丈太郎にも依頼の手紙を出し置たに依り中田に世話させて呉れと申来りたり。同日中田丈太郎が私方に来て伊吉より同人にも手紙が●て私に対する手紙と同趣旨の記載あり。海軍指定慰安倶楽部と言ふは女に客を取らせる所なる旨記載ありたりと丈太郎が申し居たり。其の後主人安太郎が上海より帰り私方に於て西田五三郎、藤田ミキに対し慰安所は軍人を相手に専ら売淫を為す所なる旨詳しく話したり。・・・(16枚目)

被告人岡崎ユキノに対する第六回予審訊問調書中被告人岡崎(原田)春吉の供述として・・・私は藤田、岡崎の息子二人を連れ上海に行き同地に滞在中岡崎ユキノを旅館に訪れたる際同人より海軍慰安所が客取り売淫を為さしむる所なる事を知りたり。(21枚目)

被告人岡崎(原田)春吉に対する第三回予審訊問調書中其の供述として・・・私は藤田及岡崎の息子二人を連れ上海に行きたる時同地の海軍慰安所は村上富雄が営業主にして藤田、梶原両名は同所に婦女を入れて醜業婦営業を為す所なること及び・・・を知りたり。(21枚目)

証人      に対する予審訊問調書中其の供述として・・・昭和七年三月頃松島章二が私方に来て上海の海軍慰安所の給仕女を世話して呉れ給料は五、六円なるも「チップ」の収入が多く五、六十円に為ると申したる故私は之を信じ      等に対し松島章二の申したると同様の事を話し・・・・章二よりは上海に於て売淫を為さしむるものなりとの話は全然聞き居らざりし旨の記載(34枚目)

証人      に対する予審訊問調書中其の供述として・・・上海の海軍慰安所に働く女を松島章二より頼まれ居るが同所にては食事の給仕や酒の酌をする仕事なる由にて(35枚目)

○「酌婦=売春婦」という意味用法は少なくとも大正期においては一般的ではない。女性が騙された原因
酌婦を解せず。
市内松公園内、料理店、松金、抱芸者、梅八、事、西本サキは、今度、内地へ帰り、大阪府下、西成郡勝間村生れ、金沢ノエ(十九)が丁度、遊んで居れば、満州にいっては何うか、酌婦をしても、月に七八十円の収入はあると、例の調子で誘ひ出し、一日入港(の)台中丸にて来連したが、満州の酌婦は内地と違ひ、女郎と一緒と解り、這麼(こんな)恐ろしい所であったら、来るのではなかったと、頻りに悔み居るより、松金の主人も呼出され、相談の末、ノエは一先づ内地へ帰る事となる。(満州日日新聞、大正二年八月二日)
(倉橋正直「従軍慰安婦と公娼制度」p122)
 
之と共に北満州の一部と西比利亜に居るものを算すれば、少なくとも五千人に達する。日本の男性が一人も住居していない小村落にも、支那人の妾となり、酌婦となって四、五人は住んで居る。一般に料理店と云ふのは娼家を指し、酌婦とは娼妓を指すのである。唯だ慣例上、料理店又は酌婦なる名を冠するに止まり、日本内地に於ける如き料理店又は酌婦ではない。純然たる女郎屋と女郎のことである。」(布川静淵「日本婦人の面よごし―海外に於ける日本醜業婦の近況」、『婦人公論』、三巻二号、一九一八年二月)
(倉橋正直「従軍慰安婦と公娼制度」p126)

次の事例は「酌婦=単なる酒席の相手」と騙された事例と考えられる。
海原治(のち防衛庁官房長)談
民間のピー屋が日本人主体なのに、こちらは朝鮮人が主だったという。軍医の話では「初検診でバージンや小学校の先生もいたので聞くと、女衒から軍の酒保でサービスするとだまされてきたよし。帰ったらとすすめたら、前借金があるので返してからでないと帰れないと語った(7)」とのことだった。
(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」p100)

○一般人が慰安所・慰安婦という存在を知らない
事実残存抄

  華南の真っ只中にある三竈島(振り仮名さんそうとう)に、数日私はいたことがある。昭和の大戦がまだ太平洋戦争に突入しなかった、昭和十三年十一月下旬であったと思う。この島の雨はふとさが細引き縄ぐらいあり、たちまちのうちにそこら中が海のごとくなるほどの降雨量であると、上陸した途端に海軍の士官に聞かされ、また、ここは百歩蛇・コブラのような毒蛇七種がいると、道案内の海軍下士官におどかされた。
  とまた、ここでは二週間前に港の工事場で働いている二十余人が、正午を過ぎても昼飯がとどかないので二人連れで催促かたがた炊事班を怒りにいった。途中、佐世保から来ている飯はこびの男が気絶しているのを見付けた。介抱して聞いてみると、胴のふとさが四斗樽ぐらいの大蛇に出っくわしたといった。嘘だろうとその辺をみると、大蛇が通ったアトが赤土にも草にもあった。そこで大蛇退治に五十人ばかりで二日間かかったが、発見出来なかったので、その大蛇にいつだれが出っくわすかわからないから注意してもらいたいと、これは徴用工の頭分のものがわざわざいいに来た。
  しかし私たち数人の小説戯曲映画関係のものは、幸いに縄のような雨や百歩蛇や胴まわりが四斗樽ぐらいの大蛇などには、お目にかからないで済んだ。
  この島で私たちの世話をしてくれたのは、詩人の主計中佐(後に大佐)矢野兼武であった。その矢野中佐に頼んで私と他に一両人が、同島に出来ている三種の売女がいるところを視察につれて行ってもらった。私たちはこの島へわたる前に厦門(振り仮名アモイ)で、仕事が終って佐世保か長崎へ帰る、海軍徴用の軍夫隊を見送る人々を見た―どういう訳かグンブといいグンプとはいわなかった・そのころ台湾でひろくうたわれていた「軍夫の歌」の軍夫が、矢張りグンブであった―その見送りの一般日本人とは別なところに、一群の女がいて、あるものは笑って嬌声ともども手を挙げ、ハンカチを振り、手拭を振り、あるものはトラさんとか、杉村さんとか呼びかけ、呼んだ軍夫君が振りむいて、手をあげたり袋入りの日本刀をあげて見せたりすると、女は涙を頬に走らせて再び呼びかけるのが、明かに別離を惜しむものであること、疑う余地がなかった。その女たちが遠目にも白粉(振り仮名おしろい)臭い女とわかり、かつ服装がやや正常を欠いてケバケバしいので、居合わした下士官に尋ねたら、あれは慰安所の女でありますと答えた。それ以来、私たちは戦地には慰安所の女というものがあるのを知っていたので、この島にもそれがあるのをちらりと見かけ、矢野中佐に案内を頼んだという訳であった。(p102)
(長谷川伸「生きている小説」の「事実残存抄」の章)

