みずたまなおです。
こんにちは。
今回は、副産物についてのお話です。
どうぞ最後までお付き合いくださいませ。
【目 次】
副産物とは?
あなたは「副産物」と聞いて、どんなことをイメージしますか?
また、それは具体的にどんなものですか?
もしかしたら、言葉は聞いたことがあっても漠然としたイメージしか持てない、という方も少なくないのではないでしょうか。
大辞林第三版には、「副産物」の意味として次のような記述があります。
①目的とする産物の生産過程で、付随して得られる他の産物。
②転じて、ある物事の発生や進展に伴って起こった他の物事。
①について、織物を例にあげると、着物は主産物、その端切れを使ってポーチなどの小物雑貨を作るとそれは副産物となります。
それはまた、私たちの生活においてもとても身近なものです。
例えば、煮物を作ろうとして大根を調理するとき、皮や葉までは使いません。
煮物に使う白い部分は主産物、残りは捨ててしまいます。
しかし、本来捨ててしまう皮や葉を何か別のものに使えば、それは副産物となります。
例えば、皮の部分はきんぴらに、葉の部分は塩揉みして漬け物にすれば、それは副産物となります。
つまり副産物は、本来廃棄するはずだったものから別のものを作り価値を見いだす、という意味なのです。
それは物品だけに限らず、②のように物事にも応用されます。
具体例を挙げると、無くしたはずの片方のピアスをトイレ掃除をしているときに見つけた、という場合です。
本来の目的である「トイレ掃除」をしているときに、思いがけず「片方のピアス」を発見したとき、トイレ掃除は主産物、ピアスは副産物にあたります。
元々の目的を行っている過程で派生したものを副産物といい、今回はこの②の意味についてお話します。
副産物に学ぶこと
実際に意識をしてみると、私たちの生活の中には多くの副産物が溶け込んでいるような気がします。
そして、あまりに溶け込みすぎていて気づきづらいけれど、それらは案外大切なことが隠されているものなのかもしれません。
心理テストの話
先日、私は非常に興味深い記事を読みました。
それは、心理テストについて書かれているものでした。
筆者はご友人との宴席で、四字熟語の心理テストについての話題になったようです。
これは、ご存じの方も多いかもしれません。
- まず、何も考えずに思い付く四字熟語を思い浮かべてみてください。
- 思い浮かべたら、あまり考えずパッともうひとつ思い浮かべてみてください。
ご存じのない方もいるかと思いますので、この心理テストがどういうものなのかは話しませんが、これら2つの四字熟語である人間性がわかるとのことです。
宴席で、はじめは四字熟語を挙げていましたが、お酒も入っていたこともあってか次第に四字熟語ではないものまで登場してきます。
「水清ければ魚棲まず」「麻婆豆腐」という回答があり、「いや四字熟語ちゃうやん!」というお決まりのツッコミが入ったようです。
筆者は、心理テストについて次のように述べています。
心理テストはあくまで心理テスト。
前述の回答をみてもわかる通り、「なんのこっちゃ訳わからんな!」とか言いながら平和的にほっこりする着地点ぐらいがちょうど良いです。
当たっている当たっていないよりも、回答者と四字熟語を照らし合わせて「キャラが出ている」「知識レベルが小学校で止まっている」「ひとつしか思い浮かばない」といったネタという副産物が楽しめます。
本来の目的である「当たっている、当たっていない」よりも、心理テストから派生する「ネタ」の方が、場の雰囲気を盛り上げ、楽しめるのです。
ここで私が大切だと感じるのは、平和的にほっこりする着地点ぐらいがちょうど良い、ということです。
心理テストは、文字通り「心理をテストすること」です。
本来の目的である「当たっている当たっていない」ということだけに固執すれば、場の雰囲気が盛り上がらないどころか、最悪の場合、いさかいにまで発展する可能性もあります。
本来の目的から逸れて、冗談を言ってみたり、ボケてみたりツッコミを入れてみたりすることの方が、本来の目的よりも楽しめて和やかな雰囲気を作ります。
これは、「心理テスト」がなければ当然、「麻婆豆腐」という回答もなく、「四字熟語ちゃうやん!」というツッコミも入りません。
「心理テスト」という本来の目的があって初めて成立するのです。
