正しさを人に振りかざすことは自制しなければならない。

正しさを人に振りかざすことは自制しなければならない。そのように思います。

正しさというのはナイフのようなもので、それが正しければ正しいほど鋭利になります。
もし客観的に見てもまずこちらが正しいという状況があったとしたら、それを容赦なく突きつけることは、相手をコーナーに追い詰めて殴ることに等しい。有無を言わさず正しいとなったら、それをぶつけることは相手を鋭く切り裂くことに等しい。
人間、弱いものだし、どうしたって感情は波のように揺れるし、沈んで残ります。
たとえ完璧な正しさを突きつけられて頭で分かったとしても、人はそれで納得して飲み込んで終わりにはならない。
どうしても感情的には腑に落ちないままになるでしょう。そのすっきりしない感情や呪怨は必ず別の形でまた出てきます。

また、当たり前の話かもしれませんが実際には完全にどちらかが正しいなどという状況はごくまれにしかない。
たいていはこっちの文脈ではこれが正しくて、しかしまたあっちの文脈ではあれが正しくて、当事者はそれぞれが自分に理があると思っている。
そうなると、もちろんどちらかの正しさをぶつけたところで解決にはならない。
そんな中ではその正しさに確信をもっていればいるほど余計に鋭く状況を悪化させるでしょう。

やはり、正しさを相手に振りかざすことは自制しなければならない。

しかし問題は正しさを相手に振りかざしている人がいる場合でしょう。
自分は正しさを振りかざさないように自制すればよい。また自分が相手に振りかざされた場合には、自分の中でこだわらないように流して対処すればよい。
しかし、誰かが誰かに正しさを振りかざしている場合は、難しい。
その人に、「そんな風に正しさを振りかざすべきじゃない」と言うことはその人に正しさを振りかざしていることになってしまう。
それでは上記の通り、状況はよくならない。

どうしたらいいんだろう。
分かりません。
丁寧に誠実に働きかけるしかない。
しかし、人は簡単には変わらないものですし、その人の「正しさ」はもっと簡単には変わらないものです。人を変えようとすることにもやはり慎重さや丁寧さや自制は必要でしょう。
子供が相手だったらまだしも、相手が大人では。それまでの人生の過程もあるわけですし、誰にもプライドもあります。

慈悲、慈悲なんでしょうね。
慈悲をもって接していく。
でも、問題は自分がそんなに慈悲を持っているわけでも懐が深いわけでも、立派な行動ができることでもないことなんですよね。