巻末のことば 長谷川伸 
 この本にある中の八、九割は、わたくしの『私眼抄』『前私眼抄』というおぼえ書きから出ている。書損じの原稿紙をウラ返し、それに、見聞をはしり書きしたり、人の語って行きたるを留め書きしたり、新古の私本刊本そのほかに初見のものを抄記したりしたものが、三十余冊の『私眼抄』『前私眼抄』である。・・・〝生きている小説〟という題名は、脈搏を絶えず他人に音もなく聞かせている如き事実を取次ぐ、という意味の表現である。(p252・253) 

○酌婦にお酌以上の行為ををさせてはならないという規定の例
料理屋飲食店待合茶屋営業取締規則(大正九年九月十四日岐阜県例第四十九号)
第十二条 営業者は左の各号を遵守すべし
十 酌婦をして客席に於て芸妓に紛らはしき行為を為さしめざること
(岐阜県警察部編纂「岐阜県警察蜂起類聚」昭和2年)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1273570/264



○当局が契約内容に介入=民事不介入ではない
昭和十一年中に於ける在留邦人の特種婦女の状況及其の取締(在上海総領事館警察署沿革誌に依る)
 
二、酌婦
昭和十一年末現在に於て(海軍慰安所たる料理店三軒を含む)の数は十軒酌婦数百三十一名(内内地人百二名は(?)朝鮮人二十九名)ありて内料理店三軒は居留邦人顧客と為し他の七軒は海軍下士兵を専門として絶対に地方客に接せしめず且酌婦の健康診断も陸戦隊及当館警察官吏立会の上毎週二回専門医をして施行しあるの外慰安所に対しては海軍側とも強調取締を厳にし且新規開業を許さざることとせり。此等稼業者は孰れも教育程度低きも既往数年前に比し品性常識共に幾分向上しつつあるを認めらるると同時に女給「ダンサー」又は他に転向せんとする者漸次増加の傾向に在り。一方抱入に付ては前借を認めず稼高の折半契約方を命令し居るも事実上の娼妓稼業と見らるる本業は抱入に際し幾分の前借あるを免れず。又此等の者にして時に自由廃業等の申出を為す者等ありて其の都度臨機の措置を講ぜり。
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_1.pdf (p436・437)

軍政規定集 昭和十八年十一月十一日 第三号 馬来軍政監部

(別冊)芸妓、酌婦雇傭契約規則
第一条 営業者芸妓酌婦(以下稼業婦と称す)を雇入れんとするときは其の契約を左記標準に依り為すべし。但し従来の契約中稼業婦の利益に属するものにして其の契約を存続せんとするときは此の限りに在らず。
一 稼業婦が稼業に依る収益金より強制貯金を控除したる残高の収得歩合は左記に拠るべし。
(イ)稼業婦稼高の配当歩合    
債務残額    雇主所得 本人所得    
千五百円以上 六割以内 四割以上    
千五百円未満 五割以内 五割以上    
無借金      四割以内 六割以上
(ロ)前借金及別借金は総て無利息とす
http://www.jacar.go.jpレファレンスコード C14060640400 (38.39枚目)

○借金は「売春」で返済という返済方法限定=いわゆる「前借金」であり、現代と同様のただの「借金」(つまり返済方法は何でもよい)ではない
山田清吉「武漢兵站」

  霧雨が静かに舗道を濡らしている朝、三好楼の三春という妓が支那傘をさして兵站へやって来た。侐兵金としてお金を兵站に寄付したいという。聞けば二、三日前、これから前線へ追及するという若い将校さんが泊ったという話をする。三春は田舎くさい地味な妓だったが、根はやさしいのであろう、親切にもてなしてあげたという。彼女は添いふしていろいろ郷里のことや、身の上話なども聞いてあげたそうである。翌朝発ってゆく時、今度は生きて帰れない。前線ではお金を使うこともないから、君にこのお金を全部あげる。前借を返すのに使ってほしい、と若い将校は言い、三春は、そんなことを言わないで、もう一度訪ねて来て下さいと膝に取りすがって思わず泣いてしまったと話した。結局その将校さんは、金を置いたまま、漢口へまた来る機会があったらきっと訪ねて来ると言って、笑って前線へ発って行ったという。
  その金は儲備券でたしか二千円くらいだった。しかしこうした、外から入ったまとまった金で前借を返すことは許されていない。前借金はすべて妓が自分の体で働いて返さなければならないのである。三春は、
「このお金は兵站に寄付しますから、何かに使って下さい」という。(p95)

  ある晩、兵器廠の副官をしている小泉中尉が私を訪ねてきた。彼は幹部候補生出身の純真な青年将校である。はじめのうち、何か言いにくそうに話を切り出すのをためらっている様子だったが、やっとつぎのような話を申しこんだのであった。
──東成楼のルミ子は、私の妹のクラスメイトで、偶然ここでめぐりあったのだが、若い身空でこうした境遇に落ちこんでいるのは見るに耐えられない。
何とか早急に内地へ返してやる方法はないだろうか。前借金はまだ残っているというが、それについてまとめた払う方法はないものだろうか。何とか特別の配慮をしてもらえまいか──ということである。
  私は彼の青年らしい純真な気持にうたれたが、妓は自分の身体で稼いで前借を返さねばならぬという拘束がある。なんとも不合理な話なのだが、
私にも特別の配慮のしようがない。(p110・111) 

○慰安婦・業者は日本軍が呼び寄せた。
「漢口陸軍天野部隊慰安所婦女渡支ノ件回答」(昭14・12・27 在漢口総領事から野村外務大臣へ)
 
当地軍司令部に連絡したる処慰安婦の内地よりの招致は許可制を取り居り今回天野部隊の慰安婦招致に関しては 軍に対し正式手続を踏み居らざるも既に同部隊に於て招致手筈を為したる事実に鑑み之を追認する?なるに付右に御了知相成度く

自昭和十九年十一月一日 至昭和十九年十一月三十日
陣中日誌 第六号
独立混成第一五連隊第一大隊本部

十一月七日(火)晴 謝花
四、大体副官慰安婦招致の件に就き今帰仁方面出張一三三〇
http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_029.pdf (2枚目)

「南洋方面占領地に於ける慰安所開設に関する件」(昭和17年1・10 蜂谷台湾総督府外事部長から東郷外務大臣へ) 
 
南洋方面占領地に於て軍側の要求に依り慰安所開設の為渡航せんとする者(従業者を含む) の取扱振りに関し何分の御指示相煩度し」 

高松宮宣仁『高松宮日記』(中央公論社)1942年1月16日の項
渡辺聯合艦隊参謀、南洋より皈へりての話。
第四艦隊は自分の場所で補給休養をやり度、其の様に施設され度。
慰安200名送ること。現地にて不足を云ふも、責任者が要求せぬ。(陸軍では「ガム」占領すると直ぐ40名送れと云ひ(4000名に対し)其の引揚げのとき、又送皈すことにせり)。
※秦郁彦「慰安婦と戦場の性」p134では「慰安婦二〇〇名」とする。