私は、本来の目的よりもそれ以外の「副産物」の方が大切なのではないかと感じます。
「当たっている当たっていない」ということよりも、四字熟語の勉強になったり、場の和ませ方だったりする方がよっぽど大切なのだろう、と思います。
<参考記事>
ある無人駅での話
副産物に学んだ経験として、無人駅で出会った一人のおばあちゃんの話があります。
まだご覧になっていない方は、もしよければこちらをご覧ください。
<関連記事>
当時、私は病院に電車で通っていました。
ある日、病院から帰る途中、病院最寄りの無人駅で一人のおばあちゃんと出会います。
私が無人改札を抜けると、80歳代くらいのおばあちゃんが反対側のホームに行くために陸橋の階段を上っていました。
背中の丸いおばあちゃんは、両手で手すりを持って、一段一段ゆっくりと上っていました。
おばあちゃんの荷物はさほど多くなく、右手首には病院でもらった薬であろうビニール袋を下げていました。
駅にいるのは、おばあちゃんと私だけ。
無言でおばあちゃんの横を通りすぎることもできましたが、何だかそうすることがはばかられて、私が気づいたときにはもう、おばあちゃんに声をかけていました。
「大丈夫ですか?荷物、持ちましょうか?」と私が尋ねると、おばあちゃんは「いやいや、大丈夫」と笑顔で返してくれました。
でも、おばあちゃんを置いて私だけ先に階段を上ることは、どうしてもできませんでした。
手を貸してあげられる訳でもない、荷物を持ってあげられる訳でもない私は、おばあちゃんの横に並んで一緒に階段を上ることしかできませんでした。
おばあちゃんはとても嬉しそうに話をしてくれました。
私は特に何もしてあげられない、「うん、うん」と頷くことくらいしかできない。
でも、どうしておばあちゃんは嬉しそうに話してくれているのだろう。
おばあちゃんの足腰の痛みを完全にわかってあげられる訳ではないけれど、こうやって寄り添うことだけでもおばあちゃんの力になってあげられるのかもしれないな、そう思ったのです。
★ ★ ★
このとき、私は病院から帰る途中でした。
その最中、私はおばあちゃんと出会い、寄り添うことだけでも十分相手を喜ばせることができる、ということに気づいたのです。
この場合、本来の目的は「家に帰ること」ですが、道中で「寄り添うこと」を学びました。
つまり、主産物は「家に帰ること」、副産物は「寄り添うこと」です。
「寄り添う」ということは、「帰る」ということよりもずっと大切であると感じます。
また、これは「帰る」という目的がなければ決して得ることはできなかったでしょう。
大切なものは道端に
先に挙げた2つの例は、いずれも「本来の目的以外のもの」、主産物ではなく、あくまでもそれに付随する「副産物」です。
それは、主産物がなければ生まれません。
けれど、その副産物の中に大切なことが隠されているような気がするのです。
副産物は思いがけないところで出会います。
例えば通勤・通学の途中で、また友人や同僚との会話の中で、家事・育児の途中で出会うかもしれません。
映画や音楽、書籍の中にあるかもしれません。
でもそれは、脇目もふらず猛スピードで目的地へ向かっていては決して見つかりません。
「電車に乗り遅れる!」と言って全速力で駅に向かっていても、道端にひっそりと咲いている花に気づけるはずはありません。
少し余裕を持って、いつもより5分早く家を出てみると景色はガラッと変わります。
ゆとりを持つことで、周りが見え、もしかしたら道端の花を見つけることができるかもしれません。
それを見つけられたら、きっと嬉しい気持ちになるはずです。
本来の目的の中に、大切な何かが隠れています。
それは案外身近にあって、私たちに何かを教えてくれます。
あなたの足下にも、大切なものが落ちているかもしれません。
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記事を紹介させていただいた、どろんぱ豆さま、このたびは考える機会を与えていただき、ありがとうございます。(勝手にすみません!)
もし、事実や解釈が異なる場合があれば、お知らせいただければ幸いです。
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