『岡村寧次大将資料(上)戦場回想篇』(原書房)302~303頁 
斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、 派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。 

戦時旬報(後方関係)南支二三軍 波集団司令部 昭和14年4月 
 
1、慰安所は所管警備隊長及憲兵隊監督の下に警備地区内将校以下の為開業せしめあり 
3、現在従業婦女の数は概ね千名内外にして軍に於て統制せるもの約八五〇名各部隊郷土より呼びたるもの約一五〇名と推定す 

「渡支邦人暫定処理ノ件」打合事項(昭15) 
 
内務省関係  
問 領事館なき地の軍より特種婦女を呼寄せんとする場合は如何にするや 
答 当該軍の証明書に依り最寄領事館の証明書(渡支事由証明書又は身分証明書)を受くるものとす 

○慰安所利用者は不当な話を聞いたら通報しなさいという規定。
昭和十九年五月 軍人倶楽部利用規定 中山警備隊
第二条 本規定中第一軍人倶楽部と称するは食堂を、第二軍人倶楽部と称するは慰安所とす。
第十九条 利用者は営業主、妓婦、施設其の他軍人倶楽部に関し不当なること見聞せば部隊副官に通報するものとす
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_3.pdf (p331・332・335)

○業者の身分
臨時軍法会議付託決定書 バタビヤ臨時軍法会議軍検察官

目下チビナン刑務所に拘禁中の
9.古谷巌
当40歳 東京都浅草出生(明治40.10.9)軍属
10.下田真治
当32歳 和歌山県東牟婁郡出生(大正4.10.29)軍属
11.森本雪雄
当24歳 和歌山県有田郡八幡村出生(大正12.2.14)軍属
12.葛木健次郎 
当38歳 山梨県北都留郡出生(明治42.1.25)軍属

第9被告 古谷巌
a.昭和19年2月・3月及び4月の間、スマランのヘニーランにある「ホテル・スプレンディッド」、当時「スマラン・倶楽部」と称した慰安所の経営者であったが、・・・

第10被告 下田真治
昭和19年2月・3月及び4月の間、スマランのチアン・バルウにある当時「青雲荘」と称していた慰安所の経営者であったが、・・・

第11被告 森本雪雄
a.昭和19年2月・3月及び4月の間、ベラカン・ケボンにある先の「支那ホテル」後に「ホテル・デュ・ハピロン」、当時は「日の丸」と称した慰安所の経営者であったが、・・・

第12被告 葛木健次郎
昭和19年2月・3月及び4月の間、スマランの当時「スマラン・倶楽部」と称していた慰安所の経営者として、・・・

http://wam-peace.org/ianfu-koubunsho/pdf/M-PDF/J_J_065.pdf

鈴木卓四郎「憲兵下士官」 

「・・・『黄』というよりも、陸軍慰安所「えびす」のおやじといったほうが貴方には判るかも知れない」・・・「あの黄の奴、実にひどいことをやったからな、……あれで陸軍軍属であったかと、実に情けないよ」(p89・90)

「うちの兄さんは、慰安所のおやじにはもったいないよ。学校の先生の方がよっぽど似合うよ。もっとも朝鮮に居たら校長先生より偉かったからな。」
  余り上手でもない日本語で主人を自慢して笑わせる女もいた。
  彼女等(慰安婦)の話によれば黄氏は日本流で言えば地主の二男坊らしく、学歴や地位も土地の校長先生よりも上に見られていたらしい。国の為、民族の為と当時流行の外征の将兵を慰める為にと小作人の娘達を連れて渡支したのであった。 
   だが彼の考えていた慰安所と現実の慰安所とは余りにも差があったことだ。彼の想像していた、いや渡支の際の契約は、陸軍直轄の喫茶店、食堂、或いは将兵の集会所となっていた。それが陸軍慰安所即ち売春業であることを知った。小作人の子、貧農の娘とはいえ、小学校も満足に出ぬ、善悪の識別も出来ぬ子供に売春を強いねばならぬ責任を深く感じ、「兄さん、兄さん」としたう、此の若い酌婦等に心から己の浅はかだった行動を悔いているようだった。(p93)

平安北道の警察官・中原雄一は、四五年、「北支方面に江界美人を、皇軍慰安婦として引率活躍、要員を募集するため」厚昌邑に帰省した軍属」金原始彦と面接し、「変な処でも聖戦完遂に添える道がある事を確認、改めて半島人女性の挺身をより多くと、陰ながら応援した」(中原、二一〇)※引用ここまで
(高崎宗司「植民地朝鮮の日本人」p182)

中原雄一『鴨緑江に題す』中原堯雄、一九六九年

陸達第四十八号
野戦酒保規定左の通改正す
昭和十二年九月二十九日 陸軍大臣 杉山元

野戦酒保規程
第一条 
野戦酒保は戦地又は事変地に於て軍人、軍属其の他特に従軍を許されたる者に必要なる日用品、飲食物等を正確且廉価に販売するを目的とす。
野戦酒保に於ては前項の外必要なる慰安施設をなすことを得

第六条 野戦酒保の経営は自営に依るものとす。但し已むを得ざる場合(一部の飲食物等の販売を除く)は所管長官の認可を受け請負に依ることを得。
平時の衛戍地より伴行する酒保請負人は軍属として取扱ひ一定の服装を為さしむるものとす。但し其の人員は歩兵、野砲兵及山砲兵連隊に在りては三名以内、其の他の部隊に在りては二名以内とす。

○業者の素性・来歴
昭和八年十一月
上海に於ける外出員心得
上海海軍特別陸戦隊

付表 第四、指定慰安所
屋号    経営者    場所
第一大星  関根フジ   北四川路横濱橋傍美楣里
大正館    大家正稻      〃
海樂    曹應道        〃
曙      村上富雄      〃
浮舟    山田タメ       〃
都亭    間狩源治      〃
梅月    中熊富蔵      〃
千登勢    國本忠太郎    〃
築紫    田代辰次郎    〃
東優園    馬場半三   北四川路克明里四、五、六号 下士官用
上海    宇都宇乃    同     同   七、八、九号 下士官用

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
【レファレンスコード】
C14120190000
外出心得1
C14120190100
外出心得2外出心得3
C14120191200
外出心得4
C14120191300
外出心得5

アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49

 この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
日本人民間人 
1  キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
2  キタムラエイブン 41歳 京畿道京城

南方派遣渡航者に関する件 台湾軍司令官から大臣宛(昭17・3・12)
 
陸密電第六三号に関し、「ボルネオ」行き慰安土人五〇名為し得る限り派遣方南方総軍より要求せるを以て、陸密電第六二三号に基き憲兵調査選定せる左記経営者三名、渡航認可あり度申請す。

左記
愛媛県越智郡(氏名黒塗) 
台北州基隆市新町二ノ六(氏名黒塗)四十二歳
朝鮮全羅南道済州島(氏名黒塗)
台北州基隆市義重町四ノ十五(氏名黒塗)三十五歳
高知県長岡郡(氏名黒塗)
高雄州潮州郡潮州街二六七(氏名黒塗)五十一歳
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_2.pdf (p202・203)

パナイ島接客業組合
二、左の事業を行ふ
(一)酒場  主任 増子喜作
(二)娯楽場 〃  宮田■■吉
(三)理髪業 〃  親川源次
(四)映画   〃  増子喜作、助手檀■覚夫(?)
(五)ホテル  〃  増子喜作、助手城間正辰
(六)慰安所  〃  (氏名黒塗)助手(氏名黒塗)

六、組合員
増子喜作
宮田■■吉
城間正辰
檀■覚夫(?)
親川源次
宮城貞勝
仲村■鋁(?)

  内河運輸(日本系)の客船「南海丸」で、江門市の玄関である「北街」についたのは、予想より早く十二月の二十五日ごろだった。・・・
  本籍地・出生地・渡支年月日などほんとうに忘れたのか、故意に触れたがらないものか、彼等の自供には真実性というか、一貫性がなかった。特に北街において陸軍慰安所を経営する「門杉某」なる七十幾歳の老婆に至っては、出生地を福岡県大牟田市である以外は全然記憶がなかった。現在人口何十万の大牟田市を何十年前、村当時出奔したなどと、およそ現代ばなれした資料では、国籍はおろか、日本人であることを証明することさえ無理であった。
  ただ彼等四人に共通するのは、三十余年前即ち、明治の中期から大正の初期に渡支したことであった。一番若いと見られるくらぶ〔ママ〕の女将でさえ、日本を出たのは大正七、八年頃のようであった。
(鈴木卓四郎「憲兵下士官」p101) 

北ボルネオの軍慰安所一覧(1943年4月1日)

名称      場所       経営者    家賃(月/円)   平均総収益
大和倶楽部   クチン      白川エン    30
桜倶楽部    〃        村瀬近市     150
見晴亭      〃        島田豊三    〃
花月亭     ミリ       浜田クノ    50 
花月       〃         〃     30
玉泉亭      〃        禹堅姫     50
ミリ倶楽部    〃        近藤重太郎   〃
桜支店     前田島      金江泰助    20       150
         (ラブアン島)
南進館      〃        謝論議             50
  〃      コーラブライト     高橋よつ            50~100
桜支店     アビ        鉄原小岩   支那人家屋
  〃      クダト       鉄原花子    〃
基隆楼     サンダカン    豊川是吉     〃
博田屋      〃       釜崎進       〃 

出所:第37軍軍政部「土地建物関係書類綴」(防研図書館蔵)
(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」p107) 

  広東で軍用食堂を経営していた酒井幸江夫婦が、出入りしていた軍参謀に奨められ、三〇〇円ばかりの資金で三〇人の中国人女性を買い集め、ビルマへ向かったのは四二年の春頃だという。占領直後のラングーンで英国経営のホテルに慰安所を開設、食糧やコンドームは軍が供給してくれた(5)。
  南京で慰安所の経営を手伝っていた香月久治夫婦の場合は、十七万円で二十七人の日本人女性を引き抜く形で買い集めた。井上菊夫夫婦は主として杭州で十二人の朝鮮人女性を集めて上海へ行くと、千三百人(注-誇張か?)の慰安婦が集結していた。業者たちは大佐から「南方派遣軍総司令部の要請により、支那派遣軍総司令部これを斡旋し・・・・・・」と訓示されたという。
  八月にラングーンへ着くと、軍の後方参謀が各業者にラシオ、マンダレーなど営業場所を割りあてた。参謀を補助していた一下士官は、その仕組みを「たとえばマンダレーにはまだ慰安所が一つしかない。あと二軒ほどほしいから、おまえのところは、マンダレーに行って五十六連隊につけという具合に、配属するわけですよ。兵隊の数にあうように調整せにゃならん」と説明してる(6)。
  現地のビルマ人女性を集めた慰安所もあったが、主力は朝鮮人、ついで中国人、インド人で末端部隊に送られ、数少ない日本人は司令部所在地や将校用に振り向けられたようだ。

(5)酒井、香月、井上ケースの詳細は、西野留美子『従軍慰安婦と十五年戦争』(明石書店、一九九三)を参照、南支那憲兵隊からビルマへ転勤した中村謙雄憲兵曹長はなじみの女性とラングーンでばったり再会したと証言するが、これは酒井夫婦のケースか。
(6)同右 一〇七ページ。
(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」p108・109) 
 
  業者にもいろいろあって、戦地にわたって手っとり早く金を儲けるにはピイ屋(女郎屋)を経営するに限ると、リュックサック一つ背負って大陸に渡り、荒稼ぎをねらった一発屋もあった。それと、軍命令によって仕方なく支店を出していた松島、福原あたりの老舗があって、この両者の間はとかく折合がわるく、内地人同士でもしのぎを削るありさまであった。積慶里がどうやら表面的におさまっていたのは、内地人斎藤を組合長に、朝鮮人金田を副組合長に組合を結成し、組合を通して兵站が取締っていたからと思う。斎藤は田舎の村長を思わせるような朴訥な好々爺然たる老人であり、金田はもと金正賢という朝鮮人が、昭和十四年の創氏改名で金田と名乗ったもので、背も高く、才知もあり人柄もよく、心から軍に協力しようというタイプであった。もっとも当時は、朝鮮人という言葉は、蔑称のように受取られたので、もっぱら半島人という言葉を使っていた。
(山田清吉「武漢兵站」p79)

しかし、経営者が台湾人女性で女は朝鮮人やマライ人(昭南のケーンヒル)とか、業者がインド人で、女は欧人女性(スマトラ島のパダン)とか、「経営者は比人(女)にして監督兼通訳として在留邦人」で、女は全員がフィリピン人(比島のタクロバン)ともなれば、軍の方針がどこまで徹底したかは疑問である。
(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」p121) 

○支払いは軍票や現地紙幣
昭和十九年五月 軍人倶楽部利用規定 中山警備隊

第十四条 料金は現金先払とす
第十五条 妓女の出花は原則として之を許さず
備考 本料金は儲備券払とす 

駐屯地慰安所規定 昭和十八年五月二十六日 「マンダレー」駐屯地司令部

第九条 慰安所に於ける料金は軍の定むる軍票に依るものとし其の他の物品を以てなすことを得ず。
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_4.pdf (p281・287)

○避妊、性病予防、妊娠
衛生サック・「突撃一番」
昭和十二年末、支那事変出征より同十五年頃に至るまで、兵員間で話題となり、又実際に使用されていた衛生サックは、当時、名の通った商品、例えばハート美人の様なものであった。
 所〔ママ〕が昭和十六年の太平洋戦争開始を前にした企業統制、軍需用品指定などのからくりの中に、サックのメイカー「國際ゴム」より軍需品として野戦貨物廠、各師団、各連隊、大隊→中隊→各兵員へと流通する一つの品物が出来上った。
 その名は「突撃一番」である。
(麻生徹男「上海より上海へ」p18) 

追送品目数量調書
追送部隊 陸軍需品本廠
受領部隊 南方総軍野戦貨物廠 渡集団野戦貨物廠

品目     単位   追送区分                計
衛生サック  個   西頁5,000,000 比島6,000,000  5,600.000
備考
一、本件は南方軍自四月至九月の六ヶ月間の所要とす
二、輸送に当りては品目毎の跛行状態無き如く努むるものとす

昭和十七年度陣中用品整備数量調書
整備部隊 陸軍需品本廠

品目     単位  数量     摘要
衛生サック 個   12.500,000
http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_093.pdf (5枚目)

軍政会報 
昭和十七年十一月二十一日 軍政監部イロイロ出張所
一、目下衛生サック欠乏せるに付、各隊の慰安所利用者に、衛生サック給与の上登楼せしめられ度右連絡す、
二、衛生サック入手につきては目下連絡処置をなしつゝあり

連絡
昭和十七年十一月二十一日 本部庶務
イロイロ分隊庶務御中
曩に本部より配布したる「サック」を某分隊に於ては下士官以下に於て適宜分配したる事例のあるも之は分(遣)隊長以下全員に対する分として配布したるものに付承知相成度
但し傭人(含比島人) にして妻帯しあるもの及二十才未満のものには配布せざる様せられ度 尚之が使用に関しては十分教育され度為念
http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_094.pdf

軍隊ではコンドームのことを『突撃一番』と称した。コンドームが不足してからは、慰安婦に使用済みのコンドームを洗浄させ、添加粉を振り掛け、再生させていた。その任務は慰安所係の下士官が担当した。
(福岡良男「軍医のみた大東亜戦争」p140) 

  サックについてもう一つ記そう。昭和十八年の秋のことであった。
  妓に持たせてあった官給のコンドーム、すなわち衛生サックも次第に欠乏し、その補充が困難になって来たので、つとめて消費をおさえることになった。といって防疫上使わないわけにはゆかず、やむをえず一回使用したものを洗浄して再使用することになり、妓たちにはその都度回収させることにした。そして消毒液で殺菌し陰干ししたものに、亜鉛華でんぷんなどまぶして、また袋に納めて配給することにした。そうした再生工場をやらせてほしいという業者もあらわれたが、結局慰安所の組合で直営することになった。作業には苦力を使っていたが、天井一杯に網を張って、洗ったサックを洗濯バサミに挟んで陰干ししている光景は異様なものであった。
(山田清吉「武漢兵站」p120) 

  この六ヵ月間に二度ほど引率外出があった。班長、班付等から、外出時の諸注意を再三に亘り受ける。最も念入りのものは性病予防のための防毒面丙(ゴムサック)の装着方法である。班長は鉛筆の柄(振り仮名「え」)を使って、上手にユーモラスに説明する。万事、男ばかりの世界だから、はずかしいこともない。チューブに入った星秘膏の塗り薬も支給される
  ・・・北孫呉液は軍使用の駅で、南孫呉液が一般駅である。旧市街は南孫呉駅の南側で人口五千といわれていた。表通りは兵隊相手の商店が軒をつらね、横町に慰安所が四つほど棟を並べている。
  最初の引率外出の時、この慰安所の附近の広場で班長は更に諸注意を促し、集合時間を指示して解散となる。兵隊を出迎えるように慰安所の彼女達が待っている。
(森利「モリトシの兵隊物語―一兵士の哀歓―」p225・226)

十一、避退先の奥地にまで慰安婦等は伴はれたが、彼女等の一部には懐胎者があった、 現に旅団副官某は自分の慰安婦の堕胎を同部隊の衛生下士官に依頼したのであった。
(小野武夫「戦後農村の実態と再建の諸問題 啓明会研究報告」p96)

※記述の性格については 従軍慰安婦資料集(1)軍の事業としての慰安所の「慰安婦は「軍属」という証言」の項を参照。

○慰安婦のその後
哀れをとどめたのは奥地にいた慰安婦たちだ。退却する部隊の後を追ってシッタン河までたどり着いたが、渡る橋も、舟もない。河畔には大きな竹がたくさんあったので、兵隊たちはそれで筏を作った。三人一組くらいで夜になって河に乗り出したが、砲撃されて沈んだものが多かった。慰安婦たちも筏をつくって河に入ったが、河が大きいのと、水流が速いので、ほとんどのものが水中に没してしまった。なかには貯めた軍票の束を風呂敷に包んで腰に結びつけたものがあった。兵士のつくった筏につかまって渡ろうとしたが、軍票の包みが水を吸って重くて手が放れそうになる。兵士が「その包みを捨てろ」と叫んでも、女は捨てようとしない。身体を売ってためたお金だから捨てることができない。とうとう腰を重みで手を放し、水中に呑まれて死んでしまったという。
小俣行男「現代のドキュメント 続・侵掠 太平洋戦争従軍記者の証言」1982年、p207)「第4章 ビルマ戦線―歓呼と壊滅」 

(1940年南寧撤退時)
二日後、船が来た。私たちはそれに乗った。この貨物船は南寧を引きあげてきた慰安所の女たちで超満員だった。みな広東生れの女たちだった。十七、八歳から二十二、三歳くらいまでの若い女たちをかり集めて南寧へ送りこんだものだった。廃墟の街に、こんなにもたくさんの娘が連れて来られていたのかと、いまさらのように驚かされた。兵隊たちを相手に地獄のような生活を強いられていた彼女たちも、故郷へ帰れるよろこびで嬉しそうにはしゃぎまわっていた。
(小俣行男「現代のドキュメント 侵掠 中国戦線従軍記者の証言」1982年、p253、「第5章 太平洋戦争へのひき金」)

  敗戦後四日たった八月十九日、航空隊から引き揚げのトラックが出るときき(ママ)、これに便乗し、隊本部の指示にしたがて(ママ)郴県を引き揚げることになった。数々のつきせぬ思いを残して、私たちの便乗したトラックは、郴県をあとにした。・・・
  来陽へついて乗船の手続きをとり、二日ほど待機することになった。郴県方面にいた慰安婦たちが私たちより先について乗船の順番を待っていた。その夜、二十歳前後の可愛いい(ママ)顔をした姑娘(クーニャン)が私をたずねてきた。場所が場所だけにどこの娘かと一瞬とまどったが、よく見ると彼女は白石渡の慰安所で働いていた女であった。彼女らも今は漢奸(かんかん=中国では敵に協力する者、スパイ、売国奴などを漢奸と呼ぶ)として追われる身となり、雇い主とともに漢口まで帰るところだという。
  彼女は必死の形相で「私は漢口へ帰っても父母も身よりもいない。これからどうして生きていったらよいのかわからないのです。どうぞお願いだから日本へ連れて行ってください」とせがんだ。私は彼女も死んだ少蘭と同じ孤児であることを知り、この人たちもみな戦争の犠牲者なのだ、と思うと急に哀感が胸にこみあげてきた。・・・
  八月二十三日に衡陽の隊本部へ到着した私は、さっそく易家湾(えきかわん)へ先行して憲兵隊を開け、という命令を受けた。・・・
  あまり自信はなかったが、命令とあればしかたがない。休む暇もなく私は宜章隊以来の部下七名を引き連れて衡陽をたった。来陽河の対岸から軍用の軽便列車に乗ったのは八月二十四日のことであった。・・・
  発車まぎわになって五、六人の朝鮮人慰安婦が私たちの前の車両に乗りこんできた。荷物と乗客が多いため、そのなかの一人が連結器をまたいで腰をおろした。彼女らの乗車に先だて、列車長と一人の中尉がホームで何事か言いあらそっていた。彼女らを乗車させるための交渉をしていたのだ。列車長は「すでに満員でこれ以上の乗車は危険だし、軍用列車に女を乗せるのは不吉だから乗車させない」といい、中尉は「慰安婦だって軍に協力してくれたのだから、乗車させてもよいはずだ、看護婦だって女だ、彼女らとどこがちがうのだ、かよわい女の足で歩かせるわけにはいかないのだ」と強硬に主張してゆずらなかった。しかし結局列車長が折れて、乗車させることになった。
(井上源吉「戦地憲兵 中国派遣憲兵の10年間」p254・255) 

  十八年の夏頃の石岐市内は死んだように静かで平穏であった。二ヶ中隊の歩兵と一ヶ中隊の山砲隊の駐留部隊は、前線警備に出ていたし、警備隊本部の兵も数少なく、外出日以外は兵隊の姿が見えない時もあった。
  数軒あった食堂も閉店し、陸軍慰安所も朝鮮系一軒六名を残して広東に引き揚げた。中国側で経営する公共施設である水道は止まり、電話も軍からの援助で細々とやってはいたが、赤字に悩む電燈は年内には止まるだろうとか、実に情けない状態であった。
(鈴木卓四郎「憲兵下士官」p179)

  それから二、三ヶ月後、軍は福州から撤退することに決まった。其の撤収第一船団の中に変った人間を乗せた一隻の船があった。それは駐留中日本軍に協力した現地人で、例えば在留邦人の使用人や現地で採用した通訳、密偵、連絡員または慰安婦等種々雑多であった。其の中に粗末な衣服をまとって、無造作に束ねた長髪を潮風になびかせて、甲板に立っている「林光淑」の姿があった。
  師団は台湾に、配属を解かれた我々は、軍直轄部隊と共に広東市へ帰った。勿論、現地人を乗せた船も一まず広東に帰り、各自の希望によって、生活の根拠を求めて各地に散った。
  私は福州隊の主力と共に海南島へ、筒井は広州市郊外の分隊勤務となって別れた。
(鈴木卓四郎「憲兵下士官」p55・56)

惨めな慰安婦の末路
終戦後、IM部隊の慰安所の慰安婦に主計から沢山の軍票と布地が与えられたが、出身地には帰れぬ女性が多く、哀れであった。
(福岡良男「軍医のみた大東亜戦争」p176)

アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号
 
軍事情勢に対する反応

 慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。

 「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」
 「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」 

 ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
 慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。

退却および捕獲

 「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。
宣  伝

 慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。一人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。

要  望

 慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
 彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されていると盂家に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。
出典:吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店pp.439-452
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n185650

○慰安所への通い方
独立攻城重砲兵第2大隊本部 昭和12年12月陣中日誌
 
慰安設備は兵站の経営するもの及軍直部隊の経営するもののニヶ所ありて定日に幹部引率の許に概ね一隊約一時間の配当なり 衛生上の検査の為め軍医をして予め立会点検せしめつゝあり

三月二十三日(水)曇一時晴

六、午後七時 中隊会報
四 明日の慰安所使用時間は午前十一時三十分より午後一時まで 下士官は午後五時より六時までとす
往復は必ず下士官の引率に依る
時間外に外出証を付与せず

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC11111881400(20枚目)
独立攻城重砲兵第2大隊 第2中隊 陣中日誌 昭和13年1月1日~13年4月30日

  この六ヵ月間に二度ほど引率外出があった。班長、班付等から、外出時の諸注意を再三に亘り受ける。最も念入りのものは性病予防のための防毒面丙(ゴムサック)の装着方法である。班長は鉛筆の柄(振り仮名「え」)を使って、上手にユーモラスに説明する。万事、男ばかりの世界だから、はずかしいこともない。チューブに入った星秘膏の塗り薬も支給される。
  ・・・北孫呉液は軍使用の駅で、南孫呉液が一般駅である。旧市街は南孫呉駅の南側で人口五千といわれていた。表通りは兵隊相手の商店が軒をつらね、横町に慰安所が四つほど棟を並べている。
  最初の引率外出の時、この慰安所の附近の広場で班長は更に諸注意を促し、集合時間を指示して解散となる。兵隊を出迎えるように慰安所の彼女達が待っている
(森利「モリトシの兵隊物語―一兵士の哀歓―」p225・226)

また藤野英夫氏『死の筏』(緑地社刊)によれば、著者は、中部ビルマのミチーナ駐屯当時を回想して、歩兵第百十四連隊の大行李班では兵の外出は三人一組の連帯制で、外出から帰隊まで同一行動をとらねばならなかったと言い、つぎのように記している。
「兵隊の外出日になると、木造建てのもと学校を転用している慰安所は、一、二階ともに軍靴と帯剣の音で名状しがたい程のあわただしい気配がただよい、・・・私は他の二人が用をすますまで、一人で廊下に俟っていた。三人一組なので私だけが一人勝手に町の中を歩いたり、帰隊するわけにはゆかぬので、まことに馬鹿らしいが命令で止むを得ないのである。・・・
(山田清吉「武漢兵站」p73) 

昭18・1・1~18・2・28
独立自動車第四十二第一中隊行動詳報

2.引率外出に就て
引率外出は指揮官の直接指揮下に在りて行動すべきものにして途中解散し各個行動せしむるは本旨に非ず。即ち引率外出にて慰安所等に至り遊興せしむる等は適当ならず。 

独立自動車第四二大隊第一中隊陣中日誌(昭17・5・14)

軍会報
二、最近軍人軍属にして慰安所等の往復に自動車を使用する者多し。揮発油節約上禁止すべし。
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_3.pdf (p116)

○慰安婦に対する評価
一九三七年末から蕪湖に駐屯した野砲第六連隊長藤村謙大佐も、強姦を懸念して、内地から慰安婦を呼んだが「日本女性と朝鮮人女性とが来たが、後者の方が一般に評判が良いので逐次之に代えることにした(5)」と回想している。
(5)藤村謙『変転せる我が人生』(私家版、一九七三)一一〇ページ。
(秦郁彦「慰安婦と戦場の性」p88)

[昭和18年]7/1課長会報 
(恩賞) 
3.慰安施設 現地養成慰安婦ハ評判良シ、内地輸入ノモノハ評判良カラズ
昭和18年1月7日課長会報 
(恩賞課長) 
慰安施設を数多く設けたるが内地輸入のものは評判悪し。現地養成のもの評判良し。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/512.html

「花柳病ノ積極的予防法」(第十一軍第十四兵站病院麻生徹男)昭14・6・26
 
  昨年1月小官上海郊外勤務中、1日命令により、新に奥地へ進出する娼婦の検黴を行ひたり。この時の被験者は、半島婦人八十名、内地婦人二十余名にして、半島人の内花柳病の疑ひある者は極めて少数なりしも、内地人の大部分は現に急性症状こそなきも、甚だ如何はしき者のみにして、年齢も殆ど二十歳を過ぎ中には四十歳に、なりなんとする者ありて既往に売淫稼業を数年経来し者のみなりき。半島人の若年齢且つ初心なる者多きと興味ある対象を為せり。そは後者の内には今次事変に際し応募せし、未教育補充とも言ふ可きが交り居りし為めならん。
  一般に娼婦の質は若年齢程良好なるものなり。…
  …されば戦地へ送り込まれる娼婦は年若き者を必要とす。而して小官某地にて検黴中屡々見し如き両鼠蹊部に横痃手術の瘢痕を有し明らかに既往花柳病の烙印をおされし、アバズレ女の類は敢へて一考を与へたし。此れ皇軍将兵への贈り物として、実に如何はしき物なればなり。如何に検黴を行ふとは言へ。
  一応戦地へ送り込む娼婦は、内地最終の港湾に於いて、充分なる淘汰を必要とす。まして内地を喰ひつめたが如き女を戦地へ鞍変へさす如きは、言語同断の沙汰と言ふ可し。
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○慰安所の繁盛。あるいは搾取や劣悪な待遇
  七月二十七日、南京の下関車站に到着した第四師団第一兵站司令部は、第二軍の隷下に入り、防諜部隊名は中支派遣東部隊池田(竜)部隊と定められた。東部隊とは、第二軍司令官・陸軍中将東久邇宮稔彦王の頭文字である。
  翌日、部隊員たちは連れだって、南京市中を見物した。昨年十二月十三日に陥落してから七カ月あまり、市内はいたるところ戦禍の跡がいちじるしく、荒涼たるものであった。しかし、もう多くの邦人が進出しており、中国人の家屋に入って軍人向けの飲食店を開いていた。
  彼らはまた、ここではじめて慰安所を目にしている。もちろん、そのときは、みずから慰安所を開設し、監督、運営する運命にあるとは知る由もない。ただ、好奇心にかられて、二ヵ所あるという慰安所の一つに入った者もいた。
  それは以前ホテルだった建物で、入口からあふれた兵隊たちが行列を作っていた。元のフロントが受付で、この行列の終点になっている。ここで兵隊は金を支払って番号札を受け取り、順番を待つのだ。女たちの部屋は二階にあって、兵隊が一人、部屋を降りてくると、受付の男が「ハイ、おつぎの方、何番、何号室へどうぞ」と声をかける。その声にうながされて、次の番の兵隊が階段を上っていく。客である兵隊たちは、金を払わされるだけで女を選ぶこともできず、まるで共同便所で順番を待つように並んで待たされたあげく、あいたドアに入るのである。
  まだ内地の香を身につけ、戦塵を浴びていない池田部隊の連中は、度胆を抜かれてこのありさまを眺めた。大部分の者は「こんな浅ましいことを」とあきれて出ていったが、後に残って実地見分に及んだ者も二、三あった。
  広場の道路脇でも、兵隊たちが行列を作っていた。近づいてみると、トラックが駐車していて、その荷台がアンペラで三つに仕切られている。仕切りのすき間から、長じゅばんを着た女の姿が見えた。移動慰安所である。「これはひどいもんだ」と、隊員たちは興ざめた顔つきで兵舎に引き揚げた。
(長沢健一「漢口慰安所」p15・16) 

 ―昭和十九年の五月、私は移動修理班小隊長としてマニラに派遣されました。自動車廠本部は、マニラ港から数百メートルほど離れたところにあるフォード自動車工場を接収した建物でした。・・・(p69)
  私の部隊は移動修理部でしたから、各地を移動していくわけです。中部ルソンのタルラックという町に行ったことがあります。そこは、マニラから幹線道路で一二〇~一三〇キロほど北上したところにあります。
  そこには、軍指定の慰安所は一軒しかありませんでした。よく覚えているのは、昭和一九年の十一月三日のことです。その日は明治節で休日でしてね。小隊の半数は外出です。一軒の慰安所の前には、兵隊たちの長い行列ができていましたよ。そこにいた慰安婦は、フィリピン人女性が二人です。ですから、休日には一日に百人ぐらいの兵隊の相手を二人でしていたことになります。将校たちはその慰安所には行きませんでしたよ。そのうちに戦況があやしくなってくるt、その慰安所も閉店になりました。(p71)
(西野留美子「元兵士たちの証言 従軍慰安婦」明石書店)

山崎正男第10軍参謀の日記
 
1937年12月18日の項
湖州に娯楽機関開設
  先行せる寺田中佐は憲兵を指導して湖州に娯楽機関を設置す。最初四名なりしも本日より七名なりしと、未だ恐怖心ありし為集りも悪く「サービス」も不良なる由なるも、生命の安全なること金銭を必ず支払ふこと、酷使せざることが普及徹底すれば、逐次希望者も集り来るべく、憲兵は百人位集るべしと漏せり。而して其の繁盛振りは相当なるものにして、別に告知を出したる訳でもなく、入口に標識を為したるにもあらざるに、兵は何処からか伝へ聞きて大繁昌を呈し、動ともすれば酷使に陥り注意しありとのことなり
  先行し来れる寺田中佐は素より自ら実験済みなるも、本日到着せる大阪少佐、仙頭大尉この話を聞き耐らなくなったと見えて、憲兵隊長と共に早速出掛けて行く。約一時間半にして帰り来る。憲兵隊長の口添へも関係か非常に「サービス」良かりしと、概ね満足の体なり。
(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集Ⅱ』1993年、偕行社)

  私は係長に就任すると間もなく、係の下士官とともに、兵站に提出されている日計表にもとづいて各妓楼の実地調査にのり出した。この日計表の基本となるものは各楼にある手控の花山帳であるが、両者を照合してみるとかなり一致しないのが出て来た。これは規定料金以外にもらったチップの処分に困って利用人員を水増しして報告したということもあるが、それ以外にも差引計算の誤りが指摘された。私の監査にあわてた楼主たちは帳簿や報告を再検討し、過去にさかのぼって書直しを始める始末だった。
  また借金返済の原簿である個人別の水揚帳なども、何か理由のわからない時貸しがあったり、ひどいのは兵站から公定で配給した敷布や寝巻類まで、地方の時価で書きこんであったりする。そういう点を問いつめると、まったく申開きのできない楼主もいた。そこで今後は、水揚帳はすべて兵站経理の証印をうけさせることにした。楼主と慰安婦の稼ぎ高の配分は、食費及び一切の営業諸掛りは楼主の負担とし、借金のあるものは六分四分、借金のないものは折半とすることに定められていたように思う。
 楼主たちは私のやり方にはじめはブツブツ陰で不平を言っていたらしいが、水揚帳の不正や経理の杜撰を具体的に指摘され、さらに不適格者の営業をやめさせると厳しく言渡したので、しぶしぶ兵站の指示に従わざるをえないことになった。この先制攻撃は、結果的に大いに効果があったように思われた。
(山田清吉「武漢兵站」p83)
※ 山田氏の慰安係就任は昭和18年4月頃、江南殲滅作戦開始時。

アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号

「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った
出典:吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店pp.439-452
傍線部原文
Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.


○軍人軍属外の利用
警備会報時に於ける注意事項 第一大隊本部 各隊移牒

二、「マニラ」に於ける軍紀風紀につきて
兵站指定旅館飲食店慰安所等に軍人軍属以外のもの出入し取締に困難を来せる状況に鑑み軍服以外のものは身分証明書を必要とす。身分証明書要旨は近く各隊に配布す。 

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC13071868800(3枚目) 
比島>防衛>左警備隊.警備日報.会報綴 昭和17年10月~18年11月

「極秘」印
「写」印
写参考
渡集福第七四号
兵站施設の利用者取締に関する件通牒
昭和十八年一月二十九日 渡集団参謀長
独立守備歩兵第三十七大隊長殿

首題の件に関し近時軍人軍属以外の者にして或は将校高等官に名を藉り或は将校高等官(待遇扱を含む以下同じ)等の私服着用の場合の標識明確ならざるに乗じ擅に軍指定料理店食堂慰安所等に出入し遊興するもの激増の傾向にあり
其の結果営利を目的とする業者としては自ら之等のものの濫費する金力に左右せられ薄給の将校等に対する待遇極めて不良となり軍が慰安設備を設定せる趣旨に反するものあり。如斯(かくのごとき)現象は陸軍として満州支那事変等後に休〔ママ〕験せし所にして今日亦其の轍を踏まんとしつゝあるは寔に遺憾とする所なり。然りと雖も一方内省するに軍人軍属中官人たるの高潔なる節操を金力の前に放棄し彼等の利用の具に甘んじ甚だしきは進んで彼等に軍の慰安設備利用の便を与へ酒食を共にし不和不識の間官吏服務規律にも低〔ママ〕触し犯罪を構成するの結果●●慮濃厚なるものあり。又一面之が為将校中下士官兵の●●施設を利用するの結果を招来し階級観念敬礼実施に悪影響を及し軍紀を索〔「紊」の誤字か)るの動機ともなりあり。将来軍としては右の如き非違行為に対し峻烈なる取締をなすと共に往時事変後に於ける好ましからざる現象防止の為善処すべしと雖各部隊長に於ては部下を戒飭し将来は利害関係の有無に不拘らず軍人軍属以外の者の饗応に甘んじ或は之に利用さるゝが如き者を絶無ならしむる如く特に配慮せられ度。尚将校高等官は制服以外にして之等慰安施設に立入る場合は全員左記身分証明書を携帯する如く定められたるに付之が実行を徹底せしめられ度依命通牒す。追而本通牒身分証明書の有無に依る取締は二月十日より施行せらるゝに付為念申添ふ。

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC13071901300(6枚目)
比島防衛イロイロ憲兵分隊作命綴 昭和17年12月26日~18年12月16日

昭和18年
タクロバン憲兵分隊警務書類

前略
現在マニラは以前程我々在留邦人にとって面白い所ではありません
勇士の血を以て得られた土地を面白いとか面白くないとか云ふ事は言語道断ですが長期の建設戦をやる邦人にも少し位慰安設備が欲しいです。軍人軍属には慰安所兵站指定食堂及かふ●●●あり邦人●大目(寛大の意)に見て貰らひ出入りして居ましたが邦人の方が金廻り良く札束で女給の頬を打ったりするので軍人が持てんと云ふ訳で出入禁止です

○敗戦後の慰安所
昭和20・9・4~20・10・4 仏印
金辺憲兵隊日誌

九月七日 金曜日 曇 日直士官 田中准尉

一五〇〇左記要旨の会報資料一七〇〇拾得せる爆雷ひと箱(一個入)を壮兵団副官部に提出す

左記
一、下士官にして私服にて翌朝迄慰安所にて遊興せる者多数ある件
http://wam-peace.org/koubunsho/files/J_016.pdf

○変わった例
水上警察
昭和十五年二月一日、水上憲兵隊とともに中国側に水上警察が新設されることになった。しばらくのあいだ南派遣所長を勤めていた私は、憲兵隊の所長兼中国側警察(署長・徐錫光)の指導官として転勤した。管轄区域は上流の接敵地点生米街(ションミーチェ)から、下流はバンヨウ湖にそそぐ河口までの贛江流域である。・・・
 また、戦争とはまったく不可思議なもので、あるときには常識では考えられないことが行なわれる。これはその一例であるが、生米街の対岸の最前線を守る舞台では、彼我のあいだで物々交換が行なわれていた。最前線では対峙する年月が長びくにつれて彼我のあいだに敵愾心がうすれ、かえって一種の不思議な親密感がわくものと見え、このころには彼我の陣地の中間地点に物々交換所を作り、毎週日曜日に時間を打ち合わせて、彼我双方からこの地点へ出向き、セッケン、マッチなどの日用品と豚肉、卵などとを交換していた。
 そんな例をもう一つ紹介しよう。南昌特務機関は当時南昌警備部隊であった第三十四師団の参謀長、桜井徳太郎大佐の指導を受けていた。昭和十五年三月末ごろのこと、特務機関では中国兵を相手とする慰安婦をつのり、約一カ月のあいだ、これら中国婦人たちを中国軍支配地区へ派遣し、慰問団として各地を巡回させていた。これなどはおそらく、奇想天外の策を好む顧問、桜井大佐の発案と思われた。その目的は、敵情の調査や敵兵の戦意喪失など、諜報謀略だったので、上杉謙信が武田信玄に塩を贈った故事とはその目的がことなるとはいえ、ひとつのおもしろい例である。
(井上源吉「戦地憲兵」p144・155)